Kamu Number Theoryと相似象

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(その3)- 7 ペンローズの非計算物理とKamu Number Theory

2020-06-23 14:57:41 | 量子コンピューター
量子コンピューターという思想(その3)

万物は回転する─ペンローズの宇宙大航海時代の羅針盤─

(その3)- 7 ペンローズの非計算物理と
          Kamu Number Theory


ペンローズの目指すところに非計算的世界もしくは計算不可能領域と見なされている精神世界が広がっている。

コンピューターにとって基本的に出来ることは計算そして唯ひたすらそれだけ。そして、コンピューターには出来ないであろう非計算的世界としてペンローズは次のようなものを挙げている。


◇計算不可能領域・ペンローズ


1,ヒラメキがあれば問題を解ける、このようなときの『直感・直観』をどうする
 2,コンピューターと人間・生命の得意分野の違いと『棲み分け』の問題
 3,総合的に理解し繰り返し判断し、決断や作戦計画を『長期的に』立てること
 4,理解と判断を長い時間かけて進める場合 → 『遺伝と進化』の世界
 5,時間の節約と「計算不可能性の判断」若しくは『有効な計算可能性の発見』
 6,知覚と感受性の問題 → 内部環境と外部環境、自己と他者、
 7,美的感覚の問題 → 知能の一部として美という判断
 8,真・善・道徳の非計算的性質の判断 → 愛という超難しい問題

これらは、いずれも人工知能の領域で活発に研究されている現代の熱い課題である。この領域を知能として捉えるか、意識として捉えるか。

「意識と知能に於いては、真に進行していることを正しく理解するには物質、空間、時間、そしてそれらを支配している法則の本性そのものをもっと深く知らなければならない。」と、物性として意識や思考をみてゆくことを提唱する。

つづいて、「精神がいかなるものかを知るには物理がいかなるものかをもっと知る必要がある、なかでも最大のものは,量子力学的収縮であるデコヒーレンスの問題でしょう」と表明している。精神を知るにはデコヒーレンス収縮を解明しなければならないという。

非計算的世界と思われている意識や知能の物理的理解には、1つは重力理論、もう一つは量子論の困難を突き進めばデコヒーレンス収縮の謎を解明する糸口が見えるのではないか?という、ペンローズの志向する世界がここにある。



◇アブダクションは直感的総合推論論理形式

計算とはアルゴリズムの具体化であり、演繹の実行である、ここから演繹を論理的に拡張してアブダクションへと繋げてゆくルートが開かれていることをこれから示してゆく。このアブダクションでは演繹と直感・直観が主役となる、つまりアブダクションとは直感・直観がいかに計算を助けてゆくかという仕組みのことである。

アブダクションを「推感編集」であると、松岡正剛は熱く語っている。また、米盛裕二は「アブダクション 仮説と発見の論理」と表現している。つまりパースの復活は近頃の顕著な傾向だと言える。ここにも直観・直感が組み込まれていることに注目して欲しい。

パース自身は「直観」という概念を定義なしに否定している、ところが彼の否定は直観の定義だけの問題であることは明らかだと思う。つまり直観と直感の違いも明らかではないのだ。じつは私が直感あるいは直観と呼んでいるものはアブダクションの中に実に巧みに組み込まれているのだ。

なお、直観と直感という概念の定義の問題なのだが、準粒子の知性という立場からはどちらもそれほど違いは見いだせない、ところが人間が社会生活を営むというレベルではこの2つは全く別なものとして定義される必要がある。このことを突っ込んで考えるには、どうしても「アブダクション・直観」と「アフォーダンス・直感」を対比的に調べてみる必要が生じる。そこで、これを独立した項目として「量子コンピューターという思想(その5)」で取り上げることにした。

このような次第で、直観・直感のいずれも、ここではかなり恣意的に使い分けているのは準粒子の知性という立場から見ているという理由による。

パースの「連続主義」(synechism)から見ると、計算可能な演繹世界と計算困難若しくは非計算世界とはアブダクションのなかでは連続しているという。これこそ論理的直観・知覚直感の世界に他ならないではないか。簡単にいえば計算世界と非計算世界との間に断裂はないというのがパースの連続主義である。

