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井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

「テクスチャ」って、なんやねん?

2017年07月18日 | 日本語について

以前、梅沢富美男さんの奥様から炭酸入りのパックだか、ローションだかを
頂き、そのとき炭酸が肌にいいということを知りました。

炭酸パックは人に差し上げたのですが、何となく炭酸水で顔や頭を
洗いたくなリ、以後たまにやってますがシュワシュワして「汚れが浮いている」
という感じ、だか錯覚だか。

ついでに氷を浮かべると零下になったんじゃないかと思うぐらいの冷え感。

コンビニで100円で買える、まあおもちゃなんですけどね。遊んでます。たまに。

という流れで、某タレントさんが薦める炭酸入りのメーク落としという
ネット宣伝を何となく眺めていたら、「テクスチャ」という言葉が目につき、
そういえば化粧品の宣伝や説明には、頻度高く使われているこの言葉、
なんだろう? と調べてみたら・・・。

Wikiによる単純な説明では以下。

テクスチャ (texture) は、物の表面の質感・手触りなどを指す概念である。本来は織物の 質感を意味する。 髪型においては髪の表面の見た目の光沢や毛先の揃い方ばかりで なく、手で直接触った際の感触も含む総合的な概念。

更にデジタル用語としては、3Dグラフィック・ソフトで使う、物体の表面や質感を表現するための地紋やパターンのこと、らしい。

で、以上から勘案するに化粧品における「テクスチャ」とは、「とろりとしたテクスチャ」やら「軽めのテクスチャ」やら・・・・要するに「つけ心地」のことだとわかりました。

で、なんで「つけ心地」という日本語ではいけないのか、私、さっぱりわからないのです。

断食をわざわざファスティングと言い換えるのも意図不明。短期断食とか長期断食とか使い分けるほうが明確なのに。それに漢字のほうがビジュアル的伝達力が強いと思うのですが。

化粧品はイメージ売り幻想売りなので、「つけ心地」より「テクスチャ」なんでしょうが、メーカ側が使い始めた言葉を、素人衆が「テクスチャーは重めです」などと、化粧品評をしているのを見ると、私は心に蕁麻疹が浮きます。

もう大昔になりますが、「魅せられて」が大ヒットし間もない頃のジュディ・オングさんに「どうして日本語には素晴らしい言葉があるのに、ラブレターとか横文字を使うんですか」と問われた事があり、若かった私は、ジュディさんの当時の圧倒的美貌とスターオーラを目の前にしていることもあり、しどろもどろだったのですが・・・

「恋文」といえば、巻き紙筆文字のイメージですが、当時も時代感覚にそぐわなかったのが、とりわけ今はメールだし、実態と日本語がマッチしていないというのは許容できるのです。何がなんでも日本語で言いましょう、などと主張しているわけでもなく。

ただ、日本語で成立するのになにゆえわざわざ縦の文字を横に寝かせて言わなければならないのだ、というのが本日の私のささやかな主張です。

ついでに申せば「韓流」をはんりゅう、というのが嫌い。

意地のように「かんりゅう」と言い続け、それ自体は間違いではないのに「はんりゅう」と訂正されることもあり、甚だ愉快ではないのです。

「はん」という韓国語読みと、「りゅう」という日本語読みを一緒にした気色悪い呼び名は、韓流ドラマをブームと銘打ってゴリ押ししていた頃の某局の造語です。

こういう形での日本語への侵食には私は、抵抗します。

「言葉は国の防波堤」、日本語をどうぞ大切に。

日本解体・弱体化を企んだGHQがさまざま施した施策の中、ほぼ唯一成功しなかったのが日本語を奪うことでした。

それでも、漢字制限などで貧しくはなりました。
国語教育も不足です。

三島由紀夫が書いた言葉が難しくて読めないという言葉を、私はいつもうら悲しい思いで聞いています。三島が難しいなら谷崎も芥川もそうでしょう。
あれぞ「日本語」なのに。

雑駁な文章を書く人がベストセラーになっているのを見れば、それが時代と思いつつ。行間に空白多く平易な言葉でないと現代人は読まないと言われればそうだろうと思いつつも。

失われゆく芳醇な言葉の数々の、ひっそりとした守り手で私はありたい。

 

誤変換他、後ほど推敲致します。


神代文字

2016年09月28日 | 日本語について

日本とはどんな国か?

