Kamu Number Theoryと相似象

英文サイト. Kamu Number Theory では言及しない相似象のことなどはこちらで。

4-1-2(後編)数学モデルの理不尽なまでの有効性

2020-08-10 09:50:11 | Post:投稿闌
前編から続く

《後編》


◇演繹的完全性と多元的演繹モデルの不完全性

論理学者でもあったパースは帰納法という用語をあえて避けている。つまり、帰納法は理不尽な自然数モデルを使った論理形式と言うことに気づいたからだと思われる。

コンピューターというのは典型的な演繹計算モデルと言える。方程式は演繹モデルを数式として集約したものだし、アルゴリズムもそうだ、つまり完全性とは演繹体系の完全性を指している。また、不完全性も同じく演繹的数学モデルの限界を示している。

ここで言う完全性を計算可能性と捉えるなら「計算可能な関数とは帰納的関数である」 と主張したチャーチ・チューリングの提唱は自然数にとらわれているのかも知れない。やはり「計算可能な関数とは演繹的関数である」となるのだ。これ以上の議論はアブダクションのところで見たとおりである。

(アブダクションについてはこちらを参照してください)
  3-7、ペンローズの非計算物理とKamu Number Theory
  3-8、準直感と準粒子型量子コンピューター

従ってユークリッド空間モデルとリーマン空間モデルも演繹的な構造を持つけれど、一般的には帰納的に生成された数学モデルと言うことになっている。しかし、ポアンカレのテーゼにあるように、それは直感的なアブダクションから演繹的に形成されたものであり、「演繹的完全性」と「数学モデルの不完全性」を合わせ持つのだ。

(ポアンカレのテーゼとは、「自然数論のペアノの公理を認めるなら数学的帰納法は演繹でなければならない」、更に「数学が演繹でないなら、なぜ正しい結果が 得られるのか?数学が演繹なら、なぜ新しい 一般化された命題が得られるのか?」これらに対する答えはパースが出している。)

私が異様だというのは、自然数が全く自然ではないと言うところなのだ。恐らく算術的数という意味では自然数=算術的数学モデルという関係の中にこそその本性があるのであろう。従って、算術が自然であるはずはない、人工若しくは技術的と言うべき算術的数モデルが自然数である。

◇計算や証明は物理プロセス(D ドイチ)

私がこだわっているのは、算術は数を利用している『技術』であって、数を生み出してはいないことがはっきりとしてきたからだ。更に、帰納法は自然数を基礎に新たな命題を生み出す生成原理であるとこれまで見なされてきたことへの反論をしなければならないからなのだ。

一方で、帰納法は空間を精密化する『技術』としてなら十分に実用的だといえる。数学的モデルである位相空間を精密化すると言う目的になら機能している。これもまた、ソロバンの算術的完全性という実用性と同じことになる。このことは帰納法の技術的な重要性が何処にあるかを示している。

例えば、帰納的順序集合というものがあるそうだ。位相空間の構成技術としてはうまく行く。そうであっても、ポアンカレは数学的帰納法というのはおかしいと言っているのです。ポアンカレの言いたいことは、技法としてはいいけれど論理として見るのは違っているんじゃないかという意味だと思います。

ゲーデルの不完全性定理は「技術的な算術的数学モデル」を使って証明されたものなのです。ゲーデルは算術的技術を駆使して「演繹の完全性」を第1定理として示し、続いて「数学モデルの不完全性」を第2定理として示した、と私は見ています。(これは私の解釈ですから原論文の構成とは全く関係はありませんが)

このように解釈すれば、帰納法が上手く行く(技術的)場面がどのようなものであるか、と言うことをゲーデルは多元的世界における精密技術として明示していると思います。

既に述べたようにフーリエ級数を解析関数として使うときに現れた矛盾には暗黙の内に『無限』が繰り込まれている。つまり数学的帰納法というのは無限を上手に使いこなす技法なのだと言えるのです。

数学モデルには言語が含まれます、従って或る全ての言語が不完全であるというのは直感的に理解しやすいのです。自然数は完全であっても、そのモデルは不完全であるというのは、こうした日常経験の中でも受け入れ易いことだと思います。基礎論の専門家も述語論理として数学モデルを作るようになっています。

