井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

僧衣をまとった運動家

2018年04月10日 | 日記

僧籍にある某さんに対して、高須クリニックの院長が激越な言葉で批判したそうで
しかし、言葉は仮に過剰としても基礎は正論である部分もある。

私が何に驚いたかといって、コメント欄で初めて知ったことなのだがくだんの
僧籍にある御方が、最初は修道院を訪れ断られたから、仏門に入った
というくだり。

調べたら事実だったので、驚き呆れたのだった。

修道院というからには、おそらくカトリックか。

修道院があるのは、東方諸教会、正教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会だが、ルーテル教会を除き、プロテスタントには極めて僅かな例外を除き修道院はない。この方、そういう細分も知らぬままではなかったのだろうか。修道院に断られ、いきなり仏門に走った節操のなさを見れば。

カトリックとプロテスタントでさえ、その立つ基盤は異なるのに、まして一神教から八百万の仏門への方向転換とは、要するに激しい情念に(もっと言えば色情のほむらに身を焦がし)耐えかねて遁走の場に、宗教を選ばれただけではないのだろうか。

それが悪いとは言わない。遁世の一理由ではある。しかし仏門の法衣をまとっての説法ということになると、その教義においていい加減過ぎないか。波乱に満ちた人生の経験者としての単なる「お話」ならいい。
しかし、それに神仏を持ち込むことの筋道の逸脱。

国会前でのデモは、市民運動家としてのそれであり宗教者として法衣をまとってのアジ演説はいかがなものか。
仏教徒にもさまざまの政治的立場あり、それらを分断するのが聖職者の務めではなかろう。
潔くない。
政治運動をなさりたければ、法衣を脱げばよろしい。

たまにだが、肉食らう者として肉食自体を批判する資格はないが、しかしながら仏教寺院で肉食を禁じ、いわゆる精進料理を食べてきたには理由がある。
肉は煩悩を掻き立てる。肉喰の人種はおおむね闘争的である。
酒もお神酒があるが、この方の場合訪問者に昼間から酒を旨いと勧め、大きな肉にかぶりつくその姿の見苦しさ。率直に言えば写真で拝見するそのお顔が澄んではいない。

食は人の精神も形作る。長く日本に肉喰の習慣はない。例外として猪鍋、狸鍋他が山里にあった程度。
肉の常食はなかった。

人間は他者の命を奪いながらしか生きては行けぬという、根源的業を背負っている。
その業をいささかでも減じるための方策が極端な形で言えば精進料理であり、明治期までの日本人の食生活が穏やかな日本人の気質を育んでも来た。

植物であれ他者の命を奪うことには他ならないが、しかしされるときの恐怖や肉体的痛みを伴う生き物は、避けたいのが本来の仏教者ではないのだろうか。

神道とて同じ。靖国神社には、戦で命を落とした鳩や犬、馬の像があり手厚く供養されている。
比較的、殺されることに恐怖も痛点もない魚でさえ供養して来たのが日本人だ。
魚だけではない、針も包丁も、人形までも。

その日本人の根本的優しさを喪って、なんの仏門か。

敢えて政治的思想のみで反論するなら「殺し殺されるのが戦争です!」と叫ばれなくても、そんなもの
誰もが心得ている。

しかし避けようとしても避けられない戦争がある。
仕掛けられる戦争である。
軍備することと戦争をすることは等価ではない。戦争を避けるための軍備というのが
現代の構造であろうに。

折あらば侵略の隙をうかがっている近隣国に対して、どう対処せよというのか。
外交や話し合いが無力に等しいことは、チベット、ウィグルが証明しているであろうに。

政争体験者の戦争忌避の気持ちは理解する。心情として解かる。

しかし九条がさほど素晴らしいなら、なぜ日本だけしか持たぬのか。もう憲法成立以来72年も経っているのに。
九条ありて、なにゆえ竹島は奪われ、同胞がかくも拉致され戻って来ぬのか。尖閣と尖閣領空には
侵犯がひきもきらぬ。これをなぜ平和と呼べる? 
軍靴の響きが聞こえると言うが、それは現実的には隣国からの軍靴であろうに。

武器使わぬ情報戦という戦争の真っ只中にいるというのに、僧衣をまとった身で何を
おっしゃっているのか。GHQの圧制下で成立した憲法には、日本弱体化の意図が潜む。

人生訓は構わぬ。しかしながら、それは法話でなどありはしない。戒律も守れぬ身でなんの
法話か。法衣を脱いでの人生相談なら、いい。その話に魅力があるからこそ、人は押し寄せるので
あろうし。

ただ押し寄せる衆生が、あの方がおっしゃるのだから特定秘密保護法案には反対だ、と思わせるなら
邪道であろう。

不倫のススメも構わぬ。不倫全部が杓子定規に悪いとも言わぬ。しかし三才のわが子を
年下の男との情欲に負けて捨て去ったその身を懺悔する心はないのか、浅ましい。

それを、口々に賛美してやまぬ人々も同類項なのか、お人好しなのか。

昔この方にお会いした時、仏教上の単純な質問をしたのだが、黙して答えぬ。
聞こえなかったのかと繰り返したが、なお黙している。
ああ、この方お勉強はなさっていないのだ、とその時思うと同時に
法衣もこの方にはファッションなのか、庵もアンアン、ノンノのグラビア映えする
舞台装置なのか、と感じたことを率直に述べておく。

私とて不勉強だが、その時の直感は外れてはいなかったのかもしれぬ。

文章の感性はある時期素晴らしく、初期中期の小説はいい。

 

