アメリカにおけるミス・コンテストから水着審査がなくなるとかで、
なんでも内面重視なのだそうで・・・・としたら、何もミスコンなど
開催しなくてもよいように思えますが。
美しい人はそれだけで人の目を楽しませるし、それでいいのではと
私などは思うのですが。美も前世の徳なのか、神の恩寵であるのかは
知りませんが。
人間の美しさなど、せいぜい10年間のつかの間の花火で、その
一瞬の花火を讃え、愛でるということに対してそう頑なで
ある必要があるのかどうか・・・・。
美人で不幸な人生を、容姿には恵まれていないが欠けることない
幸せな人生を送る人たちもいます。
そして人間、つかの間の人の世を生ききれば死が訪れ、
そこで初めて「チャラ」になり、皆が徹底的に
平等になります。それでよいのではないでしょうか。
とはいえ、魂というレベルから考えればこの人生で
いかに愛したか、それが唯一魂に刻印された
財産として、あちらへ持って行けるものでしょう。
しかしながら、天才と言われる人たちは、前世から
修行の積み重ねの結果であろうかと思うこともあり
とすれば、精進の蓄積も次の世へ持ち越せるものなのかも
しれません。
しょせん己一人の自己責任に帰する因縁因果の法則に照らし合わせれば、
等しく平等である、ということも言えそうです。
私のようにたまに前世を垣間見る者にしか
およそ、説得力の希薄な言い分ではありましょうが。
ミスコンへの異議は昔からで、フジテレビの朝のワイドショーで
準レギュラーのようなことをやっていた時期に、やはり
話題に上ったことがあり、それは体の不自由な方からの
批判も込みで、それによれば「私達が出ようと思って出られないものを
やるのは不当だ」というごとき発言であり、当時司会の川端健嗣さん
ともども密かに、首を傾げたのでした。
感情としてのお気持ちは解りますが、それは感情であり「論」では
ありません。
人は元来、不平等に生まれついています。
大いなるものの目から見れば平等ではあるとしても、頭脳の良し悪し、
才能のありどころ、健康度、平等でないものは一つとして
ありません。容貌も身体の美醜も然りです。
容姿とて時代時代の価値観で、変わるのですが。
成績が振るわなくても、心が優しかったりかけっこが得意、
料理に著しいセンスを有している・・・・など人はそれぞれ
自分に欠けたものを埋め合わせしながら、生きて行きます。
運動会で等級を廃することなど、成績は不振だが足は速いという
子への差別ではないでしょうか。
受験という競争とランク付けを経て、世の中に出れば、
もっとあらゆる世界で等級をつけられます。
それを忌避していては生きていけません。
ミスコンで水着を止めるという発想は、イチローや大谷の
活躍をも否定することで、まことに奇妙なことだと
私には思われます。
容姿、運動神経、性格と欠けることのなさそうな大谷くんへの
称賛など、それらを持てない人たちへの差別だとなりかねず、
しかしながら自らにはない美質を素直に称賛することのほうが
私には自然に思われます。
大谷くんにはほとほと感嘆しています。彼の30歳以降の人生が
視えません、余りに今が眩し過ぎて。
誤変換他、後ほど。