くまのお気楽日記

好きな漫画や映画の話を主にその日あった事や感じた事等をお気楽に書いていきたいと思います。宜しくお願いします。

「直感バトン」

2007-07-26 12:25:36 | 日記
みなさん、こんにちは。
久々の連日更新です!(降りませんように…

というのも、すずめ休憩室のたれぞ~さん から面白いバトンを頂いてきたからなんですが(たれぞ~さん、ありがとうございます~)それでは早速。

Q1・アニメと言えば。
デビルマン。子供の頃、バビル2世や妖怪人間べムなんかもそうですが、毎週楽しみにして観ていたような記憶が…。
漫画版とはストーリーが大分違うんですが、どちらも甲乙付けがたく好きで、特に雪山に住む、蝋人形に人間の魂を封じ込めて操ってしまう妖力をもった、何故かこてこての関西弁の魔物、が出てくる回とか憶えてます。

Q2・コミックと言えば。
たれぞ~さんの半分マネッコになってしまいますが、やっぱり「王家の紋章」ですね。多分自分にとってはじめて夢中になって読んだ連載漫画ではないかと。
「汚水を真水に変える方法」とか「鉄の鍛え方」とか「古代エジプトの歴史」とか、知識欲も満たしてくれる点と、なんといっても恋愛漫画の王道のような激しい恋心、の二つの点が、当時子供とはいえハートをわしづかみにされた理由でしょうか。

Q3・声優さんと言えば。
声優さんは殆ど知らなくって、この方のお名前も今調べたくらいなんですが、小池朝雄さん、かな。ピーター・フォークの声はこの方の声じゃないと違和感を感じてしまうくらいなので。字幕版でピーター・フォークの出演作を観たら「何か違う~~!!」って。(笑)

Q4・3に人と言えば。
というわけで、刑事コロンボ。「う~ちのかみさんがね

Q5・曲と言えば。
洋楽の方が好きなのが多いんですが、基本的に「色っぽい」曲とか声とかが好きみたいです。
(クラシックなら「ツィゴイネルワイゼン」とかジャズなら「サマータイム」とか)
昔はザ・スミスとかブライアン・フェリーとかスライ&ファミリーストーンとかが好きでしたけど、最近はモーフィーンとかダスティ・スプリングフィールドとかポーティスヘッドとか聞いてますね。
(だけど、どれもこれも古い曲なんですよね~…

Q6・ゲームと言えば。
まず浮かぶのはドラクエなんですけど、雰囲気が好きなのはマザーシリーズかな。
画像とかよりゲームが扱いやすく手が込んでて独特の世界観があったので。
最近嵌ったのはBLゲームの「薔薇ノ木ニ薔薇ノ花咲ク」です。

Q7・ラジオと言えば。
ラジオも殆ど聴かないんですが、これを書くと皆さんにひいてしまわれそうだけど、昔オールナイトニッポンの鶴光さんの、今で言う「空耳アワー」の下ネタ版みたいなコーナーがあって、それを夜中に聴いてケタケタ笑っていたら、傍で聴いてた姉さんに、「くまちゃん、気持ち悪いヨ~」と抗議された思い出があります…
すみません…下ネタとおやじギャグは大好物なもんで…

Q8・サイトと言えば。
ウィキペディアです。調べものするのに便利ですよね。

Q9・雑誌と言えば。
今は雑誌は買わないんですが、昔は「プリンセス」「花とゆめ」とか買ってました。

Q10・前の方のQ11とは。(わからなくなるので質問も書いて下さい)
誰にでもなれるとしたら誰になってみたいですか?(実在・架空問わず)
たれぞ~さんのキャロルもいいな~と悩みましたが、獣木野生さんの「パームシリーズ」のジェームスを尊敬してるので、彼になってみたいかな~。
だけどこの方も過酷な人生と言うか…早くにお亡くなりになるのも確定してるんですけどね。あえて。

Q11・次の人に聞きたい質問とは。
座右の銘は?
くまは「生きてるだけで丸儲け」です。
誰だったかミュージシャンの方が言われてたのを聞いたんですが、この少し茶化したような力の抜け具合と能天気なプラス思考が性に合ったと言うか。

Q12・次に回す5人とは。
多分アッシのブログに来ていただいてる方は、大体皆さんもうご存知のバトンなんでしょうけれども、宜しければどなたでもお持ち下さい。


それでは。

「複雑系」

2007-07-25 23:59:59 | 本好き
みなさん、こんにちは。
ちょっとお久しぶりです。くまです。

前回に引き続き、今回も柄に似合わぬポピュラーサイエンス本なんですが、またまた図書館で借りて読んでみて面白かったので、今度はなるべく短めにご紹介を。

タイトルは「複雑系~科学革命の震源地・サンタフェ研究所の天才たち~」(M・ミッチェル・ワールドロップ著)です。

複雑性の科学とは、物理学、生物学、情報処理、経済学、社会学、環境学、脳神経学…etc人間世界の諸事すべてを包含するような学問であり、また非常に新しい学問であるそうです。
従来の還元的(複雑な物事を、その分解された比較的単純な構成要素をまず理解し統合することで理解しようとする)アプローチに対して、アリストテレスの「全体とは部分の総和以上のなにかである」という言葉に代表されるような、全体を全体として捉えて理解しようという学問のようです。

巻末を見ると、この本は少なくとも10年以上前に書かれた本のようなのですが、著者は科学ジャーナリストで、80年代に創立されたサンタフェ研究所の多分野を代表するような主要メンバーに対するインタヴューに基づいて、分野を越えて協力し合い、共通する問題に取り組もうとする試みを、ドキュメンタリー調に書きながら、複雑系という学問が生まれていく過程をも書いている…という本です。
以下に面白かった点を本文から抜粋していきます。

なぜ太古の種やエコシステムが何百万年と安定した後突如として死滅するか新しいものに進化したのか?
なぜ40億年前アミノ酸などの単純な分子からなる原初のスープは、ランダムに組み合わさったとするならばバカバカしいほど少ない確率にもかかわらず、最初の細胞にその姿を変えたのか?
なぜ個々の細胞は合体し、人間といった多細胞生物を生み出し、またなぜ人間は社会を組織し、進化が適者生存であるならば個人間の冷酷な争いとは異質の、信頼や協力を存在させ、それが栄えるのか?
生命とは何か?コンピューターウイルスのような創造物は根本的な意味で生きているのか?
心とは何か?脳はどのようにして感情、思考、目的、自覚といった特質をもたらすのか?
なぜ無ではなく何かが存在するのか?宇宙が無秩序、崩壊、衰退へと向かう傾向に支配されているにもかかわらず、様々な規模の構造(銀河、恒星、惑星、生物など)を生み出し、またこの秩序、構造、組織への欲求とどう釣り合い、どうして同時に進行し得るのか?

これらの問いに共通する点は複雑なシステムと関連しているということ。
「複雑な」とは例えば何百万の相互に依存した人間が人間社会を形成するようなことである。
また例えば物質的欲求を満たそうとしている人間は個人間の売買行為を通して無意識の内に一つの経済活動に自己組織化し、ばらばらでは持ち得ない生命、思考、目的といった集合的特質を獲得する。
さらにこうした自己組織化のシステムは例えば種が変わり行く環境の中でより良い生存を求めて進化していくように、積極的に「適応的」であり、
そしてこうした複雑で自己組織的な適応的システムには一種のダイナミズムがあり、コンピューターチップや雪片のようにただ複雑であるだけの静的な物体とは質的に違い、より自発的、無秩序的、活動的である。
が、同時にその特異なダイナミズムは、カオスとして知られるあのどうにも予測不能なものともかけ離れて違う。
これらすべての複雑系は、秩序と混沌をある特別な平衡に導く力を有している。
「カオスの縁」と呼ばれるこの平衡点は、生命が自らを支えるのに十分な安定性を有し、生命の名に値する十分な創造性を有するところである。

第一に「複雑適応系」のシステムは並行的に作用する多くのエージェントのネットワークである。
例えば脳におけるエージェントはニューロン、エコロジーにおけるエージェントは種、細胞のそれは細胞内小器官というように。
どのエージェントもそのシステム中の他のすべてのエージェントとの相互作用をとおして生まれる環境の中に置かれている。
そしてたえず影響を与え合い反応しているので本質的に固定されていない。
さらにその制御は極度に分散化される傾向がある。
例えば脳には主ニューロンが、発生中の胚には主細胞が、といったものはない。
もしシステムの中に一貫性のある振る舞いがあるとするなら、それはエージェント間の競合と協力から生まれている。
第二に「複雑適応系」には多くの組織化のレベルがあり、どのエージェントもそれにより高いレベルのエージェントの構成要素になっている。
例えば一群のタンパク質、脂質、核酸が細胞を形成し、一群の細胞が組織を、組織の集合体が器官を、器官の連関が一個の生物を、生物の集団がエコシステムをというように。
さらに複雑適応系は経験を積みながらたえずその構成要素を改めたり再構成したりしている。(これを創発というが、それぞれの創発が、次のレベルの創発を起き易くするようにステージを整える役割を果たしているのではないか、とも考えられる)
第三に「複雑適応系」は未来を予感している。
どの複雑適応系も様々な内なる世界モデルにもとづいてたえず予測している。
これらのモデルは能動的であり、内部モデルは行動の構成要素であるとみることができる。
最後に「複雑適応系」は一般的に多くのニッチを有しており、ニッチ一つ一つはそれを満たすように適応したエージェントによって利用される。
経済の世界に配管工、製鋼所、の為の場が、熱帯林にナマケモノ、蝶の為の場、があるのと同じである。
さらに一つのニッチを満たすという行為そのものが、新しい寄生者、捕食者、獲物、共生相手のためのさらなるニッチを開く。
このことから、システム内のエージェントがその適用や有用性を最適化できる、などと考えるのが無駄である、と言える。
複雑適応系を特徴づけるのは、この不断の斬新さである。

囚人のジレンマというゲームの話。
二人の囚人が別々の房に入れられ、警察は二人をある共犯の罪で取り調べている。
それぞれの囚人は、相棒を密告する(離脱する)か沈黙を守る(協力する)かのいずれかを選べる。
二人が沈黙を守れば二人とも釈放される。
一人が密告すればその囚人は自由になり報奨金が貰えるが、密告された相棒は刑を科せられたうえ報奨金を賄うための罰金を支払う。
二人ともが互いを密告すればどちらも刑に服し報奨金も貰えない。
このゲームを1回だけでなく同じ相手に対して200回繰り返し戦う、というトーナメントを行うとする。
すると勝利の栄冠は、もっとも単純な戦略(しっぺ返し)のうえに輝いたのだ。
1回目の対戦ではまず相手に協力し、それ以降は相手が取った行動をそっくりそのままなぞる、というものだ。
このプログラムは決して相手より先に離脱しないという意味では「いい」やつで、相手のよい行ないに対して次回に協力を持って報いるという意味では「やさしい」やつで、相手の非協力的な行動を次回の離脱によって懲らしめるという意味では「タフな」やつだ。さらに戦略がじつに単純で相手にとって事態の把握が容易であるという意味では「わかりやすい」やつだった。

機械の「機械性」はハードウェアにあるのではなく、ソフトウェアにこそある。
生物が「生きていること」の根源もまたソフトウェア(分子そのものではなく、分子の組織化のあり方)にある。
生きているシステムは機械だ。
生きているシステムは、エンジニアが機械を設計するときのようにトップダウン方式でつくられるのではなく、つねに、ずっと単純なシステムの群れからボトムアップ方式で創発してきているらしい。
この考え方を突き詰めていくと、生命には単なる物質を超越したある種のエネルギー、力、あるいは精神が宿っているという古くからある「生気論」の完全に科学的な新しいバージョンに行き着く。
それは単純なものの集合体にはこの上なく驚異的な仕方で振舞う能力があるからである。
生命はじつはある種の生化学的な機械かもしれない。
そういう機械を生きたものにするということは、いくつもの機械の集合体を、それらの相互作用のダイナミクスが「生きる」ような仕方で組織化することである。
また、生物の最も著しい特徴の一つは、遺伝子型(DNAに書き込まれた青写真)と表現型(その青写真に従って作られる構造)の二段構えになっていることだ。
簡単に言ってしまえば、遺伝子ごとに小さなコンピュータ・プログラムが一つあるとして、同時に走るそれらプログラムの集まりが遺伝子型であると考えてもよいということだ。
プログラムは相互に作用しあいながら全体としてのコンピューテーションを遂行する。
これが表現型、つまり生物の成長過程で現れてくる構造である。
生命は文字通りコンピューテーションそのものなのである。
コンピューター科学が到達した深遠な結論の一つに「決定不可能性の定理」がある。
コンピューター・プログラムがまるっきり自明のものでない限り、そのプログラムが何をするかを知る一番早い方法は走らせてみることだ。
だからこそ生きているシステムは、プログラムの完全な制御下にある生化学的機械でありながら、驚嘆すべき自発的な振る舞いを示すことが出来るのである。

「我々は決して変化することなくつねに変化し続けるこの世界の一部だ。例えるなら川下に流されていく紙の船の船長にすぎない。流れに逆らおうとすると何処にもたどり着けない。逆に、流れを静かに観察し、自分もその一部であること、流れが絶えず変化し続け、常に新しい複雑さを生み出していることに気付けば、時々オールを漕いで、渦から渦へと船を進めることもできる。」

余談ですが、佐藤史生さんの「ワン・ゼロ」のなかに「マニアック」という名前の学習型コンピューターが出てきますが、この本の中で、40年代にロス・アラモス研究所で、ニック・メトロポリス、フォン・ノイマン、らによって、最初に構築されたコンピューターが「MANIAC」と呼ばれていた(語源は「数学的解析器、計算機、積分器、兼コンピュータ」を意味する英語の頭文字をあわせたもの)、ということが書かれています。
佐藤さんはやはりここから名前を思いついたんでしょうか?


