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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

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2018-10-30 18:12:14 | 映画(さ)
評価点:77点/2018年/アメリカ/102分

監督:アニーシュ・チャガンティ

ネットが切り取る現実と、映画が切り取る現実の親和性。

母親を早くに亡くした一人娘のマーゴット(ミシェル・ラー)は父親と会話が減っていた。
父親に生物の試験勉強に行くといい、翌朝戻らなかった。
父親のデヴィッド・キム(ジョン・チョウ)はそのまま授業に行ってピアノのレッスンに行ったと思い込んで、ピアノの先生に連絡すると、「半年前に辞めた」と伝えられる。
色を失った父親は、すぐに警察に電話し、彼女のSNS上の交友関係を調べていくが……。

たまたま時間が合ったので、映画館に飛び込んだ。
ほとんど映画に関する情報を集めても映画館に行ける気がしなかったので、予備知識はない。
ただ、評価が高かったのと、時間の都合によるものだ。

ネットにある程度詳しい人でなければ、どういう意味をなしているのか分からない描写が多いことだろう。
何しろ、すべての映像は、パソコン上で展開されており、いわゆる普通のカメラで撮った映像は一切ない。
現代人でパソコンになれている人には戸惑いはないだろうが、パソコン自体がどんなものか知らない人には全く理解できないかもしれない。
新しい取り組みだが、違和感はない。
それほど「不自由」な描写のようには感じないはずだ。

それほどまでにパソコンで見られる映像の存在感が増したということなのだろう。
シナリオもしっかりしている。
なかなかに、丁寧な作りである。
気になる人がいれば、是非、見ても損はしないだろう。

▼以下はネタバレあり▼

新しい手法だが、それほど違和感はない。
なぜなのか。
それは、実は大して新しい手法ではないから。
さらに、ネットで切り取られた映像と、実は映画の〈語り〉とが親和性がよいからなのだろう。
そのあたりはもう一度後で触れよう。

先にシナリオから見よう。
すぐに戻るはずだった娘が、翌朝になっても戻らない。
行方不明になった娘を捜索する父親を描いた作品だ。
SNSやパソコンに残されたデータから、彼女の手がかりを探していく。
データは断片的な情報しかなく、今まで知らなかった娘の人間像が浮かび上がってくる。
実は友達が少なかったこと、いきなりピアノを辞めていたこと、自分の弟と怪しい密会を繰り返していたこと、SNSで本心を吐露する姿があったこと。
断片的であるが故に、状況が二転三転していく。

物語は思わぬ方向に進んでいく。
死体もないのに、一人の男が自白し、その後自殺する。
話はとんとん拍子に進み、事件は解決されたことになる。
それでも諦められない父親は、この捜査が不自然であることに気づき、ヴィック捜査官による偽装工作であることを突き止める。
この話が非常にうまいのは、父親は娘を思う気持ちから動き、ヴィック捜査官も息子を思う気持ちから犯行を行っていた、ということだ。
だから、このばらばらな情報が一つの物語としてつながっていく面白さがある。
事件解決と、物語としての収斂がみごとなカタルシスを生み出すのだ。

しかも伏線がかなりある。
息子ロバートが25ドルを寄付と称してお金を集めていたとき、「(実際に)寄付した」と言ったのは「罪を償わせるのではなく、なかったことにした」ことの告白だ。
事実かどうかはどうでもいい。
そういう態度をとる母親であることを印象づけた、そういう伏線なのだ。
また、デヴィッドとフェイスタイムしているとき、息子が部屋に入ろうとしたら、強く叱責する。
これは、あなたはこの事件に関わらせない、という強い意志の表れだったわけだ。

筋を二転三転させながら、一つの物語として見せる、オーソドックスだが、シナリオがしっかりしているからこそ、この映画が「単なるパソコンの動きを見せた集合体」ではないのだ。
そこに親子の絆、というこれも現代社会の最も純粋なつながりを描いたことも成功の一つだろう。

とにかく、ネットに登場する全員が怪しい。
ネットでは父親に対する心ない書き込みや、今まで無関心だった級友がいきなり親しくなる動画が上がる。
皆、好きなことを、好きなように、無関心と好奇心によって情報を積み上げていく。
その様子は、まさに映画そのものであり、ネットの世界そのものだ。
パソコン上で展開される〈語り〉と、映画での〈語り〉は親和性が高いのだろう。
そもそも、映画では映画上で必要な部分しかシーンとして描かれない。
当たり前の話だが、映画は出来事をそのまま映しているわけではない、切り取られた〈語り〉なのだ。
だから、人々に語られたパソコン上の出来事も、また〈語り〉として捉えることができる。

アメリカではそこまでネットにあがるの? という部分もあるが、それも終わった出来事、として語られたことであれば、ネットに上がる可能性は十分にあるだろう。
だからこそ、この映画はそれほど、映画としての不自然さを感じさせない。

手法とテーマ、そしてシナリオがしっかりとかみ合っている。
それは、どんな映画でも同じ事だし、表現自体の普遍的な鉄則だ。
この手法でなければあぶり出せなかった内容、そしてその〈語り〉。
映像、映画という〈語り〉の可能性を広げながら、かつ再確認させるのにもよい例だと思う。

もう一つ、忘れてならないのは、音楽の使い方だ。
使い方が秀逸だから、退屈にさせない。
お手本のようなサウンド・エフェクト、BGMだと思う。


【追記】
よくよく考えれば、夜中に父親に電話がかかってきた(圏外ではなかった)のだから、その電波を拾えば、位置情報から失踪した地点はすぐに割り出せたのでは……。
捜査主任が犯人とグルでも、さすがにそこは隠し通せなかった気がする。

それに気づいたのは見終わった後なので、見ているときに分かっていた人はもっとこの映画に対する評価は低くなっていただろう。
まあ、私は気づかなかったのでよいのだが。


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