誤変換他、後ほど

 

後述 上記の拙文に対して、事実誤認があるのではないか、というご投稿を
頂いたので、ご意見の骨子を抜粋して併記させて頂きます。

2018-05-29 03:11:20 井沢先生、初めまして。

本記事にちょっと気になる記述やコメントがありましたので、それについて投稿させていただきます。
私は、きちんとした理由や考えがあれば他人の批評や批判は構わない、と考えていますが、だからといって、他人の間違った情報や真偽不明の情報を無造作に載せるのはいかがなものかと思います。


具体的にはまず、「最初は修道院を訪れ断られたから、仏門に入った」という記述ですが、これはちょっと違います。
寂聴さんと玄侑宗久師の対談集『あの世この世』(新潮社:2003年)によると、
 ・遠藤周作さんにお願いして、カソリックの洗礼を受けかかった。しかし、結局どうも私は仏教じゃないかなと思って考えを変えた。
 ・遠藤さんは何も言わず、私の出家を心から祝ってくださり、黒の羽二重の道服をお祝いにくださった。また、奥様は観音経を写経して丁寧に製本して、
  お経の本に作ってくださった。このことを神父さんにご相談したところ、是非そうしてあげなさいと言ってくださった。
 
 瀬:私はそれを家宝にしております。カソリックのかたは非常に心が広いですね。
 玄:結局、何らかの信仰生活をしている人にしか、わからないことなのでしょうね。 
 瀬:確かに、「信仰というのはすごいものだな」と思いました。自分と同じ宗教を信仰しているのでなくても、ちゃんとわかってくれるんだなと、非常に感動しましたね。私を導いてくださろうとしたのは、井上洋治神父さまという本当に立派な方です。その後にお会いしても、ちっとも嫌な顔しないで、にこにこして「元気ですか」と声をかけてくださって、私は本当にとてもありがたいと、生涯ご恩を感じております。

以上が実状であり、「修道院を訪れ断られた」というのは、カソリックのかたに失礼にあたると思います。

ところで、「調べたら事実」とお書きになっていますが、何をお調べになったのでしょうか?


寂聴さんのウィキペディアを見てみると、そこにはこの間違った情報が載せられています。そして、冒頭に”検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします”の注意事項が載せられており、図らずも不正確な情報があることが検証されたことになりました。

そのウィキペディアには、次のような気になる記述があります。ーー「ただし通常の出家のような禁忌生活ではなく、出家後も男性と付き合い、」
しかし、上記の本では、戒律について次のように話されています。

 瀬:(中略)それで一番守りにくいと思われたセックスをしない、ということを一つだけでも守ろうと決めたんですよ。それで五十一歳で出家して以後守ってきています。でも、それまでの私の行動が悪いから、世間はそれを信じない。今でも信じていない、って面と向って言う人たちがいる。
 玄:信じている人もいるでしょうけれどね。もう充分なさっただろうから、って(笑)。
 瀬:それはもう堪能しましたから、ちゃんと守れているんです(笑)。本当に、出家するっていうことは、何かがちゃんと守らせてくれるんですよね、不思議なことに。
 玄:出家していない人にそれを言ってもわからないでしょうね。
 
私は信じます。そして、寂聴さんが自分の強い煩悩をきちんと抑えたというのは、素晴らしいことだと思いますね。


次ですが、「わが子を捨て去ったその身を懺悔する心はないのか」という部分も間違っています。
これは、この記事以後に、テレビで寂聴さんのことを放映していて、その一部を見たのですが、”人生最大の後悔”について寂聴さんが答えているところでした。「人生最大の後悔は、子供を置いて出て行ったこと。なぜあんなひどいことをしたのか、死ぬことも考えたほど後悔している。」と。再現映像も交えて放映していましたので、見た方はたくさんいるはずです。

『あの世この世』の中で、寂聴さんは、なぜ出家したかを以下のように述べてます。

 瀬:(中略)私の場合はですね、出家も何か大きなものに首根っこつかまれて、ぐいぐい引っ張られるような気がしたんですよ。それは、雷に打たれる恋愛とちょっと似ていたんですね。
 玄:私は、その言葉は納得いきましたよ。
 瀬:抵抗できないんです。だから、なぜ出家したかということを訊かれても・・答えられないんですよ、ほんとに。うまく言おうと思ったら、言えないことはないんだけれども、きちんとしたことは自分でもわからない。

他人が言うことでもないのですが、寂聴さんの心の奥に、過去に対する大きな後悔と懺悔反省があり、それが、変えなればいけないという宗教的な回心を発生させたのではないでしょうか? 出家以降、不淫戒をきちんと守っているということが、その現れかもしれません。


ベグママさんのリツイートも問題だと思います。井沢先生が承認するまでコメントは反映されないのですよね。ベグママさんは、このツイッター投稿の真偽については何も考えてないように見えますが、井沢先生は、この内容が本当だと思われたのでしょうか?きちんとした根拠があるのでしょうか?
私には、はっきりした間違いも含めて怪しい情報だと感じるのですが。

最初の投稿は、そのままでは「寂聴さんは破門されたが、文化勲章を得た事で延暦寺が破門を解き、名誉職を与えた」と読めます。しかし、寂聴さんの経歴を見ると、少なくともこの後半部分ははっきりと間違っています。