それでは

「お久しぶりです10」

2007-07-09 07:10:05 | 日記
みなさん、こんにちは。
今回は約3週間ぶりで御座います。くまです。

最近のペースに比べて(これでも)ちょっと早めの更新が出来たのは、とても面白い本を図書館で借りたからなんですが…タイトルは、
「エレガントな宇宙~超ひも理論がすべてを解明する~」(ブライアン・グリーン著)と言います。

一言で言うと、現代物理学の二つの支柱とも言うべき、「一般相対性理論」と「量子力学」の二つの理論が両立しない…という事実に端を発し、「超ひも理論」という新しい理論によってこの難問が解決し、そればかりでなく、万物を説明し尽くす根本の究極の理論にも成り得るのではないか…ということについて等を、分かり易く噛み砕いた例を挙げて、書いてくれている本、なのでありますが、以下に本文から覚えておきたいと思った点を取り出して繋ぎ合わせてみました。

ただそんな点が多すぎて、紹介文と言うにはかなりな長文になってしまいまして、むしろ読んで頂くには申し訳ないくらいなので、特段ご興味がおありでなければ、どうぞスルーしてやって下さい。

本の中で著者も書いていますが、後半におもに紹介される「ひも理論」という理論は、今の技術では直接的に実験で確かめられないほどの微細なスケールを扱う理論で、その複雑さからも、未だ発展途上の(しかし有望な)理論であるそうで、この理論に反対する考えもきっと沢山あるのでしょうが、くま的には、他を知らないこともあって、とてもしっくりくる宇宙論が書かれた本だと思いました。

時折分からないなりにも、「宇宙がこうであればいいな~」と漠然と感じていたもの(宇宙の再生)に近い世界観を、現実の世界に基づいた形で紹介されたことが、余計に面白く思えた理由ではないかと思います。
「宇宙がどう生まれどうなっていくのか」なんてことは、自分に全く関係のないことのようにも考えられますが、どこか自分の死後や生きていることにつながるような気もして、興味が湧くのかも知れません。

今回、暇人な、やたら長い「本文のまとめ」を書いてしまって、最初は「図書館に返す前に忘れないように気になったところを書いておこう」という(購入してもよかったんですが)ケチ心から始めた事ですが、どこを省くかとかどこを書くかを考える為に二度読むことになり、結果一度目に読んだ時より多少理解度が増して、まさに一粒で二度美味しかったです。

くまにとっては、とても難しい本でしたが、一般向けに分かり易く書いてくれていますし、とてもエキサイティングな内容でもありますので、面白いことは自信を持ってお奨めします


それでは。

「エレガントな宇宙1」

2007-07-09 07:07:05 | 本好き
第一章
古代ギリシア人が、宇宙は「分割できない」小さな構成要素でできていると推測し、この構成要素をアトムと呼んだところから現代までに、十九世紀に、ギリシア人にならってアトム(原子)と名付けられた原子が分割され、原子とは陽子と中性子を含んだ核とその周りに軌道を描く「電子」の群れから成り立つということ、また陽子と中性子も、「アップ・クォーク」、「ダウン・クォーク」という二種類の小さな粒子三つの組み合わせによって成り立つことが明らかにされ、さらに様々な基本的構成要素が発見された。
これらの粒子は、そのパターンから、三つのグループに分けられ、
第一族 電子 電子型ニュートリノ アップ・クォーク ダウン・クォーク
第二族 ミューオン ミュー型ニュートリノ チャーム・クォーク ストレンジ・クォーク
第三族 タウ タウ型ニュートリノ トップ・クォーク ボトム・クォーク
となり、これらの粒子それぞれにまた反粒子という仲間がある。

また、様々な物体や物質の間に起こる相互作用のすべては、四つの基本的な力の組み合わせに還元でき、その四つとは、
重力 電磁力 弱い力 強い力
と呼ばれるもので、重力と電磁力は馴染み深いものだが、強い力弱い力とは、原子核の中で働く力(核力)であり、陽子と中性子が原子核の内部で、クォークが陽子や中性子の内部で互いに「にかわづけ」されていたりする時の、この力が「強い力」、ウランやコバルトといった物質の放射性の崩壊を引き起こす力として最もよく知られるのが「弱い力」である。
これらの力には共通する特徴が二点あり、
その力の最小のかたまりと考えられる粒子(メッセンジャー粒子)…電磁力には「光子」、弱い力には「弱いゲージ・ボゾン(Wボソン、Zボソン)」、強い力には「グルーオン」、重力には、まだ存在や詳しい性質が確かめられていない「グラビトン」…があるという点、もう一点は、
重力が粒子にどう影響するかは質量で決まり、電磁力が粒子にどう影響するかは電荷で決まるように、粒子が強い力と弱い力にどう影響されるかは、粒子が帯びている「強い力荷」と「弱い力荷」で決まる、という点だ。

このような物質と力の粒子の性質、力のバランスが少し違っていただけで、原子核は分解し、星や銀河は形成されていなかった。
逆に言えば、宇宙がこういうあり方をしているのは、物質と力の粒子に、現にあるような性質が備わっていたからだ、とも言える。
しかし、なぜこういう性質が備わっているのか?

ひも理論では、これらの粒子の質量と力荷は、そのひもの振動パターンで決まるとしている。様々な粒子の性質は、無秩序な実験事実の寄せ集めであるどころか、同じ一つの物理的特徴の現れ…基本的なひものループの共鳴振動パターン、いうなれば音楽…であると。
このようなことからひも理論は、「万物の理論」(TOE)と評されることがあるのだが、それに対し、これを極端に解釈する、ビックバンから白昼夢にいたるあらゆるものが、物質の基本構成要素の微視的な物理作用で記述できる、という「還元主義」という考えや、また反対に、系の複雑さのレベルが上がると新たな種類の法則が働くことをカオス理論の発展が教えている、と論じる人もいる。
著者はこの点について、計算上の行き詰まりの問題であって、新たな物理法則の必要を示すものではない、としているが、原理と実地はまったく別物であり、すばらしく豊かで複雑な宇宙の理解を深める科学は、TOEの発見によりむしろ終わりではなく始まるのだ、と述べている。

第二章
アインシュタインは、「電磁霍乱が一定不変の速さ、光の速さに等しい速さで伝わること。可視光線は電磁波の一種であること」を明らかにしたマクスウェルの理論と、「十分速く走れば、逃げていく光に追いつける」とするニュートンの運動法則との衝突を、「相対的に等速度運動をしている観測者どうしは距離と時間をちがった仕方で知覚する。どんな物体も(影響や攪乱も)光速よりは速く伝わりえない。宇宙のあらゆる物体は、つねに時空(空間の次元三つと時間の次元一つ)のなかを光の速さ(四つの次元で割り振られる)で進んでいる」という特殊相対性理論によって解明した。
しかしここで、「どんなものも光よりは速く進めない」ということと、ニュートンの万有引力の理論との間に、また別の衝突が生まれた。

アインシュタインの有名な公式に、E(物体のエネルギー)=mc2(質量×光の速さの二乗)があるが、ここから「あるものが動く速さが大きいほどそれがもつエネルギーも大きくなり、あるものがもつエネルギーが大きいほどそれがもつ質量も大きい」ということがいえる。
光の速さの二乗という数はとても大きいので、ほんの僅かな質量の粒子でさえ、光の壁に達したりこれを越えたりするには無限のエネルギーで押すことが必要になり、ゆえに「どんなものも光よりは速く進めない」というのである。

第三章
ニュートンの重力理論では、物体が別の物体に及ぼす引力の強さは、物質の質量と距離のみで決まる。つまり物体の質量と距離が変われば、物体は引力の変化の影響をただちに受けることになるのだ。
これに対して、アインシュタインの特殊相対性理論は、どんな情報も光の速さよりは速く伝わらない、としている。
ここからアインシュタインは、特殊相対性理論と両立する新たな重力理論、「一般相対性理論」を発見した。

ニュートンは重力の存在と性質の一部を発見したが、実際にどのように働くのかについては何の洞察も示さなかった。
アインシュタインはこの問題について、特殊相対性理論で、一定速度で相対運動をしている人々にどう世界が見えるか、ということで洞察を得たように、今度は加速度運動について考えることで、重力についての洞察を得る。
これが、ロケットで地球の重力から少しずつ逃れているにもかかわらず、加速によって体を押し付けられる力を感じることの例をとって説明される、「加速度運動と重力は区別できない」という「等価原理」の法則である。

次の決定的な飛躍的前進は、重力と加速度運動とのつながりに特殊相対性理論をあてはめたところから生まれた。つまり「加速によって空間と時間はゆがむ」ということだ。ここでついに重力が作用するメカニズムについて、アインシュタインは「重力は空間と時間のゆがみそのものなのだ」という結論を得る。
著者はこれを分かり易く、ゴム膜の上に乗るボウリングの球に例えているが、勿論この場合の「ゆがみ」とは、ゴム膜の二次元ではなく、空間三次元と時間一次元のすべてに及ぼされる「ゆがみ」である。

これらの理論と、宇宙の織物の攪乱がさざなみのように伝わる速さがちょうど光の速さである、という計算結果により、ニュートンの重力理論と特殊相対性理論との矛盾は解消された。しかし事物の質量が大変大きく、空間と時間のゆがみがそれだけ著しい場合、例えばブラックホールやビックバンについて考えると、また新たな衝突が生まれた。
一般相対性理論と量子力学の衝突だ。

ブラックホールとは、今では「シュヴァルツシルトの解」と呼ばれる、「星の質量を球形の領域に凝縮し、質量を半径で割ったものが、ある臨界点を超えるくらい半径を小さくすれば、時空のゆがみがあまりにも激しくなり、この星に近づきすぎると光を含め、どんなものも重力から逃れることができなくなる」という考えから導き出された「光でさえ逃げることの出来ない圧縮された星」のことだ。
(ちなみにここで、このブラックホールの事象地平のすぐ上で一年間とどまってから、地球に帰ると1000年がたっている、という遠い未来へのタイムトラベルが可能になる…という話も紹介されている)
地球をブラックホールにするには、押しつぶして半径2センチメートル足らずの球にしなくてはならない。
ブラックホールは、このような極端なことが実際にありうるのか…という点から、長らく想像の産物にすぎないと考えられてきたが、この10年ほどの間に存在を裏付ける実験の証拠が積み重なっている。
(ブラックホ-ルの近くにある普通の星が事象地平に向かって落ちる時、加速されることによって表層から塵とガスの混合物が輝き、可視光線とX線を放つ。これを観測・研究することで、例えば銀河系の中心部に太陽の250万倍ほどの質量をもつブラックホールがあることを示す証拠が積み重なっている。またそれさえも影が薄くなるようなすごいものが、宇宙に散らばる光り輝くクエーサーの中核にもある、と考えられている)

アインシュタインの一般相対性理論の方程式は、19世紀の数学者リーマンの、湾曲した空間についての幾何学的洞察にもとづくものだが、この方程式を宇宙全体にあてはめると、宇宙全体の大きさは時間とともに変わる(宇宙の織物は拡がっているか縮んでいるかのいずれかである)という結論が導き出される。
このことが受け入れがたかったアインシュタインは、宇宙定数という量を導入し、後にハッブルが観測によって宇宙の膨脹を実証したことを受けて、方程式をもとの形に戻した。(余談だが、最近の研究によると、たいへん小さいがゼロではない宇宙定数が組み込まれているかも知れない、そうである)
ここから、宇宙の起源について知る為に宇宙の発展を逆回しに想像してみると、すべての物質とエネルギーが押しつぶされて、凄まじい密度と温度になった不安定な種子から、爆発的に飛び出すビックバンというイメージが浮かぶ。
勿論、爆弾の爆発とは違い、始まりの点(ひも理論では点ではないが)の周りに空間は無く、ビックバンこそが、潮流のように物質とエネルギーを運ぶ、圧縮された空間の噴出、である。

第四章
量子力学が生まれたきっかけとして、マクスウェルの電磁理論をオーブンのなかの放射にあてはめると、どんな温度でもエネルギーの総量は無限大だ、という結果が導き出されたことがある。
一つ一つの波が総エネルギーへの寄与としてもつはずの共通エネルギーが、オーブンのなかで生じうる、山と谷の数が整数になる波のパターンが無限個あるために、共通エネルギーの値がどうであれ、無限大のエネルギーを運ぶ、というのだ。
この無意味な結果に対して、プランクは、「エネルギーには最小単位があり、波がもちうる最小エネルギーは波の周波数に比例する」という推測により、この難問を解いた。
もう少し詳しく述べると、ある周波数の波が運びうる最小エネルギーが、その波が負担するはずのエネルギーを超えれば負担できず、その波は発生しない、ゆえに、有限の数の波しかオーブンの総エネルギーに寄与できず、総エネルギーは有限にとどまる。というものだ。
この波の周波数と波がもちうる最小エネルギーとの比率は、「プランク定数」と呼ばれ、1.05×10-27(-27乗)g.cm2/sというごく小さな値である。

しかし実験測定がうまくいくという事実を除いて、プランクも他の誰も、エネルギーがかたまりをなすという仮定を正当化する根拠をもっていなかった。
アインシュタインはここに、一つの説明を見つけ出す。

ある種の金属に電磁放射(光)をあてると電子を発するが、はじめ、光の強度(明るさ)が増すにつれて、衝突する電磁波のエネルギーも増すのだから、放出される電子の速さも増す…と考えられがちなところが、実際には放出される電子の数が増えるのであって速さは変わらない、ということ、一方で、衝突する光の周波数が増せば、放出される電子の速さが増す…また、ある周波数の光線の強度は光線に含まれる光子の数が増えることによって増えるが、光子が多いほど表面から弾き出される電子も多くなる…という実験結果がある。
この「放出される電子の速さは光の周波数(色)で決まり、放出される電子の数は光の強度で決まる」という結果から、アインシュタインによって、前述の一つの説明「電磁波は光の小さなつぶ(量子である粒子~光子~)でできていて、電磁波に含まれるエネルギーがかたまりをなしているのは、電磁波がかたまりでできているためだ」が見つけ出されたのである。

ここで19世紀はじめにヤングがおこなった、光の波が、波なのか、多数の粒子(光子)でできているのか、という実験について紹介されている。
二重スリット実験と呼ばれている、スリットが二つ入っている薄い障壁に光線を当て、スリットを片方だけ開けた時と、両方開けた時の障壁を通り抜けた光を感光板に記録する、といったものなのだが、
光が粒子であるならば、スリットを二つとも開けた時に感光板にできる像は、左右それぞれ片方だけ開けた時の像の合成になる、と予測した粒子派(ニュートン)に対し、結果は、波が互いに山と谷、山どうし(谷どうし)で打ち消しあい、強め合う時に見られる干渉縞を描いた像で、この時は波動説(ホイヘンス)に軍配が上った。
しかしここで、崇められていたニュートンの重力理論を引き倒したアインシュタインが、今度は光子の導入によってニュートンの光の粒子モデルを一部よみがえらせた。

光子が多数かかわっていれば、干渉縞のような波の性質が現れても、理に適っているように一見思われる。
しかしミクロの世界ははるかに厄介で、光源の強度を下げていき、ついには個々の光子を一個ずつ何秒かごとに障壁にぶつけたとしても、感光板は干渉縞の像を描く、というのだ。つまり、微粒子である光子どうしが、どういうわけか、時間を隔てて干渉しあう、ということである。
このような実験は、アインシュタインの光粒子がニュートンの粒子とはまるで異質であることを示している。
光子は、粒子でありながら、波のような特徴も備えている(二重性をもつ)のだ。

1923年、ド・ブロイは波~粒子二重性が光ばかりでなく物質にもあてはまると唱えた。大雑把に言うと、アインシュタインのE=mc2は質量をエネルギーに関連づけ、プランクとアインシュタインはエネルギーを波の周波数に関連づけた。この二つを組み合わせると、質量も波のような姿をもつ、光が波動現象でありながら粒子としても等しく有効に記述されると量子論が示しているのと同じに、私たちが普通、粒子と見なしている電子も、波として等しく有効に記述されるのではないか、という考えだ。

この後、上記二重スリット実験に似たような実験から、あらゆる物質が波のような性格を備えているという結論が出てきた。
しかしこのことは、私たちが現実に物質を感じることとどう調和するのか?
ド・ブロイはこれについて、波長はプランク定数(h)に比例する(波長は2πhを物体の運動量で割ったものである)という公式を打ち立てた。
光の速さcの値が大きいために空間と時間の真の性格の多くが見えなくなるように、hの小ささのせいで、物質が波のような性格を備えていることが日常世界では見えなくなるのだと。