さらに、直観・直感という概念が優れているのは、意識とか心、或いは知能という概念より論理体系に組み込む仕方が自然なのである。これを示したのがパースでありその論理的な形式がアブダクションなのだ。

以上のような理由で、心とか意識或いは精神と呼んでいるものを直感・直観に的を絞って解明が可能であるとを指摘したのはパースが最初だった。その後、1970年頃にいたって楢崎皐月がこのことを相似象の立場から指摘した。

なお、パースが活躍した時代は19世紀末から20世紀初頭である。しかも、D ドイチのような万物の理論を志向していたのだから、その先見性は驚くべきものだ。  ちなみに、パースの生没は 1839 - 1914 なのでどちらかと言えば19世紀の人物と言うことになる。

認識判断という精神的行為を見ると、論理性を持つものとして演繹論理と帰納論理を支えて居るものが「直感」であることはパースの研究などからこうして明らかだと思う。パースが嫌ったのは論理体系に組み込めないような、手垢のついた神秘主義的な直観のイメージのことだったと私は思う。

パースの言うアブダクションという仮説形成の論理操作にはこうして直観・直感が用いられていると考える事が出来る。この場合、経験と知識と前提となるものの理解が無意識に落とし込められるほど強い場合にかぎり  ”意識せずとも → ヒラメキ”  正しい認識に至る事が出来るのがアブダクションなのだ。

パースは、アブダクションには推論の進行に従って、3段階の論理進行があり「〈逆演繹法+直観〉 → 一次アブダクション → 再帰関数 」から始まって、「〈直感+アルゴリズム〉 → 三次アブダクション 」へと進行することを示している。

〈直感+演繹〉という組み合わせと〈アブダクションの層〉は緊密な関係にある、従ってパースは直感をアブダクションに巧みに組み込んで使って居る。つまり、アブダクションとは直感的総合推論論理であるとパースが考えた道筋がここにある。



◇現代物理学の脱皮

「主観的経験 → 意識 → 直感」が生起する物理的な場所を、科学的説明の及ぶかぎり追求するには科学的理解である物理学を → 量子重力理論へ拡張 する必要がある、とペンローズは述べているのだ。彼によれば、意識は量子物理的であり、そこで起こる計算・決断には重力によるデコヒーレンス収縮干渉があると睨んでいるのだ。

Kamu Number Theoryがそうであるように、直感の物理学を志向したペンローズの表明であると私はみる。楢崎皐月はこれを現代物理学の「脱皮」と表現している。

脱皮とは凄い表現ではないかと私は思う。普通ならコペルニクス的転回とかパラダイムシフト或いは革命的な変革などと表現されるのが常識的なのだが。生命物理学、若しくは直観物理学へと転化する現代物理学の姿が ”脱皮” なのだ。

ペンローズは意識とか心という概念を使って、生命を物理学の中に取り入れようという量子重力理論に基づく生命物理学というパラダイムシフを考えている。

生命のロバストネス(生命の強靱性)、或いは ”素粒子が意識を持つ” と言うことを言い換えた ”準粒子の知性” のなか で、「生存志向性」という避ける事の出来ない生命の存在証明、その生き殘るための使命が浮かび上がった。((その1)-6 準粒子の知性)

準粒子の知性の問題は、次回の ”量子コンピューターという思想(その4)万物は情報である─ドイチの万物の量子コンピューター” で突っ込んで考えて見たいと思う。

生命にとって、行き詰まりを解決をしなければならない状況をどのように認識し、突破するための判断に必要な計算を行うかという、生存をかけた計算問題が存在する。

危機に遭って生命はこの問題を計算できなければ、打開に必要な次の行動を決定することは出来ない、と考えなければならない。では、一体何物が計算してくれるのであろうか。はたして細胞内の微小管非チューリングマシンなのか、それとも正体不明の超越的コンピューターなのだろうか。