寂聴さんは、今春聴(今東光)大僧正を師僧として中尊寺にて天台宗で得度されました。ただし、今大僧正はご病気だったため、儀式そのものは代理の方が行われたそうです。その後、大僧正のご命令により横川行院で二ケ月の行に入ります。『あの世この世』の中でこの時のことをユーモアを交えて話されていますが、共に修行したのは皆若い人で、四十数名の修行者中、尼僧は四名。二ケ月で七キロやせるほどのかなり厳しいものだったそうです。
ただもし、死後もう一度現世に戻れるなら、「私は横川の行院といいます。それぐらい懐かしい。行にもう一回言ってもいいと思います。」とも言われています。横川の行は、住職の資格を取るためのもので、寂聴さんはきちんとその資格を取られたわけです。

その後、岩手の天台寺住職となられます。天台寺という名前からも分かるように東北の古刹なのに、様々なトラブルで荒れ果ててしまい、今大僧正が特命住職として復興しようとしておられました。しかし、志半ばで御遷化され、結局巡り巡って法弟子の寂聴さんが復興の仕事を行うことになったわけです。
そこで、もし破門が事実ならば住職にはなれません。どこかで破門が解かれているはずであり、文化勲章で破門が解かれたというのが間違いなのが分かると思います。さらに言うなら、本当に破門なんてあったのでしょうか?どこに破門の文献があるのでしょうか、ウィキペディアにも載せられてないのはそれがないからではないですか?何より、寂聴さんが(私の知る限りですが)全く触れていない。破門というのは大変なことであり、それが解かれるというのもまた大きな事件です。事実ならば、どこかで寂聴さんが書くか話されていると思うのですが?
井沢先生は、何か知っておられますか。もし知っているのなら、差しさわりない範囲で教えていただけますでしょうか。

寂聴さんは、人を集めるため青空説法を考え出して、荒廃していた天台寺を見事に復興させます。天台寺のウィキペディアには次のように載っています。
「復興に最も大きな影響があったのは、春聽の法弟子、瀬戸内寂聴の住職就任(昭和62 1987年)である。寂聴は寺の復興に注力し、在職中に天台寺を東北有数の有名寺院に押し上げた。」

天台宗にとっては、文化勲章よりもこの実績の方が評価に値するものでしょう。無知か故意か知りませんが、”彼女を任じた延暦寺も情けない”などという者こそ情けない人だと思います。

また、酒井阿闍梨についても、このツイートは本当のことなんでしょうか?この言い方は、週刊誌によくある”関係者Aさんによれば”というやり方ですよね。それは、酒井阿闍梨が公には寂聴さんを批判していないことを意味します。しかし、本当に”嫌っていた”というのなら、寂聴さんに欠点や直してもらいたいことがあるはずです。それを個別に何らの指導もせずに、Aさん相手に陰口を言う、そんなお姿はちょっと想像できないんですが。

私の記憶では、寂聴さんが天台寺住職のとき、酒井阿闍梨から激励の言葉とお守り(何かは忘れました)を頂いたはずです。ただ、出典を示せないので、もし記憶ミスなら謝るしかないのですが。
井沢先生は、このことについても何か知っておられますか。もし知っているのなら、差しさわりない範囲でこれも教えていただけますでしょうか。


以上抜粋


12 コメント

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節操なく感覚のみで生きている人にとって、寂聴さんの言葉で自己肯定感が高まるのでしょうか・・・ (美しい日本)
2018-04-10 12:52:11
井沢先生  こんにちは

>しかしされるときの恐怖や肉体的痛みを伴う生き物は、避けたいのが本来の仏教者ではないのだろうか。


井沢先生は、日拝の時に、過去一緒に暮らしていたワンちゃんに、懺悔されている旨をブログに書かれていました。
先生や普通の日本人が持っている動物に対する気持ちを、寂聴さんは持ち合わせていないようです。

小さな子供を捨てて、夫の教え子との色恋に走ったのもそういう(一般からみると非情といえる)感覚があるから、平気で出来るのかと思います。

〈以下、一部抜粋〉

瀬戸内寂聴「食べますよ、お肉は好きです」

記者「お坊さんは肉食は駄目なのでは?」

瀬戸内寂聴「私が殺すわけではないから」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1378342403


寂聴さんは以前、死刑制度存廃をめぐって
加害者の人権は尊重し、被害者とその家族の人権を無視するような発言をして、
批判を浴びました。


“ 戦争しないという憲法9条は世界の珍しい宝で世界が認めている。憲法9条を放棄して戦争ができるようにするなんて、馬鹿なことだ ”

“ 安倍さんは民意をちっとも聞こうとしない。今のままでは戦争になる。安倍さんが行けばいい ”

上記の発言は、
安全保障関連法が成立した翌日、寂庵で行われた法話の会(月1回開催)でのものです。
自らの肉食の説明、死刑制度廃止の立場、反戦・憲法9条をめぐり共産党を応援する思想等、
論理立った考えはみられません。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

やはり寂聴さんには、法衣に特別な思いはなく、ファッションの一つなのだと思います。

“ 輪袈裟を外すのを忘れて、かけたままお肉を食べていたところがテレビで放送された時には、上のほう(比叡山)から電話かかってきましたよ ”
https://www.huffingtonpost.jp/2017/12/07/setouchi_a_23300503/
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Unknown (まゆ)
2018-04-10 14:11:19
3才の子供を置いての駆け落ち。私も納得できません。別に不倫がどうとかどうでもいい。カミナリにうたれたように恋に落ちることもあるとは思う。私は、3才の子供を置いていけない。この方の説法聞いたことはありません。3才の子供を置いて駆け落ちしたという点でなんか違和感があります。生き方が違うので共感も参考にもならないような。。。でも、説法すごい人気なんですよね。肉食も、酒飲も、宗教家としていいのかとも思っていましたがテレビでは、誰も触れないんですよね。多くの人が宗教家というより彼女に共感しているのですかね?
返信する
霊性 (総太郎)
2018-04-10 16:20:12
先生、連投失礼致します。