1926年、「波とはぼやかされた電子だ」とするシュレディンガーの解釈を改良して、ボルンは、「電子の波は確率の観点から解釈しなければならない(波の大きさが大きいところは電子が見つかる確率が大きいところであり、波の大きさが小さいところは電子が見つかる確率の小さいところだ)」と主張した。
ボルンの解釈と、その後半世紀の間におこなわれた実験によれば、物質がもつ波の性質は、物質そのものが根本的には確率論的に記述されなければならないことを意味している。ミクロレベルでは私たちは、ある位置である電子が見つかる確率がこれこれの値だ、と言うこと以上のことはできないと。
それでも電子の確率波(存在確率を示す波)の正確な形を数学的に特定できるかぎり、確率論的予測はできる。
ド・ブロイの提案のわずか数ヵ月後に、シュレディンガーは確率波の形と推移を支配する方程式を決め、まもなくこの方程式と確率論的解釈を用いて、すばらしく正確な予測がおこなわれるようになった。
量子力学によれば、宇宙は厳格で精密な数学的形式にしたがって発展するのだか、この枠組みでは、ある特定の未来が実現する確率しか決まらない。どの未来が実現するかは決まらない、のである。

もう一つの解釈として、ファインマンの視点が紹介されている。
先の二重スリット実験に沿って説明されているのだが、一つ一つの電子は、左右どちらかのスリットを通り抜けるのではない、というのだ。
一つ一つの電子がどちらのスリットを通るか、電子を見ようとすると電子に何かしなければならない。例えば光をあてる、つまり光子を電子にあてて跳ね返らせることによって、必ずその後の電子の動きに影響を及ぼし、実験結果が変わってしまう…ということから、電子は両方のスリットを通る(出発点と終着点を結ぶありうべきあらゆる道筋を通る~左を通る、右を通る、左に行きかけて進路を変えアンドロメダ銀河への長い旅をして帰ってきて右を通る…というように道筋はいくらでもある~)のだと主張するのだ。

ファインマンはこれらの道筋それぞれに一つの数を割り振って、その平均が波動関数アプローチで計算した確率とちょうど等しくできることを示した。
電子がスクリーン上のある点に達する確率は、そこにいたる通りうる道すべての効果を合わせたものからなっている。これが量子力学にたいするファインマンの「経路総和」アプローチと呼ばれるものである。
一見不条理なようだが、日常スケールでは道筋の寄与を合わせると、一つを除いて打ち消しあい、ミクロな物体については多くの道筋が寄与しうるし、実際に寄与することも少なくない、という説明がなされている。

電子の運動への影響を与えずにその位置を確定することは出来ないのか?
光子一個のエネルギーはその周波数に比例し波長に反比例する。
物体の位置は波長に等しい誤差の範囲でしか確定できないため、大きい周波数(短い波長)の光を用いれば位置は突き止められても電子の速度を著しく乱してしまい、小さい周波数(長い波長)の光を用いれば電子の運動への影響は最小限にとどまるが位置を確定する精度は犠牲になる。
ハイゼンベルクはこの競合関係を数量化し、電子の位置を測る精度と速度を測る精度との数学的関係(二つは互いに反比例する)を見いだした。
そしてこれが何より重要なのだが、この位置と速度の測定制度の競合関係は、装置や手順にかかわらず成り立つ根本的な事実であり(ミクロレベルではこの二つの特徴をともに完全に正確に知ることはけしてできない)、この考えは自然の構成要素すべてにあてはまる、のだ。

このハイゼルベルクの「不確定性原理」は、エネルギー測定の精度と測定にかかる時間との間にも同様の競合関係があることを明らかにした。
量子力学によれば、ある粒子がこれこれの時点に正確にこれこれのエネルギーをもつと言うことはできない。エネルギー測定の精度を高めるには、長い時間をかけることが必要になる。大雑把に言うと、粒子のもつエネルギーのゆらぎは、ごく短い時間スケールについて見る限り激しいものでありうるということだ。
量子力学はハイゼルベルクの不確定性原理で決まる時間枠のなかで清算できる限り、粒子がエネルギーを「借りる」(例えばコンクリート壁に直面するミクロな粒子が、当初はある領域に入れるだけのエネルギーをもっていないにもかかわらず、そこにつかのま入り込んでトンネルを通過するだけのエネルギーを借りる~量子トンネル効果~)ことを許す。

第五章
不確定性原理によれば何もない空間領域といった想像できる限り最も活動に乏しい状況でも、ミクロの視点から見ると莫大な量の活動が起こっていることがわかる。
そしてこの活動は、距離と時間のスケールを小さくしていくにつれて、ますます激しくなる。量子的な経理はこれを理解するのに欠かせない。
電子のような粒子は、文字通りの物理的障壁を乗り越える為にエネルギーを借りるということを前述したが、エネルギーのゆらぎが十分大きければ、例えばE=mc2を通して一時的に電子とこれに対応する反物質である陽電子とが生じる。この領域がはじめは空っぽだったとしてもだ!
このエネルギーはさっさと返済しなくてはならないので、二つの粒子は一瞬後にはお互いを消滅させ、生じるときに借りたエネルギーを返済する。
エネルギーと運動量がとりうるあらゆる形態(他の粒子の発生と消滅、電磁波の激しい振動、弱い力と強い力の場のゆらぎ~)についても同じことが言える。

このミクロの宇宙の混沌とした激動を扱える数学的形式を見つけようとした理論物理学者たちは、シュレディンガーの量子波動方程式が実はミクロの物理学を近似的に記述するものにすぎないことを見いだした。
厳密な量子力学の枠組みをつくる上で特殊相対性理論の主張E=mc2が重要であると気付いたのだ。こうして量子場理論が生まれた。

量子場理論の一例である量子電気力学(電磁力)の(理論的計算の予測が実験によって誤差10億分の一以下の正確さで実証されるという)成功に触発され、量子色力学(強い力)、量子電弱力学(弱い力)も発展してきた。
グラショウ、サラム、ワインバーグらは、弱い力と電磁力が、量子場理論的記述では統一されることを明らかにした。(十分に高いエネルギーと温度~ビックバンの何分の一秒か後の状態~では、電磁力と弱い力が互いに溶け合って性格の区別を失い、電磁場と呼ぶべきものになること)
またこの20年の間に、重力以外の三つの力量子的取扱いについてのおびただしい量の実験による精査が加えられ、実験物理学者が第一章で述べた19個のパラメーターを測定すれば、理論物理学者はそれをそれぞれの量子場理論に入力し、ミクロの宇宙に関する理論の予測を実験結果と見事に一致させた。
(ゆえに重力以外の三つの力と物質粒子の三つの族は「標準モデル」と呼ばれる)

第一章でも述べたが、標準モデルによると、光子が電磁場の最小構成要素であるように、強い力と弱い力の場にも、それぞれグルーオンと弱いゲージ・ボソンという最小構成要素がある。
これらの粒子の力を伝えるメカニズムは、例えば光子なら同じ電荷を帯びた粒子には「離れよ」と、反対の電荷を帯びた粒子には「近寄れ」とメッセージを運ぶように作用することから、「メッセンジャー粒子」と呼ばれる。

「エレガントな宇宙2」

2007-07-09 07:07:04 | 本好き
第五章続き

お気づきかも知れないが、自然の諸力のうち量子論で仲間外れになっているのは重力だ。
ここで重力のおかげで、あらゆる観測者が(運動状態にかかわらず)完全に対等だと断言できることを思い起こそう。この意味で重力は対称性を成立させる。
こうした対称性原理を大雑把につかむために例を考えてみよう。
一つ一つのクォークは、三つの「色」(標識として赤、緑、青、で呼ばれる)のどれかを帯びている。
そしてクォークが電磁力にどう反応するかがその電荷で決まるのとだいたい同じように、強い力にどう反応するかは、その色で決まる。
これまでに集められたデータから、クォーク間に対称性があり、色の同じ二つのクォークの間に働く相互作用はすべて同じであり、同様に色の違う二つのクォークの間に働く相互作用もまったく同じである、ことが証明されている。
このクォークが帯びうる三つの色が、特定の仕方でおきかえられても、また例えこのおきかえの細部が時々刻々、また場所によって変わっても、クォーク間の相互作用は変わらない。宇宙は強い力の対称性をもっているのである。
強い力の対称性はゲージ対称性の例だとも言われる。

一般相対性理論の対称性に重力が必要なように、ゲージ対称性が成り立つには別の力の存在が必要であるが、力の場のなかには、力荷の変化の効果を完璧に打ち消して、粒子間の物理的相互作用を完全に不変に保つものが何種類かあり、移行するクォークの色荷と結びついたゲージ対称性の場合、必要な力は強い力そのものである。
このことから、重力と強い力は、特性が大きく違っているにもかかわらず、いずれも宇宙に特定の対称性が成り立つ為に必要とされる、似通った点があることがわかる。
さらに、弱い力と電磁力も、弱いゲージ対称性と電磁ゲージ対称性に結びついている。
したがって四つの力はすべて対称性の原理にじかに結びついている、といえる。

空間的な焦点を絞っていけば、不確定性原理につきものの量子的ゆらぎをこうむり、大きな変動が現れる。
重力場は空間の湾曲に反映されるので、空間のゆがみは激しくなり、泡立ち、荒れ狂って、ねじれた形をとる。
このように超ミクロのスケールで空間(および時間)を調べることであらわになる混乱状態を指して「量子的泡」と言う。
この言葉は、左右前後上下という概念が(さらに過去未来さえ)意味を失う、なじみのない宇宙の領域を指している。
私たちは、このような短い距離スケールで一般相対性理論と量子力学との根本的な矛盾にあう。
具体的には、一般相対性理論の方程式と量子力学の方程式を合体させて計算すると、いつも無限大というばかげた答えが出てしまうのだ。
量子的泡といった破壊的な現象が目に付くようになる距離スケールとは、プランク定数(量子効果の強さを規定するもの)の小ささと、重力の本質的な弱さとがあいまって、プランク長さ(√hG/c3=1.616×10-33センチメートル~G=ニュートンの重力定数)と呼ばれる想像を絶するような小さいものになる。
原子を知られている宇宙のサイズまで拡大したとして、プランク長さはやっと平均的な木の高さまで伸びる、というくらいだ。

こうした深遠な領域でのみあらわになる矛盾を、認めはしても気にしない物理学者もいれば、最も深い最も基本的なレベルで理解すれば、宇宙は調和しあって統一されている一つの理論で記述できるという見方をして、それを捜し求める物理学者もいる。そうした試みは失敗に継ぐ失敗であった。
超ひも理論が発見されるまでは。
(注として、他にツイスター理論、新変数法というアプローチもあることが紹介されている)

第六章
1968年ヴェネツィアーノは、オイラーのベータ関数を使えば、強い力が備える特徴の多くが数学的な形で効果的に要約されることに気付いた。
これはうまく働くが説明を要する公式であった。
1970年南部、ニールセン、サスキンドの三人は、小さな振動する一次元のひもを素粒子のモデルとすれば、核相互作用をオイラーの関数でぴったり記述できることを示した。
しかし1970年代はじめの高エネルギー実験で、ひもモデルから引き出される予測のいくつかが、観測と真っ向から衝突するとわかり、ひも理論はお払い箱になってしまった。
1974年シュワーツとシェルクは、ひもの振動のパターンを研究した末に、グラビトンを発見し、このことにもとづいて、ひも理論が当初失敗したのは、ひも理論が強い力だけの理論ではなく重力をも含む量子理論であることに気付かなかったからだ、と主張した。
そして1984年マイケル・グリーンとシュワーツは、ひも理論が抱える量子力学との微妙な矛盾を解決し、四つの力すべてとともに物質すべてを含むだけの広さがある理論を発表した。
これを受けて世界中で三年間の間に、ひも理論についての1000編を超える論文が書かれ、この1984年から'86年までの時期は「第一次長ひも理論革命」と呼ばれた。
にもかかわらずひも理論はまたしても、方程式そのものを確定するのがあまりにもむずかしいことから、近似的な式にたいする近似的な解しか得られないという壁にぶつかる。
しかしやがて、1995年ウィッテンが「第二次超ひも理論革命」に火を付けることになる。

ひも理論によると、宇宙の基本構成要素は点粒子ではなく、振動する小さな一次元の糸状のものだ。
典型的なひもの長さはプランク長さほど、およそ原子核の10の20乗分の1だ。
ひもが点粒子でないことを直接的に明らかにするには、現在の加速器の1000兆倍ほどのエネルギーで物質を衝突させる加速器が必要になる。
現在、理論的研究でひもにさらに基礎構造があるかもしれないという兆候が現れているものの、ここでは議論のために、ひもを自然の基本構成要素と見なすことにする。

標準モデルはその構造の細部を説明できない。様々な可能性を受け入れることができる為、柔軟すぎて素粒子の特性を説明することができないのだ。
ひも理論は根本的に違う。一意的で柔軟性のない理論構造だ。
測定の基準尺度を定める一個の数字を除いて、何の入力も必要としない。
ミクロの世界の特性はすべて、ひも理論の説明力の範囲におさまる。

ひも理論によれば、素粒子の特性(その質量と様々な力荷)は、その内部のひもが正確にどんな振動パターンをとるかで決まる。
激しい振動パターンほどエネルギーは大きく、穏やかなほど小さい。
私たちが特殊相対性理論から知っている通り、エネルギーと質量はコインの表裏の関係にある。
したがって素粒子の質量は、その内部のひもの振動パターンのエネルギーで決まる。重い粒子ほど内部のひもは大きなエネルギーで振動し、軽い粒子ほど小さなエネルギーで振動している。
粒子の重力特性は粒子の質量で決まるから、ひもの振動パターンと重力にたいする粒子の反応の間にも直接の関連がある。
同様のことがその他のすべての素粒子についても言える。
つまり異なる素粒子と見えるのは実は、基本的なひもが奏でる「音」なのだ。
膨大な数の振動するひもからなる宇宙は、交響楽に似ている。

ひもの張力はどのようにして決まるのか?
基本的なひもはあまりに小さいので、間接的な方法が求められる。
1974年シェルクとシュワーツがひもの振動パターンの一つをグラビトン粒子であると唱えた時には、そのような間接的アプローチが用いられ、それによってひも理論のひもの張力を予測することができた。計算からグラビトンの振動パターンが伝える力の強さは、ひもの張力に反比例することが明らかになった。
グラビトンは重力(本質的にかなり弱い力)を伝えるとされているので、ひもの張力は10の39乗トン、いわゆるプランク張力ということになる。

エネルギーは二つの要因(ひもがどのように振動するか~大きいエネルギーに対応する激しいパターン~、ひもの張力~大きいエネルギーに対応する大きい張力~)で決まる。
ひもの振動パターンに含まれるエネルギーは最小額面エネルギーの整数倍だ。
最小額面エネルギーはひもの張力に(その振動パターンに含まれる山と谷の数にも)比例し、エネルギーがその何倍かであるかは振動パターンの振幅で決まる。
ひもの張力は莫大だから、基本的な最小エネルギーは素粒子物理学の普通の尺度ではやはり大きい。プランクエネルギーの整数倍だ。
プランクエネルギーは質量に変換すれば、陽子の10の19乗倍程度になる。
この素粒子の基準ではとてつもなく大きい質量はプランク質量と呼ばれ、およそ一粒の塵の質量に等しい。
ひも理論の振動するひもの典型的なエネルギーをそれと等価な質量で表せば、一般にプランク質量の整数倍だ。
この典型的なエネルギースケールをプランクスケールと言う。

