secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ブラッドダイヤモンド(V)

2008-04-27 20:04:42 | 映画(は)
評価点:80点/2006年/アメリカ

監督:エドワード・ズウィック

ダイヤモンドを異化する映画。

アフリカのローデシア生まれのダイア商人ダニー・アーチャー(レオナルド・ディカプリオ)は
ダイアの輸出の際に軍に見つかり、捕まってしまう。
留置所にいたときに、大粒のピンクダイヤを見つけたという話を聞きつける。
RUFと政府との内紛が激化し、政府がその指揮を失いかけていたこともあり、
長年取引をしていた政府のコッツィー大佐との縁を切るため、
ピンクダイヤを手に入れようと考える。
一方、村を襲撃され、ダイヤ掘りを強要されていた、
ソロモン(ジャイモン・フンスー)は、たまたま見つけた巨大ピンクダイヤを
連行される間際に土に埋めた。
家族を取り戻したいソロモンは、しぶしぶ白人のダニーとともに行動を共にすることにする。
やがて政府軍に占領されていたフリータウンもRUFの侵攻にあい、
ダニーとソロモンは、ジャーナリストのマディー(ジェニファー・コネリー)の
コネクションにより、埋めたダイヤを取りに旅に出る。

こういう社会的な映画は、やはりどのあたりまでが実話なのかが気になるところ。
社会的な舞台はそうとう事実に基づいているようだ。
僕もあまり詳しくはないので、断定的な言及は避けようと思うけれど、
エピソードじたいはフィクションでも、似たような話はこの時期、この地域にはいくらでも転がっていただろう。
ロード・オブ・ウォー」にしても、「ナイロビの蜂」にしても、
僕ら先進国の人間にとって、この映画は観るべき価値がある。
あるいは義務があるといってもいいかもしれない。

僕たちの生活の裏側にある世界を、僕たちは知るべきだろう。
撮影じたいがどのように行ったのか信じがたいくらいリアルで、しかも社会的にタブーを扱っている。
権力者たちが隠したくなるような事実も描かれている。
(きっともっとひどいから隠さなかったのかも知れない)
エンターテイメントとしても十分面白いので、是非観てもらいたい映画だ。

 
▼以下はネタバレあり▼

趣としては先に挙げた「ロード・オブ・ウォー」や「ナイロビの蜂」などと同じだ。
先進国の人々の欲を満たすためにどれだけ多くの人の血が流れているか、
というのがこの映画の目指すところだろう。
この映画が単なる説教臭い映画とは違い、重みを持っているのは、
そうした社会的な残酷さや問題を鋭くえぐりながらも、「個」を描くのだというスタンスを失わなかったからに他ならない。

ダイアを買う人は珍しくないが、そのダイアがどのようにして手に入れられたものなのか、
知ろうとする人は少ないだろう。
ダイアがあれだけ高級な理由は、絶対量が少ないだけでなく、手に入れるのに相当苦労しているからに他ならない。
しかし、この映画では、その利益を独占するために巧みに操作されていることまでもが、暴露されいる。
残念ながら、どこまで事実かどこまでフィクションなのか、線を引くほどの知識を僕は持ち合わせていない。
そういう無知な人のための映画だと思って、あえてこの映画を批評しよう。

話の舞台はアフリカである。
国の紛争によって、村をおそわれた男が、連れられたダイア発掘所でダイアを見つけ、
そのダイアによって家族を取り返す、という話だ。
とてもシンプルだし、とてもわかりやすい。
専門的なダイアの知識などあまり必要はない。
彼が見聞きする世界は、僕たちの想像に絶する壮絶なものであっても、
彼の行動動機は非常にシンプルで、ゆがみがない。
アフリカ人たちがみな、彼のように純朴で素朴な生き方をしているかどうかは、
また別の問題であっても、
少なくとも文化や地域、宗教を越えて、彼の行動には感情移入できるだろう。

その彼が、複雑に入り組んだ国内紛争とダイヤモンド採掘をめぐる争いに
巻き込まれていくため、無知な観客はすんなり映画の世界に入っていける。
彼の相棒となるのが、アフリカ生まれの元傭兵のディカプリオだ。
違和感たっぷりなのはご愛敬だと考えるしかない。
「アメリカ人は」とジャーナリストに口癖のように悪態を吐く彼が、
いつの間にか素直に自分のつらい生い立ちを語ってしまうあたりが、
やはりディカプリオだ。
努力賞はあげてもいいが、オスカーはあげられない。

この映画にリアリティがないとすれば、彼の存在だろう。
それはディカプリオが演じているからではない。
複雑でつらい生い立ちを持ちながらも、
最後は「君とこの景色を見たかった」とまで変貌できる衝撃が、
この映画では描き切れていなかったように思う。
言うなればジャーナリストはずっといっしょに行動をともにしていただけであって、
彼の今までの壮絶な生い立ちと天秤にかければ、些細なものだ。
ソロモンだけではなくアーチャーまでも救うことができれば、
きっと作品賞も夢ではなかったはずだ。

とはいえ、圧倒的なリアリティは特筆すべきものがある。
どうして撮ったのか、あるいは撮影中も戦争だったのか、
と思ってしまうほどに、戦争シーンには説得力がある。
あれだけにぎやかだったフリータウンの変貌ぶりには驚嘆としかいいようがない。
上映時間としてはほんの数十分の間のシークエンスのために、
街を壊したとしたら、撮影現場は大丈夫なのかと心配になる。

この映画が全然笑えないのは、ダイヤモンドの利権争いが事実に基づいているからではない。

それももちろんあるが、この映像に力と本気を感じるからだ。
これが中途半端にしか描けていなければ、きっとダイヤモンドに対する問いかけは浅薄なものになっただろう。

それに加えてもう一つ。
この映画は残酷シーンがあるが、必要以上にグロくない。
本当はもっと表現できないほどの虐殺や強奪があったのだろうと想像する。
あえて、そういうシーンは「緩やかに」描いている。
なぜなら、この物語は「父と子」の物語だからだ。
ダイヤモンドの実態を暴く以上に、親子の物語に集約させようとした。
だから、残虐さよりも、親子がどのように「離れていくか」という点に焦点化して描いている。
制作者たちの品の良さ、センスの良さがそうさせているのだ。
だから、必要以上の嫌悪感を抱かずに、物語に没頭できるのだ。

大江健三郎だっただろうと思う。
「新しい文学のために」という本の中で、見慣れた景色がある日突然違ったように見えるときがある。
それは、文学における「異化」という効果なのだ、と書いていた。
異化ということばの使い方が正しいかどうかは知らないが、
少なくとも、この映画を観て、今まで当たり前に見えていたダイヤモンドが、
実はブラッド・ダイヤモンドであったことを知り、違った「景色」を味わうことになるはずだ。
そういう点においていえば、この映画は十分に「文学」といえる域に達していると思うのだ。
 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ナイロビの蜂 | トップ | スウィーニー・トッド »

コメントを投稿

映画(は)」カテゴリの最新記事