と問われれば、答えは2つであろうかと思われます。

「すめらぎのいつくしき国」であり、「言霊の幸はふ国」です。

つまり天皇陛下がおわし、魂の宿った言葉が豊穣な美しい(いつくしき)国、これが日本という国の特質でしょう。

思うに、原初的なアニミズム(自然界の石、草木などありとあらゆるものに魂が宿るという思想と、シャーマニズム(呪術)が、古神道の原点であるような
気がしていますが、そのシャーマンの最高位がすめらぎ、すなわち
天皇ではないかと愚考しています。

言葉に宿る魂を用いて、神々に祈るのがシャーマンたる天皇であり、
その天皇がそのまま国体である、というごときことでしょうか。
現在天皇に、祈る存在としての要素が薄くなりつつ
あることを憂えています。「生前退位」の理由とされた、公務など
二の次三の次のことです。

言葉と神との関わりは旧約聖書にもあります。
「原初に言葉ありき」と。『ヨハネの福音書』にいわく
「初めに言葉ありき、言葉の命は光であった」

キリスト教圏では神が「光あれ」とアファメーション(宣言)してから
世界が始まった、という感知の仕方をしています。

日本では、言葉そのものの振動が宇宙を形成した、とわたくしは
思っています。マントラ(真言)も、おそらく言葉の意味ではなく
その特有の音の震えが、宇宙に呼応するのでなかろうかと。

ノーマクサーマンダバーザラダンセンダンマーカロシャダソワタヤウンタラタカンマン

わたくしの好きな不動明王の真言です。

言葉とはすなわち音声であり、音声とは
振動であり、その振動の大いなるものがビッグバンという宇宙の
はじめなのかもしれません。仏教でいえば三千世界の始まりと
いったところでしょうか。

あらゆる存在は「振動」vibrationだとされています。
宇宙は宇宙自らがその震えにより存在した、というほうが
神の創造物としての世界観よりも、わたくしの感性には
そぐわしく思われます。

量子力学で一端の説明が出来るような気がして、Wikiを
開いてみたのですが、わたくしの脳はその領域がまだ
拓かれていません。閉ざしっぱなし。

お断りしておきますが、わたくしの思い込みと想像を混じえて記しています。
学術的分野における定説は知りません。

神の存在と言葉とは抜きがたく相関関係があると思いますが、
日本に言葉が豊穣であるということは、すなわち神々が豊かに
住まう国であるということでしょう。

言霊の幸わう国だという認識は、『万葉集』にあります。柿本人麻呂の、
磯城島(しきしま)の 大倭(やまと)の国は 言霊の助くる国ぞ まさきくあれ」

日本というこの国は、言葉に宿る魂に助けられてある国なのだ。幸多くあれ。

祝詞(のりと)が発生したゆえんでしよう。めでたい言葉を唱えれば、
その響きが宇宙の森羅万象に相呼応して、幸を運んでくるぞ、と。

このような、言葉の豊かな国に独自の書き文字がないことを、わたくしは
かねがね不思議なことに・・・・というより納得できない思いを抱いて
おりました。

そのような納得できなさの中に、時折隙間風のように忍び入って来るのが
「神代文字」(じんだいもじ、かみよもじ)という言葉でした。

漢字の伝来以前に、古代日本に存在していた文字だと言われています。
これに対しては諸説ふんぷんですが、わたくしは直感的に、神代文字は
あった、と思っています。

これほど豊穣な言葉の持ち主である民族が、書き文字を持っていないというのが不自然です。知能も相当高い民族です。

ならば、なぜ中国由来の漢字が主流となったのか、わたくしの仮説は
漢字の伝来、それから派生した仮名の時代になると神代文字は
もっぱら、秘密をむねとする神事を記すことに使われるように
なったのではないか、ということです。
忍者のハウツー本のように「秘事ニシテ流布セズ」。
密教のお次第書にも「ロイ」と言われるものがあり、大事な作法は
「口伝」で伝え、書き記さないということがありました。
「ロイ」とは「口伝」の呼び名で、漢字をバラせばロイとなります。

もっぱら神聖を大事に、衆愚の目に触れさせずという意味もあったのでしょう。

神代文字は、現在神社の護符などで見られます。

なお、上記は井沢満の独断に依る記述なので、よゐこの皆様は
決して記憶に定着させませぬよう。

文中、タイピングミスその他の瑕疵については後ほど推敲致します。


日韓併合の中の日本語について

2016年09月27日 | 日本語について

ふと見始めた韓国ドラマが面白くて、延々41話、3日間で
見終わるかな・・・・・と思っていたのですが、41話は勘違いで
全部で50話。オーマイガー、なのですが、朝な夕な、延々と
見続けているとドラマの中の人物たちと別れ難く、
まだ続きがあることに、ほっとしたりしてるのですが、
それにしても、意識して聴くと韓国語に溶け込んだ日本語の
なんと多いこと!

