2007-12-05に載せた記事ですが、
富士号の奥山さんが亡くなったと知り、再掲載致します。
残念なが持っていないのですが、とても貴重そうなので載せます。
以下は、日産・DATSUN の戦士達からの引用です。
http://u14sss22ltd.fc2web.com/combat/combatmain.html
まだ国産車のスピードの壁が「100km/h」だった頃、日産は自社の車が一体、どの位のレヴェルなのか?判りかねていた。
一番そのレヴェルを知る方法として彼らは、大胆にもいきなり国際的なラリーへの参加を考えた。
「どうせ出るなら一番過酷なモノ」・・・と選んだのが、「オーストラリア一周ラリー」であった。
このラリーはオーストラリア大陸を一周16,000kmを19日掛けて走破するというラリーであった。
そのラリーには、サイドヴァルヴからOHVに変わった当時の最新型のダットサン210と、四人の若武者で出場する事になった。
それを実現する為に社内をまとめたのが、当時宣伝課長であったMr.Kこと片山 豊であり、若武者の一人が後のNISMO社長になった難波靖治だったのだ。
難波が乗った「富士号」は総合24位クラス優勝した。
鯉のぼりを掲げてのFINISHの写真は、つとに有名。
富士川での水中走行訓練。まだ社内には、こういったテストコースが無かった・・・
ラリーの準備は、ほぼ半年前から始められた。まずは、片山が前年度、出場したトヨタに趣き、ラリーの様子やオーストラリアの事情を調べた。
次ぎにクルマであるが、当時はまだチューニングという概念が無く、部品を強化するという手法が取られた。
実際には、出場車用のダットサンの部品は工場で一番デキの良いモノが集められ、さらに熱処理を一段と加えて通常より強度を増す・・・といった事がなされた。
ドライヴァーの訓練は、吉原工場から太平洋側を周り下関へ出て、そこから日本海周りで吉原工場に戻り、さらにそこから太平洋側を回って、青森へ行き、日本海周りで吉原工場へ戻るといったコースを設定して、ノン・ストップで二周するという、約8,000kmの訓練を数度行い、さらにスピードに慣れる為に北海道の原野で訓練をした。
いよいよ出発の時、難波達は上司から意外な言葉を聞くことになった。
「勝とうと思うな。勝つよりも、壊れたら修理して必ず完走する事。そして何処がどう壊れたか、他のクルマは、どうだったか観察し、できればデータと取るんだ!」
それは、難波達にとって屈辱的な言葉であった。競技に出るのに何故、勝利に拘ってはダメなのか?俺達は会社に期待されていないのか・・・。
そんな難波達であったが、オーストラリアに旅立つ日、羽田空港では、オーナーズクラブ他、大勢の人達が激励会を催してくれ、難波達を多いに元気付けさせてくれたのだった。
オーストラリアに着くなり、彼らにさらに苦しく辛い現実が待っていた。
終戦から13年が経っており、過去の戦争の傷跡はたいしたことは無いだろう・・と予想していたのだが、実際にはそうでなかったのだ。
領事館からは「多少、不愉快な事もあるでしょうが・・」と言われたのだが、食事中にクルマの日の丸が削り取られたり何より、日本がまだ敗戦の痛手から立ち直っていない・
と思われており、何処へ行っても、同じ事を質問された。
「これは全部、日本製のクルマか?」難波達は「もちろん全部、日本製で出来ています!」と答えるのだが、それでも「バッテリーは?ガラスは?タイヤはどこから輸入したのか?」と矢継ぎ早に質問してくるのだ。
それも無理からぬ事であったのだ、「ウソだ日本がクルマを作れるハズは無い!」容赦ない言葉が難波達を襲う。なぜなら当時オーストラリアでは、GMを国産化してホールデンを作っていたのだしかし、難波達を悩ませたのは、そんなナショナリズムだけではなかった。
まずは、こんな小さなクルマに、三人も乗って参加する事に好奇の目が集まった。しかし、サービス隊を持たない日産は、壊れたら自分達で直して走らなくてはいけなかったのだ。ドライヴァー二人は日本人、もう一人はナヴィゲーターとして現地から人を雇ったのだ。