先日からの瀬戸内寂聴さんに対する皆様方の御意見に色々と考えさせられております・・。

残念でもあり、不思議なのは、かつて昭和の瀬戸内晴美さん~寂聴さんは、スピリチュアルに対して肯定派で、様々な媒体でも肯定的意見を表明されていたんですよね・・。

昭和48年の出家の際もNET (現テレビ朝日)「奈良和モーニングショー」で、「神仏を信じるからこそ、出家する」「魂の存在」旨、心境を説明されていますし、

比較的最近、確か、2003年頃の美輪明宏さんとの対談・共著でも肯定的見解。

井沢先生も御存知と思いますが、
三島由紀夫先生の自決と2・26事件の礒部浅一氏の憑依現象の真相についても、寂聴さんは美輪さんに熱心に質問されていたんですが・・。
何故、寂聴さんが否定派に転向されたのか、寧ろそちらが気になります・・(~_~;)

具体的な例ですが、日本における心霊研究の第一人者で、昭和のメディアでも大変な御活躍をされた中岡俊哉先生を皆様、御記憶でしょうか?

中岡先生は2001年に御逝去されましたが、昨年、ご子息の作家・岡本和明さんが新潮社より
「コックリさんの父・中岡俊哉のオカルト人生」を上梓されましたので、是非皆様にも御一読頂ければ幸いです(新潮社さんも公式サイトを公開中)

昭和の時代、(現在もでしょうが)スピリチュアルに偏見や差別も根強く、非科学的と罵倒されていた時代、数々の著書やリポートを発表し、
海外の研究機関や有識者の方々とも深いパイプを持ち、日本の心霊研究を前進させたお方で、
全盛期は特に信頼される有識者として、全局でレギュラー・御意見番として御出演。

NHK 「スタジオ102」

フジテレビ「小川宏ショー」「3時のあなた」
「リビング2」

日本テレビ「お昼のワイドショー」「11PM」

テレビ朝日「桂小金治アフタヌーンショー」「奈良和モーニングショー」等々、権威ある番組スタッフの方々から絶大な信頼をされていたのですが、
一方で、オカルト否定派からは目の仇にされ、
特に「朝日新聞」グループからは誹謗中傷の対象に・・。

昭和49年に話題を呼んだスプーン曲げの関口淳少年並びに御家族とも親交があり、相談に乗っておられたのですが、
当時、「週刊朝日」と一部のメディアはオカルト断固否定キャンペーンを展開。

中岡先生は「週刊朝日」誌上で、
「超能力ブーム陰の演出者たち」
と名指しで批難されました。

そんな中、文壇関係者で、中岡先生に特に暖かい励ましと激励を贈られたのは亡き柴田錬三郎先生と瀬戸内寂聴さん!

柴錬先生は特にスピリチュアルに大変造詣が深く、自作の「眠狂四郎」に於ける
「円月殺法は超能力を意識したイメージですよ・・」とまで仰られ、
中岡先生も同席された日本テレビ「11PM 」の生放送で、頑固で屁理屈を振り回す否定論者に激怒!
「お前達が、狭い知識で人間本来の素晴らしい能力や神秘を理解しようとしないのは、こんな物に振り回されて毒されているからだ!」と、
突如、御自身の財布から一万円札を抜き出し、ライターで火を付けるハプニング!(*_*)

柴錬先生や寂聴さんは当時、「中岡さん、日本人の科学万能主義、自称科学者・インテリ層の傲慢さは問題!目に見えない物は信じないと主張するなら、赤外線や放射能だって肉眼には見えない訳で、未知な物質や霊体が存在しても何ら不思議ではない!」旨、論理的に熱く語られ、「何故、きちんと科学的検証をしないでインチキと決めつけるのか?中岡さん、頑張って!」との言葉が中岡先生の励みとなったそうです・・。

上記エピソードも踏まえ、心に残る暖かい方々として寂聴さんへの感謝の意を生前の中岡先生が記されていた位だったのですが、

寂聴さん御本人に転向の真意を伺うしかありませんが不思議ですね・・。

逆に中岡先生は、否定派には心ない暴言を吐かれたり、無礼極まりない態度を取られ、憮然となる事も度々で、だからこそ寂聴さんは心に残る暖かいお方の印象だったそう。

共に故人となられましたが、某ベテラン俳優で司会者・タレントとしても活躍したK さん、Yさんのお二人は陰湿で、Yさんは「あなたは本当に霊の存在を信じているんですか?馬鹿馬鹿しいとしか言い様がないね・・」と軽蔑した態度。

Kさんに至っては、日本テレビの「ショック!」(昭和44年)の司会者として、青森県の恐山に取材・撮影に同行した際、「霊なんて馬鹿馬鹿しい!本当に祟りがあるか俺が試してやる!」
と言い放ち、中岡先生やスタッフの見ている前で、水子供養に積まれている石仏に立ち小便を
する神をも恐れぬ罰当たりな振る舞いをしていたそう・・。