Kamu Number Theoryでは、物性遷移から生成された数という見方を徹底して示しているのです。つまり、数は人間によって物性を抽象的に捉えたものであり自然の中に、或いは先天的に数というものが既にそこに在るのではない。これを、D ドイチは明確に「計算や証明は物理プロセス」と主張している。

例えば、分配関数がある物性Aから他の物性Bへ遷移する物理プロセスを示したときに、A → B という順番を付けることが可能になる、順序の前後に人間の抽象力で「物性Nの名称 → 数」を付与すれば自然数は完結する。

ただし、これにはペンローズのところで記したように「物理物性的な始元」が設定される事が肝心なのだ! 一見して「始元ゼロ」と思わせるような単位元の定義におけるように、利便的で技術的なものとして始元を〈単位元0〉と決めつけてはならない。

さらに、恣意的な順序ではなく分配関数による「物理プロセス」という裏付けが欠けてはならないのだ。数は空想や想像からは生まれない、数は物理から、あるいは生活や実験のなかの直観から生まれるのだということの深い意味がここにある!

こうして生まれた数を生活の中で1つの『技術 → 演算 → 計算』として実用的に使うことは何ら問題は無いのだ。しっかりしておかなければならないことは、数学モデルを『物理モデル → 蹴飛ばす技術 → コンストラクター → 計算と行動』の技術として使って居るということだ。


 (その2)- 2.時空互換重合量子とペレルマンのエントロピー
 (その3)- 2 万物のエントロピー増大、故に万物には始元が存在する
 (その3)- 4,生命のロバストネスと情報熱力学


◇自然数の呪縛 ─ ゼノンのパラドックス ─

人類学者の山口昌哉が「数学は事(コト)=抽象的事象についての学問である」と言った。D ドイチはここでも明快に「ゼノンはこう思い込んだ、(事の)数学的無限が、(物の)物理的事象の無限を的確に捉えていると思いこんだ、ゼノンの誤りはただそれだけのことに起因する」。ゼノンのパラドックスとして有名なこの話のネタはやはり ” 自然数の呪縛 ” だったのだ。

順序数というように簡単に順序を抽象化することをしてはならない、順序には抽象化出来ない「(物の)物理プロセス」が内在している、従って物理プロセスを無視して順序を設定した(事の)数学的抽象モデルは不完全なのだ。

ここでD ドイチの議論は「(事の)数学的順序無限 → 帰納的に生成される順序無限 → 技術的順序と無限」として理解すると解りやすい。

自然数という概念がいろいろと問題を抱えている源泉は、どっちが先かという単純な問題にある。つまりD ドイチの指摘したとおり、物理的プロセスから数が生成されたのだ。だから自然の中に数があった、すでにソコに数はあった、ということではないのだ。

自然数の呪縛はピタゴラスやプラトンにも、と言うより西欧文化全般に及んで居るとことがこうした例から知ることが出来ると思います。

◇物理モデルが数学モデルを生成する、故にゲーデルの不完全性定理がある

このことが数学モデルとして生まれたと一般的に言われるチューリングマシンは、じつは物理的構造体である計算機の概念設計スキームとして生まれたのだ。チューリングが数学者だったために誤解を招いているのだろう。

そして、大事なことは数学モデルと言われるユークリッド空間、リーマン空間(ガウス空間)、ヒルベルト空間なども物理的物差しに基づいた物モデルから抽象されたものなのだ。けっして数学モデルが先にあったわけではない。

いま、リーマン空間にガウス空間と注釈を与えたのは、ガウスの実験物理学的行動を想起して頂ければ十分納得頂けることであろう。リーマンはガウスの後継者だったのだのだから尚更であろう。

ゲーデルの不完全性定理はあくまでも数学モデルについてだけ成り立つものだ。しがって、物理モデルによって刷新され、改訂されてしまうのだ。じつは、この刷新するものの影に生命のロバストネスがある事をペンローズは直感した。これこそ、行き詰まり打開の生命力というものだ。

Kamu Number Theoryでは、どのように数が生成されるかを見ておきたいと思う。まず、物性世界があり、そこから「数」が生まれるまでに実に長い遷移過程が、その間の物性的重合反応は数兆回から数十兆回を実に8回繰り返した後にはじめて数と呼べるものを見出すことが出来るのである。

しかも、この数というものはその段階では物性であって数と呼ぶには人間の抽象力を加えなければ「数」ではなかったのだ。従って、最初に生まれた数は当然のこと”ピタゴラス自然数ではない”のだ。少し丁寧にいえば、「数とは人工的に物性を抽象して作られた〈モノ=コト〉の名称」なのだ。

ここまで来れば、あとはどんな数が最初に現れたか?、、なのだ。もちろん 「自然数 1 」ではない!