さて、ペンローズが単にコンピューターと呼ぶとき、それは当然のことだが「古典的コンピューター → チューリングマシン」として理解されている。まさか、正反共役関係にある2つのタイプのコンピューターがあるとは考えなかったようなのだ。
”量子コンピューターという思想(その1)- 5,正反共役関係にある2つのタイプのチューリングマシン” を参照)

このことは、彼が徹底的にゲーデルの不完全性定理を検証し、チューリングマシンの限界を追求している姿に反映されている。今回(その4)- 1,チューリングマシンと数学モデル、では不完全性定理と数学モデルの問題を詳しく書く予定になっています。

さらに、これは「計算可能性の限界という視点 → ゲーデルの不完全性定理」からすると、量子コンピューターをもってしても、人間の意識的理解に必要とされる演算を遂行することは出来ない、とペンローズは自らのチューリングマシン観を述べている。

すでに (その3)-6.ペンローズの微小管非チューリングマシンで述べたが、以上の8項目はチューリングマシンにとって不可能なことと言う意味があると共に、もう一つ超越的非チューリングマシンならこの不可能性を超えられるのではという、ペンローズの希望が込められている。

◇細胞の中の超越的チューリングマシン

ペンローズの希望とは「計算不可能な図式を求めることは、全く新しいデコヒーレンス収縮理論を『細胞の中の超越的チューリングマシン』に求めなければならない」と表明している。

まさにこれだ!細胞の中の超越的チューリングマシン(チューリングマシンではないかも知れないもの?)を利用しない手はない、というアイデアだ。一方に、コヒーレンスに計算させる、つまり原子という自然そのものを利用出来ると気づいたファインマン。

ファインマンの量子シュミレーターという初期の発想と、ペンローズの超越的チューリングマシンの夢との間には相似性が認められることがこの辺の事情から理解出来ると思う。自然の中の一部である量子という超越的な非チューリングマシンをシュミレーターとして利用するという発想だ。

このことから、単なる量子コンピューターにペンローズは希望を抱くことが出来なかったのである。実際、D ドイチは1985年の原論文で量子チューリングマシンと言う名称を量子コンピューターに与えている。

「人工知能を備えたロボットの技術をもってするのでは、生物と同じレベルの生命ロボット=生命知能を人工的に建造する方法はもたらされないだろう」 というのが彼の「心の影・第一部(ゲーデルの不完全性定理追求)1994」の結論だった

「生命的装置」は私たち自身の「意識」を喚起するのと同じ種類の『生命物理的活動 → ツイスター複素数物理 → 量子重力理論』を取り入れたものでなければならない。

そうすれば、とペンローズは「心の影・第二部」で、「真の知能=生命的叡知」を備えた装置の建造は不可能ではない、ただし、「生命的装置」を計算的に制御されている装置に限定しないという條件をつけなければならない。

ここでは「計算的に制御されている装置に限定しないマシン → 非チューリングマシン」という條件が強調されている。

彼の夢の量子非チューリングマシンの存在を前提とした主張であり、「非計算型物理」へ「科学的理解=物理学」を「拡張」する方向を示したものと受け止めることは出来る。

なお紛らわしいので、「非」と「非決定性」の違い、非チューリングマシンは非決定性チューリングマシンを意味しているのではない、これはあくまでも超越的チューリングマシン、つまりチューリングマシン原理を超えた別原理による計算機を意味している。ただし、非決定性チューリングマシンは量子コンピューターの一部であるという考え方もある。というわけでますます紛らわしい!

ペンローズの言う「非計算型物理」とは一体なにものなのだろうか?、、もしかして、ペンローズのお家芸である図形的に構成された幾何学的ツイスター複素数物理のことなのだろうか?