後日談ですが、晩年のYさんは奥様・お嬢様からも見捨てられ、老人ホームで孤独死・・。
死去前に「神様、助けて欲しい・・」と見舞い客の前で涙ぐまれていたと・・。

K さんは著名な芸能・文壇一家の御長男でしたが、同じく俳優だった妹さん、弟さんら全てが大麻所持で逮捕され、数年後に御両親も相次いで他界。

御自身のお嬢様は不治の病に侵され、若くして他界、御自身も数年後、食道癌で壮絶な闘病の末、他界。

残された未亡人・奥様も後を追うように癌で他界・・。
何か目に見えない恐ろしい因果応報のような物を感じるのは小生だけでしょうか・・(~_~;)

因みにK さんが癌発病後、中岡先生に
「最近、体の調子が優れないので、誰か良い能力者・ヒーラーを紹介して貰えないか?」
と相談されたそうで、
あれだけ否定派だったKさんが・・と驚くばかりだったそうです・・。
残念ながら、中岡先生が紹介したヒーラーのお力は余りK さんに役立たなかったよう・・と記されてはいたのですが・・。

神仏や霊を否定するのは容易いですが、
そんな人間でも追い詰められたり、困った時に神秘的世界にすがろうとする現実・人間の愚かさを肝に命じたいものです・・。

先日の左とん平さんのお別れの会でも色々な思いがよぎりましたが、また御報告させて頂きます。
返信する
Unknown (ベグママ)
2018-04-10 17:23:03
井沢先生、初めまして。

いつも、更新をありがとうございます。

瀬戸内寂聴さんの件、
ツイッターでの投稿では、

「瀬戸内寂聴氏は比叡山延暦寺で修行していましたがすぐに破門。現在は禅光坊住職の肩書ですが、作家活動で文化勲章を得た事で延暦寺が与えた名誉職。真っ昼間から酒を呑み、肉を食べ、サイドビジネスをやっている姿を見たら最澄は嘆き悲しむでしょう。彼女を任じた延暦寺も情けない。信長焼討の教訓は?」

また、

「酒井阿闍梨は、態度は普通にしていても、嫌っていた」と。

それから、
「電話も嫌がっていた」と



返信する
総太郎さん (井沢満)
2018-04-10 20:56:34
霊性は体感しているか、頭の中だけでの理解かで
雲泥の差です。頭で解っていても、身をもって知らなければもとに戻るのかもしれません。

逆に、霊を体感したり視覚化すれば、戻ることは
ありません。

この人に霊性は全く感じません。
澄んだ光輪もなし。
返信する
認知症かと (チッチョ)
2018-04-10 23:19:38
最近の言動は認知の低下が大きく影響しているのでは?あれほどの醜態をさらけ出せるのですから正常ではありませんよ。マスゴミも、実は分かった上でおもちゃにしているのだと思っています。視聴率が出せればなんでもやるでしょう。
元々の出家自体が不純な動機であったのは言うまでもありませんが・・・。

>文章の感性はある時期素晴らしく、初期中期の小説はいい。
晴美さんだった頃の、自分と同じような欲情のままに行動する波乱万丈な実在の女性を書いた小説は若い女性にとっては魅力的で、私もずいぶん読みましたよ。もちろん若い頃ですがw でもそれは小説家だからこそ、穴をまくった潔さもあっての共感であり許容だと思うのです。
出家されてからの寂聴さんには全く魅力は感じなくなりましたが、以前より人気者になられてびっくりでした。
波乱万丈の人生や旦那様以外の男性との恋愛に憧れる平凡な女性、だからこそ「お話」を聞く間だけでも夢を見ていられるということでしょうか。はっきり言って「あほ」です。
日本は平和ですね、時間を持て余した小金を持ったあほな女が、いっぱいいるのですから。このあほ共にも一票があるのが問題だと思っています。民主主義の弊害、ですかね。
返信する
間違った情報や真偽不確かな情報を発信していませんか (フータロー)
2018-05-29 03:11:20
 井沢先生、初めまして。

本記事にちょっと気になる記述やコメントがありましたので、それについて投稿させていただきます。
私は、きちんとした理由や考えがあれば他人の批評や批判は構わない、と考えていますが、だからといって、他人の間違った情報や真偽不明の情報を無造作に載せるのはいかがなものかと思います。


具体的にはまず、「最初は修道院を訪れ断られたから、仏門に入った」という記述ですが、これはちょっと違います。
寂聴さんと玄侑宗久師の対談集『あの世この世』(新潮社:2003年)によると、
 ・遠藤周作さんにお願いして、カソリックの洗礼を受けかかった。しかし、結局どうも私は仏教じゃないかなと思って考えを変えた。
 ・遠藤さんは何も言わず、私の出家を心から祝ってくださり、黒の羽二重の道服をお祝いにくださった。また、奥様は観音経を写経して丁寧に製本して、
  お経の本に作ってくださった。このことを神父さんにご相談したところ、是非そうしてあげなさいと言ってくださった。
 
 瀬:私はそれを家宝にしております。カソリックのかたは非常に心が広いですね。
 玄:結局、何らかの信仰生活をしている人にしか、わからないことなのでしょうね。 
 瀬:確かに、「信仰というのはすごいものだな」と思いました。自分と同じ宗教を信仰しているのでなくても、ちゃんとわかってくれるんだなと、非常に感動しましたね。私を導いてくださろうとしたのは、井上洋治神父さまという本当に立派な方です。その後にお会いしても、ちっとも嫌な顔しないで、にこにこして「元気ですか」と声をかけてくださって、私は本当にとてもありがたいと、生涯ご恩を感じております。

以上が実状であり、「修道院を訪れ断られた」というのは、カソリックのかたに失礼にあたると思います。

ところで、「調べたら事実」とお書きになっていますが、何をお調べになったのでしょうか?