◇数学モデルの強靱性は虚数にあり

楢崎皐月はこうして物理的に生まれた数を『天然数』と呼ぶべきだと主張した。そして、最初の天然数は「虚数」だったのである。Kamu Number Theoryでは宇野多美恵によって「small-Hi」と名付けられたものがこの虚数なのだった。

この”Small Hi”から複素数の形をした数が発生する。Kamu Number Theoryではこの複素数を「Ur-Form」と呼んでいる。こうして、長い遷移過程を経て、ようやく問題になっている自然数の「1」が生まれ出てくるのだ。

そして、Kamu Number Theoryから解ることだが「複素整数 → 代数的整数」こそ楢崎の「天然数 ← 超自然数」に近いものだと言うことになる。驚くことに、ガウスはお見通しだったようではないか!代数的整数の創始者はガウスなのだ。

この視点から自然数を見れば、その異様な光景がハッキリと見えてくるはずだ、虚数こそ自然なものであって、ピタゴラス自然数はやはり算術数モデルとしか呼べない、極めて技術的なものだったのである。

グロタンディークの数学改革の意味がこうして明らかになったと思う。彼は数を代数幾何学的スキームとして抽象的に再構成しようとし、自然数から独立したイデアルな虚数に基づく複素数によって、当時幾何学と代数学に分裂していた数学の統合を意図したのだ。

この流れは谷山豊などを通してラングランズプログラムへと進み、さらに黒川信重の絶対数学へと進んできた改革には、正当な理由があったことになる。

現代数学はどうやら自然数の呪縛を吹っ切って、全面的に一新し再構築を進めている一方、数理物理の躍進は目を見張るものがあるのではないかと素人ながら思う。

最初に見た、「数学の理不尽なまでの有効性」の10項目にみるウイグナーの言葉は、案の定「複素数」の存在をターゲットとしたものだった。数学的虚構と思われてきた不自然な複素数こそ自然数でなければならないことがこうして明らかになったのだ。


◇量子演算とは虚数演算のことだ

D ドイチは1997年の”世界の究極理論は存在するか”の中で、「これは古典コンピューターのビットという考え方は元々量子力学的な離散的な量子という思想に基づいている、ということで、全てのコンピューターは、もともと量子力学的な存在だった。」

だから「暗黙裏に想定されていた古典物理学の代わりに、根抵にある物理を量子力学に定義し直し、チューリングの証明の構成をなぞること」で量子チューリングマシンの存在を証明できた、と述べている。

そこで、量子演算は「古典的なチューリングマシンの〈実数=ユークリッド空間と相似〉的な内部状態が〈ヒルベルト空間=複素ベクトル空間モデル〉の状態に置き換えられる」ような ” 複素数計算の場 ” で行われる、と言うことになる。手短に、量子演算とは虚数世界の演算なのだ。

チューリングマシンは計算のスキームモデルとして量子物理的なシェイプアップを果たした、この革新を進めたのが D ドイチなのだ。



         † † † † †

次回は
(その4)万物は情報である─ドイチの万物の量子コンピューター
4 - 2, 虚数コンピューターとモンスタームーンシャイン
になります


        ---------------
量子コンピューターという思想(その4)
万物は情報である─ドイチの万物の量子コンピューター

(その4)- 1, 数学モデルの理不尽なまでの有効性
(その4)- 2, 虚数コンピューターとモンスタームーンシャイン
(その4)- 3, ドイチの平行多宇宙と正反対称歪性平行宇宙
(その4)- 4, ペンローズのユニタリー実在批判に答えるには
         †
(その4)- 5, 万物の理論とバベルの塔(専門家と素人)
(その4)- 6, 量子代替平行演算型プログラム図象言語へ
(その4)- 7, 準粒子コンストラクターと逆進化 ─ 進化の脱皮 ─
(その4)- 8, 万物は情報である─ 準直観を持つ準粒子系 ─


