まつや清の日記 マツキヨ通信

静岡市議会議員 まつや清の日常を毎日更新!

映画「チェルノブイリ・ハート」を観る

2011年11月06日 | ニュース・関心事
プラムフィールド・静岡放射能汚染測定室主催、虹と緑しずおかフォーラムも共催団体となっている標記の映画。今日の午後の部を鑑賞しました。確かに事前の評判どおりに衝撃的な映像が次から次に続きました。

「1986年4月26日 チェルノブイリの事故発生。それは当時生まれた子供たちにたくさんの災いを及ぼした。放射線の影響で心臓に重度の障害をもった子供たち。それを「チェルノブイリ・ハート」と呼ぶ」と映画紹介。

写真は、チェルノブイリ事故の後に甲状腺がんで手術をした子供たちの年代を横軸に、子供たちの年齢を縦軸に示したもので、甲状腺がんがチェルノブイリ事故によるヨウ素などの放射線によるものであることを示します。

映画の後に京大工学部の工学研究科原子核工学の河野益近さんのチェルノブイリ事故後に現地調査を軸にした講演。映画の後だけに語る言葉ひとつひとつに科学的迫力が伝わってきました。いくつも質問が出ました。

私は2点。1点は、下水汚泥に今もヨウ素が10ベクレル程度検出されるがどう考えたらいいか。答えは、3月11日後の爆発によるものとして半減期8日を考慮すればセシウムの数値がもっと大きい。現在も再臨界によるとすると。

同様にセシウム137がもっと多く検出されなければならないがそうではない。すると福島原発以外の例えば病院など日常的に放射性物質を利用している機関・団体の可能性が出てくる。全国的に問題となっている、と。

2点目は、福島県以外の岩手県、宮城県の放射性瓦礫の受け入れについてはどう考えるべきか。空間線量8000ベクレルのものは法律として厳重な管理の下で移動することが義務付けられている。まず指針でなく法律を作ること。

罰則を作ること。セシウムを含んだ瓦礫を焼却した場合、気化する場合と灰に残る場合と条件によって異なる。バグフィルターで吸収するというなら実験結果をきちんと公開をすべき。現状では認められない、と。




書評『文明の災禍」(内山節 新潮社)を読む

2011年11月06日 | ニュース・関心事
田中優子さんの書評は面白く、書評される本も面白く何度かブログで「読んでみたい」本としてあげていますが、実際に読んだ本の冊数はやや自信のないところです?が、今回『文明の災禍』も読んで見たいと思った本です。

エッセンスは「著者は言う「(日本の伝統的社会観では)社会とは自然と人間の社会であり、生者と死者の社会であった。社会の構成メンバーの中に、自然と死者が含まれていた」と。自然や死者とともに『これから』をつくることへの確認が必要なのであり、それこそが復興への道なのだ、と」(田中評)。

この死者と共にある社会は、先日紹介した福井県名田庄診療所の中村伸一医師(ブログhttp://natasho.blog105.fc2.com/)の講演での私の感想とつながります。「生まれてくる命と看取られる命はもたらす感動の力は同質」。

この中村医師について友人と語らったら「自分も思う。死と言うと宗教の世界として存在してきた。特定の宗教には組しないが三大宗教が存立している世界について考える。生死を存在論として問いかけているから」の返事。

人間が自分自身の存在を問いかける、これは生死に関わることであり世代を越えるテーマです。同時に、このテーマがつながっていることを私自身が認識できるのもこの社会の関係の中においてです。

友人と続けたた議論は、その意味で「人間がいかに生きていくか」というテーマは、結局「人と人との関係」のなかで論じられるものではないかということでした。ここまでくると0000主義になってしまいそうですが・・。

毎日新聞の書評、今日は更に「仏教 本当の教え」(植木雅俊 中公新書)「神と国家の政治哲学」(マーク・リラ NTT出版)が続いており、この書評もある共通テーマについて編集されているのか、と思ってしまいました。