でははるかに軽い粒子(電子、クォークなど)はどう説明できるのだろう?
不確定性原理によれば、あらゆる物体は量子的なじたばた運動うぃ起こしている。
ひもの量子的なじたばた運動がマイナスのエネルギーの値をとるとき、打ち消しあいが起こり、振動の純エネルギーは、ちょうど物質粒子と力の粒子の質量の付近の値をとる、という。ただしこれは例外的なものである。

ひもがとりうる振動パターンの数は無限だ。では素粒子の数も無限なのか?
答えはイエスである。しかし本質的なのは、ひもの張力が大きい為、(打ち消しあい生まれる)少数のものを除いて、きわめて重い粒子に対応する、ということだ。
この重さはプランク質量の何倍にもなるので、現代の加速器では探すことは出来ない。
しかし宇宙の誕生にともなう莫大なエネルギーによって生まれた粒子が見つかったら(そしてそれはありうる)、それは控えめに言っても記念碑的発見だ。

一般相対性理論の中心的命題(時空がなめらかに湾曲する幾何学的構造を構成すること)と、量子力学の本質的特徴(時空の織物を含め、宇宙にあるものすべては量子的ゆらぎをこうむっており、距離スケールが小さいほどゆらぎはますます激しくなること)の衝突を、ひも理論は解決しうるのか?
大雑把に言うと、
私たちが見られる物体を見ることが出来るのは、物体から跳ね返る光子が運ぶ情報を目が集め脳が解読するからである。
ここで物体(例として桃の種)の構造(大きさ、形、特徴)を知る為に、二台の発射器にビー玉とそれよりはるかに小さい5ミリ弾を詰めて、それぞれを競争させると想像しよう。
結果は明らかであるが、ここから探査粒子が役立つ為には調べようとする物理的特長よりあまり大きくてはいけないことがわかる。
原子より小さいスケールでは、量子的波長が探査粒子の位置の不確かさの幅を示しその感度の尺度となる。
不確定性原理を反映して、点粒子を探査体として用いた時の誤差の範囲は、探査粒子の量子的波長におおよそ等しいのだ。
粒子の量子的波長はその運動量(つまりエネルギーにも)反比例する。だから点粒子のエネルギーを増すことで量子的波長を短くし、どこまでも細かい物理的構造を探ることができる。
この点で点粒子とひもの違いは明白になる。
ひもは本質的な空間的広がりをもっているので、その大きさ(プランク長さ)より相当小さいものの構造を探ることができない。
ひものエネルギーを高め続けても、プランク長さのスケールで構造を探るのに必要な値を超えるところまでエネルギーが増せば、それ以上エネルギーを増しても、ひもによる探査の精度は高まらないのだ。
むしろエネルギーを増すとひもは大きくなり、感度は低下する。

ここから、プランク長さ以下のスケールで起こる、一般相対性理論と量子力学の衝突についてひも理論では、宇宙の基本構成要素でプランク長さより小さい距離を探ることができなければ、基本構成要素も、それでできたどんなものも、超微小スケールで起こる破滅的な量子変動に影響されない。したがってひも理論によれば量子的変動は現実には起こっていないのだ。

この議論には不満が残るかも知れない。しかしこう考えることもできる。
問題の空間のゆらぎが、点粒子の枠組みから生じたということだ。
致命的な空間のゆらぎ私たちの理論に現れたように見えたのは、私たちがどれだけ微細に宇宙を探れるかには限度があることに気付かず、点粒子アプローチにしたがって物理的実在の限界を越えてしまったからだと。

衝突の解決についてもう少し厳密に答えよう。
まず、点粒子が実在するとしたら、どのように相互作用をおこなうか考えよう。
例えば電子と陽電子が衝突し、光子が生まれ、少し進んでからまたその光子が新たな電子と陽電子の対を生み出すとき、最初の電子と陽電子が消滅し、光子を生み出す時点と場所は明確で、完全に特定できる。
ところがこれが一次元のひもだとしたら、ひもは広がりのある物体である為、第二章で述べた相対性理論と同じように、二つのひもがはじめて相互作用する明確な位置や時点などないことになる。それは観測者の運動状態に依存するのだ。

点粒子は相互作用を明確な一点に詰め込んでしまう。
相互作用にかかわる力が重力である時、力の効き目が完全に一点に詰め込まれることにより、無限大といった惨憺たる結果が引き起こされる。
ひもは相互作用の起こる場所を「ぼやかす」。
このぼやかしの結果、超ミクロの空間のじたばたは穏やかになるのだ。

第七章
理論を組み立てている間は、発展状態が不完全なのでなので理論から導き出される詳しい実験結果を評価することができない。にもかかわらず物理学者は、未完成の理論をどちらの研究方向に持っていくか判断を下さなければならい。
こうした決断のなかに、美的感覚を指針とするものがあるのは確かだ。
勿論この戦略が真理に繋がるという保証は無いが、ここ数十年の間に物理学者たちは、対称性の概念をたどることによって、物質粒子とメッセンジャー粒子が密接に絡み合う、ありうる最大の対称性を持つ「超対称性理論」を見つけ出した。
超ひも理論は、超対称性的枠組みの元祖にして最高の例である。

物理法則が、時々刻々、または場所によって変化するならば、物理学にとってそんな宇宙は悪夢だ。
物理学者は(それに大抵の人は)宇宙の安定性に頼っている。(たとえ法則をすべて見極められなくても)
このあらゆる時点と空間内の場所で同等に(対称的に)同じ自然の基本法則が作用することが保証されることを、「自然の対称性」と呼ぶ。
特殊相対性理論の相対性原理、一般相対性理論の等価原理、回転対称性(物理法則はあらゆる可能な方向を平等に扱う)などがあげられる。
(第五章で論じたもろもろのゲージ対称性は、たしかに自然の対称性だが、もっと抽象的なものだ)
他にもあるのだろうか?

点状の対象が回転するというのは意味をなさないように見える。
1925年ユーレンベックとハウトスミットは、電子が非常に特殊なある磁気的性質をもつと考えれば、原子が放出・吸収する光の性質にかかわる大量の不可思議なデータが説明できることに気付いた。
その磁気的性質を生み出す運動が回転運動、つまりスピン(自転)だ。
この場合のスピンには、実験的に立証された量子的ひねりが注入されている。
つまり、電子のスピンは一時的な運動状態ではなく、つねに一定不変の速さで回転する、という質量や電荷のような固有の性質であり、回転していない電子は電子ではない、ということだ。
その後スピンをめぐるこの考えが、物質粒子(対応する反物質粒子も)すべてにあてはまることが明らかになった。
物質粒子はすべて「スピン1/2(そのスピンに由来する電子の角運動量が、h/2ということ)」を備えている。
さらに重力以外の力(メッセンジャー)粒子(光子、弱いゲージ・ボソン、グルーオン)が「スピン1」を、グラビトンが「スピン2」を備えていることも明らかになった。
ひも理論では、スピンはひもがもつ振動パターンと結びついている。

普通の回転運動について、回転不変性という対称性原理が成り立つように、スピンと結びついたこの微妙な回転運動にも、別の対称性が自然法則にありうるのだろうか?
答えはイエスであり、それは「超対称性」と呼ばれる。
超対称性は、ちょうどスピンが「量子力学的なひねりを加えた回転運動に似ている」ように、「空間と時間を量子力学的に拡張したもの」のなかでの観測的な立場の変化と結び付けることができる。

宇宙が超対称的であれば、自然の粒子はスピンが半単位(1/2)だけちがう対をなすはずだ。そのような粒子対は「スーパーパートナー」と呼ばれる。
物質粒子と力粒子が対をなしているように見えるが、どの二つも互いのスーパーパートナーではありえなかった。
そして理論的分析によって、宇宙に超対称性が組み込まれているならば、既知のどの粒子にもスピンが半単位だけ小さい未発見のスーパーパートナーがあることがわかった。
(それぞれスピン0の、電子には超(対称)電子、ニュートリノには超ニュートリノ、クォークには超クォーク、それぞれスピン1/2の、光子にはフォチーノ、グルーオンにはグルーイノ、WボソンとZボソンにはウィーノとジーノだ)

超対称性の根拠として、まず、自然が、数学的にありうる対称性の殆どを尊重するが、全部は尊重しない、ということが審美的立場から信じがたい、といえる。
次に、ボソン(スピンが整数である粒子)とフェルミオン(スピンが奇数の半分~半整数~である粒子)がおこなう量子力学的寄与に打ち消しあう傾向があるため、超対称性が成り立てば、ボソンとフェルミオンは対をなして生じるので、はじめから相当な打ち消しあいが起き、量子効果の狂乱の一部がかなり静まり、超対称的標準モデルは、もはや通常の標準モデルのあまりにも絶妙な数値調整に頼らなくてすむ、ということだ。
そして、大統一の概念であるが、これは自然の四つの力の、それぞれの固有の強さが大きくちがうという特徴に、そのうちの三つの力の深い関連を証明することによって、統一する、というものである。
電磁力と弱い力は、宇宙の温度が絶対温度でおよそ1000兆度(10の15乗K)まで下がった時に、もっと対称的な統一体から析出してくる。
強い力との統一はその10兆倍の温度(絶対温度でおよそ10の28乗K)で現れる、と明らかになった。

同じ頃おこなわれた研究によって、大統一理論の枠組みのなかで重力以外の力が統一される可能性がいっそう明白になった。
反対の電荷を帯びた二つの粒子の間に働く引力や、質量を持つ二つの物体の間に働く重力の引力は、物体間の距離が減少するとともに強まる。
電子の電気力の場を調べる時、実は電子を取り巻く空間領域全体で起こっている瞬間的な粒子-反粒子の出現と消滅の「霧」を通してそれを調べているのであるが、電子に近づくにつれ、間にある「霧」の量は少なくなることになり、霧の影響が弱まり、つまり電子に近づくにつれ、電磁力の強さは増す。
これを電磁力が強まる古典物理学的現象と区別して固有の力が増す、という。
量子的な霧は強い力と弱い力の強さを増幅する。したがって近づくにつれ霧による増幅効果が減り、固有の力は弱まる。
この認識から、量子論的狂乱のこうした効果を勘定に入れれば、正味の結果として、重力以外の三つの力の強さはすべて一つになる。
現在の技術で実現できるスケールでは、この三つの力の強さはかけ離れているが、実はこの違いはミクロの量子的作用の霧がそれぞれに及ぼす影響の違いからきている、というのだ。
その後もっと精密な実験結果を利用して、三つの力は小さな距離スケール(つまり高エネルギー/高密度で)殆ど一致するが、ぴったり一致するわけではない、とわかった。この小さいが否定できない食い違いは、超対称性を組み込めば消え去る。それは超対称性が成り立つ為に必要な新しいスーパーパートナー粒子が新たに量子的ゆらぎをもたらし、これらのゆらぎが力の強さを収束させるのにちょうどいいからだ。

1960年代終わりにヴェネツィアーノの仕事から出てきたもともとのひも理論には、対称性は組み込まれていたが、超対称性は(まだ発見されていず)組み込まれていなかった。この最初の理論は「ボソンひも理論」と呼ばれていた。
ここから二つの問題が出てくる。フェルミオン・パターンを組み込まなければならないことと、ボソンひも理論には質量がマイナスである振動パターン(タキオン粒子)が一つあるとわかったことだ。
1971年のラモンの研究と、その後シュワーツとネヴーが出した結果を通じて、新しいひも理論が現れはじめた。この新たな理論のボソン振動パターンとフェルミオン振動パターンは対をなした。
1977年にはグリオッティ、シェルク、オリヴが、この対つくりに洞察の光を当て、またボソンひも理論の厄介なタキオン振動が問題にならないことを証明した。「超対称性ひも理論~超ひも理論」が生まれたのだ。

1985年には、物理学者は既にひも理論の構造の中心的要素になっていた超対称性をひも理論に組み込むやり方が実は一通りではなく、五通りあることに気付いていた。出てくる理論は、対(ボソン/フェルミオン)のつくり方の細部の点でも、他の数多くの特性の点でも相当違っている。
これら五つの超対称性ひも理論は、「Ⅰ型理論」「ⅡA型理論」「ⅡB型理論」「ヘテロO(32)理論」「ヘテロE8×E8理論」と呼ばれる。

「エレガントな宇宙3」

2007-07-09 07:07:03 | 本好き
第八章
1919年カルーザは、「宇宙の空間次元は三っつではなくもっと多いかもしれない」と唱えた。
このことを見て取る為に、例えば長細いホースのようなものを想像しよう。
谷をまたいで張られたホースを遠くから見ると、ホースの表面から離れられない蟻が歩く次元はホースの長さの方向に沿った左右の次元一つしかない。
肝心なのは遠く離れた視点から見ると、長いホースが一次元の物体に見えるということだ。
現実にはホースには太さがあり、ズームアップして見れば、ホースの表面に住んでいる蟻が二つの次元(ホースの長さに沿った左右の次元と、環状にホースを巡る「時計回り-反時計回り」の次元)に沿って歩けることがわかる。
この例から、空間次元には大きく拡がっておりすぐ目に付くものと、小さく巻き上げられていてずっと認めにくいものがある、とわかる。
環状の次元は新たな次元であり、どの点にも上下、左右、前後の次元それぞれが存在するように、拡がった次元のどの点にも存在する、新たな独立した次元だ。
しかし「小さい」とはどのくらい「小さい」のか?
1926年クラインは、カルーザの最初の示唆と、量子力学の分野から借りた概念を組み合わせ、環状の次元の大きさはプランク長さほどでしかない、と計算した。
それ以来、小さな空間のなかに新たな次元がある可能性を「カルーザ-クライン理論」と呼ぶ。

一般相対性理論と量子力学との深刻な矛盾の徴候として、計算から無限大の確率が出るということがあった。これはひも理論によって正される。
しかし、ひも理論の初期に物理学者は、やはり許容範囲からはずれるマイナスの確率をもたらす計算がいくつかあるのを見いだす。
そして、この許容できない特徴の原因として、ひもが振動しうる独立した方向の数が次元の数によって制限され、そのことに例の厄介な計算が大きく影響されることが見いだされた。計算によれば、ひもが九つの独立した空間次元で振動しうるとすれば、マイナスの確率は打ち消される。
ひもはとても小さいので、大きな拡がった次元だけでなく、小さい巻き上げられた次元でも振動しうる。
ひも理論が意味をなすには、宇宙に空間次元が九つ(おなじみの三つの拡がった空間次元に加えて、巻き上げられた六つの空間次元)、時間次元が一つ、合計10個の次元がなければならない。
(余談ですがここで、巻き上げられた次元が時間次元である可能性を探る研究について紹介されています。結論はまだ出ていませんが、例えば円のように巻き上げられた空間次元を歩き回る小さな蟻が、完全な巡回路を巡り同じ位置に何度も繰り返し戻ってくるように、巻き上げられた次元が時間次元なら、ある時間が経過した後で以前の時点に戻るということである)