Kamu Number Theory
https://kamu-number.com/


copyrght © 2020 masaki yoshino

4-1-1,(前編)数学モデルの理不尽なまでの有効性

2020-08-10 09:31:15 | Post:投稿闌

(4)万物は情報である─ドイチの量子コンピューター

4-1-1,(前編)数学モデルの理不尽なまでの有効性

◇数学の理不尽なまでの有効性(ウィグナー)

科学者、とくに物理学者は次のような疑問を心の底に抱えているという。数学モデルから予言された新素粒子の数々、ウィグナーの分類で知られる量子物理学者のユージン・ウィグナーは自身の心の奥を探った。

1,数学が役に立ちすぎるのはどうしてか?
   → 数学は途方もなく役立っているのだが、そのことには何の合理的説明もない。
2,数学の成功はなぜ不可解に感じられるのか?
   → 理不尽なほど重要な役割を物理学の中で演じている事実があるのに。
3,1つの数学モデルから異なったいくつかの物理モデルが生まれるのではないのか?
   → という漠然とした不安を拭えない。
4,現実の世界で経験の中に、複素数を登場させるようなものは全然ないではないか?
   → 理不尽である。
5,複素数は、自然なのか、単純か、あるいは観察に出てくるものではないのに、
   → 理不尽である。
6,複素数は、計算を楽にすることもない。物理法則の定式化にとって
   → 必要不可欠だから使われているだけじゃないのか?

ウイグナーのこれらの言葉から、数学モデルを考えるに当たって避けられない思想である” 数学の理不尽なまでの有効性 ”という問いかけをKamu Number Theoryから見てゆきたい。

ところで、私はウイグナーの言葉に次のものを加えたいと考えて居る。

7,自然数って
   → 私たちが体験する自然と同じ根っこから生まれたものの中に存在する実在なのか?
8,数学的帰納法は
   → 自然数を巧みに使った手品みたいで、理不尽に感じるのは何故なのか?
9,ゼロ
   → 「相等しい 2つの数の差」と便利な単位数としている、技術的な印象が強いのは何故か?
10,虚数の存在は
   → 認められるまでの歴史が苦渋に満ちたものだ、その理由は十分説明されていない、何故?
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これらを眺めてみると、1つの傾向に気づくことだろう。それは、”複素数”という不可解なものが、何で?、、物理学の中で主導的な役割を果たし、それにも増して理不尽なほど予言的な成果を"計算=方程式”によって鮮やかに導きだしているのだろうか?

こうして考えてゆくと、自然数と虚数の不条理に行き着くのだ。そして、これは ”(その4)- 2,虚数コンピューターとモンスタームーンシャイン” へと続くテーマでもあるのだが、しばらくウイグナーの問いかけに対して、Kamu Number Theoryからの答えを見つけてゆこうと思う。

さて、虚数に至る道を辿るには数学モデルがいかに強力で、しかも具象を既に知っていたかのごとくに導き出すかを見て行きながら、ウイグナーの気分を味わってみたいのだ。その具象が次に述べるコンピューターなのだ。

(ウィグナーEugene Paul Wigner 1902〜1995、ノーベル物理学賞1963年、晩年に哲学的な傾向を深めた。1960年に公開された講演録「自然科学における数学の理不尽な有効性」は有名;ウィキペディア)


◇数学基礎論から生まれた数学モデルのチューリングマシン

コンピューターの基礎を築いたチューリングは数学者だ、したがってここに示した物理学者の煩悩は持ち合わせていない、というより必要が無かったと言うべきだろう。D ドイチが現れるまでは、チューリングマシンと虚数は当初なんの関係もなかったのだ。

複素数は数学にとってどうしても必要だから生まれ、代数学のなかで育てられてきた。ところが、純粋数学とは別の道を辿った物理数学という分野が解析学という姿で発達し始めると、数学的な矛盾に突き当たることになった。フーリエ関数の「連続性 → 微細構造」の問題だった。

表向き、数学基礎論は数学内部の矛盾を解明し解消することが目的と言われる。だが、実際には解析学の精度と安定性を向上するという目的が裏にあったと私には思われる。これを裏付けるように、数学的帰納法という極めて技術的な手法が数学基礎論の基調となっているのだ。

帰納法が技術的だと決めつける私の考え方はこれから説明を加えてゆくのだが、既にアブダクションに触れたところで見たように、パースが100年前に先鞭を付け、更にポアンカレが指摘していたものだった。


