仕事が、一段落したつかの間を縫って映画を観てきました。
アウトプットばかりだと枯渇するのは、最も忙しい時代に
思い知っているので、お勉強がてらではありますが娯楽と仕事が
直結している状態は、ラッキーなことかもしれません。
トムクルーズ主演、「マミー 呪われた砂漠の女王」と「ジョジョの奇妙な冒険」を2日続きで観て来ました。
前者は、エジプトが舞台で私が時折垣間見る自分の前世がエジプトが多いので、その意味でも興味深かったのです。(前世云々は、主観による妄想と捉えて頂いても結構ですが)
映画の冒頭、「死者の書」の一説が提示されます。
「死は新しい生の入口である」と・・・・数秒間の字幕なので、正確な文言は憶えていませんが。
「死者の書」はチベット仏教にもありますね。私はその深みにおいてチベットのそれのほうが勝ると思っています。
パピルスなどに絵とヒェログリフとで記されたエジプト版死者の書は、死者の霊魂が肉体を離れ、楽園アルルに入るまでの道程とそこへ至るための案内書のごときものらしいです。
チバット版死者の書は、チベット仏教ニンマ派の経典で私は、スリランカを訪れた折にニンマ派の寺院を訪れ、彼らの儀式に参加させてもらったことがあります。
エジプトの死者の書は、「神話」の領域ですが(私の主観です)、チベット版は世界中の臨死体験者が述べる内容と同一であり、カール・ユングが絶賛しています。チベット版には輪廻転生の概念が明らかですが、エジプト版にはそこまで明確に記されてはいないような。(このジャンルは不学なので、印象に過ぎません)
人が宇宙の一部であるということも、チベット版のほうに明らかで、その思想の広がりにおいてもチベット版のほうに軍配が上がるように思われます。
エジプトには「ラー」という太陽神がいますが、これは日本で言えば「天照大神」です。
映画の起伏の激しい物語を追いながら、私の脳裏に泡のように浮かぶ想念があったのですが、それは「ラーや、天照大神という“言葉”で狭められた時代は終焉の時を迎えつつあるのではないか”ということです。
その国の言葉でまとめられ崇められる神は、宇宙大の広がりを持ち得ないのではなかろうか、と。
これからの日本人は、祭祀を人任せに頼り預けるのではなく個々人が直接神と結びつくような時代になりつつあるのではないか、とこれは私の直感にすぎません。
なお、宇宙神としての天御中主命と天照大神を混同している人がいますが、別存在です。
宇宙神も、天御中主命と日本語で限定するとそのぶん日本ローカルに限定され狭くなるといおうか・・・・現代における神を感知するにはもっとしなやかな感性があったほうがいいのかもしれません。
天照大神は日本の専有神ではない、という言い方もできるでしょう。
各国における太陽神の呼称。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E7%A5%9E%E4%B8%80%E8%A6%A7
映画の話題が、思わぬ長さになりましたが・・・
「ジョジョの奇妙な冒険」は、原作の漫画を知らないと面白くないかもしれませんよ、と言われて出かけたのですが、冒頭から三池 崇史監督の三池美学ともういうべき画面のある種の美しさに惹かれ、飽きることはありませんでした。舞台になった街をヨーロッパの海沿いの街ふうに全てをしつらえたのも新鮮。海の色も地中海風に加工して、人工的な世界をこれでもか、と繰り広げています。
「龍が如く」で三池ワールドを知ったのですが、こちらはおもちゃ箱をぶちまけたような映画。コン・ユ追いで見た記憶。コン・ユの美しい指先と手のアップから写したことに、美学を感じたのでした。バイオレンスを撮りますが、繊細な美意識をお持ちですね。
そういえば、私は美意識を持つ監督が好きです。どのジャンル問わず。
誤変換他、後ほど推敲致します。
もう夜遅いので、明日ゆっくり一つずつ見ていきたいと思います。
取り急ぎ、御礼のみ申し上げます。
追伸
例の野蛮人達が先生に絡んでくる理由は、嫉妬からだと思います。
彼らは、本当は先生のようになりたいのです。
先生と呼ばれ、尊敬され、名声を得て、豊かな生活を送りたいのです。
