外国で一時的個人的無目的に暮らすということは

猫と酒とアルジャジーラな日々

パレスチナぼんやり回想(3)~西エルサレムのヘブライ語教室で出会った人々~

2024-01-09 20:42:04 | パレスチナ

 

 

東エルサレムのオリーブ山に住居を見つけて少し落ち着いた頃、ISMのトレーニングに参加してみたりしつつ(前回の記事)、アラビア語の学校を探し始めた。3か月だけではあるが、せっかくパレスチナに滞在するのだから、できればアラビア語パレスチナ方言を少しでも勉強してみたかった。

 

アラビア語コースがありそうな西岸地区ラーマッラー近郊のビルゼイト大学や、東エルサレムのアルコッズ(エルサレム)大学に出向いて聞いてみたが、一般人が参加できるコースは見つからなかった。プライベートレッスンをやってくれる人を見つけるのも面倒だし、お金の余裕もなかった。

 

そこで発想を転換して、イスラエルで話されているヘブライ語(現代ヘブライ語)をやってみることにした。ヘブライ語を習得したいとは思っていなかったが、教室に通って、他の生徒たちと共に多少なりとも勉強したら、今まで見えてこなかったことが見えてくるかもしれない。アラビア語パレスチナ方言の方は、本屋でテキストを買って自習することにした。(このシリーズのテキストで勉強したが、なかなか良かった)

 

 

西エルサレムの猫さん

 

 

私が通ったのは、西エルサレムの街中にあるウルパンの初心者向けコースだった。「ウルパン」とは、外国からイスラエルに移住したユダヤ人を主な対象としたヘブライ語学校だ。エルサレムにいくつかあるウルパンの中には、非ユダヤ系の一般の外国人を受け入れていないところも多かったが、そこは受け入れていて、しかも通いやすい場所にあった。週2回、1か月くらい通ったように思う(うろ覚え)。一般の外国人の学費はユダヤ移民よりも高く設定してあったが、大した金額ではなかった。オリーブ山から旧市街の入り口まで乗り合いバスで降り、そこから徒歩で通っていた。市電に乗ることもあった。

 

先生は気さくで明るい若い女性で、片言の英語やイラスト、身振り手振りを駆使して、ヘブライ語の文字や簡単な会話文、数字などを教えてくれた。私はなぜか「イスラエル人は英語が話せるはず」と思い込んでいたので、彼女は生徒がヘブライ語に慣れるよう、わざと英語を使わないようにしているのかと最初思ったが、レッスン以外の場でもブロークンイングリッシュだったので、本当に話せないようだった。私が西エルサレムなどで道を聞いたイスラエル人にも、英語が話せない人がちょくちょくいた。彼らは非英語圏からの移民だった可能性もあるが、先生は生まれも育ちもイスラエルだったはずだ。

 

この先生は、最初の方の授業で例文として「イスラエルの首都はエルサレムです」と黒板に書いて私をドン引きさせたが、政治的意図に基づくプロパガンダなどではなく、ごくナチュラルにそう信じているようだった。生徒たちもそれに疑問を持っている様子はなかった。

 

イスラエルは占領下のエルサレムを自国の「首都」だと主張しているが、国連はこれを認めておらず、東エルサレムを「パレスチナ被占領地」とする立場を取っているし、大半の国がテルアビブに大使館を置いているので、テルアビブが実質的な首都となっている。しかし、イスラエル人や世界のユダヤ人たちは、「イスラエルの首都はエルサレム」だと教えられているのだろう。

 

生徒の人数は十数人~二十人くらいで、そのほとんどはユダヤ移民だったが、私以外にも非ユダヤ系外国人が一人いた。それは、ISMのトレーニングで見かけたカナダ人の若者だった。その後、彼がどこかのデモに参加しているのを見たこともある。彼のようなパレスチナ支援の外国人ボランティアが、ウルパンに潜入するのは珍しくないのかもしれない(私も似たようなものだし)。彼はカナダでヴィーガンの料理人をやっているとのことで、「俺に作れないヴィーガン料理はない!目玉焼きだって作ったからね!」と豪語していた。ヴィーガンの目玉焼きって、どんなんや…

 

クラスメートの多くは、欧米からイスラエルに移住したばかりの中高年の白人女性だった。休み時間や開始前の待ち時間などにおしゃべりする機会が時折あったが、彼女たちはイスラエル(の中でも特に保守的なエルサレム)での生活にまだ馴染んでいなくて、ヘブライ語もまだほとんど分からず、なんとなく疎外感を覚えているようだった。お店などに入っても対応が冷たいと言っている人もいた。同じユダヤ人でも、イスラエルで生まれ育った現地の住民と外国から来た移民の間には、見えない溝があるようだった。

 

私たちのクラスには、インドから移住したユダヤ人の若い女性も1人いた。私は彼女に会うまで、インドにユダヤ人がいることを知らなかった。欧米系の白人ばかりの中で、肌の浅黒い彼女は目立っていて、私たちはアジア人同士仲良くなり、時々途中まで一緒に帰ったりした。彼女は家族で移住したそうで、スマホで写した小さな娘さんの写真を大事そうに見せてくれたりした。彼女は家政婦として働きつつ、空き時間にウルパンに通っていると言っていたと思う(旦那さんの仕事についても聞いたような気がするが、もう覚えていない)。インドでは少数民族として居心地が悪い思いをしていたのだろうが、イスラエルでも、白人の欧米系移民ですら冷たくあしらわれるくらいだから、アジア系移民は差別されていそうだと思った。実際、彼女には苦労人特有の薄暗いオーラが漂っているように感じられた。

 

 

東エルサレム・オリーブ山の猫さんたち

 

 