寂聴さんのウィキペディアを見てみると、そこにはこの間違った情報が載せられています。そして、冒頭に”検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします”の注意事項が載せられており、図らずも不正確な情報があることが検証されたことになりました。

そのウィキペディアには、次のような気になる記述があります。ーー「ただし通常の出家のような禁忌生活ではなく、出家後も男性と付き合い、」
しかし、上記の本では、戒律について次のように話されています。

 瀬:(中略)それで一番守りにくいと思われたセックスをしない、ということを一つだけでも守ろうと決めたんですよ。それで五十一歳で出家して以後守ってきています。でも、それまでの私の行動が悪いから、世間はそれを信じない。今でも信じていない、って面と向って言う人たちがいる。
 玄:信じている人もいるでしょうけれどね。もう充分なさっただろうから、って(笑)。
 瀬:それはもう堪能しましたから、ちゃんと守れているんです(笑)。本当に、出家するっていうことは、何かがちゃんと守らせてくれるんですよね、不思議なことに。
 玄:出家していない人にそれを言ってもわからないでしょうね。
 
私は信じます。そして、寂聴さんが自分の強い煩悩をきちんと抑えたというのは、素晴らしいことだと思いますね。


次ですが、「わが子を捨て去ったその身を懺悔する心はないのか」という部分も間違っています。
これは、この記事以後に、テレビで寂聴さんのことを放映していて、その一部を見たのですが、”人生最大の後悔”について寂聴さんが答えているところでした。「人生最大の後悔は、子供を置いて出て行ったこと。なぜあんなひどいことをしたのか、死ぬことも考えたほど後悔している。」と。再現映像も交えて放映していましたので、見た方はたくさんいるはずです。

『あの世この世』の中で、寂聴さんは、なぜ出家したかを以下のように述べてます。

 瀬:(中略)私の場合はですね、出家も何か大きなものに首根っこつかまれて、ぐいぐい引っ張られるような気がしたんですよ。それは、雷に打たれる恋愛とちょっと似ていたんですね。
 玄:私は、その言葉は納得いきましたよ。
 瀬:抵抗できないんです。だから、なぜ出家したかということを訊かれても・・答えられないんですよ、ほんとに。うまく言おうと思ったら、言えないことはないんだけれども、きちんとしたことは自分でもわからない。

他人が言うことでもないのですが、寂聴さんの心の奥に、過去に対する大きな後悔と懺悔反省があり、それが、変えなればいけないという宗教的な回心を発生させたのではないでしょうか? 出家以降、不淫戒をきちんと守っているということが、その現れかもしれません。


ベグママさんのリツイートも問題だと思います。井沢先生が承認するまでコメントは反映されないのですよね。ベグママさんは、このツイッター投稿の真偽については何も考えてないように見えますが、井沢先生は、この内容が本当だと思われたのでしょうか?きちんとした根拠があるのでしょうか?
私には、はっきりした間違いも含めて怪しい情報だと感じるのですが。

最初の投稿は、そのままでは「寂聴さんは破門されたが、文化勲章を得た事で延暦寺が破門を解き、名誉職を与えた」と読めます。しかし、寂聴さんの経歴を見ると、少なくともこの後半部分ははっきりと間違っています。

寂聴さんは、今春聴(今東光)大僧正を師僧として中尊寺にて天台宗で得度されました。ただし、今大僧正はご病気だったため、儀式そのものは代理の方が行われたそうです。その後、大僧正のご命令により横川行院で二ケ月の行に入ります。『あの世この世』の中でこの時のことをユーモアを交えて話されていますが、共に修行したのは皆若い人で、四十数名の修行者中、尼僧は四名。二ケ月で七キロやせるほどのかなり厳しいものだったそうです。
ただもし、死後もう一度現世に戻れるなら、「私は横川の行院といいます。それぐらい懐かしい。行にもう一回言ってもいいと思います。」とも言われています。横川の行は、住職の資格を取るためのもので、寂聴さんはきちんとその資格を取られたわけです。

その後、岩手の天台寺住職となられます。天台寺という名前からも分かるように東北の古刹なのに、様々なトラブルで荒れ果ててしまい、今大僧正が特命住職として復興しようとしておられました。しかし、志半ばで御遷化され、結局巡り巡って法弟子の寂聴さんが復興の仕事を行うことになったわけです。
そこで、もし破門が事実ならば住職にはなれません。どこかで破門が解かれているはずであり、文化勲章で破門が解かれたというのが間違いなのが分かると思います。さらに言うなら、本当に破門なんてあったのでしょうか?どこに破門の文献があるのでしょうか、ウィキペディアにも載せられてないのはそれがないからではないですか?何より、寂聴さんが(私の知る限りですが)全く触れていない。破門というのは大変なことであり、それが解かれるというのもまた大きな事件です。事実ならば、どこかで寂聴さんが書くか話されていると思うのですが?
井沢先生は、何か知っておられますか。もし知っているのなら、差しさわりない範囲で教えていただけますでしょうか。

寂聴さんは、人を集めるため青空説法を考え出して、荒廃していた天台寺を見事に復興させます。天台寺のウィキペディアには次のように載っています。
「復興に最も大きな影響があったのは、春聽の法弟子、瀬戸内寂聴の住職就任(昭和62 1987年)である。寂聴は寺の復興に注力し、在職中に天台寺を東北有数の有名寺院に押し上げた。」

天台宗にとっては、文化勲章よりもこの実績の方が評価に値するものでしょう。無知か故意か知りませんが、”彼女を任じた延暦寺も情けない”などという者こそ情けない人だと思います。

