みなさん、こんにちは。
今日は「デスノート」12巻(最終巻)の発売日。
くまも早速今朝コンビニで購入して読みました。
以下ネタばれありになるかもしれませんので、ご注意を。
衝撃的なラストでした。
でも、くまにとっては「作者はこういうことを言いたかったのかな?」と納得できるラストでした。
「死んだ後にいくところは 無 である」
くまも高校生くらいの時、「死」というものに凄く興味がある時期がありました。
その頃に、
「もしも人々が、死後が完全な無であると確信したら、何か少し悲しいことや辛いことがあると、何も感じなくなるようになればいいやって、簡単に自殺したりする人が増えたりしてしまうんじゃないのかな?」
と恐ろしく感じたことがあります。
でもその時ふと、
「でも、逆に考えたら今生きてるって、本当に物凄い貴重なことなんやって思えるかも!」
と考え直して、恐いと思う気持ちは消えて、むしろ元気になりました。
くまにとっては、死後の世界が有るのか無いのかは、死んでみるまで(もしくは「無」なんだとしたら死んだとしても)わからないことなんですが、
死後の世界があったとしても、少なくとも「くま」という自我(意識)はいつまでも同じままに残ってたりはしないだろうと。
昔は自分の自我がいずれは消えてしまう、ということにとても抵抗を感じたんですが、段々と「消えるというより変化なんかな?」と思えるようになりました。
生きてる間でも、何年か前の自分ならこうは考えなかったとかこうはしなかったとか、よく考えたらある意味、小さい「死」を繰り返しながら生きてるのかなって。
そう思うと今生きてることも、一瞬一瞬の時も、本当に二度と手に入らないものなんだと、「命(魂)」の素晴らしさと「生」の貴重さが、少し実感できます。
じゃあこの貴重な人生をどんな風に生きたらいいだろう?
これが正解なんて答えはないのかも。
日々の些細なことに素晴らしい幸福を感じる人もいれば、多くの人に影響を与えるような生きがいを見出すことに幸福を感じる人もいるだろうし。
その時その時一生懸命考えて、思うままに生きていくしかないのかも。
自分の命がこんなにも貴重なものなのかと多少なりとも感じると、他人の命も同じように貴重なものなのだと、大抵の人は感じてると思うのに、現実には沢山の人が沢山の人を殺しています。
もうすぐ裁判員制度が日本でも始まるそうです。
主に重罪について裁かなくてはいけないそうで、しかも米国と違って有罪無罪を決めるだけでなく、その刑も決めなくてはいけないようです。
冤罪という問題や、無期といいながら実質的には何年かで社会に出て来る事による再犯についての問題もありますが、明らかに犯人が確定している場合、その犯人の命の貴重さを考えるか被害者や被害者の遺族の心が潰れてしまわない様に考えるか、という選択をしなくてはいけない役割が自分にも回って来るかも知れません。
くまの考えは、登場人物で言うと松田に近いかもしれません。
悪だとか善だとか、そんなものはないようにも思います。
正義により裁くとか、神がいずれ裁いてくれるとかいうより、それぞれの考えである正義と正義のぶつかり合いしかないのかも。
沢山の人間がお互いを尊重しあいながら生きていけるように、命の貴重さを沢山の人がもっと実感できるような人間社会になれるように、一人一人がその時その時一生懸命考えて生きていければいいな、と思います。
それでは。
今日は「デスノート」12巻(最終巻)の発売日。
くまも早速今朝コンビニで購入して読みました。
以下ネタばれありになるかもしれませんので、ご注意を。
衝撃的なラストでした。
でも、くまにとっては「作者はこういうことを言いたかったのかな?」と納得できるラストでした。
「死んだ後にいくところは 無 である」
くまも高校生くらいの時、「死」というものに凄く興味がある時期がありました。
その頃に、
「もしも人々が、死後が完全な無であると確信したら、何か少し悲しいことや辛いことがあると、何も感じなくなるようになればいいやって、簡単に自殺したりする人が増えたりしてしまうんじゃないのかな?」
と恐ろしく感じたことがあります。
でもその時ふと、
「でも、逆に考えたら今生きてるって、本当に物凄い貴重なことなんやって思えるかも!」
と考え直して、恐いと思う気持ちは消えて、むしろ元気になりました。
くまにとっては、死後の世界が有るのか無いのかは、死んでみるまで(もしくは「無」なんだとしたら死んだとしても)わからないことなんですが、
死後の世界があったとしても、少なくとも「くま」という自我(意識)はいつまでも同じままに残ってたりはしないだろうと。
昔は自分の自我がいずれは消えてしまう、ということにとても抵抗を感じたんですが、段々と「消えるというより変化なんかな?」と思えるようになりました。
生きてる間でも、何年か前の自分ならこうは考えなかったとかこうはしなかったとか、よく考えたらある意味、小さい「死」を繰り返しながら生きてるのかなって。
そう思うと今生きてることも、一瞬一瞬の時も、本当に二度と手に入らないものなんだと、「命(魂)」の素晴らしさと「生」の貴重さが、少し実感できます。
じゃあこの貴重な人生をどんな風に生きたらいいだろう?
これが正解なんて答えはないのかも。
日々の些細なことに素晴らしい幸福を感じる人もいれば、多くの人に影響を与えるような生きがいを見出すことに幸福を感じる人もいるだろうし。
その時その時一生懸命考えて、思うままに生きていくしかないのかも。
自分の命がこんなにも貴重なものなのかと多少なりとも感じると、他人の命も同じように貴重なものなのだと、大抵の人は感じてると思うのに、現実には沢山の人が沢山の人を殺しています。
もうすぐ裁判員制度が日本でも始まるそうです。
主に重罪について裁かなくてはいけないそうで、しかも米国と違って有罪無罪を決めるだけでなく、その刑も決めなくてはいけないようです。
冤罪という問題や、無期といいながら実質的には何年かで社会に出て来る事による再犯についての問題もありますが、明らかに犯人が確定している場合、その犯人の命の貴重さを考えるか被害者や被害者の遺族の心が潰れてしまわない様に考えるか、という選択をしなくてはいけない役割が自分にも回って来るかも知れません。
くまの考えは、登場人物で言うと松田に近いかもしれません。
悪だとか善だとか、そんなものはないようにも思います。
正義により裁くとか、神がいずれ裁いてくれるとかいうより、それぞれの考えである正義と正義のぶつかり合いしかないのかも。
沢山の人間がお互いを尊重しあいながら生きていけるように、命の貴重さを沢山の人がもっと実感できるような人間社会になれるように、一人一人がその時その時一生懸命考えて生きていければいいな、と思います。
それでは。