今度は、そのナヴィゲーターから疑問を投げかけられてしまった。「ラリーは軽いクルマが勝つんだ!日産は勝つ気が無いのか?」
難波は言葉の意味が分からなかった。「どうしてだ?」と聞き返すと「日産は競技だけでなく工具も売ろうとしているのか?」「このクルマには、普通の倍の工具を積んでいるではないか?6丁で良いスパナを12丁、ボックスも24駒で良いのではないか?」
もっともである、残念だが当時の日産車は、エンジン周りは「インチ」それ以外は「メートル」のネジが使われていたので、必然的に工具が二倍分必要になってしまっていたのだ。
ラリー開始の前日、監督の片山はメンバーを集めてこう言った「我々は亀である。遅くとも確実に走れば、最後にはチャンスがある!だから無理はするな!」と。
ラリーは始まった。全体としてアヴェレージは早いが、豪雨と洪水で事故が多発したラリーとなってしまった。
ラリーが進むに連れて、道端にクルマの残骸が目立つ様になった。
現地のナヴィゲーターは言った「Mr ここで止まったら、ああなるんだと・・・」切ない言葉であった。
参加台数67台で、19日間の過酷なラリーを完走したのは、何と35台になっていた。
DATSUNは二台共完走し、難波が乗った富士号が、
総合24位でクラス優勝。もう一台が殆ど最下位でスタックした富士号を他のクルマのクルーが助ける。のんびりしている。あったが、クラスでは4位と、トヨタがクラウンで二年連続で出場していながら、完走さえできなかったのに、初出場で結果が残せたのは立派と行って良いだろう。
このラリーで、日産はより多くの事を学んだ。高速走行での振動問題。電気系の水対策・・・ラリーは正に走る実験室だと。
ダットサン210型
全長3860mm 全幅1466mm 全高1535mm
ホイルベース2220mm
車両総重量 925kg
エンジン.. 水冷直列4気筒OHV
排気量.. 988cc
最高出力. 34ps/4400rpm
最高速度. 95km/h
アプリケーションテクノロジー株式会社
富士号の奥山さんが亡くなったと知り、再掲載致します。
残念なが持っていないのですが、とても貴重そうなので載せます。
以下は、日産・DATSUN の戦士達からの引用です。
http://u14sss22ltd.fc2web.com/combat/combatmain.html
まだ国産車のスピードの壁が「100km/h」だった頃、日産は自社の車が一体、どの位のレヴェルなのか?判りかねていた。
一番そのレヴェルを知る方法として彼らは、大胆にもいきなり国際的なラリーへの参加を考えた。
「どうせ出るなら一番過酷なモノ」・・・と選んだのが、「オーストラリア一周ラリー」であった。
このラリーはオーストラリア大陸を一周16,000kmを19日掛けて走破するというラリーであった。
そのラリーには、サイドヴァルヴからOHVに変わった当時の最新型のダットサン210と、四人の若武者で出場する事になった。
それを実現する為に社内をまとめたのが、当時宣伝課長であったMr.Kこと片山 豊であり、若武者の一人が後のNISMO社長になった難波靖治だったのだ。
難波が乗った「富士号」は総合24位クラス優勝した。
鯉のぼりを掲げてのFINISHの写真は、つとに有名。
富士川での水中走行訓練。まだ社内には、こういったテストコースが無かった・・・
ラリーの準備は、ほぼ半年前から始められた。まずは、片山が前年度、出場したトヨタに趣き、ラリーの様子やオーストラリアの事情を調べた。
次ぎにクルマであるが、当時はまだチューニングという概念が無く、部品を強化するという手法が取られた。
実際には、出場車用のダットサンの部品は工場で一番デキの良いモノが集められ、さらに熱処理を一段と加えて通常より強度を増す・・・といった事がなされた。
ドライヴァーの訓練は、吉原工場から太平洋側を周り下関へ出て、そこから日本海周りで吉原工場に戻り、さらにそこから太平洋側を回って、青森へ行き、日本海周りで吉原工場へ戻るといったコースを設定して、ノン・ストップで二周するという、約8,000kmの訓練を数度行い、さらにスピードに慣れる為に北海道の原野で訓練をした。