新たな次元の大きさと幾何学的な形が、ひもの共振振動パターンを決めるのに決定的な役割を演じる。理論から出る方程式によってこうした次元がとりうる形は制約される。
1984年カンデラス、ホロウィッツ、ストロミンジャー、ウィッテンは一組の六次元幾何学図形がこうした条件を満たすことを証明した。
これらの図形は、エヴゲニオ・カラビとシントゥン・ヤウに敬意を表して「カラビ-ヤウ図形」と呼ばれる。
ひも理論から出てくる新たな次元の厳しい要件を満たすカラビ-ヤウ図形は何万と存在するが、数学的にありうる図形が無限であることから考えれば、たぐいまれなものだといえる。

第九章
現在の技術では、個々のひもを見るには銀河の大きさの加速器が要る。ひも理論を実験で検証するのなら、間接的にやるしかない。
ひも理論以前には、素粒子になぜ族があるのか、なぜ三つあるのかということは難問として残されていた。ひも理論が提示する答えはこうだ。
典型的なカラビ-ヤウ図形には、ドーナツ、あるいは多重ドーナツの真ん中にある穴に類似した穴がある。
高次元のカラビ-ヤウ図形という状況では、生じうる穴(それ自体さまざまな次元をもちうる穴~多次元の穴~)の種類は様々だが、こうした穴のそれぞれに、エネルギーが最低のひも振動の族が結びついている、とわかった。
おなじみの素粒子は最低エネルギーの振動パターンに対応するため、多重ドーナツの穴のように複数の穴が存在するということは、ひもの振動パターンが複数の族に分かれる。実験で観察される族の構成は、新たな次元を構成する幾何学図形にあいた穴の数を反映する!ということだ。
しかしあいにく、知られている何万というカラビ-ヤウ図形のそれぞれに含まれる穴の数は、広い範囲にわたる。
新たな次元の幾何学的な形がもたらす実験上の帰結は族の数ばかりでなく、カラビ-ヤウ図形の様々な多次元の穴の境界がどのように交差しあい重なりあうかによって、力の粒子と物質粒子の性質も決める。
何万というカラビ-ヤウ図形があると先に述べた時、既にお互いに滑らかに変形できる形どうしを一グループとし、一グループを一つと数えていたので、三つの族をもたらす図形だけに注目しても、その選択肢は無限にあることになり、また現在用いている近似的な方程式では、どのカラビ-ヤウ図形についてもそこから生じる物理を明らかにしつくせない。現在のところ、どれが新たな空間次元を構成するのかを、ひも理論の方程式から導き出すすべがないのである。

ではひも理論の予測のなかに、今もしくは見通せる未来に実験物理学者が確かめられそうなものはあるのか?
例えば、ひも理論と超対称性との関連から、スーパーパートナー粒子を見つけ出す、一定の幾何学的性質を備えた巻き上げられた次元から現れうる、ふうがわりな電荷を帯びた粒子を見つけ出す、ビックバンのエネルギーで生み出されたような巨視的なひも(そういうひもが宇宙の膨脹で天文学的規模まで大きくなっているかも知れない)を見つけ出す、などが挙げられる。
他にも、ひも理論が実験上に残すもっと現実的な痕跡の例を五つ挙げよう。
第一に、標準モデルによると質量の無いニュートリノ(1998年ニュートリノに質量があることが明らかになった)に、とても小さいがゼロではない質量があるとわかった場合、説得力のある説明を提示すること。
第二に、標準モデルでは禁じられているがひも理論では許されるかもしれない仮想上のプロセス(陽子の崩壊など)が観察されること。
第三に、カラビ-ヤウ図形のいくつかから生み出しうる新しい力の効果の発見。
第四に、宇宙全体がどっぷり漬かっていると思われる「暗黒物質」の正体の確認。(ひも理論は共振パターンのなかから暗黒物質の候補をいくつか示唆している)
第五に、ゼロでなければならない理由を説明できない「宇宙定数」の問題の解決、である。

第十章
150億年ほど前にビックバンが起き、今宇宙は膨脹している。
この膨脹がいつまでも続くか、収縮に転じる時が来るのかは、宇宙の平均物質密度が、一立方センチメートルあたり一グラムのおよそ10の29乗分の一(宇宙一立方メートルにつきおよそ水素原子五つ)という、いわゆる臨界密度を超えるか(収縮)下回るか(膨脹はいつまでも続く)に、かかっている。
今のところ、宇宙にある目に見える物質の平均的な密度は臨界値よりも相当低いが、宇宙に充満しているという証拠が挙がっている暗黒物質の正体が突き止められていないので、その将来は定かではない。
議論の為に収縮すると仮定して、一般相対性理論によるとビッククランチが起こることになるが、プランク長さくらいかもっと小さい距離スケールでは、量子力学のせいで一般相対性理論の方程式は無効になってしまう。

ここで重要な点を説明する為に、本質的でない細部を削ぎ落とした例として、空間次元が二つしかないホース宇宙に戻ることにする。
ひも理論では、物理的に到達できる距離スケールの下限を定めるため、宇宙はその空間次元のいずれでもプランク長さより小さいサイズにつぶれることはありえない。また点粒子と違って、ひもは広がりのある対象なので、空間の円形部分に巻きつくことができる。
巻かれていないひもと巻かれたひもの本質的な違いは、巻かれたひもの質量には最小限度があることだ。この最小質量は、円形の次元の大きさとひもが何回巻かれているか、そしてひもの質量がこの最小限をどの程度超えるかは、ひもの振動運動で決まる。
E=mc2を用いて、巻かれたひもに閉じ込められたエネルギーは、円形の次元の半径に比例するともいえる(巻かれていないひもにも、小さな最小限の長さがある~そうでないと点粒子の世界に戻ってしまう~が、同じ論法で巻かれていないひもにも最小質量があるとある意味言えるが、量子力学効果によってこの質量をちょうど打ち消すことができるので、巻かれていないひもは、グラビトンなど、質量がないかゼロに近い粒子を生み出せるのだ。巻かれたひもはこの点で違っている)

ひもの巻かれた配置の存在は、ひもが巻きつく次元の幾何学的性質にどう影響するのだろうか?
1984年吉川圭二と山崎真見が見いだした答えは、奇妙で瞠目すべきものだ。
ビッククランチの変種がホース宇宙に起こるとして、最後の段階を考えよう。
ひも理論によれば、円形の次元の半径がプランク長さよりも短い縮んでいくホース宇宙と、円形の次元の半径がプランク長さよりも長い拡がっていくホース宇宙では、物理プロセスはすべて完全に同一なのだ!
つまり円形の次元がプランク長さを通り越してもっと小さくつぶれようとしても、ひも理論が幾何学を一変させるせいでその試みは無駄に終わるということだ。(この展開を、環状次元はプランク長さまで縮んだ後で膨脹すると言いかえることができる)
これまで宇宙は完全に崩壊するように見えたが、今や跳ね返るのだと見なされる。

ひもが巻きつくということは、ホース宇宙のひものエネルギーの源に、振動と巻きつきエネルギーの二つあることを示す。またどちらもホースの幾何学(つまり環状要素の半径)に依存する。
ひもの振動には一様振動(ひもが形を変えずにある位置から別の位置へすべって移るときの運動)と通常振動(ひも自体が波を起こすような振える運動)の二種類ある。これは組み合わされるものだが、今の議論では切り離して考える。
不確定性原理からの帰結として、一様振動のエネルギーは環状次元の半径に反比例し、巻きつきエネルギーは半径に正比例する。
二つの結果から、どんなに大きな半径のホース宇宙にも、小さな半径の一つのホース宇宙が対応していて、エネルギーが等しくなるようになっているといえる。
(v=振動回数、w=巻き数 v/R+wR)
物理的性質はひもの配置の総エネルギーにのみ影響される(そしてその振動と巻きつきの配分には影響されない)ので、幾何学的に別個の形(太いホースと細いホース)であるこれらのホース宇宙の間には、何ら物理的区別はない。
そして通常振動の寄与は半径の大きさによらない為、二つの宇宙に同じ影響を及ぼす。二つの宇宙は区別しようがない。

これまでホース宇宙の話を論じてきたが、拡がった空間次元が三つ、そして(最も単純なものを考えて)環状次元が六つあるとしても、結論はまったく同じだ。
おなじみの拡がった三つの空間次元の先が、無限につづいているのか巨大な円を描いて曲がっているのかはわからない。
だから環の形をしていて、したがってRと1/Rが物理的に同一である見込みは大いにある。
宇宙の半径は150億光年と同じくらい(プランク長さの10の61乗倍~R=1061~)で、膨脹するにつれて伸びていく。
ひも理論が正しければ、これは通常の次元が環状で、その半径が恐ろしく小さく、プランク長さのおよそ1/R=1/1061=10-61倍である場合と物理的に同一だ!そしてますます小さくなっていく。
こんな微細な宇宙に身長180センチの人間がどうして「おさまる」だろう?
またひも理論は、プランク長さ以下を探ることを不可能にしてしまうはずだったのにどうなっているのか?

物理学で最も意味のある定義は、操作的な定義、つまり定義されるものを測るための手段を原理的に提供するものだ。
1988年ブランデンバーガーとヴァーファは、ある次元の空間的な形が環状であれば、ひもの距離には二つの操作的な定義があり、その二つは異なってはいるが関連している、と指摘した。
大雑把に言って、巻きついているひもと巻きついていないひもをそれぞれ探査体とし、探査体が一定の速さで進み、その速さがわかっていれば、それがある距離を進むのにどれだけかかるかを測ることでその距離を測ることができるという、単純な原理にもとづいている。
巻かれていないひもは自由に動き回り、環状次元の周囲の長さを探ることができ、この長さはRに比例する。
不確定性原理により巻かれていないひものエネルギーは1/Rに比例する。(探査体のエネルギーと探査体に感知できる距離の間には反比例関係がある)
一方、巻かれたひもの最小エネルギーはRに比例し、不確定性原理から、巻かれたひもは距離探査体として1/Rを感知する。
つまり、それぞれを用いて環状の空間の半径を測れば、巻かれていないひもではR、巻かれたひもでは1/Rという値が出る(これは対等である)、異なる探査体を用いて距離を測れば異なる答えが出てくることがありうる、ということだ。

私たちが日々の営みのなかで、二つの距離概念に出会ったためしがないのはなぜか?
それは、半径Rが(ということは1/Rも)プランク長さ(つまりR=1)と著しく違えば、対応する探査体の質量もたいへん違うことになり、一方がきわめて実現しにくく、一方がきわめて実現しやすくなるからだ。
この意味で、宇宙を普通考えるように大きくて膨脹していると考える(軽いひもモード)ことも、小さくて収縮していると考える(重いひもモード)こともできる。

「やさしいやり方」で距離を測りつづければ(軽いひもモード)、得られる結果はいつもプランク長さより大きくなる。
このことを見て取る為に、三つの拡がった次元が環状だとして、ビッククランチについて考えよう。
議論の都合上、巻かれていないひもモードは軽いもので、これを用いて測ると、宇宙の半径は莫大で、時が経つにつれ縮んでいる、としよう。
半径が縮むにつれ、巻かれていないひもモードは重くなり、巻きつきモードは軽くなる。半径がプランク長さまで縮むと(Rが1という値をとると)巻きつきモードと振動モードは質量が同じ程度になる。
半径が引き続き縮んでいくと、巻きつきモードは巻かれていないモードより軽くなる。私たちはいつも「やさしいやり方」を選択するから、こうなると距離を測るのに巻きつきモードが用いられるはずだ。
この測定方法では、巻かれていないモードで測った結果の逆数が出てくる。これは巻かれていないモードが一よりさらに小さくなる(縮む)一方で、巻きつきモードは一より大きくなる(伸びていく)からだ。
「やさしいやり方」を用いるようにすれば、出会う最小値はプランク長さだ。
プランク長さまで縮むとすぐに伸び始める。クランチは最後にははね返るのだ。

一般相対性理論と「通常」の幾何学では、半径Rの円は半径1/Rの円とまったく異なる。
ところがひも理論では、二つは物理的に区別できない。
ここから私たちは大胆に進んで、大きさだけでなく、形の点でも、異なっていながら、ひも理論では物理的に区別できない、そういう幾何学的な空間の形があるのか?と問う。
1988年ディクスンらは、ありうるかも知れないと述べた。
第九章でも論じたが、ここでいろいろな次元の穴の数は違うが、穴の総数は同じである二つのカラビ-ヤウ空間があると想像しよう。違う形をしているが、穴の総数は同じなので、どちらも族の数は同じだ。
これは一つの物理的性質にすぎない。あらゆる物理的性質が一致するというのははるかに厳しい要件だが、これでディクスンらの推測が本当でありうるかの要点は伝わる。

1988年著者とプレッサーが、特定のグループの点をうまくくっつけ合わせると、つくりだされたカラビ-ヤウ図形は、出発点とした図形と、吃驚するような仕方で違っていた。新たな図形にある奇数次元の穴の数は、もともとの偶数次元の穴の数に等しく、その逆も成り立っていたのだ。
つまり、形、基本的な幾何学的構造がまったく違うのに、穴の総数が同じということだ。
二つの異なるカラビ-ヤウ図形は、粒子の族の数以外の物理的特性も一致するのか?詳細な数学的分析に取り組んだ末、答えはイエスだと論じることができた。
そして、互いに物理的に等価でありながら幾何学的に別物であるカラビ-ヤウ図形を、「鏡映多様体」と呼ぶことにした。
何週間か後、リンカーとシムリクが、カラビ-ヤウ空間の大規模なサンプル群を調べて、ほぼすべてが、ちょうど奇数次元の穴の数と偶数次元の穴の数とが入れかわっている点で違っている対をなすことを見いだした。
著者らは二本の論文を通じて、ひも理論の鏡映対称性を発見したのである。(この用語は全く異なる文脈でも用いられる)

鏡映対称性によって、あるカラビ-ヤウ空間についてのむずかしい計算を、計算結果(物理)が同じになるその鏡映パートナーに言いかえることができるようになった。一見してもとの計算を言いかえたものは、同じようにむずかしいと考えられるかもしれないが、結果が同じでも、計算の詳細な形はたいへん違って、きわめてやさしい計算に変わる場合があることを発見した。
これにより、物理学のみならず数学との深い統一も形づくりそうである。

第十一章
宇宙を形づくる空間の織物が裂けることはありうるのか?
一般相対性理論によれば、それはありえない。
根底にある数学的形式を考えると、空間の基底がなめらかでなければ距離関係について何ら意味のあることを述べることができないからだ。
しかし量子力学を組み込んだ新たな物理の定式化においては、切れ目、引き裂きと融合の可能性を検討する妨げにはならない。
ワームホールの概念は、このような考察を利用するものだ。
ワームホールとは、宇宙の一領域から別の領域への近道となる新たな空間を創造し、新たな空間領域を切り拓くものだ。
(ここでブラックホールには本当に穴があり、どんなものもブラックホールの重力を逃れることはできないので、事象地平によって私たちは宇宙の「特異点」から保護されているのだ、という推論から、こうしたたぐいの空間的不規則性は事象地平のかげに隠されて私たちに見えない場合のみ生じうる、という「宇宙検閲仮説」が紹介されている)

