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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

魔女の宅急便(V)

2009-01-12 10:17:32 | 映画(ま)
評価点:74点/1989年/日本

監督:宮崎駿

キキの、かわいい2つの危機。

魔法使いのキキ(声/高山みなみ)は、親元を離れて一人で修行する年齢になった。
そこで、キキは新しい大きな街へと出掛ける。
キキは、初めて見る「都会」で、パン屋に住まわせてもらいながら、ホウキに乗って、配達を始める。
軌道に乗り始めたかに見えたホウキの配達も、お客の荷物を落としてしまうというハプニングに…。

ジブリ作品では、人気の高い作品の一つである。
ナウシカ」「ラピュタ」「トトロ」と並んで、ほとんど説明の必要のないほどの認知を得ていると言っていいだろう。
「名探偵コナン」のコナンと、キキ、工藤真一とトンボ(声/山口勝平)が同じ声優ということもあって、今では、少し笑える配役になっているということも興味深い。
 
▼以下はネタバレあり▼

さて、この作品もいまさら逐一説明する必要もないだろう。
本作のテーマは、2つの挫折である。
魔女としてひとり立ちするために新しい街に行ったキキが、2つの挫折を経験する。
そこからいかにして立ち直り成長するか、というのが作品のテーマと言える。

ラピュタ」との大きな違いは、この挫折(それに伴う葛藤)と、そこからの成長がある点だ。
その意味では、こちらのほうがテーマとして、文字通り成長しているといえる。

一つ目の挫折は複数あると想定できるが、象徴的な出来事は、請け負った配達物を落としてしまうというものだ。
初めての配達で、キキはクロネコのぬいぐるみを届けるように頼まれる。
問題ないはずだったが、キキは突風にあおられて、届けるぬいぐるみを森に落としてしまう、という事件が起こる。

これは挫折というほどのものではない。
しかし、これは物語上、非常に大きな事件である。
キキは、このピンチを他人に助けられることで乗り切る。
ぬいぐるみを繕ってくれるカラス少女のウルスラ(高山みなみ)に助けられる。
また、ぬいぐるみとジジを交換するときに、届け先の飼い犬にも助けられる。
キキは、こうして危機を他人の助けによって乗り越えるのである。
それは、この事件だけではない。
パン屋の空き家に住まわせてもらったり、職質(職務質問)をかけてきた警察をトンボが巻いてくれたりする。
キキは、人に助けてもらうことによって、自立的な生活を営み始めるのである。

ところが、二つ目の挫折は、それとまったく逆の要因で訪れる。
あるおばあさんからの依頼で、パイを届けることになったが、オーブンの故障でパイを焼くことができない。
キキは、かまどで焼くのを手伝い、時間ギリギリに届けることに成功する。
しかし、そこで待っていたのは、おばあさんの孫娘の一言だった。
「私、これ嫌いなんだよね」
かまどで焼くのを手伝ったキキは、それまでの人の好意があったからに他ならない。
受けた恩を、相手こそ違えど返そうとしたのだ。
その思いは無残にも裏切られてしまう。

この後、飛べなくなるのは、キキがほとんど自己否定の状態に陥っているからだと言っていい。
人の好意を信じることで自立し始めたキキは、人の好意を踏みにじる言動によって、挫折を経験する。
人に裏切られるということが、アイデンティティそのものを不透明にしたのである。
よって魔女としての自分をも見失い、ジジと話すこともできずに、孤独を知ることになる。

ウルスラが訪ねてくることで、少しずつ自分を取り戻すキキだったが、それでも魔女の「魔力」は戻らない。
(ウルスラとキキは同じ声優。ウルスラとキキは、表裏一体のパラレルな関係にあるという考え方もできるかもしれない。)
キキが魔力を取り戻すのは、人を再び助けたいと願ったときだ。
トンボが、飛行船から落ちそうになったとき、キキはブラシで必死に飛び上がろうとする。
これまで使っていたホウキではなく、近くにあったブラシで飛ぶのである。
これは新しいアイデンティティを確立したということの象徴である。

即ち、相手に礼を言ってもらえるかどうかとは無関係に、相手を助けたいということである。
もっと言えば、人に裏切られるかどうかではなく、人を信じるということである。
ここに、キキの人間的成長をみることができる。
与えられることを前提とした行動から、与えることを第一とした行動に変化する。
別の言い方をすれば、庇護されていた者(=子ども)から、自ら誰かに向かってアプローチする者(=大人)という成長である。

ここまで考えると、この「魔女の宅急便」は、主人公の成長という側面でいえば、巧みな構成になっていることがわかる。
しかし、だからといって、手放しで喜べるほどではない。
問題は、キキが陥る悩みがあまりに稚拙ということだ。
人間関係をこれまで持ったことがないのか、と思えるほど、初歩的な「挫折」なのである。
これは、宮崎監督の女の子像と密接にかかわっているのではないか、と疑いたくなる。

つまり、監督の女の子像があまりに幼稚であるということだ。
中学生の男女を比べれば明らかなように、女の子のほうが精神的成長は早い。
にもかかわらず、宮崎監督は、キキのような純情で無垢、あたかも無菌状態で育ってきたかのような女の子像を描いてしまう。
いくらキキの設定が13歳だからといっても、世間知らずすぎるのではないか。
だから、挫折を克服したとしても、ラストのカタルシスはあまり大きくない。

しかし、それこそがこの映画が支持される理由に他ならない。
やはり、物語の主人公は、実年齢より若い精神年齢であることこそ、人々に支持される重要な要素なのである。
何度見ても見飽きないのは、成長に伴って「若く」なっていく、観客の子ども像と、キキの幼さが重なっているということだろう。

(2004/12/6執筆)

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