Kamu Number Theoryからの目線で整理してみたいのだが、ペンローズが言いたい非計算型生命物理とは「直観型物理」と言うことなのかも知れない。であれば、Kamu Number Theoryの志向する世界とペンローズの非計算物理との間には共通項が見いだせるのである。



◇直感・直観は非計算的か?

すでに、宇宙羅針盤のところで直感型数学者ラマヌジャンを見た、彼は数学的証明を超越していた、つまり証明抜きで定式を提示したのである。したがって、当然のことながらアカデミーからはなかなか受け入れてもらえなかった。にもかかわらず、没後100年いまやラマヌジャンのテータ関数、ゼータ関数の業績は燦然と輝きを増している。

ラマヌジャンは直感的に公式が観える、天から降ってくるなどと証言していた。さて、、ラマヌジャンのテータ関数は非計算的な直感のことだったと言うべきだろうか?、また、直感は非計算的なのであろうか?

それとも、直感は計算的世界のものなのであるかも知れないではないのか!、、と、見直す必要が出てくる。ここでも、パースが提起した連続主義は「直感の物理」を描き出すことが出来る可能性を示している。

では、直感を、そして生命を物理学として取り扱うことが出来るのだろうか?、、こうして思考の流れはペンローズの歩んだゾウリムシの直感世界へ向かうことになる。

上に記した8項目の全てをゾウリムシや粘菌に当てはめてみなければならないだろう。これを想像力を超えた問題と捉えないのがペンローズが切り開いた世界であり、その後の現況である。

すでに解ってきたことは、素粒子にも意識があると言う仮説のレベルで言えば、ゾウリムシや粘菌に上記「7,美的感覚の問題」があっても不思議ではない。((その3)- 6、 ペンローズの微小管非チューリングマシン、「素粒子各々に付随するデコヒーレンスには意識の基本構成単位としての属性が示されている」など参照)

美的感覚を人間中心に考えていては、もう古い、上記 8 項目全てをウイルス、ゾウリムシ、粘菌の世界で捉え直す必要が出てきたのだ。ここで述べている物理学のパラダイムシフトの具体的な意味がこれなのだ。だからこそ「物理学の脱皮」という表現が見事なのだ。

例えば、光子の場合をとっても、何10兆回という壮大な規模の物理重合を行い、さらにその物性遷移過程を何回も繰り返した結果、生成されたものが1つの前駆光子(ただし光量子になるには、前駆状態から更に2回の物性遷移過程を必要とする)なのだ。

光子からさらにウイルスに至るまでに、どれほどの回数の重合が行われ遷移が重ねられたか。その結果は脳の複雑さと同じレベルの構造が、プランクの長さ以下の超微小な世界で形成されていても不思議ではないと思う。

こうした直観に対する見解を、素粒子からゾウリムシにいたるまでKamu Number TheoryではKamu次元の遷移図式として連続的に見ることが出来る。この遷移図式にあってはパースの連続主義はスキームそのものになったと言える。

ペンローズは直観の物理学を成立させる方向で進んでいると思う。そこでペンローズの前に立ち塞がったのがチューリングの計算原理だったのである。しかも、ペンローズはチューリング原理をその重要性に鑑み命名した本人だった。



         † † † † † † †

次回は量子コンピューターという思想(その3)- 8、準直感と準粒子型量子コンピューター になります 
(その3)万物は回転する、ペンローズ編は次回で完結いたします



(その3)万物は回転する─ ペンローズの宇宙大航海時代の羅針盤 ─

3-1、万物は回転する・互換重合時空ツイスター
3-2、万物のエントロピー、故に始元が存在する
3-3、ペンローズの迷いとマイナスエントロピー
3-4、生命のロバストネスと情報熱力学
3-5、宇宙羅針盤・テータ関数・共形幾何・保型形式
3-6、ペンローズの微小管非チューリングマシン
3-7、ペンローズの非計算物理とKamu Number Theory
3-8、準直感と準粒子型量子コンピューター

Kamu Number Theory
https://kamu-number.com/

copyrght © 2020 Masaki Yoshino



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