secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

摩天楼はバラ色に(V)

2010-01-14 22:10:49 | 映画(ま)
評価点:85点/1986年/アメリカ

監督:ハーバート・ロス

まさしく現代ヒーローだ。

カンザスの田舎青年がニューヨークの大都会での成功を夢見てやってきた。
就職が決まっていた先では当日に吸収合併によりいきなりリストラ。
一転リクルーターになってしまったブラントリー(マイケル・J・フォックス)は、大富豪の叔父を頼りに会社に向かう。
なんとか配達係の仕事を手に入れたブラントリーは、会社の不備を見つけ、会社を変えようと企画を練り始めるが…。

マイケル・J・フォックスといえば、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が日本では人気だが、実はアメリカで人気を不動のものにしたのは、この「摩天楼はバラに色に」である。
「ドク・ハリウッド」や「ハード・ウェイ」(懐かしいタイトル!)などの一連の作品の中でも、僕にとってもとても大切なタイトルの一つだ。
このタイトルの実質的な次回作である「バラ色の選択」は、さんざんな結果だったことでも有名だ。
やっぱりいつの時代も、二番煎じは良くないってことだろう。

「ラッキーマン」を読んでから、余計に僕はマイケル・J・フォックスに対して思い入れが強くなってしまった。
こういう何度観ても楽しめる映画はもっとテレビでも放映してほしい。
完成度の高い映画が、人を育てていくものだと思う。
 
▼以下はネタバレあり▼

この映画も気づけばだいぶ古い映画になってしまった。
テレビで観た人が多いだろう。
僕も子どものころから、何度も観てきた映画の一つだ。
今再び見直しても、やっぱりおもしろい。
そして、大人になってはじめて気づくことって多いのだなあと、改めて思う。
バブル期のアメリカ。
好景気に沸く影で、日本の姿が少しずつ大きくなってきた時代だ。
最近、マネーゲームが話題になった日本にとっても、わかりやすく、見直す価値のある映画だろう。

社会的な視座がしっかりしていることは、アメリカ映画では、売れる一つの条件だ。
あり得んと思いながらも、あり得てほしいと思う。
この間隙の空間に、優れた映画が生まれるのだ。

この映画の良さは、とにもかくにも、キャラクター設定の巧みさにある。
まず、主人公のブラントリー。
彼のキャラクターが愛されなければ、ここまで人を虜にすることは無かっただろう。
物語的な記号で言えば、彼は「ヒーロー」である。
しかも、変身ヒーローものに仕立てられていることが面白い。
物語の中盤、かれはスーツ族とノースーツ族との間を右往左往することになる。

エレベーターの中でスーツと作業服に着替える姿は笑えるだけでなく、彼が二つの顔を持っていることを示す。
「すっぱマン」で言えば電話ボックスだ。(なんでそんなたとえやねん。)
ここには僕たちの変身願望を叶えてくれるヒーロー像がある。

それだけではない。
彼は軽いキャラクターに見えて、しっかり努力している。
夜遅くまで役に立つか立たないかわからないような勉強をして、企業のマイナス面を洗い出す。
その姿は軽い男としてだけではなく、「芯のしっかりした男」であることを見せ、観客も応援したくなる。
そして、努力する姿に、自分も! と触発されたりする。
サラリーマンにとって、彼はまさに理想的な男なのだ。
感情移入しやすいのも、彼の努力の姿をしっかり見せたことにあるだろう。

ちなみに出身とされる、カンザスは片田舎の代名詞だ。
有名どころでは「オズの魔法使い」などでネタにされている。
ブラントリーがやたらとカンザスを強調するのもそのためだ。
おそらく、ネイティブなら、冒頭のニューヨークへ訪れたときの彼の台詞は爆笑シーンだろう。

彼よりも、重要なキャラは、叔母のベラだ。
この映画が成功したのはベラのキャラクターがあってこそだ。
ベラは重要な援助者となる。
シンデレラで言うところの、魔法使いにあたる。
彼女のキャラクターがしっかり立っていることで、あまり登場しなくても、キャラクターがつかめるようになっている。

彼女はビジネスの手腕があった。
だが、彼女の生きがい、つまりはアイデンティティは、「女」として扱われることだった。
夫のプレスコットがここまで大きな企業に成長させられたのは、彼女の内助の功があった。
だが、夫はいつしかそれを忘れてしまい、女とダイエットにのみ興味を見出すようになってしまった。
女として愛されなくなったベラは、ある日、ブラントリーに出会い、彼の才覚を見出す。
おそらく若かりし頃のプレスコットと同じ匂いがしたのだろう。
周囲に人を集めていくブラントリーの真剣なまなざしを、それをお膳立てしたベラの笑みは、とても良い構図だ。
ベラの顔の広さと、才覚を見出す才能は、ずば抜けているのだ。

そうした裏の悲しみや裏の芯の強さが、あるからこそ、彼女の人間性に深みが生まれ、援助者としても魅力的なものになっている。
表層的な男遊びの手癖の悪さは、その裏返しなのだと納得できるのだ。
むちゃな展開でも、すんなり観客を導いていくのは、そうしたキャラクターの設定のうまさにある。

もちろん、「悪役」であるプレスコットのキャラクターもしっかりしている。
情熱があるかないか、何を真剣に考えているか、彼の課題や、悪役としての「悪役性」が明確であるため、それを倒したときの爽快感は強いのだ。

それだけのキャラクターをそろえたうえで、展開される物語もまた、上手い。
アメリカンコメディ特有の「ありえなさ」もさることながら、あり得るかも知れない、と思わせる。
しかも、仕事、恋愛、という二つのコードを巧みに絡めながら展開させるため、展開に切れ目がない。
展開に切れ目がないため、とんとん拍子にすすみ、追いかけっこや、夜ばいレースなどの見せ場をつくりながら、ドラマをしっかり導いていく。
中だるみすることもなく、観客を結末にまで連れて行く。
これで面白くないわけがない。

古典的だけれど、その古典を徹底している。
ハリウッド映画の「売れる」セオリーがここにあるのだろう。

(2007/12/9執筆)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« デジャヴ(V) | トップ | ボーン・アルティメイタム »

コメントを投稿

映画(ま)」カテゴリの最新記事