サラ☆の物語な毎日とハル文庫

梨木香歩さんの「『秘密の花園』ノート」によると…

『西の魔女は死んだ』がベストセラーとなり、映画化もされて脚光を浴びた梨木香歩さんは、「主人公がブレてはいないか?」という当然の疑問に対して、岩波ブックレットの「『秘密の花園』ノート」の中で、こんなふうに解釈しています。

「この、コリンが庭で父親に出会う、感動的なラストの部分では、ほとんどメアリのとこは描写されません。実は、気をつけてみると、コリンが自分の足で初めて立ったあたりから、メアリへの言及は極端に少なくなり、コリンの言動や彼がどう感じたか、ということに焦点が絞られてくるのが分かります。

メアリという少女が主人公であるならば、これはおかしなことです。けれど、もし、この屋敷の結ぼれのような頑なさ、「家の抱える悲しみ」が主人公で、メアリとコリンという従姉妹同士の二人が、その顕れとして登場しているとするならば、それは最も自然なことです。

コリンという屋敷の核は、陽の当たらない屋敷の部屋で、がんじがらめになって動けない。彼の「生きようとする本質」は、インドから、彼と同じ質の、けれど彼よりは行動力のある分身を呼んだ。そしてその分身の働きで、陽の光を屋敷の中へ招き入れることがせでき、庭の再生までもが実現した。

そう捉えれば、最後に彼が健やかさを取り戻し、屋敷全体の主人公である父親の胸に飛び込むところで終わるのが、物語としては、ごく妥当なことだと思えます。」

でも、この解釈、いかにも理路整然として、全体の構造的な解釈ではあると思うのですが、サラはそういうふうに捉えたくはないのです。

そういうふうに、しゃっちょこばって捉えたとたんに、せっかくの物語がつまらなくなってしまいます。
いかに共感するか。
それが物語です。
読者は(少なくとも私は)、ここまでメアリに共感してきたのです。
最後に来て、コリンがいいとこどりをするなんて、とぶんむくれているほうが、共感のあり方としては素直ではないですか?

きっと、このラストについては、本が出版された当時から、あれこれといわれてきたに違いない。
まるでジャズの不協和音のように、読者の心にさざなみのような違和感をもたらすのです。
なぜ、こういうラストなのでしょうか?

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