secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

トータル・リコール(V)

2013-05-06 16:52:33 | 映画(た)
評価点:53点/2012年/アメリカ/118分

監督:レン・ワイズマン

TSUTAYAにリコールしてもらいました。

近未来、オーストラリアの一部(コロニー)と、ヨーロッパの一部以外の土地(ブリテン連邦)は化学戦争によって人間が住める場所ではなくなった。
オーストラリアの一部は労働者の街、ヨーロッパの土地は富裕層の土地として栄えていた。
労働者たちは毎日、フォールという地殻トンネルを利用して十数分でブリテン連邦へ移動して、わずかな賃金を稼いでいた。
警備ロボットの組み立てに従事しているクエイド(コリン・ファレル)は、毎日毎日変わらない生活に飽き飽きしていた。
そしてそれはほんの小さな違和感のようなものを覚えていた。
いつも同じ夢を見ることも、その違和感の原因だった。
脳に直接記憶を埋め込んで旅行の思い出を売るという商売で話題になっていたリコール社に興味を持ったクエイドは、おそるおそる試してみることにする。
さていよいよ、というとき、いきなり警察が押し入り、拘束されそうになる。
とっさに反応したクエイドは、警察官をなぎ倒してしまう……。

1990年にアーノルド・シュワルツェネガー主演で映画化されたこともあるSF小説の、リメイクである。
5分という長すぎる予告編が、逆に私の見に行きたいという欲求を減退させたことでも記憶に新しい。
最新映像を駆使して、近未来の街を描き、しかも、記憶をモティーフにするといういかにも現代的な作品である。

果たして、この映画はおもしろいのか。
シュワちゃんの映画に思い入れがある人は、きっと二重写しで楽しむことになる。
もう一度オリジナル作品を見ておくのもおもしろいかもしれない。

▼以下はネタバレあり▼

とりあえず、借りたいものがなかったので手に取った一作だ。
すこし気にはなっていたので、このタイミングで見なければずっと見ないままになりそうだったので、借りてみた。
余談だけれど、始まって1時間35分のところでブルーレイディスクの調子がおかしくなり、再生できなくなった。
そのトラックは飛ばして、1時間40分のところから再生しなおした。
だから、その5分程度の部分はすっぽりと抜けている。
ストーリーじたいはそれほど飛んでいなかったので、とりあえずレビューする。
もう一度見直したいという気持ちにさせられる映画ではなかったことは確かだ。

こういうリメイク作品において、もっとも重要なことは「なぜ今リメイクするのか」という存在意義だろう。
商業的な側面から言えば、「過去に売れた作品で、そこそこ時間が経過している」というのが大きな理由かもしれない。
ただ、作品として成立させたいのであれば、あるいは過去の作品を上回るほど商業的な成功をおさめたいのならば、どうしても作品が描くべきテーマが明確でなければいけない。
それはシュワちゃんで成功したからなおさらだ。

だから私がもっとも気にするのは、なぜ今リメイクするのか、という点だった。

残念ながら、この作品はその問いに耐えうるだけの完成度はない。
とりあえず話題性のためにリメイクしたのだ、というやっつけ仕事としての側面ばかりが目立つ作品となってしまった。

物語の結構を確認しておこう。
物語はよくあるパターンの「往来」のパターンである。
日常 ― 非日常 ― 日常というパターンの応用みたいなものだ。
すなわち、ハウザー ― クエイド ― ハウザーという往来なのだ。

伝説の諜報員として、また最大の犯罪者としてニュースでも知られていたハウザーは、コーヘイゲンからコロニーへのスパイとして送り込まれた。
コロニーでの現状を知ったハウザーは、コーヘイゲン側から寝返り、コロニーの英雄としてコーヘイゲンが率いるシンセティックの作動を止めようとしていた。
そこをコーヘイゲンに捕らわれてしまい、記憶がクエイドとして塗り替えられてしまったのだ。
しかし、コーヘイゲンはクエイドを再びコロニー側に引き合わせることで、レジスタンスたちを一掃しようと考えていた。
まんまとだまされたクエイドは、レジスタンスのリーダーマサイアス(ビル・ナイ)にたどり着き、そこをコーヘイゲンたちに捕らわれてしまう。
コーヘイゲンは用意周到にレジスタンスたちをとらえるためにクエイド(ハウザー)を利用していたのだ。

火星と地球という対立軸から、コロニーとブリテン連邦という対立軸に変更されたとはいえ、物語の結構はほとんどオリジナル作と同じものである。
記憶を塗り替えるということの怖さは、これまで様々なSF作品で取り上げられてきた。
デジタル化が進んだ現代においても、それは同じだし、むしろ記憶ということの曖昧さについて、不安を覚えることが多くなってきた。
それはアルツハイマー病の例を待つまでもなく、リアルすぎるCGなどを見せられると誰しもその不安は抱くことだろう。
だから、この映画がもっているおもしろさは廃れることはない。

この映画が、オリジナルよりもおもしろいと感じた点がいくつかある。
それは、これだけCG技術が発達したにもかかわらず、人間を動かそうとすることを忘れなかったことだ。
CGで塗り固められた世界を、役者の肉体で表現した。
上下左右に動くエレベーターや、立体的に作られたコロニーを動き回るコリン・ファレルはいかにも労働者(諜報員)という動きを見せる。
だから、家庭用の小さな液晶で見てもそれほど違和感がない。
人間が技術によって虐げられるという作品全体の雰囲気をうまく比喩している。

また、コーヘイゲンのロボット警官のシンセティックたちの対応がやたらと早い。
ブリテン連邦の隠れ家に入ったときも、無人となっていたはずの地域にあった(名前忘れた)レジスタンスのアジトにしても、対応がやたら早くて不自然きわまりない。
それは実はコーヘイゲンがすべてハウザーの動きを把握していたことの伏線となっている。
(それにしもて早すぎるけれど)

だが、それ以外におもしろみはあまり見いだせない。
特に厳しいのは、世界観である。
SFにつきものの格差社会を描いているわけだが、その格差社会をなぜ「フォール」によって生み出されているのかいまいちわからない。
しかもそのフォールが物語全体のキーになっている、いわば背骨のような重要な設定だ。
しかし、きちんと説明されないから、ラストでフォールが壊されたからと言って、それがレジスタンスの勝利なのか、格差社会の崩壊への序曲なのか、わからない。
ヨーロッパとオーストラリアという意味深な二つの地域を舞台にしたのはいいとしても、それがどのような社会なのかをもっと端的に説明してほしかった。

終盤、レジスタンスのアジトにコーヘイゲン直々に現れるのも、いかにも不自然だ。
私がコーヘイゲンなら、外から指示を出す。
それで十分だからだ。
やられるかもしれないリスクを冒して「ざまーみろ、おれの勝ちね」程度の台詞を言うためにわざわざアジトに出向く、コーヘイゲンは無思慮すぎる。

戦っている相手がどんなものなのか、レジスタンスの主張もいまいち見えない中での逃走劇で、感情移入もできない。
もちろん、カタルシスなんてとんでもない。

結局、商業主義に走ってしまっただけの凡作に甘んじることになった。
コリン・ファレル、そろそろ黄色信号か。

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