(その3)-7、ペンローズの非計算物理とKamu Number Theory

付け加えれば、ちかごろディープラーニングなどのAI領域の研究、あるいは直観を経営現場に応用するなどの必要性によってパースは復活した。西田幾多郎の復活が言われているのも同じ理由になるだろう。

この数学基礎論に挑戦したパイオニアが誰でもご存じカントールの集合論だ。カントールは、150年ほど前にあっては境界領域への越境者だったことになる。

さて、基礎論の素人であるペンローズもこの領域に越境者として踏み込んで議論し、基礎論の専門家から猛烈な反発を食らった。

と言うわけで、素人と専門家の問題は、このあと ”(その4)- 5,万物の理論とバベルの塔(専門家と素人)” で詳しく見たいと思う。かなり重要な問題だと私は思うのだが、なかなか真っ正面から見ることのない問題だ。

チューリングは驚くほどシンプルで物理的な具象モデルによって複雑な計算をする機械を製作できるという仕組みを計算モデル(数学モデル)として作った。

シンプルを極めた仕組みのチューリング原理は、現在のコンピュータだけでなく,未来のコンピュータの能力とも等価である抽象的な原理を提示できたところに驚くほどの高い価値があると見られている。

更にこのチューリングマシンのシンプルさという構造は、今後極めて重要な意味合いを持ってくることになるのだ。ナノレベルのミクロの世界において、ペンローズの微小管量子コンピューターの構想がこのシンプルな構造と結びつくことになる。

ペンローズはチューリングによる発見の重要性を見い出してその名称に原理を冠し、” チューリングマシン原理 ” と命名をした。これは彼が専門外の数学基礎論を徹底的に探求しようとした姿勢の中から生まれた。

チューリングは数学基礎論の課題としてこの計算機モデルの原理を発見し、さらに物理的なメカニズムまで見出してしまった。つまりチューリングは境界領域に乗り出していたのだ。これは、人工知能の研究も視野にあったチューリングらしいものだ。

D ドイチは数学モデルから生まれた物理的メカニズムが驚くほどの自由度を持っている事を発見した。ところが、このモデルの持つこの重要な特性にペンローズは気づくことがなかった。ペンローズにとってはチューリングマシンは古典的コンピューターにだけ通用するものと考えたようだった。


◇数学モデルの不完全性は健全性の証し

ここで、ゲーデルの不完全定理証明の仕事を整理しておきたいと思う。まず、不完全性と言う言葉に惑わされてはならない。数学の危機だなんて大騒ぎになったこともあるこの「不完全性」という言葉、実は奥が深かったのだ。

言葉の印象とは裏腹に、「不完全だから健全なんだ」と言うことなのだ。エッ!と思うことでしょう。そう、逆に「完全な数学モデルは何か神ががった力で計算することが可能なのかもしれませんが、 普通のやり方では、完全な自然数モデルの算術は人間には取り扱い不能」ということなのです。
(引用:http://wwwa.pikara.ne.jp/okojisan/infinity/incompleteness.html

このブログの著者はコンピューター技術者だ、だから基礎論の専門家の視野にはない不完全性定理の現場感覚的イメージを聞くことが出来る。そして、私たちに必要な知識とは、どちらかと言えばこちらなのだ。ゲーデルの定理は人類の共有財産なのだから、ピタゴラスの定理同様に私たちにも使えるものである必要がある。

この定理は見方を変えれば、世界は多元的世界なのだと言うことを証明した。つまり「多くの不完全な数学モデルがお互いに不足するところを補っている」と言うことになる。そして、この定理には含まれていないが、数学モデルは進化するという内容を肯定的に含んでいるのだ。

建築物から日常的な生活に至るまで全てを支えているユークリッド空間も、抽象的な数学モデルだ。つまり、この触れることの出来ない抽象的な数学モデルと、知覚に関与する物理的な日常世界との関係をD ドイチと共に探っておきたい。

それまで、唯一無二の実在空間と思われていたユークリッド空間を疑う数学者が200年も前に現れた、なんと大数学者のガウスだった。ガウスは巨大な三角形の内角の和を疑っていた。そこでガウスが行ったのは、

測量技術を巨大三角形に対して実行するという、現代流に言えば実験物理学の手法の実践だ。あの大数学者ガウスが自らの中に生まれた疑問を確かめるために、実験物理を使ったのだ。

