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猫と酒とアルジャジーラな日々

ロベルト・ベニーニ、愛と幸福について語る

2021-03-13 07:14:21 | イタリア

 

今回は、ロベルト・ベニーニ(ベニンニ)が2014年にイタリア国営テレビ「RAI UNO」に出演した時の録画の一部の和訳を載せる。

 

ベニーニはイタリアの「国民的コメディアン」であり、映画監督・俳優としても世界的に名高いが(「ライフ・イズ・ビューティフル」が有名)、それだけれはなく、ダンテの「神曲」を解釈・暗唱するライブをやったり、テレビ番組でイタリア憲法について解説したりと、その活動は多岐にわたっている。

 

イタリア憲法について彼が生中継で説明した番組は、記録的な視聴率を獲得し、その時間帯は街に人けがなくなったという。私も当時滞在していた友人宅のテレビで観て、そのあまりの素晴らしさに思わず泣いてしまった記憶がある。あとで聞いたら、別の日本人の友達もあれを観て泣いたという。

 

今回ご紹介する動画は、「ベニーニの十戒」という生中継の番組の一部。これも記録的な視聴率で、初めて放送された時、イタリア中の約1千万人が観たらしい(全人口は現在約6千万人)。これも泣ける・・・生で観たかったな~

 

この動画

 

誰にでもわかりやすい表現で、熱を込めて畳みかけるように訴えかけてくる彼の哲学的な言葉は、文字にしてしまうと魅力が半減してしまう気もするが、字幕を作れるような技術を持ち合わせていないので、しょうがない。

 

 

動画の和訳は以下の通り:

 

「愛し合うこと、そして幸せになること~ロベルト・ベニーニの十戒より~」

 

(訳注:番組の途中からの録画)


それは、この言葉に要約することができる。「愛し合うこと」だ。


だけど、言っておかなければならないことがある。時間は過ぎていく、ということだ。


人類の本質的な課題は、二千年前からずっと変わっていない。それは、「愛し合うこと」だ。但し、それは今、これまでよりもずっと切迫した問題となっている。


「愛し合わなければならない」と、今日も繰り返し言われているが、私たちは知っている。もう、あまり時間が残されていないことを。


急がなければならない。愛することを急ごうじゃないか。


私たちはいつも、ほんのわずかしか愛さず、しかも、愛した時は、あまりに遅すぎる。


愛することを急ごうじゃないか。


なぜなら、人生の終わりに、私たちは「いかに愛したか」を基準に裁かれるからだ。


なぜなら、無駄な愛は存在しないからだ。


なぜなら、恋に落ちた時に「自分の人生は、完全に他者の存在に頼っている。自分自身の存在だけでは足りない」と気づく以上に大きな感動はないからだ。

なぜなら、あらゆるものが、山や海、道路、空、風、星、街、川、石、建物などの生命のないものでさえも、それ自体は空っぽでどうでもよい存在だったのに、不意に人間的な意味で満ちて見え、私たちを惹きつけ、感動させるからだ。


それはなぜだろう?


なぜなら、それらは愛の予感を孕んでいるからだ。生命を持たないものでさえも。


なぜなら、愛はあらゆる創造物を抱え込むからだ。


なぜなら、愛はあらゆる物の意味と符合するからだ。


その意味とは「幸福」だ。そう、幸福だ。


幸福の話をしよう。幸福を毎日、絶え間なく探してほしい。


私の言葉を聞いている人は皆、幸福を探し始めてほしい。今、まさにこの瞬間に。


なぜなら、幸福はそこにあるからだ。皆それを持っているのだ。我たち全員に与えられたのだから。


私たちがまだ幼い頃、幸福は与えられたのだ。贈り物として。


あまりにも素敵な贈り物だったので、私たちはそれを隠してしまった。犬が骨を隠すように。


上手く隠し過ぎて、どこに隠したか忘れてしまった人が多い。しかし、皆がそれを持っているのだ。


魂の中のあらゆる物置、棚、仕切り、引き出し、ナイトテーブルをのぞき込んで、そこにある物を全部宙にぶちまけてみよう。


そうしたら、幸福は出てくるだろう。幸福はそこにあるのだから。


あるいは、唐突に振り向いてみたら、不意打ちして捕まえることが出来るかもしれない。とにかく、幸福はそこにあるのだ。


私たちは、常に幸福について考えなければならない。


幸福の方は、時々私たちの存在を忘れることがある。しかし、私たちは幸福のことを忘れてはいけない。人生の最後の日まで。


そして、何も恐れてはならない。死でさえも。


生まれることの方が死ぬよりも危険なことなのだから。


死ぬことを恐れる必要はない。恐れるべきなのは、「本当に生きる」ことが全く始められない事態なのだ。


今ここで、存在の中で「ジャンプ」してほしい。なぜなら、今何も見つけることが出来なければ、一生何も見つけられないからだ。


ここに「永遠」がある。


私たちは人生に「イエス」と言わなければならない。あらゆる「ノー」を脇に押しやるのに十分なほどの、満ち溢れるほどの「イエス」を、人生に対して言わなければならない。

この2日間の夕べを一緒に過ごした私たちは(訳注:2晩連続の番組の終盤の発言)、もはや自分たちが何も知らないことを理解した。誰にも何もわからないということを。「大いなる謎」が存在することしか知らないということを。その謎をそのまま受け止めて、そっとしておくべきだということ以外知らないのだ。


世界でもっとも驚くべきことは、「いのち」が先に進んでいくのに、その仕組みが解明できないことだ。どうやって時の経過に耐え、これほどまでに持続しているのか。これは別の謎だ。


今まで理解した者は誰もいない。なぜならそれは、私たちが理解できる範囲をはるかに超えたものだからだ。だから持続することが可能なのだ。いのちが、私たちが理解しているだけのものだったなら、とうの昔に終わっていたことだろう。


私たちは感じている。いついかなる瞬間にも、自分に何か「永遠の出来事」が起こりうることを。


その時、私たちに出来ることは1つだけ。


頭を垂れることだけだ。

 

(終わり)


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2 コメント

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ウンム・キタト・ミチさんへ (Zhen)
2021-03-16 21:31:13
ロベルト・ベニーニの語り、素晴らしい、感激したと書きたいところですが、悲しいかなイタリア語をまったく理解できないと、彼が熱く、真剣に、力強く何かを訴えていることはわかっても、“何を”がわからない。やはり通訳翻訳者のMichiさんの存在は大切です。
「ウンム・キタト・ミチさんは、偉大なり!」
では、また。
Zhenさんへ (ウンム・キタト・ミチ)
2021-03-18 03:45:52
お褒めに預かり、光栄です~でも、私の訳文はいつも文体が一緒で、なんとなくイスラム過激派集団の指導者の発言っぽくなっている気がする・・・その辺が課題です~

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