また、酒井阿闍梨についても、このツイートは本当のことなんでしょうか?この言い方は、週刊誌によくある”関係者Aさんによれば”というやり方ですよね。それは、酒井阿闍梨が公には寂聴さんを批判していないことを意味します。しかし、本当に”嫌っていた”というのなら、寂聴さんに欠点や直してもらいたいことがあるはずです。それを個別に何らの指導もせずに、Aさん相手に陰口を言う、そんなお姿はちょっと想像できないんですが。

私の記憶では、寂聴さんが天台寺住職のとき、酒井阿闍梨から激励の言葉とお守り(何かは忘れました)を頂いたはずです。ただ、出典を示せないので、もし記憶ミスなら謝るしかないのですが。
井沢先生は、このことについても何か知っておられますか。もし知っているのなら、差しさわりない範囲でこれも教えていただけますでしょうか。


今、井沢先生は、ネット上で嘘を書かれ、それを無責任に拡散され大迷惑を被っておられます。自分がそういう被害にあっているからこそ、自分の記事での他人の情報については、コメントも含めて、より慎重に扱う必要があるのではないでしょうか。本記事だけ見て、情報の真偽などは考えず、無頓着に拡散する人もいるはずです。被害者なのに加害者になった、というのは笑えないことです。

つい気になったので、長々と失礼しました。乱文乱筆お許し下さい。

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フータローさん (井沢満)
2018-05-29 06:13:05
ご注意をありがとうございます。
海外最後の蒼茫の日にて
対応が遅くなるかと思いますが
記事に加えてご投稿分の抜粋を
併記させていただきます。寂聴さんの有り様を
私は肯定できませんが、事実誤認は
いけませんので。
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フータローさんへ (菜の花)
2018-05-29 16:43:34
まずWikiに関してですが、

>この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。

この記述は、相当数の実在人物の記事の冒頭に掲げられているものであり、これをもってしてWikiがいいかげんと断じることはできず、むしろ良心の部分でしょう。

また本人が悔いていると言ったからといって、それをもって真実である、と思い込たことを、死ぬほどっ公開している人がむのもいかがなものでしょうね。
御本人が不倫の勧めを語っているのを、テレビで見ました。我が子を置き去りにし、そんなことを人に薦める人が本当に懺悔していると言えるのでしょうか。
先生の「懺悔する心はないのか」という問いかけ文にすぎないものを、あなたは過剰に受け止め過ぎです。

また公開非公開に関してはそのブログ主さんの方針に委ねられるべきです。井沢先生はご自身へのゆえない誹謗でも、公開なさって来ています。言わんとする所はお解りでしょうか?
誰でもそれに反論する自由はあり、たとえばあなたの8私個人にとっては、いささか首を傾げる)コメントもきちんと公開されています。
何を公開し非公開とするかは、最初から管理人さんの承認制で個人の裁量と判断に委ねられていることが前提なのだから、それに対してあれこれ言うのは、僭越でしょう。

被害者なのに加害者という言い方も、誇張が過ぎて、どきつく無礼ではありませんか?タイトルも含めて、悪意を感じさえします。

井沢先生のこの文の趣旨は明らかで、シンプルに一つ
「僧籍にある人が一方に偏った政治活動をすることへの疑義」であり、もともとが中傷目的で書かれた捏造や虚偽文とは画然と異なり、あなたが大上段に振りかぶって一緒になさる、ものも言いようは、そのままあなたにも降り掛かって来ませんか?



先生の文章からは故意にその方の姓名も避けていらっしゃるというのに、あなたの反応は過剰です。
ご本名や顔写真までさらしての、悪意ある捏造文と同列に並べてはいけません。

記述が事実と異なるなら、こういう理由で事実ではありませんと、単に述べればいいだけのこと。それを加害者の被害者のと大仰に書きたてられると悪意によるものと、取られかねません。 


最後にあなたが引かれたWikiの文言をあなたに捧げます。

>特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。


論争の種となるような記述も不可と書かれているので、Wiki 流儀に従えばこの私のコメントも非公開にされるかもしれませんね。
でも、そもそも承認制であることを承認しての投稿なのだから、何ら不服はありません。
なぜなら、最初から非公開とされるかもしれない、ということが約束事にある、コメント欄なのですから。
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誤解を解きたいと思います (フータロー)
2018-05-30 06:52:31
井沢先生、菜の花さん こんにちは。

投稿は一度だけにするつもりでしたが、菜の花さんに思わぬ誤解を与えてしまったようで、やはり誤解は解いておかねば、と思い再度投稿します。
論争などする気はなく、これで最後にしたいと思います。

まず、私は井沢先生に対して悪意などないことを申し上げておきます。また、寂聴さんを全面的に肯定しているわけではないことも付け加えておきます。
菜の花さんが怒られたのは、”被害者”とか”加害者”などの言葉の選択ミスと説明不足が原因かなと思っています。


井沢先生は、今、悪意のある者にネット上で嘘を書かれ、無責任に拡散されるという被害にあっておられますが、先生を知らない人がそれを見て悪印象を持つ、ということが充分起こり得ます。奴らはそれが目的でしょうから。

しかし、困ったことに、悪意などなくても同様のことが結果として起こるということもあり得ます。悪意がないのは、記事の中に誤情報や真偽不明の情報があるという認識があまりないことが一因です。しかし、結果的に悪印象を広める側になってしまう、すなわち全く意識せずに、いわゆる”加害者側”になってしまう、ということになります。前回投稿したのは、このままでは、他の情報を調べない人が、本記事やコメントのみでそれを起こすのではないかと危惧したからです。やはり、私が把握している事実誤認の情報については、はっきりとコメントしておかなければと思いました。
とんだお節介で申し訳ありません。

そして私は、記事内の先生のご意見や、コメントにある意見に対しては、何も言っておりません。前回記したように「きちんとした理由や考えがあれば他人の批評や批判は構わない」と考えていますから。事実誤認や不確かと思われることに触れているのみです。この点を、菜の花さんは誤解されていませんでしょうか?



