※とっても長い日記です。時間のある時に読んでくださいね。
自分は愛されることがない、という視点から
全ての物事を捉えている超ネガティブ・アダルトチャイルドと出会ったのは
年末年始のインヤンダンスのワークショップ中のことだった。
それはとてつもなく古くて大きなチャイルドちゃんだと思ったのだが、
どうやら出会った、と思ったのは、本体というよりは
そのコの「影」でしかなかったようだ。
それはそうだろう、
誰も相手にしてくれないと思うならば、
人前にのこのこと姿を表したところで傷つくだけなのだから
そう簡単に表に出てくる訳がない。
思えば、いつも集団の中で居心地悪さを感じるわたしや、
家に引きこもって家族とロクに目も合わせない姉は、
その子の姿そのままのようだ。
チャイルドとの出会いから何日か過ぎた頃、
同じセラピストさんのもとでインナーチャイルドセラピーを受けた仲間と
ここ最近の自分の「チャイルドちゃん」について話す機会を得た。
お互いが話すどんなことも否定せず、自分のことのように・・・
いや、「ように」ではなく、
人は自分の鏡であるという視点から、文字通り自分のこととして
耳と心を傾けてくれた。
彼女たちとの会合はきっと偶然ではなかったのだろう、
その場所で、そのチャイルドちゃんのことを口にすることで再び
そのコと出会うこととなった。
実は私が意識するより先に、彼女を重要視してくれたのは友達の方だった。
そしてもうひとりの友達・・・彼女が自身の状態を言い表した言葉
「この前まで、すごい愛情飢餓状態で・・・」
それらがトゲのように心のどこかにひっかかっり、
ひっかかったまま何日かが過ぎた。
その間、このようなワークの後に決まって起きる
酷い好転反応に襲われていた。
「やっと見つけてくれたのねー!聞いて聞いて!!」と言わんばかりに
チャイルドちゃんが私達の感情や体を使ってこれまで無視されてきた思いを
訴えてくる・・・・
そう、セラピーでは言われている。それは人間の排泄行為と同じく
本当は喜ぶべきことなのだが、
ちょっとまずいかもというほどの胸の張り裂けるような痛みを今回は
抱えることになった。
深呼吸しようと体を揺すろうと何をしてもだめだ。
いったいどうなっちゃうんだろう・・・と思いながら
過ごしていた昨夜。
きっかけはほんの些細なことだった。
あることについて、上手くいくといいな、いかないかな、と
小さくも大きな希望に満たされていた池に突如として
「だめかもしれない・・・」
という名の小石が投げ込まれた瞬間。
波紋は一気に広がり、胸の痛みが増し、ついに言葉を発した。
「どうせ私なんか!」
よく知っている・・・これは本当にお馴染みのチャイルドちゃん。
ワークショップで出てきたのはこのコだ
お馴染みすぎてまるで空気のような、
もっと正確にいうなら私という植物が生える
「土壌」となっているチャイルドちゃんだ。
憎悪の仮面の下に 悲しみをいっぱい抱えたまま生きてきたコ・・・
と、はっきりとこの子の姿を今回ばかりははっきりと捉えた。
そしてこの子は
「愛されないって?そんなことないよ!ここに私がいるじゃない」と
言って欲しがっていると知った。
インヤンダンスの初日。
幼かった自分の両親への思いと、その時の両親の気持ちを最体験するワークをした。
そこで見たのは、
外見はどうあれ内面は機能不全に陥っていた私の家庭において
衣食住を満たすことだけが全てで、
心ここにあらずだった親の姿だった。
私はどのようにして自分という存在を祝福すればよいのか分からず、
よくあるように誰か親代わりに愛を注いでくれる人を求め、
これまで生きてきたものの、
夢や期待はことごとく裏切られた。
こんな私はみっともない?子供じみている?
