



つまり、最初に出た第一作の『チャイナタウン』ではリディア・チンが語り手となり、二作目の『ピアノソナタ』では、ビル・スミスが語り手となるといった感じ。
そして、語り手が変わるということは、もちろん、雰囲気も語られる視点もがらりと変わるわけで、同じように、リディアとビルが登場し、背景となる人物も共通するけれども、まるで違った感じの小説になっています。

水を打ったような魂の静けさが底流にあり、緊張感が違うような気がします。
まあ、ピアノっていうのは、人の気持ちをひきつけるのにもってこいの小道具だけど。
「…冷たく滑らかな鍵盤に指を走らせて、一連の音階を鳴らし、深呼吸をして心を静めてから、モーツァルトの変ロ短調アダージョを弾く」
「わたしは座席を目一杯下げ、長々と脚を伸ばした。CDプレーヤーのスイッチを入れ、練習中のモーツァルト、ウチダの弾くアダージョをかける…」ですって。
ミュージシャンが昔から女にもてるのは、美しい音楽、ロックみたいに爆発するようなものでも、自分でやらないなら、人にやってもらうしかない。人から喜びを提供してもらうしかない。それで、やってくれる人がステキに見えちゃうのだと思う。
このビル・スミスって、けっこうごつい男性のようだけど、でも、こういう描写とか読むと、ついステキに思える。