以下、菜の花さんのコメントに答える形で誤解を解きたいと思います。


>Wikiがいいかげんと断じることはできず、むしろ良心の部分でしょう。

 よくコメントを読んでいただきたいのですが、「Wikiがいいかげん」と断じてはいません。ウィキペディア冒頭の記述は、要約すれば「本記事には信用できない部分があるかもしれないので注意して下さい」ということでしょう。私は、寂聴さんのウィキペディアで、図らずもそれを見つけたといっているだけです。


>また本人が悔いていると言ったからといって、それをもって真実である、と思い込たことを、死ぬほどっ公開している人がむのもいかがなものでしょうね。

 菜の花さんにお願いですが、コメントを読むとき・書くときは、心を落ち着かせて行ってください。文章の推敲も必要です。上記文は意味不明です。


>御本人が不倫の勧めを語っているのを、テレビで見ました。我が子を置き去りにし、そんなことを人に薦める人が本当に懺悔していると言えるのでしょうか。
>先生の「懺悔する心はないのか」という問いかけ文にすぎないものを、あなたは過剰に受け止め過ぎです。

 まず、”人生最大の後悔”について寂聴さんがテレビで答えたのは事実です。そして、「本当に懺悔していると言えるのでしょうか」というのは意見です。
 事実と意見は、はっきりと分ける必要があります。意見は十人十色で、人それぞれに違います。菜の花さんは、懺悔を信用できないとおっしゃってますが、見た人の中には、信用できると考える人もいるはずです。それぞれの意見を持つためには、きちんと事実を把握する必要があるということです。そして、私は、先生の問いかけに対して、こういう事実がありましたと書いただけです。先生がそれについてどう思われるかは、他の人がどうこう言うことではありません。
 
 なお、恐いのは、意見がいつの間にか事実のように扱われることです。例えば、「本当に懺悔しているとは思えない」→「本当には懺悔してない」→「懺悔してない」→「今まで懺悔したことがない」のように。事実を把握してない人達での伝言ゲームで、変わる可能性がないとはいえないと思います。だから、事実を把握することは非常に重要です。しかし、注意しておくのは、表面上の事実イコール真実とは限らないということです。もっとも、心の問題は他人が真実を知るということはできません。だから、表面上の事実を把握しておいて、意見をそれぞれ言うことに留まるでしょう。

 ところで、私は、問いかけを過剰に受け止めてなどいません。上記のように事実を書いただけです。そう受け止められるのは、文章が下手だからでしょうね。
 申しわけありません。


>また公開非公開に関してはそのブログ主さんの方針に委ねられるべきです。井沢先生はご自身へのゆえない誹謗でも、公開なさって来ています。言わんと
>する所はお解りでしょうか?

 ブログ主さんの方針というのは当然のことです。ベグママさんのリツイートと私のコメントをよくみていただきたいのですが、リツイートは他人の情報で、しかも間違いと真偽不明の内容です。さらに人を貶めるような内容です。たとえば、もし誰かが個人情報がわかるコメントを書き、それが間違って公開されたら、すぐさま指摘が来ますよね。さらに、公開非公開時には注意してください、という内容が通常入るでしょう。それと同じように、この情報には嘘があります、また真偽不明なのではないですか、ということを伝えて、こういう情報は、公開非公開時には注意すべきではないでしょうか、ということを言いたかったわけです。まあ、これは言葉足らずで私自身のミスです。すみません。


>被害者なのに加害者という言い方も、誇張が過ぎて、どきつく無礼ではありませんか?タイトルも含めて、悪意を感じさえします。

 これもまた、言葉の選択ミス及び説明不足でした。本コメントの最初の方に内容をのべてあります。私自身のミスです。すみません。
 また、井沢先生に対して悪意などないことを再度申し上げておきます。


>井沢先生のこの文の趣旨は明らかで、シンプルに一つ「僧籍にある人が一方に偏った政治活動をすることへの疑義」であり、

 上記に書きましたが、この井沢先生のご意見に対して、どうこう述べてはいません。事実誤認や不確かと思われることに触れているのみです。


>先生の文章からは故意にその方の姓名も避けていらっしゃるというのに、あなたの反応は過剰です。
 
 先生が、故意にその方の姓名を避けていらっしゃるのは分かってます。しかし、コメント欄で誰かは明白であり、私は、本を引用しながら、その方への誤情報を訂正しようとしているので、姓名を隠したら却っておかしくなります。


>記述が事実と異なるなら、こういう理由で事実ではありませんと、単に述べればいいだけのこと。

 私はこの方針でコメントを書いたつもりですが。だから、意見に対しては特に何も言わず、事実誤認や不確かと思われることについて説明しています。
 そう読めなかったというなら・・ウーン・・もう仕方ないですね。



>それを加害者の被害者のと大仰に書きたてられると悪意によるものと、取られかねません。 

 上記のように、言葉の選択ミス及び説明不足でした。


誤解は、ある程度は解けたでしょうか。

 
冒頭述べたように、論争などする気はありません。また、投稿はこれで最後にしたいと思います。

お騒がせいたしました。
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