だけど、異論があるのです。
須賀敦子さんは、聖心女子大を卒業したあと、慶応の大学院にしばらく籍を置き、フランスに留学。イタリア人の夫と結婚してイタリア在住。夫と死別したあと、日本に戻り、上智大学比較文学部の教授をされていた方です。
1990年に『ミラノ 霧の風景』で女流文学賞、講談社エッセイ賞受賞。『コルシア書店の仲間たち』で、作家としての地位を確かなものにしたと思う。
よどみなくあふれ出る言葉。繊細で、見えないものをとらえたような描写。
なかなか女流に巨人なんて言葉は使わないけど、巨人のような存在感のある文学者。
とは思っていますが、『須賀敦子全集第四巻』の「小さなファデット」の文章には、ちょっと違うと言いたい。
十七歳の夏休みに、ジョルジュ・サンドの『愛の妖精』に出会ったという須賀さん。
「それよりも、もっと私が惹かれたのは、見かけは仕方のないおてんば娘なのに、ほんとうは『ものの底まで見通す頭脳』に恵まれている、という作者の設定だった。かしこいファデット、霧のたちこめた河原で、やさしい声で歌っているファデット、強がりのくせに、無類の淋しがりやで、月の夜、石切り場でひとりすすり泣いているファデット。でも私は、こんな物語を書けるジュルジュ・サンドのようになりたい、とは考えないで、私はひたすらファデットになりたかった。」
「さまざまな葛藤のすえ、ランドリーの愛をすなおに受け入れたときから、ファデットは、それまでの気むずかしい性格をきっぱりと捨てて、やさしい、愛らしい婚約者に変貌する。ながい農村の冬の夜、炉端で語りつがれた物語にふさわしく、二人の結婚でこの話はしめくくられている」
こうして全集の中の文章を引用してみると、『愛の妖精』の物語を的確に要約して伝えているとわかるけど、だけどやっぱり、違うと言いたい。
何が違うって、わたしの記憶の中で生きているファデットと、須賀さんの表現するファデットは違うと言いたい。
わたしのなかのファデットはもっと泥臭くって、生々しい存在感がある。
須賀さんの洗練された表現で語られる、洗練されたイメージのファデットとは、ちょっと違います。
これは、きっと、どんな場合も同じかもしれない。
その物語の主人公に肩入れすればするほど、自分のイメージがかたまってしまう。
誰かほかの人のイメージの中に生きる同じ物語の主人公とは、イコールであっても、やっぱりどこか違う。
相手も同じように、その物語の主人公が好きだとわかると、こんな嬉しいことはないのに、違和感が少しある。「違うよ」といいたくなる。
それは、物語が、誰のものでもなく、“自分の世界のもの”だからだと思います。
読書はごくごく個人的な体験。
『愛の妖精』のファデットは、わたしの大好きな物語の世界の住人。
須賀さんの物語世界の住人でもあるけど、須賀さん流に語られると、なんかしっくりこないのです。
こういうのって、ちょっと心が狭いですか?
いいじゃない、そのくらいの違いはって?……はい、そうですm(_ _)m
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