まりはな屋

地方都市で、清貧生活  

猫in犬

2008年01月21日 22時47分59秒 | 犬だって
母によれば家の近くを「猫しょってる犬」が通るという。

聞いたわたしは「猫をおんぶして歩くいたいけな犬」を思い浮かべる。

可愛いじゃないか。

が、もちろんそんなわけはなく、背中の模様がそんな風に見えるのだそうだ。

飼い主さんは、近所のスーパーの近くでその犬を保護し、警察に届けたところ

一週間で殺処分になってしまうので、飼ってもらえないかと頼まれ

飼うことになったのだという。

いきなり飼ってくれと頼む警察の人も大胆だが、犬好きだったのだろう。

そして、じゃあ飼いましょうと引き取った人も相当の犬好きだ。

だってその人の家ではすでに一匹飼っていたそうだし。

猫もそうなのだが、好きな人にとっては「一匹も二匹も同じ」という気持ちがある。

そうして三匹になり四匹になり・・・

ハート模様の犬が一時期話題になったが、猫しょってる「一匹で二匹分美味しい犬」、

ぜひお目にかかりたいものである。

愛+義務+責任

2007年12月25日 17時21分01秒 | 犬だって
わたしは異常に涙もろい。

悲しい話や感動的な話など、すぐに目が潤んでしまう。

だが、そのとき本当に悲しんでいるか、感動しているかというとそんなことはないのだ。

むしろ「お涙ちょうだい」とか「感動の安売り」とか醒めた気持ちでいることが多い。

ところが脳のどこかに、わたしの気持ちとは裏腹に条件反射で目を潤ませる場所があるらしく

え、こんな話で泣けるの?という話でさえ泣けてしまう。

例えばドラマの途中から見て全く筋がわからないのに、

人が泣くシーンを見ただけで涙ぐんでしまうし

森三中の大島美幸が再現ビデオ(ギャグ仕立て)で泣くシーンがあったのだが

それでもらい泣きしてしまったことさえある。

話の内容よりも、人の泣く姿にもらい泣きすることが多い気もする。

わたしの父もどうでもいいドラマで涙ぐんでいるから遺伝かもしれない。

母はそういうのにドライな質で、父やわたしが涙ぐんでいると

「なに泣いてるの」とバカにしたように言うのだが

ふと、30年前にチビという犬が死んだときのことを思い出した。

チビは父が山から拾ってきた。

すでに成犬でかなり大きかったのだが、なぜかわたしはチビと名付けた。

大人しく利口な犬だったが、病気にかかっていたのか年を取っていたのか

数年で死んでしまった。

死んでしまう夜に首輪を外すと、よろよろとどこかへ行こうとし途中で力尽きて倒れた。

大泣きする、当時小学二年生のわたしに母が言い放った。

「面倒も見てなかったくせに、なに泣いてんのよ」

普通のお母さんだったら

「チビは天国に行ったのよ」とかぎゅっと抱きしめてくれるとかありそうなもんだが。

しかし、こういうドライさがわたしを強くしたと言えるかもしれない。

泣きじゃくりながらわたしは言い返した。

「面倒見てなかったから泣くんだ!」

このときの気持ちが、それから後に動物と接するときの原点になっている気がする。

動物の世話というのは、正直億劫なときもある。

散歩行くの面倒臭いな、とか小屋の掃除やりたくないな、とか。

しかし、やらなければ自分が後悔することになるという気持ちが

そういう怠け心を吹き飛ばすのだ。

動物と暮らすには愛情はもちろんだが、義務感や責任感も必要だ。

もしかすると、結婚や子育てや介護にも同じことが言えるかもしれない。




目なんかウルウルさせたってさ

2007年12月15日 21時58分23秒 | 犬だって
図書館の帰り、公園を通ると道の真ん中でチワワが固まっていた。

飼い主がいくら引っ張っても、てこでも動こうとしない。

わたしはチワワが好きじゃないのだが、その様子は可愛らしかったので

あら、きめっこしてどうしたの?と声をかけながら近づいた。

ちなみに「きめっこ」は方言で「すねてる」「むくれてる」の意味。

すると飼い主が素早く近づきさっとチワワを抱き上げた。

まるでウチの子に触らないで、というように。

そしてわたしの顔など見ずチワワに「寒いからかな~」などと話しかけている。

感じ悪い。

これだから愛玩犬の飼い主は苦手なんだ。

この人たちは買った犬を飼っているんである。

わたしにとって犬は拾ったりもらったりするものであって

選んだわけではなく、なんとなく出会ったという感じである。

ショップで気に入った犬を買う人たちに感じる違和感は拭いがたい。

それでまたどういうわけか愛玩犬の飼い主って愛想悪い。

わたしは、散歩の途中話しかけてくる犬好きとはよく話をしたし

うちの犬を可愛いと言ってもらえるのは嬉しかった。

しかし、愛玩犬の飼い主は「ウチの子が可愛いのは当たり前」で

いちいち話しかけられたりするのは鬱陶しいのかもしれない。

こういう人たちは、犬が好きなのではなく「ウチの子だけ」が好きなのだろう。

もっともチワワって案外気が強いので、わたしを噛んだりしないように抱き上げたのかもしれない。

どっちみち好きになれないけど。

知らなきゃよかった

2007年10月31日 21時58分47秒 | 犬だって
三味線の皮が破けた。

師匠や他のお弟子さんと、その話をしていると誰かが

「XXさんのは猫の皮ですか?」

わたしのは、練習用の安い三味線なので猫じゃないと聞いていた。

それで勝手に合成皮革だろうと思っていた。

思い込もうとしていたのかもしれない。

師匠が答えた。

「練習用だもの、猫じゃないわよ」

(そうそう)

「犬よ」

ええ!

「犬、ですか・・・」

質問した人も複雑な表情。

犬だったのか。

喜びも悲しみも

2007年08月14日 17時07分04秒 | 犬だって
広々とした庭を持つ一軒家を見ると、犬小屋を探してしまう。

飼っていないのがわかると、もったいないなーと思う。

もちろん犬好きばかりとは限らないので、飼わないのは勝手であるが

住宅事情で飼いたくても飼えない身からは羨ましくもあり、もったいなくもある。

犬は好きだが飼わない人の意見は大きくふたつだ。

①死んだら悲しい。

②世話が大変。

これまで何匹もの犬を見送ってきたわたしにすれば、

死なれるのが悲しいことであるのは間違いない。

しかし、それよりも一緒に過ごした日々の素晴らしさのほうが勝る。

うちはわりと長生きの犬が多く、15歳を越えたあたりから

少しずつ老いて弱ってくるのが分かるので

ある程度は覚悟が出来ている。

死因は老衰がほとんどだから、悲しさもあるけれど

今までありがとう、という感謝の気持ちで送れるのである。

世話も確かに大変かもしれないが、生まれたときから犬と暮らすわたしには

犬の散歩も世話もDNAに組み込まれているようなもので

毎日当たり前にすることであるから、さほど苦労には思えない。

ただひとつ、わたしが犬を飼う上で大変と思うのは

家を留守にするときが心配、ということである。

もちろん、一家全員で泊りがけなんて出来ないが

朝早く出かけて夜が遅くなるときなど

水の入れ物をひっくり返していないかとか

変な人が来ていたずらされていないかとか

首輪が外れてしまっていないかとか

正直、仕事中もずっと心配している。

もっともこの手の心配は、猫でも一緒だけれど。

犬を見送った途端に猫がやってきて3年。

わたしの人生には、動物と暮らす喜びと心配が組み込まれているのだろう。