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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

JAWS(V)

2009-07-29 23:14:34 | 映画(さ)
評価点:78点/1975年/アメリカ

監督:スティーヴン・スピルバーグ

ヘミングウェイ的ハリウッド映画。

アメリカのとある島は、夏を前に海開きの季節を迎えていた。
昨年12月にこの島に赴任したばかりのブロディ警察署長にとっては、初めての夏だった。
この島では観光業によって一年間の収益を得ていた。
そんなある日、帰郷していた若い男女のグループの一人が、行方不明になる。
翌日その女性が遺体で引き上げられる。
司法解剖の結果は、サメによる襲撃。
戦慄したブロディ署長は、市長に海の閉鎖と海開きの延期を申し出るが、市長は認めない。
そうしているうちに、今度は子供たちが海でサメに襲われてしまう。

言わずもがな、ユニバーサルスタジオでも人気アトラクションである「JAWS」である。
今更感は強いが、今更あえて観てみた。
いつ観たかももう思い出せないほど昔に観た記憶はある。
だが、あまりにも王道なので、テレビで再放送されても、ほとんど観ることはなくなっていた。
だから、残念ながら、そして、申し訳ないが、ほとんど思い入れはない。
映画通を自負している割に! と言われそうだが、仕方がない。

エロスとタナトスのパニックホラー。
観たことがない人は、是非、どうぞ。

▼以下はネタバレあり▼

リード文にものせたが、まさにアメリカ文学であり、ハリウッド映画だ、という印象だ。
特にヘミングウェイの「老人と海」を思い出さずにはいられない。

この映画は前半と後半で全く違うジャンルの映画となる。
前半はパニックホラー。
これは今でもその流れは綿々と引き継がれている、ハリウッドお得意のあれである。
後半は珠玉のアクション映画。
男たち三人とサメとの戦いは、パニックホラーとは全く違うジャンルになっている。
ヘミングウェイの「老人と海」を思い出すのは、まさに後半部分である。

古い映画なので、陳腐な演出が多用される。
わけではない。
むしろ、古い映画という時間的な位相を振り払ったときに、この映画の真のおもしろさ、その仕組みを見いだすことができる。
たとえば、人が具体的に襲われるのは三回だ。
今の映画なら20回くらい人が襲われないと満足しない観客にとっては物足りないかもしれない。
だが、これは非常に王道の演出だ。
王道と言うよりも、ほとんど古典的といってもいい。
児童文学などで、危機や見せ場が三度繰り返されるのは有名な手法だ。
一度あったあとに、二度目があると、三度目を期待する。
三度目が起こると、そこにやはり起こった、というカタルシスが生まれるのだ。

一度目は若い女性。
これはまさにエロスのたまものであり、この映画以降、エロい女性が出てこないパニックホラー映画はないほどだ。
彼女が担っているのは、生きているというエロスそのものであり、彼女が殺されることによってタナトスを見いだす。
つまり観客は直接的な死を観るわけだ。
二度目の被害者は子供。
女子供を優先的に襲うのはリアリティの問題と言うよりも、感情をあおるための演出だ。
もさいおっさんが殺されるよりも、効果的恐怖を与えることができる。
もっともこんなことを考えながら観ると、全然怖くなくなってしまうのだが。

三度目は、子供のいたずら、と思わせて、主人公の息子がターゲットとなる。
ここでの緊張はピークを迎えるのは言うまでもない。
市長やブロディ署長を、本気にさせるには十分なシークエンスとなっている。
この辺りの演出はさすが、と言わざるを得ない。

他にもある。
「エイリアン」でも有効に作用した、見せない恐怖。
姿を見せずにポイント・オブ・ヴューで撮られるサメの様子は、ひたすらに怖い。
あの映像と相俟って、恐怖は倍増する。
多くの人が経験したことがある近海という日常的な空間であるからこそ、余計に怖さをかき立てる。
当然、その姿を表すときは、サメが殺される時なわけだが、謎が解明されたカタルシスに、倒したというカタルシス、そして爆破したというカタルシスが加わり、エンドロールへすがすがしく向かえる。
この情動のコントロールは「激突!」で見せた、スピルバーグの手腕を再び見せつけられる。

だが、後半になると、一気に映画のジャンルが変わる。
ここでは孤高に立ち向かう男の姿しかない。
この男は単数であって、決して複数形では表せない。
孤独で気高い男三人は、お互いが〈他者〉となることがないため、実質的に孤独なのだ。
三人はそれぞれ一人の男の内面を示しているかのようであるが、葛藤しあうことはない。
サメを殺すという目的のために、お互いの理知的な部分、野性的な部分、過去に縛られたトラウマを持ち寄るだけであり、決して仲間や集団、コミュニティとして成立することはないのだ。
つまり、孤独な男が一人、サメにたちむかう映画になっている。

もちろん、それはまさに「老人と海」に出てくる老人とイメージがぴったり重なる。
戦いの激しさも、その戦いに男のプライドがかかっていることも、すべてヘミングウェイの描いた通りだ。

また、その岩波文庫版にあった書評の一節を思い出す。
アメリカ文学は本質的に歴史のないところに物語を描く。
ヨーロッパ文学とはその点で決定的に異なる。
細かい叙述を引用する気にはなれないので、ご了承を。
僕が言いたいのは、まさに、その歴史性のなさである。

この映画に登場する人物には歴史性がない。
アイデンティティを決定づける歴史をだれも持たないし、問題にしない。
島の人間と、ニューヨークから来た署長との間で軋轢があるように見えるが、それは歴史というほどのものではない。
あるいは、署長には泳げないトラウマがあるが、いざサメを殺すときには、全く支障なくボンベを狙い撃つ。
そこに歴史性があるとは言い難い。

僕が言いたいのはだからハリウッドはだめなのだ、という議論ではない。
だから、ハリウッドは万人受けするのだ、といいたいのだ。
そういったアメリカ文学的な要素を、ハリウッド映画的に撮りきったところに、この映画の成功があるし、この映画から始まるパニックホラーというジャンルの位置決定があったのだ。
その意味で、この映画はやはり偉大なのだ。

古い映画ほど、良い映画ほど、発見があるものだ。
映画って本当にいいものですね~。

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