いよいよ出発の時、難波達は上司から意外な言葉を聞くことになった。
「勝とうと思うな。勝つよりも、壊れたら修理して必ず完走する事。そして何処がどう壊れたか、他のクルマは、どうだったか観察し、できればデータと取るんだ!」
それは、難波達にとって屈辱的な言葉であった。競技に出るのに何故、勝利に拘ってはダメなのか?俺達は会社に期待されていないのか・・・。
そんな難波達であったが、オーストラリアに旅立つ日、羽田空港では、オーナーズクラブ他、大勢の人達が激励会を催してくれ、難波達を多いに元気付けさせてくれたのだった。
オーストラリアに着くなり、彼らにさらに苦しく辛い現実が待っていた。
終戦から13年が経っており、過去の戦争の傷跡はたいしたことは無いだろう・・と予想していたのだが、実際にはそうでなかったのだ。
領事館からは「多少、不愉快な事もあるでしょうが・・」と言われたのだが、食事中にクルマの日の丸が削り取られたり何より、日本がまだ敗戦の痛手から立ち直っていない・
と思われており、何処へ行っても、同じ事を質問された。
「これは全部、日本製のクルマか?」難波達は「もちろん全部、日本製で出来ています!」と答えるのだが、それでも「バッテリーは?ガラスは?タイヤはどこから輸入したのか?」と矢継ぎ早に質問してくるのだ。
それも無理からぬ事であったのだ、「ウソだ日本がクルマを作れるハズは無い!」容赦ない言葉が難波達を襲う。なぜなら当時オーストラリアでは、GMを国産化してホールデンを作っていたのだしかし、難波達を悩ませたのは、そんなナショナリズムだけではなかった。
まずは、こんな小さなクルマに、三人も乗って参加する事に好奇の目が集まった。しかし、サービス隊を持たない日産は、壊れたら自分達で直して走らなくてはいけなかったのだ。ドライヴァー二人は日本人、もう一人はナヴィゲーターとして現地から人を雇ったのだ。
今度は、そのナヴィゲーターから疑問を投げかけられてしまった。「ラリーは軽いクルマが勝つんだ!日産は勝つ気が無いのか?」
難波は言葉の意味が分からなかった。「どうしてだ?」と聞き返すと「日産は競技だけでなく工具も売ろうとしているのか?」「このクルマには、普通の倍の工具を積んでいるではないか?6丁で良いスパナを12丁、ボックスも24駒で良いのではないか?」
もっともである、残念だが当時の日産車は、エンジン周りは「インチ」それ以外は「メートル」のネジが使われていたので、必然的に工具が二倍分必要になってしまっていたのだ。
ラリー開始の前日、監督の片山はメンバーを集めてこう言った「我々は亀である。遅くとも確実に走れば、最後にはチャンスがある!だから無理はするな!」と。
ラリーは始まった。全体としてアヴェレージは早いが、豪雨と洪水で事故が多発したラリーとなってしまった。
ラリーが進むに連れて、道端にクルマの残骸が目立つ様になった。
現地のナヴィゲーターは言った「Mr ここで止まったら、ああなるんだと・・・」切ない言葉であった。
参加台数67台で、19日間の過酷なラリーを完走したのは、何と35台になっていた。
DATSUNは二台共完走し、難波が乗った富士号が、
総合24位でクラス優勝。もう一台が殆ど最下位でスタックした富士号を他のクルマのクルーが助ける。のんびりしている。あったが、クラスでは4位と、トヨタがクラウンで二年連続で出場していながら、完走さえできなかったのに、初出場で結果が残せたのは立派と行って良いだろう。
このラリーで、日産はより多くの事を学んだ。高速走行での振動問題。電気系の水対策・・・ラリーは正に走る実験室だと。
ダットサン210型
全長3860mm 全幅1466mm 全高1535mm
ホイルベース2220mm
車両総重量 925kg
エンジン.. 水冷直列4気筒OHV
排気量.. 988cc
最高出力. 34ps/4400rpm
最高速度. 95km/h
アプリケーションテクノロジー株式会社