「自分の内にすべてがある。」「依存から抜け出せ。」
それは正論だけども、
誰だって人は依存することから始めたはずではないか。
そして、
子供であることを許さないということ自体がまさに
私が私に強いてきたことではないか。
私はこれまで何度も体験してきた。
叶う、叶わないは関係ない。
「自分は本当は何を望んでいたのか」という私が最も抑圧してきたものと
正面きって向き合うことでしか、
自分とひとつになることはできないのだ。
そうやって自分の体を張って掴んだ論理でなければ、
どうも私は受け入れることができないようなのだ。
たとえファシリテーターのデバラジが
「親は、あなたを生んだ時点から、もう他人なのですよ
あなたを生んだことで、彼等は役目を終えているんです」
と言ったとしても・・・
そして、生き延びるため正論によって本心を抑圧してきた
私のエゴもまた悲しみでいっぱいで、本心と同じくらい大切な存在なのだ。
正直のところ、昨日はこのため何も手がつかない状態だったが、
平和な現実と嵐のインナーワールドを行ったり来たりするうちに
ちょっとずつわかってきた。
人からの注目によってしか自分の存在を認識出来なかった赤ちゃんの私が、
今もこうして狂ったように他者の注目を求めていて
そんな赤ちゃんの目には、
かつて親がそうだったように、人々が目を、気持ちを自分に向けることなく
通りすぎていってしまうように思えるのだと
胸をえぐられるようだった。
かつてインチャイワークに通いながら
気持ちを山のように書き付けたノートをしばらくぶりで引っ張り出し、
そこに いつかのように殴り書きを始めた。
お願いだから私をみて
私に触れて
私は本当に生きているのかわからない
私は本当にここにいるの?本当に存在しているのか・・・
みんな私に気付かないで通りすぎていく
私はいなくていいんだ どうせ私なんか
そして、
何度 無意識のうちに飲み込んだか知れない、
叶うことのなかった、すべての人々への思いを、まるで絞り出すように
「『あなたが欲しい』と、言って・・・!」
いつもながら、この「思いを書きだす」作業は凄いと思う。
気が済むまでわめきちらして、
またこの日のベリーダンスの特訓で体力を使い果たしたのか、
朝までぐっすり眠った。
そういえば、
ベリーダンスで使う腰回りの動きは間違いなく第2チャクラを刺激する。
感じること、感じたことを表現することに関わるこの場所が、
いつにもまして繊細になっていたことで
嵐が一層激しさをましたのも事実だろう。
明けて今朝
起床して何時ものように台所に立つ。
夕べ泣いたせいかお腹がペコペコだ。
隣で母がフライパンにししゃもを並べていたその時。
私の中のどこか深いところを、声がかすめた。
この人が何をしてくれても、私は決して満たされることはないだろう
それが他の誰であっても・・・・
結局のところ、
私が真に欲しいものを与えられるのは
今の私しかいない ようだ。
どうもありがとうございました。
自分は愛されることがない、という視点から
全ての物事を捉えている超ネガティブ・アダルトチャイルドと出会ったのは
年末年始のインヤンダンスのワークショップ中のことだった。
それはとてつもなく古くて大きなチャイルドちゃんだと思ったのだが、
どうやら出会った、と思ったのは、本体というよりは
そのコの「影」でしかなかったようだ。
それはそうだろう、
誰も相手にしてくれないと思うならば、
人前にのこのこと姿を表したところで傷つくだけなのだから
そう簡単に表に出てくる訳がない。
思えば、いつも集団の中で居心地悪さを感じるわたしや、
家に引きこもって家族とロクに目も合わせない姉は、
その子の姿そのままのようだ。
チャイルドとの出会いから何日か過ぎた頃、
同じセラピストさんのもとでインナーチャイルドセラピーを受けた仲間と
ここ最近の自分の「チャイルドちゃん」について話す機会を得た。
お互いが話すどんなことも否定せず、自分のことのように・・・
いや、「ように」ではなく、
人は自分の鏡であるという視点から、文字通り自分のこととして
耳と心を傾けてくれた。
彼女たちとの会合はきっと偶然ではなかったのだろう、
その場所で、そのチャイルドちゃんのことを口にすることで再び
そのコと出会うこととなった。
実は私が意識するより先に、彼女を重要視してくれたのは友達の方だった。
そしてもうひとりの友達・・・彼女が自身の状態を言い表した言葉
「この前まで、すごい愛情飢餓状態で・・・」
