secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

隠し剣 鬼の爪

2009-01-03 10:29:46 | 映画(か)
評価点:65点/2004年/日本

原作:藤沢周平
監督・脚本:山田洋二

たそがれ」と同工異曲、主人公・片桐宗蔵だけが現代人。

江戸末期の東北地方。
友人である狭間弥市郎(小澤征悦)を、江戸へ見送った片桐宗蔵(永瀬正敏)は、不安な思いに駆られる。
片桐は妹の志乃(田畑智子)を友人の島田左門(吉岡秀隆)の元へ嫁にやる。
雇っていた女中のきえ(松たか子)も嫁に行くことになり、宗蔵の家は、宗蔵一人になってしまう。
それから三年後、宗蔵は街で偶然きえに出会う。
しかし、きえは痩せ細ってしまい、どうしたのかと宗蔵は心配を募らせる…

たそがれ清兵衛」に続く、山田洋二監督による時代劇第二弾。
原作も同じ藤沢周平ということもあり、今秋・今冬の注目作の一つだろう。
高まる期待を胸に、映画館に行ったわけだが、「たそがれ」を超えるような作品にはならなかった。
(ちなみに本作も原作「隠し剣鬼の爪」「雪明り」には触れていない。)

▼以下はネタバレあり▼

たそがれ」を超える、という言い方は、本来は良くない。
映画というものは、同じ監督のものであっても違う作品どうしを比較することはできないはずだから。
それを分かっていて、本作は「たそがれ」を超えることはできなかった、と思うのである。
なぜなら、本作は「たそがれ」と同工異曲だからだ。
悪く言えば、二番煎じのような印象を受けてしまう。
「ロック,ストック・アンド・トゥ・スモーキング・バレルス」を撮ったガイ・リッチー監督が、次作「スナッチ」で全く同じような手法を使ったのに似ている。
発展性はあるものの、どうしても「たそがれ」のヒットが眼にちらつく映画になってしまっている。

欲とは無関係の主人公の生き方。
男一人のすさんだ生活。
身分を違えた恋。
よく出来た娘(恋人)。
リアルな侍の生活感。
その娘が嫁に言った先から離縁させる。
やりたくない果し合いを強要させられる。

そのどれもが、「たそがれ」でやったことをもう一度やっているにすぎない。
安定感はあるし、それでも山田洋二ワールドは楽しめる。
けれども、ほとんど同じ展開、構造では「差異」を見つけることはできても、違う映画としてみることはできない。

その一番の差異とは、もちろん「隠し剣」である。
果し合いの相手、狭間弥市郎の妻を陥れたことを許せなかった宗蔵は、家老を殺そうと考える。
奥義の「隠し剣」を伝授されたはずの宗蔵は、狭間との戦いでもそれを見せることはなかった。
なぜなら、奥義「隠し剣」は、暗殺術だったからだ。
暗殺術ゆえに、誰にも教えることは出来ない。
唯一、信頼できる一番弟子にのみ、教えることができるのだ。
おそらく、この剣の流派は、代々暗殺を主務にしていたと考えられる。

それはともかく、その暗殺術「隠し剣」で家老を一突きすると、血は出ずに致命傷を与えることで、殺してしまう。
人殺しをしてしまった宗蔵は、侍をやめ、きえをつれて蝦夷に向かう。

後半のストーリーは上のようになるだろう。
家老を殺してしまうという点は、「たそがれ」に上乗せされた発展部であると言える。
しかし、それこそ、この映画の最大の欠点である。

それまである程度当時の世相を反映したリアリズムを徹底したはずなのに、ここで一気によくあるテレビ時代劇になってしまう。
「家老! あまりにひどい。拙者が成敗致す!」
それはまさに「必殺仕置人」である。
狭間の妻・桂のお墓に小判がないか、確認したいくらいだ。

そして侍を辞める、という究極の選択をしてしまう。
侍を辞めてしまうといことは、江戸幕府のシステムから切り離されるということであり、
ほとんど人間的な「死」を意味している。
また、蝦夷に行くという選択をするわけだが、そんなに簡単に侍を辞めて蝦夷に行くことはできなかったはずだ。
明治時代になって、ようやく「日本語」が使えるようになる程度の場所なのだ。

だからこの選択は、まるでじきに幕府がつぶれてしまうこと知っているかのような
「的確」な選択になっている。
このように考えると、片桐宗蔵は、当時の侍とはとうてい考えられない。
彼は現代人である。
しかも、それ以外の人々は、当時いたかもしれないというリアリズムに徹底されている。
あれくらいの家老なら、いても不思議はない。
腹が立つのは理解できるが、あくまでも「人間」なのだから。
そのほか、当時の暮らしぶりなど、リアルさが感じられる。

しかし、片桐宗蔵だけが違う。
女中の結婚を離縁させたり、悪を成敗したり、侍を辞めたり、その女中と蝦夷に行ったり。
彼の行動は、現代人の感覚だ。
現代人が、当時の人間を再現した行動パターンなのだ。
だから、おおきな違和感が生まれる。
それが「たそがれ」から付け加えられた唯一の点であるから、
どうしても比較したくなるし、比較すれば当然「たそがれ」におよばなかった、と言いたくなるのである。

悪の成敗、という結末にするなら、宗蔵の心理をもっと描くべきだった。
成敗することと、きえとの恋話がどうしても断絶しているように見えてしまう。
「どうしても許せないんだ」という点を、きえとのやりとりの中で描いておけば、宗蔵に感情移入することもできただろう。
それでも、暗殺術を教えてもらっておきながら、はじめて人を殺めるという設定は、どうしても違和感がある。

俳優人は、一流を揃えられたと思う。
でもやっぱり「たそがれ」のときの二人(真田広之・宮沢りえ)に比べると、どうしても見劣りしてしまう。
とくに松たか子は、個人的に嫌いだからかもしれないが、演技が気になった。

山田洋二は大衆にウケる監督である。
よってこのような結末でも年配の客層を考えれば、ありなのかもしれない。
「らしさ」はあったことは確かだ。
「たそがれ」が良かっただけに、残念でならない。
次時代劇を撮るならば、もっと趣向を変えたものが見たい。

これだと「寅さん」とか「釣りバカ」と変わらないではないか。

(2004/11/7執筆)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« シークレット・ウィンドウ | トップ | リーグ・オブ・レジェンド(V) »

コメントを投稿

映画(か)」カテゴリの最新記事