私は,学生時代は、中学一年から卓球を初めて、大学まで卓球をやっていました。その後、教員になって卓球部の監督として、これは、私の鯉釣りの期間と一致するくらいのキャリアーでもあります。
先日、京都の丸善によって、たまたま卓球のコーナーで「ワルドナー伝説」(イエンス・フェリッカ著 卓球王国ブックス)を買って,懐かしさから一気に読んでしまいました。アングラーの中にも卓球をやってる人もおられるかと思いながら,書いております。かなりマニアックになるかもしれませんが,鯉釣りもやはりマニアックと言えるかもしれませんが。特に、のめり込んでる人には、その自覚も有るかと思いますが。
ワルドナーは今は50歳を超えていますが,10代後半から20年以上世界のトップクラスに君臨した、「100年に一人の天才」と言われている選手です。世界選手権優勝(全試合ストレート勝ち)、五輪優勝等を始めとして、数多くの伝説を作った名選手です。今は,YouTubeで昔の動画等もデジタル化して視ることができ、ワルドナーのプレーも観れます。今の時代の技術である、チキータ等はない時代の選手ですが,そのプレーは今見ても独特です。当時の世界選手権の決勝で戦ったベラルーシのサムソノフ選手はリオオリンピックで水谷選手とシングルスの銅メダルを争った選手です。40歳を超えても現役。
ワルドナーはスウェーデンの選手ですが,私が中学から高校にかけての頃は,スウェーデンが強くなっていく時期で,高校の時,名古屋で世界選手権があり、ピンポン外交と言われた大会でしたが、この大会でシングルスで優勝したのが、ステラン・ベンクソンという17歳の選手でした。同じ高校生の年代の選手が決勝で,日本の伊藤繁雄選手を前後左右に揺さぶって、シェークハンドの攻撃選手が日本のペンホルダーの選手を破ったのですが,それまでは、シェークハンドの攻撃の選手はまだヨーロッパでは強くなく,それまではシェークハンド=カット型のイメージでしたが、日本のドライブ型をシェークハンドで行うという戦型が、日本の荻村伊智朗(1954,1956の世界選手権シングルス優勝)の指導を受けたスウェーデンからヨーロッパに広がり,その先駆的な国としてスウェーデンがあったのです。ベンクソンの前には,アルセア、ヨハンソンが世界的な選手でした。ベンクソンは、その後も世界で活躍して、1983年に開催された世界選手権(私もビデオを担いで行きましたが)にも出場していました。
私は,大学に入学してからも、日本式のペンホルダーのドライブ攻撃という戦型でしたが、大学を出てからは、何人かの選手が当時そうしたように、私も,シャークハンドの攻撃型に変えましたが,ラケットに関しては、攻撃型のシャークハンドがなく,当時,ヤサカ(卓球メーカー)がSTIGA(スウェーデンの卓球メーカー)から輸入して販売し始めたので、その中のベンクソンタイプ(ストレートグリップ)を買ったものでした。大学のあった京都は当時から卓球は盛んで,東山高校がずーっとインターハイの常連で日本のトップの高校でした。また、大学では同志社等が強く、後述の小野選手は近大で、その後輩にはよくテレビの男子の解説の宮崎義人氏も当時の近大でした。
YASAKAは、先の荻村さんと関係あるメーカーなので,STIGAのラケットが日本でも手に入るようになったのです。今でも使われているラバーにヤサカのマークVというラバーが有りますが,このラバーは,ベンクソンが使って名古屋の世界選手権でシングルスのチャンピオンになって、一躍有名になりました。ちなみに,決勝でベンクソンに敗れた伊藤繁雄選手は今のバラフライ(日本の卓球メーカー)に所属していて、今でもあるスレーバーを使っていました。スレーバーは私が中学の時代に作られたラバーで、値段が750円でした。今と隔世の感がありますね。
伊藤選手は名古屋の世界選手権の一つ前の1969年の大会(当時は世界選手権は2年に一回の開催)のシングルスの世界チャンピオンですが,中国が文化大革命で出場してなくて、だから優勝できたのだと言われていましたが。その前の1967年の世界選手権も中国は出場していないなかで、日本の長谷川信彦選手はシングルスの世界チャンピオンになっています。その後、日本でシングルスの世界チャンピオンになったのは、1977年のバーミンガム大会の河野満選手と1979年の平壌大会での小野誠司選手だけです。もう40年もシングルスの世界チャンピオンは出ていないのです。1979年の小野選手は決勝で中国の郭躍華選手と対戦して2−1でリードしていて4セット目に郭躍華選手が足の故障で棄権して勝利が決まったのです。1977年の河野選手は当時中国も当然強く、ヨーロッパもハンガリーのヨニエル、クランパ、ゲルゲーリーの三銃士を中心とする攻撃型選手が強く、そんな中でのシングルスの優勝ということで、高く評価される選手です。その後,青森高校の卓球部の監督として,インターハイでも団体優勝させる等、指導者としても手腕を発揮されます。ちなみに,河野選手のシングルス決勝の相手は、先の郭躍華選手で,郭選手は2回決勝で日本選手に敗れているのですが,その後の東京大会と次の大会ではシングルスの世界チャンピオンになっています。その意味では郭選手は連続4回の世界選手権のシングルスの決勝に進出しているのです。これは多分記録だと思います。
名古屋の世界選手権以降、殆どの大会で中国が優勝しているのですが,同じ時期に日本はだんだんと世界のトップから後退して、今に至っていますが、ヨーロッパはスウェーデン、ハンガリーにはじまり、今はドイツをはじめとして、全体にレベルアップが進んで今に至っています。