それらがトゲのように心のどこかにひっかかっり、
ひっかかったまま何日かが過ぎた。
その間、このようなワークの後に決まって起きる
酷い好転反応に襲われていた。
「やっと見つけてくれたのねー!聞いて聞いて!!」と言わんばかりに
チャイルドちゃんが私達の感情や体を使ってこれまで無視されてきた思いを
訴えてくる・・・・
そう、セラピーでは言われている。それは人間の排泄行為と同じく
本当は喜ぶべきことなのだが、
ちょっとまずいかもというほどの胸の張り裂けるような痛みを今回は
抱えることになった。
深呼吸しようと体を揺すろうと何をしてもだめだ。
いったいどうなっちゃうんだろう・・・と思いながら
過ごしていた昨夜。
きっかけはほんの些細なことだった。
あることについて、上手くいくといいな、いかないかな、と
小さくも大きな希望に満たされていた池に突如として
「だめかもしれない・・・」
という名の小石が投げ込まれた瞬間。
波紋は一気に広がり、胸の痛みが増し、ついに言葉を発した。
「どうせ私なんか!」
よく知っている・・・これは本当にお馴染みのチャイルドちゃん。
ワークショップで出てきたのはこのコだ
お馴染みすぎてまるで空気のような、
もっと正確にいうなら私という植物が生える
「土壌」となっているチャイルドちゃんだ。
憎悪の仮面の下に 悲しみをいっぱい抱えたまま生きてきたコ・・・
と、はっきりとこの子の姿を今回ばかりははっきりと捉えた。
そしてこの子は
「愛されないって?そんなことないよ!ここに私がいるじゃない」と
言って欲しがっていると知った。
インヤンダンスの初日。
幼かった自分の両親への思いと、その時の両親の気持ちを最体験するワークをした。
そこで見たのは、
外見はどうあれ内面は機能不全に陥っていた私の家庭において
衣食住を満たすことだけが全てで、
心ここにあらずだった親の姿だった。
私はどのようにして自分という存在を祝福すればよいのか分からず、
よくあるように誰か親代わりに愛を注いでくれる人を求め、
これまで生きてきたものの、
夢や期待はことごとく裏切られた。
こんな私はみっともない?子供じみている?
「自分の内にすべてがある。」「依存から抜け出せ。」
それは正論だけども、
誰だって人は依存することから始めたはずではないか。
そして、
子供であることを許さないということ自体がまさに
私が私に強いてきたことではないか。
私はこれまで何度も体験してきた。
叶う、叶わないは関係ない。
「自分は本当は何を望んでいたのか」という私が最も抑圧してきたものと
正面きって向き合うことでしか、
自分とひとつになることはできないのだ。
そうやって自分の体を張って掴んだ論理でなければ、
どうも私は受け入れることができないようなのだ。
たとえファシリテーターのデバラジが
「親は、あなたを生んだ時点から、もう他人なのですよ
あなたを生んだことで、彼等は役目を終えているんです」
と言ったとしても・・・
そして、生き延びるため正論によって本心を抑圧してきた
私のエゴもまた悲しみでいっぱいで、本心と同じくらい大切な存在なのだ。
正直のところ、昨日はこのため何も手がつかない状態だったが、
平和な現実と嵐のインナーワールドを行ったり来たりするうちに
ちょっとずつわかってきた。
人からの注目によってしか自分の存在を認識出来なかった赤ちゃんの私が、
今もこうして狂ったように他者の注目を求めていて
そんな赤ちゃんの目には、
かつて親がそうだったように、人々が目を、気持ちを自分に向けることなく
通りすぎていってしまうように思えるのだと
胸をえぐられるようだった。
かつてインチャイワークに通いながら
気持ちを山のように書き付けたノートをしばらくぶりで引っ張り出し、
そこに いつかのように殴り書きを始めた。
お願いだから私をみて
私に触れて
私は本当に生きているのかわからない
私は本当にここにいるの?本当に存在しているのか・・・
みんな私に気付かないで通りすぎていく
私はいなくていいんだ どうせ私なんか
そして、
何度 無意識のうちに飲み込んだか知れない、
叶うことのなかった、すべての人々への思いを、まるで絞り出すように
「『あなたが欲しい』と、言って・・・!」
いつもながら、この「思いを書きだす」作業は凄いと思う。
気が済むまでわめきちらして、
またこの日のベリーダンスの特訓で体力を使い果たしたのか、
朝までぐっすり眠った。
そういえば、
ベリーダンスで使う腰回りの動きは間違いなく第2チャクラを刺激する。