1987年ヤウとティアンは、カラビ-ヤウ図形の表面に穴を開けてから精密な数学的パターンにしたがって縫い合わせることで、他の形に転換できる場合がいくつかあることを見出した。
大雑把に言って、ある種の二次元球面が、もとのカラビ-ヤウ空間のなかにおさまることを発見したのである。
彼らはこの球体を一点になるまで縮めていき、締め付けられた空間を少し引き裂き開いて、別の二次元球面を挟んでくっつけ、すると球面が膨脹してふっくらした形になる…ということを考えた。この一連の操作をプロップ(がらり)転移と呼ぶ。
そして、当初の図形が最終的な図形と位相的に別のものであることから、空間の織物を引き裂くことなく変形するすべがないことに気付いた。

環状次元には最小半径があることにもとづいて考えると、球面が一点にまで縮むことはありえないと言いたくなる。
しかし空間次元がまるごと崩壊する場合と違って、その一部が崩壊すれば(この場合ひもが巻かれた配置に「囚われる」ことはありえない。輪ゴムがボールからはずれるように、ひもが「ずり落ちる」ことがいつでもありうるからだ)、大きな半径と小さな半径を区別する議論は成り立たなくなる。

1991年リュトケンとアスピンウォールは、数学的に込み入ったプロップ転移には、はるかに単純な鏡映記述があるかもしれないと考え、プロップ転移の空間の引き裂きによって、鏡映記述のなかに破滅的な物理的帰結の徴候はないことに気付いた。
著者とプレッサーはこれをきっかけに、締め付けが数学的に二通りの仕方で修復できることを理解した。一つは当初の図形、もう一つは最終的な図形につながるもので、このことからこれらの図形の推移は、現実に起こりうると推測した。

空間の引き裂きが破局的な結果をもたらさないもう一つの微視的な理由は、点粒子理論と違って、裂け目のまわりを巡るひもが、それを取り巻く宇宙を破局的な結果から守るということだ。あたかもひもの世界面(ひもが空間を突っ切る時に描く二次元面)が空間織物の幾何学的な変質の破局的な側面を打ち消す保護バリアーとなっているかのようである。ひもが近くになかったら?また効果はあるのか?
ファインマンの量子力学の定式では、粒子であれひもであれ、物体はとりうる経路すべてを「嗅ぎ分けて」、ある位置から別の位置へ移動する。
量子力学はひもがとりうる経路をすべて勘定に入れており、そのなかには裂け目のまわりを巡り、宇宙を保護する道筋が多数(実は無限に)ある。
この空間を引き裂くプロセスを「位相変更転移」と呼ぶ。

カラビ-ヤウ成分の幾何学的な形が移り変わるのに応じて、質量は連続的に変化するが、引き裂きが実際に起こった時、質量の変化に破局的な飛躍も突出も、あるいはどんな異常な特徴も現れない。
おなじみの三つの空間次元にも、このような引き裂きは起きるのか?
答えはほぼ間違いなくイエスだ。何と言っても空間は空間であり、宇宙の向うで湾曲しているかも知れないのだから、どの次元が巻き上げられ拡がっているかなど、いくらか人為的なのだから。
今日明日にも、または過去に、このような引き裂きは起こる(起こった)のか?
イエス。ひもにもとづいていない理論さえ、ビックバンの後の最も早い時期、素粒子の質量が時とともに変化する時期があったと主張する。また現在粒子質量が安定した値で観測されるということは、現在宇宙に引き裂きが起こっているとしてもその進み方は遅すぎて、素粒子の質量への影響が感知できないほど小さいということだ。
驚くべきことに、この条件が満たされるかぎり、宇宙が空間の破裂のただなかにあることもありうるのだ。
観測できる現象がないことが興奮を引き起こすという、物理学では稀な例である。

「エレガントな宇宙4」

2007-07-09 07:07:02 | 本好き
第十二章
1980年代終わり頃、ひも理論はまだ合格点に達していないように見えた。
まず、ひも理論には五つの種類があり、超対称性の取り入れ方と、振動パターンの細部に重要な違いがある。(例えばⅠ型ひも理論には、これまで論じてきた閉じたループに加え、ループをなさない開いたひもがある)
次に、五つのひも理論のうちのいずれの方程式にも、解がいくつもあるからだ。
ひも理論の方程式は複雑すぎて、誰もその正確な形を知らない。物理学者は何とか方程式の近似的な形を述べてきたにすぎない。ひも理論の種類によって著しくちがうのは、こうした近似的な方程式である。

しかし1995年以来、方程式の正確な形が理解されれば、五つのひも理論は実はすべて密接に関連していると判明されるはずだと、おおかたの物理学者が満足する程度に証明されている。
すべてを包含するこの枠組みは、暫定的に「M理論」と呼ばれている。
M理論には本質的な特徴が二つあり、第一にM理論には11個の次元(空間次元が10個、時間次元が一つ)がある。
これまでの章で論じた九つの空間次元と一つの時間次元に加えて、空間次元がさらにもう一つあれば五つの理論すべてが深く満足のいく形で統合される。
時空次元が10個という結論につながった'70年代'80年代の推論は近似的なもので、今完成された正確な計算によれば、空間次元が一つ見落とされていたのだ。
第二に、この理論に含まれる対象が振動するひもだけではなく、振動する二次元の膜(メンブレン)、変動する三次元のかたまり(3ブレン)など、多くの構成要素も含まれる。
第11次元と同じように、この特徴も近似に頼らない計算によって現れるものだ。

ひも理論の分析に制約があるのは、物理学者が用いてきた摂動論に関係がある。
摂動論とは、ある問いにおおよその答えを出すために近似をおこない、その後で当初無視した細部に注意してこの近似を系統的に改善していくというやり方のことだ。
太陽系のなかを地球がどう動くかという重力の影響を理解することは、摂動的アプローチの古典的な例だ。
この例でアプローチがうまくいくのは、他と比べて大きい主たる物理的影響(太陽との重力の相互作用)があって、比較的単純に理論的記述ができるからだが、例えば質量が同等の三つの星が互いのまわりで軌道を描いている三重星では、主たる相互作用などなく、仮に二つを選んでその後予測の「改良」をしようとしても、単に大きな改良をおこなうというだけでなく、ドミノ効果が生まれる。

ひも理論の物理的プロセスは振動するひもどうしの基本的相互作用(ひものループの分裂と接合がからんでいる)から成り立っている。
ひもの相互作用の公式は明らかにされているが、不確定性原理によって、ひも/反ひもの対は宇宙からエネルギーを借りて時々刻々発生でき、これを「仮想ひも対」と呼ぶが、これらは相互作用のあり方に影響する。
こうしたプロセスの一つ一つにたいして、もとのひもの対の運動が受ける影響を要約する数学的公式はあるが、ダイアグラムは無限にあるため、ひも理論研究者はもともとのプロセスからまあまあ正確な見積りが得られると期待し、また仮想ひも対の生み出すループあるプロセスからの修正はループの数が増すにつれて小さくなっていくと期待して、こうした計算を摂動的枠組みにはめこんでいる。
近似が近似になりうるかの条件は、ひも結合定数(仮想対が現れる可能性を決める数)にかかる。この数が一より小さければループを含むダイアグラムの寄与は、ループの数が増すにつれて、どんどん小さくなる、ということである。
しかしこの「ひも結合定数」の値がいくらなのかは、未解決の問題である。
次の飛躍的前進には、非摂動的アプローチが必要なのだ。

「ひも理論95」会議での講演でウィッテンは、新たな意味深い種類の双対性がある証拠を挙げた。
これには前述の、摂動的方法の適用に関する問題が密接にからみあっている。というのは、五つの理論は、結合定数が一より小さい時(弱く結合している時)明らかに異なるからだ。物理学者は摂動的方法に頼った為、結合定数が一より大きい場合、ひも理論のそれぞれがどんな属性を備えるかという問題(いわゆる強い結合とという性質の問題)に対処することができないでいた。
ウィッテンらは、私たちがまだ記述していないもう一つの理論を含めて六つのひも理論それぞれの強い結合は、必ず別の理論の弱い結合として記述されるという双対性が存在する、と主張する。
例えていうと氷と水のように、五つのひも理論のどの二つもまったく別物のように見えるが、それぞれのひも結合定数を変えていくと、ひも理論はそれぞれ別のひも理論に転化するのだ。

対称性の威力は(例えば犯罪の目撃者が犯人の顔の右側のみ見たときに、犯人を捕まえて顔の左側を調べるのと目撃情報をもとに似顔絵を描くことの違いのように)つねに間接的なやり方(直接的よりはるかにやさしいやり方)で属性を突き止める力にある。(勿論左右対称でない顔もあるように、宇宙のかなたでは物理法則が異なるかも知れないが)
超対称性はもっと抽象的な対称性原理で、異なるスピンを帯びた基本構成要素の物理に関するものだが、超対称性が組み込まれていれば、込み入った細部がわからなくても、備えうる属性に重要な制約を加えることができる。
例えば、箱の中に何かが隠してある。その正体は明示されていないが、ある力荷を帯びているという。ここでは電荷を三単位とする。情報がこれだけなら、電荷一の粒子三つなのか電荷一の粒子四つと電荷マイナス一の粒子一つなのか、可能性は限りなくあり、正体は確定できない。
しかし手がかりがさらに二つあたえられるとしよう。世界を(箱の中身を)記述する理論は超対称性であり、箱の中身は最小限の質量で電荷を三単位帯びているものだ。ボゴモルノイ、プラサド、ソマーフィールドの洞察から、物理学者は次のことを証明した。きっちりした枠組み(超対称性の枠組み)と「最小限制約」(選ばれた電荷の量にたいする最小の質量)が指定されれば、隠された中身の正体は一つに絞り込まれる。選ばれた力荷の値にたいする最小質量の構成要素は、発見者に敬意を表して「BPS状態」と呼ばれる。

Ⅰ型のひも結合定数を一より大きくすると摂動法が無効になるので、まだ何とか理解できる限られた非摂動的質量および力荷(BPS状態)だけに焦点を合わせることになる。Ⅰ型ひも理論が強い結合をもつときの特性は、結合定数が小さな値をとるときにヘテロOひも理論がもつとわかっている属性にぴったり一致する。
同様の論拠がその逆についても同じく成り立つことを示す。つまり、結合定数の小さい値に対するⅠ型理論の物理は、結合定数の大きい値に対するヘテロO理論の物理と同一だ。これは強弱双対性と呼ばれている。
同じアプローチで、ⅡB型ひも理論の結合定数が大きくなっていくと、私たちに依然理解できる物理的属性は、弱い結合のⅡB型ひも理論の物理的特性とぴったり一致するようである。言い換えれば、ⅡB型ひも理論は(環状次元をプランク以下のスケールに押しつぶそうとしたときに似て)自己双対だ。

ボソンとフェルミオンが量子的ゆらぎを打ち消す傾向を示すことから、一般相対性理論を取り込む超対称的な量子場理論(超重力)が試みられ、結局失敗に終わったが、こうした研究から学ぶべき教訓があった。
その教訓とは、最も成功に近いのは、四次元より多くの次元で定式化された超重力理論だということだ。具体的に言うと、最も有望なのは、十ないし十一次元を必要とする形の理論であり、十一次元が最大限だとわかった。(四つを除いてすべての次元が巻き上げられ、次元の数が十一よりも多い理論は、スピンが2よりも大きく質量のない粒子を生み出す。これは理論からも実験からもありえないものだ)
観察できる四つの次元との橋渡しは、またもやカルーザとクラインの枠組みで成し遂げられた。それ以外の次元は巻き上げられているというのだった。

低エネルギープロセス(超ミクロのスケールで広がりをもつ、ひもの性格を探れるだけのエネルギーをもたないプロセス)を研究する時、ひも理論を点粒子量子場理論の枠組みで構造のない点粒子として近似することができる。
ひも理論を最もよく近似する量子場理論は、十次元理論だが、超対称性をどう組み込むかで細部が異なる四つの十次元超重力理論のうち三つが、ⅡA型ひも理論、ⅡB型ひも理論、ヘテロEひも理論の低エネルギー点粒子近似だとわかる。
残る一つは、Ⅰ型ひも理論とヘテロO型ひも理論両方の低エネルギー点粒子近似だ。後から考えれば、これはこの二つの理論の間に密接な関連がある徴候だった。
十一次元超重力が除け者にされているような点を除けば、すっきりした話だ。

「ひも理論95」会議でウィッテンは、ⅡA型ひも理論から出発して、結合定数を一よりずっと小さい値から一よりずっと大きい値まで大きくしていけば、私たちが依然分析できる物理学(本質的にはBPSで満たされた配置の物理学)は、低エネルギーで十一次元超重力によって近似されると主張した。
十一次元に特有の理論が十次元の理論に関連することがどうしてありうるのか?
これを理解するには、まず密接に関連する別の成果を説明するほうが容易だ。
それはウィッテンとホジャヴァが後に発見した結果で、強く結合したヘテロEひも理論にも、十一次元の記述があることを見出した。結合定数が大きくなると、新たな次元が見えてくるのだ!さらにここから意味深い帰結が示される。
ヘテロEひもの構造は、この次元が大きくなるにつれて変わる。結合定数を大きくするにつれて、一次元のループだったものが引き伸ばされてリボン状になり、さらに変形した円筒になる!言い換えると、ヘテロEひもは、実は二次元の膜で、その幅は結合定数の大きさに左右されるのだ。

この認識によってこれまでの章で引き出した結論が無効になることはないが、例えば、このもう一つの次元は、ひも理論によって必要とされる一つの時間次元と九つの空間次元とどう噛みあうのか?
そう、この十次元時空という制約は、ひもがいくつの独立した次元で振動しうるかを数え、その数が量子力学的確率がもっともな値をとることから生じたのである。
新たな次元は、ヘテロEひもが振動しうる次元ではない。「ひも」そのものの構造のなかに閉じ込められた次元だからだ。
一次元のひもに満ちた十次元宇宙の近似ではなく、二次元の膜を抱えた十一次元宇宙の近似だ。
ヘテロEの例と同じく、ⅡA型ひもの結合定数に左右される十一番目の次元がある。その値が大きくなるにつれて、ⅡA型ひもは膨脹して「内部チューブ」になる。
ウィッテンは、この十一次元理論を暫定的に「M理論」と名付けた。
名前の由来には諸説あり、ミステリー(謎)、マザー(あらゆる理論の母)、メンブレン(膜)、マトリックス(新解釈を提示する研究にちなむ)といった具合だ。

第十章では、五つのひも理論の定式のうちどれを扱っているのかを子細に明示しないでひもについて論じた。ひもの巻きつきモードと振動モードを入れ替えることで、半径1/Rの環状次元をもつ宇宙のひも理論による記述は、半径Rの環状次元をもつ宇宙として表現しなおすことができる。
私たちがごまかした点は、ⅡA型ひも理論とⅡB型ひも理論、そしてヘテロOひも理論とヘテロEひも理論が、この双対性によって入れかわることだ。
これにより、五つのひも理論すべてが互いに双対的であることになり、双対性の網が完成する。

ヘテロEとⅡA型の視点から見たときに現れた二次元の膜は、残りの三つのひも定式化にもそれぞれ含まれる。
二次元の膜はひも理論の本当の基本構成要素なのか?さらに高い次元の構成要素もあるのか?
BPS状態のなかには一次元のひもも、二次元の膜もある。しかしそれどころか、九次元以下のすべての空間次元が可能性の範囲に含まれる。
空間次元三つに広がりをもつ対象を3ブレン、四つを4ブレン…という具合に、9ブレンまで名付けられている。
(拡がった三つの空間次元そのものが、大きくて伸びた3ブレンかもしれないという考えも研究されている。そうだとしたら、私たちは日常的に三次元の膜の内部を動いていることになる)