話は尽きません。
先日、京都の丸善によって、たまたま卓球のコーナーで「ワルドナー伝説」(イエンス・フェリッカ著 卓球王国ブックス)を買って,懐かしさから一気に読んでしまいました。アングラーの中にも卓球をやってる人もおられるかと思いながら,書いております。かなりマニアックになるかもしれませんが,鯉釣りもやはりマニアックと言えるかもしれませんが。特に、のめり込んでる人には、その自覚も有るかと思いますが。
ワルドナーは今は50歳を超えていますが,10代後半から20年以上世界のトップクラスに君臨した、「100年に一人の天才」と言われている選手です。世界選手権優勝(全試合ストレート勝ち)、五輪優勝等を始めとして、数多くの伝説を作った名選手です。今は,YouTubeで昔の動画等もデジタル化して視ることができ、ワルドナーのプレーも観れます。今の時代の技術である、チキータ等はない時代の選手ですが,そのプレーは今見ても独特です。当時の世界選手権の決勝で戦ったベラルーシのサムソノフ選手はリオオリンピックで水谷選手とシングルスの銅メダルを争った選手です。40歳を超えても現役。
ワルドナーはスウェーデンの選手ですが,私が中学から高校にかけての頃は,スウェーデンが強くなっていく時期で,高校の時,名古屋で世界選手権があり、ピンポン外交と言われた大会でしたが、この大会でシングルスで優勝したのが、ステラン・ベンクソンという17歳の選手でした。同じ高校生の年代の選手が決勝で,日本の伊藤繁雄選手を前後左右に揺さぶって、シェークハンドの攻撃選手が日本のペンホルダーの選手を破ったのですが,それまでは、シェークハンドの攻撃の選手はまだヨーロッパでは強くなく,それまではシェークハンド=カット型のイメージでしたが、日本のドライブ型をシェークハンドで行うという戦型が、日本の荻村伊智朗(1954,1956の世界選手権シングルス優勝)の指導を受けたスウェーデンからヨーロッパに広がり,その先駆的な国としてスウェーデンがあったのです。ベンクソンの前には,アルセア、ヨハンソンが世界的な選手でした。ベンクソンは、その後も世界で活躍して、1983年に開催された世界選手権(私もビデオを担いで行きましたが)にも出場していました。
私は,大学に入学してからも、日本式のペンホルダーのドライブ攻撃という戦型でしたが、大学を出てからは、何人かの選手が当時そうしたように、私も,シャークハンドの攻撃型に変えましたが,ラケットに関しては、攻撃型のシャークハンドがなく,当時,ヤサカ(卓球メーカー)がSTIGA(スウェーデンの卓球メーカー)から輸入して販売し始めたので、その中のベンクソンタイプ(ストレートグリップ)を買ったものでした。大学のあった京都は当時から卓球は盛んで,東山高校がずーっとインターハイの常連で日本のトップの高校でした。また、大学では同志社等が強く、後述の小野選手は近大で、その後輩にはよくテレビの男子の解説の宮崎義人氏も当時の近大でした。
YASAKAは、先の荻村さんと関係あるメーカーなので,STIGAのラケットが日本でも手に入るようになったのです。今でも使われているラバーにヤサカのマークVというラバーが有りますが,このラバーは,ベンクソンが使って名古屋の世界選手権でシングルスのチャンピオンになって、一躍有名になりました。ちなみに,決勝でベンクソンに敗れた伊藤繁雄選手は今のバラフライ(日本の卓球メーカー)に所属していて、今でもあるスレーバーを使っていました。スレーバーは私が中学の時代に作られたラバーで、値段が750円でした。今と隔世の感がありますね。
伊藤選手は名古屋の世界選手権の一つ前の1969年の大会(当時は世界選手権は2年に一回の開催)のシングルスの世界チャンピオンですが,中国が文化大革命で出場してなくて、だから優勝できたのだと言われていましたが。その前の1967年の世界選手権も中国は出場していないなかで、日本の長谷川信彦選手はシングルスの世界チャンピオンになっています。その後、日本でシングルスの世界チャンピオンになったのは、1977年のバーミンガム大会の河野満選手と1979年の平壌大会での小野誠司選手だけです。もう40年もシングルスの世界チャンピオンは出ていないのです。1979年の小野選手は決勝で中国の郭躍華選手と対戦して2−1でリードしていて4セット目に郭躍華選手が足の故障で棄権して勝利が決まったのです。1977年の河野選手は当時中国も当然強く、ヨーロッパもハンガリーのヨニエル、クランパ、ゲルゲーリーの三銃士を中心とする攻撃型選手が強く、そんな中でのシングルスの優勝ということで、高く評価される選手です。その後,青森高校の卓球部の監督として,インターハイでも団体優勝させる等、指導者としても手腕を発揮されます。ちなみに,河野選手のシングルス決勝の相手は、先の郭躍華選手で,郭選手は2回決勝で日本選手に敗れているのですが,その後の東京大会と次の大会ではシングルスの世界チャンピオンになっています。その意味では郭選手は連続4回の世界選手権のシングルスの決勝に進出しているのです。これは多分記録だと思います。
名古屋の世界選手権以降、殆どの大会で中国が優勝しているのですが,同じ時期に日本はだんだんと世界のトップから後退して、今に至っていますが、ヨーロッパはスウェーデン、ハンガリーにはじまり、今はドイツをはじめとして、全体にレベルアップが進んで今に至っています。
話は尽きません。