ある日の授業で、「私は~に住んでいます」というフレーズを習い、先生に当てられた時、深く考えずに「私はオリーブ山に住んでいます」と言ってしまったことがあった。その時は何も言われなかったが、授業の後で、そばに座っていた年配のアメリカ人女性に、「あなたオリーブ山に住んでるの??怖くない??あそこ、よく爆発音とかが聞こえてくるらしいけど、大丈夫なの??」と不安げな顔で質問された。他の生徒たちも同感という感じで私を見ていた。オリーブ山の界隈は、エルサレム旧市街に隣接する東エルサレムの地域で、主にパレスチナ人のムスリムが住んでいるのだが、ユダヤ系住民にとっては恐ろしいところらしい。私からしたら、武器を携帯しているユダヤ過激派の入植者や、パレスチナ人のデモを時には実弾を使って弾圧するイスラエル警察などの方がよっぽど怖いと思うのだが。

 

と思っていたら、ある日オリーブ山の中腹辺りの地区で、パレスチナ人の二つの集団が小競り合いを起こして、怪我人が出て警察が呼ばれる騒ぎがあった。トルコの田舎の方やヨルダンでも、一族総出の喧嘩などは時々あるが、その類らしかった。そういうことするから、ユダヤ系住民に「怖い」とか言われるんだぞ、君たち…

 

クラスに1人、車椅子を使用して、行き帰りは息子さんに送り迎えしてもらっている年配の女性がいた。彼女もアメリカからの移民だった。両足に麻痺と変形があったようで、歩くのは不自由だったが、いつも笑顔の明るい人で、外国人の私にも積極的に話しかけ、ハヌカの時は自宅での夕食に招いてくれた。おそらく外国人の私にユダヤ教の行事を見せたかったんだと思う。

 

ハヌカというのは、紀元前2世紀頃にユダヤ人がエルサレム神殿を奪還したことを祝う、かなり不穏な行事だということを最近知ったが、当時私はそういうことを全然知らず、「なんか知らんけど8日間、毎日ロウソクを1本ずつ増やして灯し、イチゴジャムやカスタードクリームなどが入った揚げパン(スフガニヤ)を食べるユダヤ教のイベント」程度の認識しかなかった。ウルパンでもスフガニヤが振舞われたし、旧市街のユダヤ人地区を散策したら、街角のあちこちにロウソクが灯っていた。ハヌカ用のロウソク立てを「ハヌキヤ」というらしい。(8本+点灯用1本の計9本を立てる部分があって、最終日に全て灯る)

 

 

旧市街のユダヤ人地区で見たハヌキヤ

 

 

ハヌカの何日か目に、西エルサレムのその車椅子の女性のマンションにお邪魔した。そこに住んでいるのは彼女と、30~40代くらいの息子さん夫婦と、小学生くらい女の子2人、つまり彼女の孫娘たちだ。息子さんの奥さんは医者として忙しく働き、息子さんは現在主夫として家事や娘や母親の送り迎えなどをしつつ、家で何か勉強しているとのことだった。孫娘たちは活発に動き回り、親である息子さん夫婦は彼女たちに手を焼きつつも、簡素な食事を用意し、私をもてなしてくれた。小さな子供がいる親はどこの国でも大変そうである。彼らは食器やコップは紙製のものを使って、使い捨てにしていた。手間を省くため、色々工夫しているようだった

 

息子さんは宗教熱心な人らしく、食事の前に長いお祈りを捧げていた。お祈りが長かったのは、その日の食卓にパンがあったからで、米が主食の日はもう少し短いとのことだった。パンはユダヤ教にとって重要な食べ物だからだ。

 

食事中、息子さん夫婦が私のこれまでの旅の話を聞きたがった時、隣国シリアに滞在していたことをうっかり話してしまったら、2人とも目を輝かせて、「シリア?いいなあ、綺麗なところらしいですね!私たちも行ってみたいんですよ」などと言い出したので、仰天した。シリアといえばイランやレバノン(のヒズボラ)と並んでイスラエルの天敵で、イスラエル国家の存在を認めておらず、当然国交もない。だから、シリアと口にしたらきっと空気が凍り付くと思ったのだが、この夫婦にはあまりそういう先入観はないようだった。これで私は彼らに一気に好感を持ち、その夜は楽しいひと時を過ごすことが出来た。

 

ウルパンのコースが終わってからも、その車椅子の女性とはフェイスブックで繋がっていたのだが、彼女の投稿内容から、息子夫婦と違って彼女はかなりアグレッシブなシオニストであることが判明したので、自然と疎遠になった。今のガザでのイスラエル軍のパレスチナ人虐殺・民族粛清も積極的に支持しているに違いない。ウルパンのクラスメートだった他のユダヤ移民たちも、多かれ少なかれ支持しているのではないかと思う。あのインド人の女の子や、車椅子の女性の息子さん夫婦は停戦を支持していてほしいと思うが、実際のところはどうなのかわからないし、知る由もない。

 

 

これも旧市街ユダヤ人地区のハヌキヤ

 

 

結局私は、1か月ウルパンに通ってもヘブライ文字を全部覚えられず、習った簡単な挨拶のフレーズなども、ほぼ忘れてしまった。だって覚える気あんまりなかったんだもん…あ、でも、「YES」が「ケーン」だということだけは覚えている。初めて聞いた時は「ケーンて、キツネか??」と思ったものだった。キツネの鳴き声って、「ケーン」ですよね?

 

 

キツネと言えば、星の王子様~(私の一番好きな一節)

 

 

 

 

 

 

関係ないが、株式会社ナガセが運営する「東進ハイスクール」「東進衛星予備校」のロゴを見るたびに、ハヌキヤを連想するのは私だけだろうか。

 

無関係なのかもしれないが、気になる…

 

 

 

(続く)

コメント (1)
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