でも、それが出来ないものだから、自分たちの理想そのものの先生が妬ましくて、何とか泥を被せようとするのだと思います。
他の被害を受けた方達も、それぞれに、彼らが羨ましく思う点を備えた方々なのだと思います。
(もし、この推察が当たっていて、彼らが逆上する可能性がある、と先生が判断された場合には、この部分は非公開になさって下さい)
では、先生、お寝みなさい。
良い夢を。
下種張った、とはまた言い得て妙な。下種の輩が、何を動機にわたくしはじめ一連の人たちを罵詈雑言で貶めているのか、さっぱり解りません。罵声を浴びている人たちの共通項を引っ張り出してみると基本は皇室尊崇、しかし尊崇するゆえに祭祀の絶えた今の状態と東宮夫妻のおぼつかなきさまを憂えて、秋篠宮殿下と紀子妃に望みの糸をつないでいる・・・というようなことでしょうか。
それをなにゆえ、狂乱のさまで捏造しつつ罵るのか意味不明です。
大熊猫さん
チベット仏教について、これといった本はご紹介できません。私に知識が乏しいので。あと、なぜチベット密教の本を読みたいのか、それにもよりますね。
仏教概論の一環としてなのか、チベット密教の超能力的側面に興味があるのか。
私は若返り体操として「チベット体操」をやってますが、こらは後者のほうかもしれませんね。
https://www.amazon.co.jp/b?ie=UTF8&node=517872
あるがままに―ラマナ・マハルシの教え 単行本
ラマナ・マハリシは高名ですが、私は読んだことがないかもしれません。記憶にありません。
チベット文化研究所所長 ペマ・ギャルポさんには面識がありますが・・・書籍はないかも。
ペマさん絡みで、動画他記事が役に立つかもしれません。
http://www.relnet.co.jp/kokusyu/brief/kkouen6.htm
https://www.youtube.com/watch?v=vuo0iLIcjqo
清少納言、上村松園に関してのぬかった様のご意見、仰言る通り、と思います。
明るさ、清らかさ、繊細さ、どれも清少納言にも通じるものですね。
どこにでも知己はいるのだな、と、嬉しく心強くなりました。
井沢先生
チベット仏教に関して、良い入門書はありませんでしょうか。
思い付かれた時で結構ですので、お教えくださいませ。
私も清少納言が大好きです。月夜に牛車で川を渡ると、牛の歩みに連れて、水晶が割れたように水が散る。その一瞬を書きとめた美意識。世界のどこに、1000年も前に、こんなきらめく感性と教養を備えた女性たちがいたでしょう。
そして上村松園。「序の舞」を実際に見て以来、もう恋!という感じ。「雪」も、御簾越しの繊細さと、明るい衣装や清らかな雪、「一点の卑俗なところもなく、清澄な」という松園の理想が窺える一幅かと思います。
井沢先生
このところ『豊饒の海』を読み返しています。「奔馬」の最後と「天人五衰」の最後が、一種の対になっているのですね。それでも、書き急いだという印象はやはりあって、もったいない、と思ってしまうのですが。絢爛たる様式美に殉じた作家。あの頃は、ひたすら驚いたのでした。
残暑厳しく荒天も多いところに、下種張った連中の騒ぎ……。お疲れが出ませんように。
文学だけでなく、建築物、服装(ファッション)、ご自分の身体に至るまで、様式美を追究していらした、ということでしょうか。
武士道に関しては、生半可な知識しかありませんので、これから勉強してみます。
チベット仏教についても、存じませんでした。
少しずつでも、知っていきたいと思います。
三島由紀夫の美意識は、若さ、様式美、武士道の3つの柱ではないでしょうか。 +ナルシシズム
枯れることを厭った方でした。
「枕草子」の一節を題材にしたのが、「雪」ですが、卒業論文のテーマに「枕草子」を選んでから数十年、付かず離れず、清少納言を心の片隅で意識しながら、生きてきたような気がします。
先生の今回の記事を読んで、改めて、私は清少納言の美意識が好きなのだなぁ、と納得しました。
実は、私が現在の皇室に興味を持ったきっかけも、紀子様と清少納言が関わっています。
三島由紀夫の美意識については、先生の方がお詳しくていらっしゃると思うので、いつかお聞かせ願えれば、と存じます。三島由紀夫も大好きなのです。