よく知られていることだが、ユークリッド空間モデルは相対性理論によって「不完全」である事が明らかになった。これも実験物理の手法で確認された。こうして抽象的なリーマン空間が新たな数学モデルとして認知された。

リーマン空間モデルはユークリッドモデルを特殊な一部として含む、つまり2つの数学モデルはお互いに矛盾したものではなく、相補的な関係を持っている。

さて、ここからゲーデルの不完全性定理から生まれる問題だ。 リーマン空間モデルも「不完全」だという話につながってゆく。物理学としてはゆゆしきことだろうけど、今のところ、小数意見のようだがリーマン空間も最先端の実験物理的方法では「不完全性」が認められるというのだ。

D ドイチもこのことを重視して「数学の本性」という章で突っ込んでくる。「抽象的、非物理的な実体は本当に存在するのか?」と、ここで彼が取り上げている数学的実体とは、ユークリッド空間やリーマン空間、そして自然数などのことなのだが。

D ドイチは、この数学的モデルが私たちの体を「蹴り返す」かどうかを確かめなければならないと言う。ピタゴラスは「万物は(自然)数である」といった、プラトンはそれを一歩進めて「物理的世界は架空のもの → 影にすぎないもの → 蹴り返せないもの」であると決めつけた。D ドイチはプラトンに反対する、蹴り返すことの出来るのは物理的世界だけなのだと。

蹴り返す事の出来ない数学モデルの理不尽なまでの有効性、ウイグナーも、蹴り返すことのない数学モデルが、蹴り返すことの出来る物理モデルと相似なものを生み出す力をなぜ秘めているのか?と、だが、自然数の術縛の中からは答えは見えてこなかった。


◇ピタゴラスの数学モデルと自然数の呪縛

ピタゴラスは万物は自然数であるといった、対してD ドイチは万物は情報だと考えて居る。現代の感覚からすれば、D ドイチの主張の方が受け入れるのは容易だと思う。

しかし、何故か数学者は基礎論を構成するに当たってこの自然数を思考の出発点としているのだ。物理学者の煩悩として改めて浮かび上がった自然数の不思議さ、そして理不尽さを探らなければならないだろう。

こうして数学モデルの伝統ある本丸である『 ピタゴラスの数 → 自然界に実在する数 → 自然数 → ドミノ倒しモデル → 数学的帰納法 』に至るのだ。

ここで数と自然数とでは区別しておくことが肝心だ!ピタゴラスとプラトンは自然数の世界の住人なのだった。自然数こそ実在する自然、私たちを蹴飛ばすのは数そのものであるという結論に彼らは到達していた。

数と自然数とを区別する必要性を別の見方で言えば、「抽象的な数」と「自然界に実在する数」の違いと言える。当然コンピューターで使う数は前者なのだが、帰納的数或いは帰納関数というとき、ここが曖昧になってくるのだ。

ラムダ計算機という数学的モデルがある、このモデルはチューリングマシンと等価である事が証明されているコンピューターの数学モデルだ。

このラムダ計算機は、計算に演算を使わず、自然数も全く使わないというものだ。使うのは『関数(関係性)だけ』である、相似象で言えばラムダ計算機はソロバンと相似だ。このラムダ計算機のイメージは結構大事なところ、ペンローズの微小管量子コンピューターではこれが効いてくる。

実際デジタルというのは自然数を使って居るのではない、プラスかマイナス、正反、無か有、スイッチ、などというものを使って居るに過ぎない。つまり自然数から自由で物理的関数が主体の「万物のデジタル情報」という思想なのだ。

ライプニッツが中国で発展した「易の陰陽」をヒントに2進法、つまり”デジタル”を発見 した有名な話がある。従って、「自然数の2」は全くデジタル思想とは関係無いということは簡単に確認できることである。

これだけで、デジタルと比べると自然数というものが「異様な世界」であることが少しずつ見えてくるのだと思う。この異様さとは「帰納法」のもつ異様さだと言うところが肝だ。パースなども帰納法を逆演繹法に置き換えたり、アブダクションの中に解体し吸収させているのも理由のある事だ。

私のような数学の素人は知っておくべきことだが、数学の世界で帰納的という言葉を使うとき、必ずこの自然数モデルに依存して成り立つ論理ということだ。数学的帰納法は自然数モデルから導かれる技巧的論理構造だと言うことなのだ。

《前編》

→ 後編へ続く
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