第十三章
ブラックホールを区別できる特徴とは、質量、力荷、回転速度である。他の本質的特徴はない。
一方、素粒子どうしの区別をなすのも、質量、力荷、スピンである。
区別をなす特徴が似通っていることから、ブラックホールは巨大な素粒子かもしれない、という推測がなされている。
実際、アインシュタインの理論によると、ブラックホールの質量には下限がない。
ひも理論は、ブラックホールと素粒子の間に、理論的にしっかりしたつながりを提示した。

空間次元が六つカラビ-ヤウ図形に巻き上げられるとき、この構造のなかに球面が埋め込まれるには、球面のあり方が一般に二種類ある。
一つは、第十一章で扱ったプロップ転移で重要な役割を演じる、ビーチボールの表面のような二次元球面だ。
もう一つは、三次元球(面)だ。(表面が三次元になっている四次元のビーチボールである)
物理学者はひも理論の方程式を研究し、三次元の球面が限りなくゼロに近い体積まで縮む(崩壊する)ことが起こるらしいと気付いた。
第十一章で、崩壊する二次元球面に焦点をあてたとき、ひもの二次元世界面は二次元球面を完全に取り巻き、二次元球面が崩壊して物理的破局を起こすのを防ぐ効果をもつことが判明したが、三次元球面はひもでは取り巻くことができない。
しかし3ブレンという素材を使えば三次元球面は完全に包むことができる。
ここでまた、厄介な問題の一つがひも理論の新たな洞察を用いて解かれたのだ。

しかしこのことは話の半分ではないだろうか?
もう半分にはやはり空間が裂け、その後球面の再膨張で修復されるという現象がからんでいるのではないか?
1995年著者とモリソンは、このことを論じ、三次元球面が崩壊するとカラビ-ヤウ空間が裂け、球面を再膨張させることで自らを修復しうるかもしれないと気付いた。しかし再膨張する球面は二次元である。
これを分かり易く低次元に置き換えて、ドーナツの表面を想像し、そこに一次元球面(円)が埋め込まれているとする。円がつぶれ、空間が一時的に裂け、円をゼロ次元球面(二つの点)におきかえ、空間が裂けてできた形の上下の部分の穴をふさぐことで、生じる形はクロワッサンに似ている。これは、穏やかな(空間を引き裂かない)変形を通してなめらかに、ビーチボールの表面へと変わりうる。
もとのドーナツ型の位相は大幅に変化する。
要するに、あるカラビ-ヤウ図形が、完全にちがうカラビーヤウ図形に転換し、一方ひも物理は申し分なく行儀よいふるまいをつづけることがありうる。
これを「コニフィールド転移」と呼ぶ。

これがブラックホールおよび素粒子とどう関係するのか?
プロップ転移の物理的帰結は、意外にも大したことは起こらないというものだった。コニフィールド転移の場合、物理的破局は起こらないが、明白な帰結がある。
まず、カラビ-ヤウ空間内部の三次元球面は、これに巻きついた3ブレンが保護する為、破局をもたらすことなくつぶれうる。
包まれたブレンの配置はどんな姿をしているのか?
三つの拡がった次元しか認識しない私たちにとって、三次元球面のまわりに「拡がった」3ブレンは、ブラックホールのそれに似た重力場をつくる。
誰かが、拡がった次元を通してこの場所を見れば、包まれたブレンを、それが帯びる質量と力荷によって感知できる。この3ブレンの質量や力荷といった属性は、ちょうどブラックホールのそれに似ている。
3ブレンの質量(つまりブラックホールの質量)は、それが包む三次元球面の体積に比例する。
この球がつぶれると、ブラックホールとして知覚される球を包む3ブレンはますます軽くなり、一点に縮むと対応するブラックホールは質量がなくなる。
質量のないブラックホールとは何なのか?

エネルギーの低い、ということは質量が小さいひもの(粒子および力の担い手の説明になるかもしれない)振動パターンの数は、カラビ-ヤウ図形の穴の数で決まる。
三次元球面が新たな二次元球面に変わるコニフィールド転移で、質量のないひも振動パターンの数はちょうど一つ増える。(ドーナツからビーチボールへの例(穴の数が減る)は低い次元のアナロジーによる誤解だ)
コニフィールド転移から新たに生じる質量のないひも振動パターンは、ブラックホールが転化して生じる質量のない粒子の微視的記述であることが明らかになった。
当初質量の大きかったブラックホールが、ついには質量がなくなって光子のような質量のない粒子に転化するのだ。

ブラックホールと素粒子との関連は「相転移(例として氷・水・水蒸気)」に似ている。
ここまで、空間を引き裂く劇的な転化と、ひも理論の五つの定式化の間を移動する転化について、同じ水のアナロジーを用いたのには理由がある。
それらの間に深い関連があるからだ。
新たな次元がどれか一つのカラビ-ヤウ図形に巻き上げられた後でも、ある記述から別の記述へと連続的に移る能力が保持されることが、コニフィールド転移を通して予想されるからだ。

何十年もの間解けなかった宇宙の謎に、ブラックホール・エントロピーの概念がある。
エントロピーは、無秩序、乱雑さを示す尺度だ。
物理学者はあるもののエントロピーを明確な数値を用いて記述できるように、エントロピーに完全に定量的な定義をあたえている。大きい数字は大きな、小さい数字は小さなエントロピーを意味する。
大雑把に言えば、この数字はある物理系の全体的な外見を変えずに、その要素を配列しなおすやり方が何通りあるかを示している。
きちんと整理された机の上が、どんな形で配置がえしても秩序が乱れ(だから机の上のエントロピーは低い)、散らかった机の上が、散らかったままにして(つまり全体的な外見を変えることなく)配置をかえるやり方がたくさんある(だから机の上のエントロピーは高い)というようにだ。

1970年べケンスタインは、熱力学の第二法則をきっかけに、ブラックホールにはエントロピーがある(それも大量に)かもしれないと唱えた。
この法則によると、ある系のエントロピーはつねに増大する。すべてのものは、より無秩序な状態に向かう。散らかった机をきれいにしてエントロピーを減らしても、体と室内の空気のエントロピーを含めると、実は総エントロピーは増えてしまう。
仮にブラックホールの事象地平(どのブラックホールのまわりにもある、もう引き返せなくなる面)の近くで机の上をきれいにし、乱された空気の分子を真空ポンプでブラックホールに吸い取ったとしたら、どうなるだろうか?
部屋のエントロピーは確かに減ったのだから、熱力学の第二法則が成立するには、ブラックホールにエントロピーがあり、物質が吸い込まれるにつれて増大し、ブラックホールの外部で観測されるエントロピーの減少を帳消しにするしかないのだ。
ホーキングが出した有名な結果に、ブラックホールの事象地平の面積は、どんな物理的相互作用を受けてもつねに増大する、というものがあるが、べケンスタインはここから、ブラックホールの事象地平の面積はそのエントロピーを正確に示している、と唱えた。

これに対しホーキングは、ブラックホールの法則と熱力学の法則を真面目に受け取れば、事象地平とエントロピーを同一視せざるをえないが、それと同時にブラックホールに温度があることにもなり(その値はブラックホール重力場が事象地平で示す強さで決まる)、しかしもろもろの物理原理によれば、温度がゼロでなければ放射をおこなわなければならない。ところがブラックホールは黒い。ゆえにエントロピーを帯びた物質がブラックホールに落ち込むと、このエントロピーは消え去る、と考えた。
この後1974年にホーキングはブラックホールは完全にブラックではないと告げた。
不確定性原理によりブラックホールのすぐ外の空間領域で、ブラックホールの重力が一対の仮想光子にエネルギーを渡し、ちょうど一方だけがブラックホールに吸い込まれるように、二つを引き離すことがありうる。対をなす光子の一方が姿を消すと、もう一方にはもはや一緒に消滅すべき相手がいなくなる。さらにこの光子はブラックホールの重力からエネルギーを得る。そしてブラックホールからはじき飛ばされる。ブラックホールは光るのだ。
さらにホーキングは、放射から温度を計算でき、その値は事象地平における重力の強さによってあたえられることを見出した。これはちょうど、ブラックホールの物理学の法則と熱力学の法則の類似性から推測されるとおりだ。
またホーキングの計算によると、ブラックホールの質量が小さいほど温度は高く、放射は大きい。(コニフィールド転移にかかわるブラックホールは極限的なので、どれだけ軽くなってもホーキング放射をしない)そしてブラックホールは質量が大きいほどエントロピーが大きい。ブラックホールは莫大な無秩序を抱えている。

1996年ストロミンジャーとヴァーファは、ひも理論を用いてある種のブラックホールのミクロの構成要素を特定し、これをもとにエントロピーを正確に計算することができた。
一群の(特定の次元の)BPSブレンから出発して、いくつかの極限的ブラックホール(力荷~電荷と考えてもいい~を帯び、しかもその電荷と矛盾しない最小の質量をもつ)を組み立てられること、そしてさらにこれらを正確な数学的青写真に則ってつなぎ合わせることができることを証明した。
新たに見つかったひも理論の構成要素のいくつかから、特定のブラックホールが形づくれることを明らかにしたのである。
ここから、ブラックホールの微視的な構造を理論的に完全に制御できたので、質量と力荷を変えずに、ミクロの構成要素の配置を変えるやり方が何通りあるかを、たやすくじかに数えることができた。さらにそのうえで、この数を事象地平の面積(べケンスタインとホーキングが予測したエントロピー)と比べ、完全に一致した。

十九世紀はじめラプラスは、「ある瞬間に、自然を活気付ける力のすべておよび自然を形作る存在それぞれの状況を把握することのできる知性があり、その知性がそれだけのデータを分析できるほど巨大なものだったとすれば、この知性は宇宙最大級の物体の運動と最も軽い原子の運動を同じ一つの公式に包含する。このような知性にとって不確かなものは何もなく、未来は過去と同じく手に取るようにわかる」と述べた。(これを「決定論」という)
しかしこの見方の妥当性は、量子力学の発見で相当弱まった。
不確定性原理により、位置と速度という古典的な属性は量子論の波動関数におきかえられ、波動関数からは確率しかわからない。
しかし波動関数は、精密な数学的規則(シュレディンガーやディラック、クライン
-ゴードンの方程式など)にしたがって時間のなかで発展する。
これは量子論的決定論がラプラス的決定論に取って代わるということだ。
ある時点の宇宙の基本的構成要素すべての波動関数がわかっていれば、十分に巨大な知性なら、過去ないし未来のどの時点の波動関数も確定できる。

1976年ホーキングは、ブラックホールが存在すればこの穏やかな形の決定論さえ崩れると宣言した。
何かがブラックホールに落ち込むと、その波動関数も吸い込まれてしまう。
未来を予測しつくすには、波動関数をすべて知りつくしていなければならない。
一部の波動関数がブラックホールの深みに逃げ去ってしまえば、それらが含む情報は失われてしまう。

「エレガントな宇宙5」

2007-07-09 07:07:01 | 本好き
第十三章続き
一見、ブラックホールの事象地平のかなたにあるものはすべて、宇宙の他の部分から切り離されるのだから、落ち込んでしまったものは完全に無視していいのではないか、それに哲学的には、落ち込んだものが担っていた情報を本当に失ったわけではないと考えられるのではないか。情報は閉じ込められているにすぎない、と思われる。
ブラックホールが完全に黒いわけではないとホーキングが認識する以前なら、答えはイエスだった。
ところがブラックホールが放射すると、放射はエネルギーを運ぶから、質量はゆっくり減少する。ゆっくり蒸発するのだ。
そして事象地平というおおいが後退するにつれて、前に切り離された空間領域が宇宙の舞台に再登場してくる。
ブラックホールに飲み込まれた事物に含まれる情報は、ブラックホールが蒸発するとともに再び現れるのか?
これはブラックホールによって宇宙の発展が(量子力学そのものよりも)さらに強い偶然の要素を抱えることになるかどうかという、核心をつく問いだ。
この問いに答えることは、現在の研究の中心的な目標の一つだ。

ブラックホールをめぐるもう一つの未解決の謎は、ブラックホールの中心点で時空が示す性質に関するものだ。
1916年にシュヴァルツシルトがおこなったように一般相対性理論を単純にあてはめると、ブラックホールの中心に莫大な質量とエネルギーが詰め込まれるために、時空の織物は破壊的な形で裂け、徹底的にゆがんで曲率無限大になる。つまり穴が開けられる。
このことから引き出した結論の一つは、時間そのものが終わってしまうということだ。
また、年来アインシュタインの方程式を用いてブラックホールの核心部を探求してきた物理学者たちは、ブラックホールはその中心点で別の宇宙に通じているかも知れないという可能性があることを明らかにした。
この宇宙が終わるところで、もう一つの宇宙が始まるのだ。

第十四章
宇宙論について、まずひも理論以前の「標準宇宙モデル」について話そう。
アインシュタインが一般相対性理論を完成させた15年後、フリードマンはこの方程式にたいするビックバン解を見つけた。この解によれば、宇宙は圧力無限大の状態から爆発的に生まれ、現在原初の爆発の余波のなかにある、という。
5年ほど後、ハッブルが銀河を観測した結果、実際に宇宙が膨脹していると確認され、ロバートソンとウォーカーの手で、もっと系統だった効率のいい形に改められた。

天文学者は望遠鏡で銀河やクエーサーがビックバンからほんの数十億年後に発した光を見ることができ、宇宙の膨脹をごく早い時期にいたるまで検証できる。
しかしさらに早い時点までさかのぼって検証するには、間接的な方法が必要になる。その内の一つに、宇宙背景放射が関係している。
ものは圧縮すると熱くなり、減圧する(膨脹させる)と冷えることになる。
宇宙には、飛び交う光子の「気体」が一様に拡がっている。本質的に、宇宙は自由に進む光子の気体の容器なので、宇宙が膨脹するにつれ光子の気体も膨張する。
実際、今日の宇宙は原初の光子に一様に満たされてい、宇宙の膨脹を通じて絶対零度よりほんの数度高いだけの温度まで冷えているはずだ。
(もっと正確に言えば、宇宙には述べられている温度の範囲で完全な吸収性をもつ物体~黒体~が発する熱放射にしたがう光子に満ちているはずだ。これはブラックホールが量子力学的に放出するのと同じ放射スペクトルだ)
1990年代はじめ、ビックバン理論にもとづく予想とぴったり合う、絶対温度でおよそ2.7Kのマイクロ波放射が宇宙に満ちていることが確かめられた。
このように理論と実験が一致したことで、光子がはじめて宇宙を自由に進むようになった時点、ビックバンのおよそ数十万年後までさかのぼって、ビックバン宇宙論が確かめられた。

さらに核理論と熱力学の標準原理を用いて、ビックバンの1/100秒後から数分後までの原始核合成期に生み出された軽い元素の存在比を明確に予測することができる。例えばヘリウムが宇宙の23%を占めているはずだ。
恒星と星雲のヘリウム存在比を測定し、この予測の証拠が積み重ねられてきた。
重水素の存在比に関する予測と確認は、宇宙全体に重水素がわずかにではあるが存在することを説明できる天体物理学的プロセスが、基本的にビックバンの他ないことから、さらに強力な証拠といえる。
その後リチウムの存在比が確認されたことで、初期宇宙の物理学の理論は精密に検証される。
それではさらに、まずビックバン後1/100秒の時点より前だが、プランク時間より後の宇宙について、標準宇宙論が何を教えてくれるかを見よう。