感じること、感じたことを表現することに関わるこの場所が、
いつにもまして繊細になっていたことで
嵐が一層激しさをましたのも事実だろう。
明けて今朝
起床して何時ものように台所に立つ。
夕べ泣いたせいかお腹がペコペコだ。
隣で母がフライパンにししゃもを並べていたその時。
私の中のどこか深いところを、声がかすめた。
この人が何をしてくれても、私は決して満たされることはないだろう
それが他の誰であっても・・・・
結局のところ、
私が真に欲しいものを与えられるのは
今の私しかいない ようだ。
どうもありがとうございました。
最近一番表現したかったことに抵抗した子の一人は「ほんとうのことを知ったら、私を欲しいって言ってくれなくなるかもしれない」って思ってたの。
それから、
ほんとうの私を欲しいって思われたい。
好きな人に「あなたが欲しい」とまっすぐに言えるようになりたい、という気持ちを感じていました。
愛情飢餓、私も自分のタイミングで向き合います。
辛い瞬間だったとお察ししますが、きっと次の希望に繋がること、お祈りしています。
「子供であることを許せない」…私もあったと思います。今これを書いていて込み上げてくる声は「そもそも、はじめから依存なんてしたくなかった(だって私には無限の力が与えられているのに。本当はなんでもできるのに)。誰かの世話になんかなりたくなかった。小さいから自分でしゃかしゃか歩いて食べたいものを食べたりできなかったから育ててもらうしか方法がなかった、チッ(←また舌打ち(笑)」です。
思うに、(無限の力をもつことを深い部分で本当は知っている)私たちはわざわざこう言う不便な設定をして生まれたんだと思うんですよね~。インヤンダンスのサイトのリンク先に「愛を学ぶコース」みたいのがあり、読んでいてそんなことが書かれてありましたし、多読乱読した本にも異口同音に書かれてありました。
自分で自分を最高に愛した結果、外の世界からの投影の愛される自分が実感できるんでしょうね…。
私も最初は自分を愛するということがよく分からなかったし、上手くできなかったし、今も発展途上ですが、仲間の方たちと助けあって行けたら楽しいですね(*^-')
あ、それから、がぶりえるさんの過去の成功体験を知っているチャイルドちゃんはいませんか?絵を描くと決めた、チャイルドちゃんとか。
私の中に成功体験に味をしめた子がいて、ここぞという時「私ならできる」と底力があることを思い出させてくれます。
昨夜、私もひとみさんの日記を拝読させていただいた
のですが、
その時の気持ちをどう、言葉にすればいいかわからずに
そのままにしてしまいました。
細やかに、しかも分け隔てすることなく
ぞのチャイルドちゃんもいつくしむひとみさんのことが
私のチャイルドちゃんも大好きなんですよ
身体を持つ前の私達はおそらく
100%、大きななにかに安心して、甘えて
身をゆだねる・明け渡すことを知っていたのでしょうね。
それを、この世で分離した状態から
思い出そうとしているように
感じています。
同じ道を、傍で歩んでくれているひとみさんに
心から、ありがとう
しかもチッ!て、味のある(笑)
ここ最近、あらわれるチャイルドちゃんは
本当に無力の象徴のようなコで・・
でも、もし神さまがいるならば、そこから観る
私達はまさに子供そのもので
泣いたり笑ったりしてる姿は単にゲームのような
ものなんでしょうね。
学ぶというより、遊ぶ感覚がもっと私には
必要だなーと思ったりして。
成功体験、というか
やりたい=やるのが当たり前!、という
図式のあるチャイルドちゃんがいますね(笑)
成功するしないはこのコは全く意に介さず、
多分、映蓮さんがいうところの「怪物くん」が
このコではないかと思います。
だから、うん、このコがいればきっとなにがあっても
大丈夫なんですね
とても勇気がある。かっこいい。美しい。
日記読んでて、涙がでるよ。
今丁度外出から帰ってきたところで
久しぶりにLeenaさんと思いがけずご対面?できて
ちょっとトキメいてます(笑)
自分を見つめるということは
ホントにホントに苦手だったのですが
インヤンダンスにも参加されていた
アムリタ@映蓮さんのセラピーに2年間通ったことで
本当に教えられた気がします・・・
同時に、楽しむということもこれまた苦手だったのですが(笑)
それもこれから いっぱい体験していきたいです。
ダンスのワークショップ、どんどん利用させて
戴きますので、
宜しくお願いしますね(^_-)-☆!