第七章で述べたように、重力以外の三つの力は初期の宇宙の非常に熱い環境では融合するように見える。ビックバンの10マイナス35乗秒後以前には、強い力、弱い力、電磁力はすべて一つの「大統一」力(「超」力)だったとわかる。
この状態では、宇宙は今日よりはるかに対称的だった。この対称性はいくつかの段階を経て突然減少し、最後には私たちが慣れ親しんでいる比較的非対称的な形が現れる。
水が氷になる相転移の結果回転対称性が減少するように、多くの物理系で温度を下げていくと、ある点で系に相転移が起こり結果それまであった対称性の一部が減少ないし「破れる」。さらに温度を変化させると、系に相次いで相転移が起こることもある。
プランク時間からビックバンの1/100秒後までの間に、宇宙はこれに似た振舞い方をし、少なくとも類似の相転移を二度こうむったと考えられている。

宇宙背景放射の研究により、測定アンテナをどの方角に向けても放射の温度は1/100万という正確さで同じであるという結果になる。
なぜ莫大な距離で隔たった場所どうしで、温度がこれだけ一致しているのか?
どんな種類の信号も情報も光の速さ以上速く伝わりようがないので、二つの空間領域の物質が熱エネルギーをやりとりして共通の温度に達しうるには、ある時点の両者の距離が、ビックバンの時点からその時点までの間に光が伝わりうる距離より小さくなければならない。
だから宇宙を映画に例えて逆回しすると、空間領域どうしがどれだけ近づくかということと、そこまでたどり着くために時計の針をどれだけ戻さなければならないかということの間に競合が起こる。
このことが標準ビックバンモデルで問題になる。詳しい計算をすると、大きく隔たっている空間領域どうしの温度が同じであることを説明できるような熱のやりとりはありえなかったとわかるのだ。これを「地平線問題」と呼ぶ。

地平線問題の根本は、宇宙を逆回しにしてビックバンに近づく時、宇宙が十分な速さで縮まないことにある。
もう少し詳しくいうと、放り投げたボールのように、宇宙の膨脹率も重力のせいで遅くなることにある。つまり例えば、宇宙のなかの二つの場所の隔たりを半分にするには、映画をはじめに向かって半分以上逆回しにしなければならない。ということはビックバン以来すぎた時間が半分以下になることになり、情報のやり取りがよりむずかしくなっているということなのだ。

これに対しグースは、アインシュタインの方程式に解をもう一つ見つけた。
ごく初期の宇宙は非常に急速に膨脹した(何の前触れも無く指数関数的に膨脹、「インフレーション的」に膨らんだ)というものだ。
指数関数的膨脹は時間とともに速くなる(急速な加速的膨脹)。つまり逆回しに見たときには、急速な減速的収縮を意味し、二つの領域に熱をやり取りするだけの時間があったということだ。
これにより標準宇宙モデルはインフレーション宇宙モデルに改造された。この枠組みでは、標準宇宙モデルは、ビックバンの10-36秒後から10-34秒後くらいまでで修正される。

ひも理論の宇宙論では、はじめ空間次元はすべて、巻き上げられた多次元のプランク・サイズのかたまりになっていて、温度とエネルギーは高いが無限大ではなく、完全に対等(完全に対称的)だった。その後ビックバンからプランク時間くらいのころ、空間次元のうち三つだけが膨脹し、他はすべて当初のプランク・スケールを保つ。この三つの空間次元はインフレーション宇宙の空間次元と同一のものと認められ、現在観測される形になる。

なぜ三つだけが膨脹したのか?ブランデンバーガーとヴァーファは一つの可能性を考え出した。
まず、次元に巻きついたひもはその次元を締めつけそれが膨脹するのを妨げる傾向がある、と気付いた。とすると一見どの次元も締めつけられることになるように思われる。
しかし巻かれたひもと、その反ひもパートナー(大雑把に言うと反対方向に次元に巻きつくひも)が接触するとしたら、たちまち互いに消滅させあい、巻かれていないひもを生み出すという抜け穴がある。
ここで、線の国の空間的広がりのような一次元の線に沿って転がる二つの点粒子を想像しよう。たまたま同一の速度で動くのでもない限り二つは衝突する。ところが二つの点粒子が平面の国のような二次元平面をでたらめに転がるとすれば、衝突することはないだろう。(2つの物体の各々がたどる経路の時空の次元の和が、彼らが動く舞台である時空の次元よりも大きいか等しければ、それらは概して交わる。ひもは2次元の時空経路を掃いて通る(彼らの世界シート)。2本のひもに対して問題の和は4(空間に3つ時間に1つ)であり、交わることを意味する)
こうして三つの次元の締め付けが弱まりつづけ、次元は拡がりつづける。
ひもが大きな次元に巻きつくにはそれだけ多くのエネルギーを必要とするから、次元が拡がるほど他のひもが次元にからみつきにくくなり、膨脹そのものが膨脹を促進し、押さえつけられなくなっていく。

ガスペリーニとヴェネツィアーノは、独自のひも宇宙論を考え出している。
宇宙は極度に熱いプランク・サイズのかたまりとしてはじまるのではなく、プランク宇宙の萌芽につながる宇宙の前史(ゼロ時点よりずっと前にはじまるもの)があるかもしれないと示唆したのだ。
宇宙は冷たく、基本的に無限大の空間的広がりをもってはじまる、というのだ。
ひも理論の方程式では(グースのインフレーション期と同じように)その後不安定性が効果を及ぼしはじめ、宇宙のあらゆる点が互いに急速に遠ざかる。
そのため空間がますます湾曲し、その結果温度とエネルギー密度が劇的に上昇することを証明した。
(プレ・ビックバン期中の曲率の増大は重力の強さの増大(ダイレーション駆動)から生じる。いわゆるアインシュタイン枠組みでは、進化は加速する収縮期として記述される)
しばらくすると、広大な広がりのなかにあるミリメートルサイズの三次元領域が、ちょうどグースのインフレーション的膨脹から出現する超高温で高密度の空間のように見えてくる。この空間は、私たちが慣れ親しんでいる宇宙の説明になる。
しかもビックバン以前の時期にも、その時期のインフレーション的膨脹があるので、地平線問題に対する解も組み込まれる。

ウィッテンは、ひも結合定数がかならずしも小さくないとき、カラビ-ヤウ空間部分の形をとくに整えなくても、重力が他の力と融合しうることを見出した。このことは、M理論により宇宙論上の力の統一が達成されることを指し示しているのかも知れない。

今日、私たちの目に映る宇宙における事物のあり方が、根本的な物理法則次第であるのは確かだ。しかし宇宙の初期条件にも依存するかも知れない。
究極の初期条件は誰にもわからない。そもそも初期条件を問うことが理に適っているのかもわからない。
しかし最近、初期条件の問題と、初期条件が以後の宇宙の発展に及ぼす影響の問題の他にも、最終理論の説明力の限界となる可能性をもつものがあるという提案がなされている。

基本的な考えは次の可能性にもとづいている。
私たちが宇宙と呼んでいるものは、実は広大な拡がった宇宙のほんの一部分、壮大な群島をなして散らばった膨大な数の島宇宙の一つにすぎないと想像しよう。
リンデは、このような巨大な宇宙が生まれるメカニズムを示した。
リンデは、インフレーション的膨脹は一回限りの出来事ではなかったかもしれないことに気付いた。そしてこう論じている。
インフレーション的膨脹の条件は宇宙全体に散らばった孤立した領域で繰り返し現れるかもしれない。そうした領域は新たな個別の宇宙に発展する、と。
この大きく拡がった宇宙の概念を「多宇宙」その構成部分のそれぞれを宇宙と呼ぼう。

このもろもろの宇宙が私たちの住む宇宙から切り離されているか、あるいは少なくとも光が届くだけの時間がこれまでになかったほど離れているのであれば、物理は宇宙ごとに異なると想像できる。可能性の範囲は果てしない。
要点はこうだ。大多数の宇宙は生命にとって(少なくとも私たちが知っているような生命にわずかでも似ているものにとって)快適な条件ではない。
物理に違いがかなり控えめであっても、星の形成が妨げられる。
私たちが観測する粒子と力の組み合わせは、明らかに生命の形成を可能にするという点で特別である。
そしてこの宇宙はなぜこのような属性を備えているかという問いが立てられる為の必要条件は、生命、特に知的生命の存在である。
平たく言えば、事物がこうであるのは、そうでなかったら私たちがこうしてここにいて事物のあり方に気付くことはなかったはずだからだ。
多宇宙仮説には、この宇宙はなぜこんな姿をしているのか説明しようという意志を弱める力がある。

この方向の議論は、人間原理と呼ばれる思想の一変種だ。
事物がこうであるのは、宇宙がこうでしかありえないからだとする、完全な予測力をもつ厳密な統一理論の夢とは対極にある視点がこれである。
かりに多宇宙論が正しいとすれば、私たちの理論で粒子の質量、力荷、力の強さを詳細な特性まで説明するのは、無理な注文かもしれない。
しかしたとえ多宇宙という思弁の域を出ない前提を受け入れても、こう想像できる。私たちは、究極理論をめいっぱい拡張することができ、「拡大究極理論」から、様々な要素宇宙の基本パラメーターの値が、なぜどのように散らばっているのかが、正確にわかるかもしれない、と。

スモーリンは、もっと急進的な提案をおこなっている。
ビックバンのときの条件とブラックホールの中心の条件との類似性に示唆を得て、ブラックホールはどれも新たな宇宙のたねだと唱えている。
そこからビックバンのような爆発で新たな宇宙が誕生するが、事象地平のせいで私たちの視界からは永久に隠されているというのだ。
そしてさらにそこに、遺伝子の突然変異の宇宙版を持ち込んだ。

こう想像しよう。宇宙がブラックホールの核から生まれるとき、その物理的属性(粒子の質量や力の強さ)は親宇宙に近いが、全く同じではない。
ブラックホールは燃え尽きた星から生まれ、星の形成は粒子の質量と力の強さに依存するので、ある宇宙の増殖力(その宇宙が生み出しうるブラックホールの数)は、こうしたパラメーターに強く左右される。
だから、子宇宙のパラメーターに小さな変異があれば、親宇宙よりもブラックホール生成に適していて、子宇宙をもっと沢山生み出すものも出てくる。
(ひも理論では、この進化は、巻き上げられた次元の図形がある宇宙からその子孫の宇宙へと少しずつ変化することによって推し進められる。コニフィールド転移について得た結果から、このような小さな変化が積み重なれば、巻き上げられた次元の図形はカラビ-ヤウ図形から他のどんな形にも移りうる。こうして多宇宙は、ひもにもとづいたあらゆる宇宙の増殖効率を標本に取ることができ、十分多くの増殖段階を経た後では、スモーリンの仮説から、典型的な宇宙は増殖に最適なカラビ-ヤウ成分を備えていることが期待される)
何世代も後には、ブラックホールを生み出すのに適した宇宙の数が大多数を占めるほどになり、こうして人間原理を持ち出すことなく、平均して世代を重ねるにつれ、宇宙のパラメーターがある値に近づくようにする動的なメカニズムを提示する。

第十五章
現在ひも理論は、等価原理を手にしていないアインシュタインのような立場にいる。
ひも理論の次の段階に目を向けるとき、その最優先課題は、理論全体がそこから必然的に生み出されるような根本的な考え、「不可避性の原理」を見つけることである。
(ホログラフィック原理にこの考えのヒントを見て取る理論家もいる。ちょうどホログラムが特殊な2次元のフィルムから3次元の視覚像をつくりだすことができるように、サスキンドとトホーフトは、私たちが出会う物理的な出来事は、実は低次元世界で定義される方程式を通して完全にコード化されているのかもしれないと唱えている。宇宙の「内部」で起こることはすべて、遠方の取り囲む表面で定義されるデータと方程式の反映にすぎないと示唆したのだ。その後、ひも理論が支配する宇宙の物理は、境界をなす表面(必然的に内部よりも次元の低い表面)で起こる物理学しか含まない等価の記述をもつようだ、と明らかにされた)

自分達が時空の織物のなかに埋まっていると言う時、私たちは本当に何かのなかに埋め込まれていると見なすべきなのか。ひも理論はこの問いへの答えを示唆する。
重力の最小のかたまりであるグラビトンは、ひもの振動パターンの一つだ。
重力場は膨大な数のグラビトンからできている。つまり振動する膨大な数のひもだ。
さらに重力場は時空の織物のゆがみだから、時空の織物そのものが、グラビトンの振動パターンで振動する膨大な数のひもと同一視される。
場にかかわる言い回しでは、ひものコヒーレント状態と呼ばれる。
時空がひもで縫われた織物だとすれば、まだ私たちが時空として認識する整った形に合体していないひもの配置があるのか?
この状態を、ひもが雑然と集まったものとして思い描くのは不正確だ。ひもが振動する前の原初の状態では空間と時間は現実化していないからだ。
こうした考えを扱うには、私たちの言葉は粗雑過ぎる。
何しろこの状態では、実は「前」という概念すら成り立たないのだ。
ある意味で個々のひもは、空間と時間の「かけら」のようなもので、しかるべき共振をおこなう時にはじめて、通常の空間と時間の概念が現れるのである。
ひも理論には、空間も時間もない配置から出発して、それ自身の時空を創造させるべきだ。
期待されるのは、この理論がプレビックバン期にあったかもしれない書き込みのない空白から出発して、通常の時空の概念が生まれる形に発展する宇宙を記述することになることである。

既に、ゼロブレン(長い距離では点粒子にいくらか似たふるまいをするが短い距離では著しく異なる特性を備えている対象)が、空間も時間もない領域を垣間見させてくれるかもしれないことがわかっている。
ゼロブレンの研究によれば、通常の幾何学は非可換幾何学でおきかえられる。
この枠組みでは、従来の空間と距離の概念がとけ去る。それでもプランク長さより大きなスケールに注目すれば、従来の空間の概念が再び現れる。
非可換幾何学の枠組みは、まだ先に予想した空白の状態から相当離れているのだろう。
しかしこの枠組みから、空間と時間を理論に組み込む為の枠組みがどんなものか窺える。

最後に著者は、私たちはすべて、各々の仕方で真理を探し、各々なぜ私たちはここにいるのかという問いに答えを望む。
人類が説明の山をよじ登る時、各々の世代は前の世代の肩の上にしっかり立って、勇敢に頂上を目指す。
いつか私たちの子孫が頂上からの眺めを楽しみ、広大でエレガントな宇宙を無限の明晰さで見渡すことがあるのかどうか、私たちには予測できない。
ただ各々の世代が少しずつ高く上るなかで、ジェイコブ・ブロノフスキーが述べたことを実感する。
「どの時代にも転換点がある。世界の一貫性を見る、そして表現する新たな仕方がある」。
そして私たちの世代が新たな宇宙観(世界の一貫性を表現する新たな仕方)に驚嘆する時、私たちは星々に向かって延びる人間の梯子に横木を付け加えて、自分の役割を果たしているのだ。
と延べ、本書を締めくくっている。