韓国ドラマと日本語

理由を考えるのですが・・・・
まず日韓併合が、現在韓国が言い立てる如く不幸な体験であったなら、
こうも日本語が自然に暮らしの中に溶け込んではいないと、思うのです。
わたくしも昔は、思い込まされていたのですが「日帝が名前と言葉を
奪ってしまった」のだと。それは嘘です。
各学校の校長(韓国人)の裁量に委ねられていて、日本語を教えるも
教えないも自由でした。
日本語とハングル併記の当時の教科書も残っています。
日本の兵隊として戦士なさった朝鮮の方々は、元々の
お名前のまま祀られていて、日本名ではなく、これも選択性で
日本名を強制されたわけではありません。

韓国語にいまだ残る多くの日本語が意味するところは、日韓併合が
おおむね過酷なものではなかったのではないか、ということです。
一部で喧伝されている如く、奴隷のように扱われていたとしたら
そんな国の言葉など、自国語の中に取り入れるはずもないでしょう。

また、韓国側が言い立てるのは「文化の劣った日本に、我々
韓国の高い文化を授けてやったのだ」ということですが、それなら
なぜ日本語の「契約」だの「要素」だの「民族」だのいう言葉を
取り入れているのでしょうか?
その概念が朝鮮半島では乏しかったからではないのですか?
また朝鮮語の語彙が不十分だったので、日本語で補填したのでは
ありませんか?
茶道も生花や剣道などと同じく、韓国発だと主張していますが
ではなぜ、朝鮮語オリジナルの「茶」という言葉の手持ちがなく、
「チャ차」と、日本語から借りて使用しているのでしょうか。

日韓併合後も、言葉によっては「洗濯機」など、日本から取り入れた
言葉がありそうです。

深く考え込んでの結論ではないので、すべてクェスチョンマーク付き
なのですが、当たらずと言えども遠からずだと思っています。
韓国語に取り込まれた日本語を材料に、日韓併合を考察すると
興味深い景色が歴史の一角に姿をあらわすかもしれません。

韓国の人々も、いかに多くの日本語を母国語の中に取り入れているか
知ったら驚愕して言葉狩りに乗り出すかもしれません。
でも狩るには、あまりにも多くの日本語が韓国語として定着
してしまっているようです。

 

ミスタイピン他、拙文の遺漏は後ほど推敲致します。

 


美しい日本語

2016年05月20日 | 日本語について

帰化なさった在日三世の方からコメントを非公開で頂戴して・・・・
その日本語の綺麗なことに心打たれたのですが、ご本人いわく
「日本語が世界で一番美しい」

と、思う心あればこそ、ご本人の言葉遣いが端正なのでしょう。

私は言語学者ではないし、他国の言語との比較も出来ないので
独断で言ってしまうしかないのですが、語彙の多彩さからだけから
見ても、日本語はおそらく世界有数の豊潤な言語であろうと思われます。

言葉を護ることは、文化を護り継承することであり、ひいては
国を護ることにつながります。「言葉は国の防波堤である」とは
すでに、誰かが言ったことかもしれません。

漢字を捨て去った韓国語と中国語の不自由さ、貧しさ。
中国では実は日本人が作った言葉を、たくさん使用しています。
普段使っている言葉が和製であることを知ったら、彼らも驚くでしょう。

歴史、民族、国家、宗教・・・・他多数。
民主化、現代化など「化」の使い方。独自性、人間性などの「性」。

その上に日本ではカタカナ表記で海外の言葉を取り入れ
日本語化して自在です。
近年随分壊れてきたとはいえ、美しいと同時に自由闊達な
言語です。

人は言葉を用いて思惟しますから、言葉の豊かさは思考や発想の
豊かさにも通じます。漢字の制限などして、交ぜ書きなど
醜い方向へ行くのは、思考を貧しくすることでもあります。

韓国語には同音異義語がやたら多いのです。漢字を交えれば
どれほど誤読から開放されるかと思うのですが。
中国では漢文を読めなくなっています。レ点などを駆使して
漢文を読みこなしてきた日本人のほうが今は孔子も
漢詩も読み解けます。
韓国語というより・・・・北も使っているので、朝鮮語というべきでしょうが、
昨今、ヘイトスピーチ禁止とやらヘタしたら「朝鮮」という言葉自体が
使いづらいのです。

そういえば、「バンキシャ!」に出演している時、かつて民主党が返還する必要もないのに返却を決めた「朝鮮王朝儀軌」、これを言おうとしてしかし文言に
「朝鮮」の一言が入っていることで、とっさに「韓国の古い文献」と
言ってしまったことがあります。過剰な用心なのですが、
こと韓国に対しては、テレビで喋る時はナーバスなまでに
気を使います。なんでこう、気を使わなければならないのか、
と思うこともありますが、迂闊に発言すると「徒党を組んでやられちゃう」ということが日本人には刷り込まれているのかもしれません。
現代ではそうでもないのかもしれませんが、
京都で関連を喋るときは、戸を締めた立ててからヒソヒソと
語るのだ、とそれを伝えてくれた人は高齢なので、これも現在は
解りません。

ここは日本の国だ!、と当たり前のことを叫びたくなることがあります。
あまりに気を使いすぎ、発言が窮屈で。


「ある3点」・・・・3つの分野に関しては、日本は言論の自由があるとはとてものことに言えません。お察しくださいとしか言えませんが。

某所のありようについて論評した対談を載せた雑誌、それを私も
読んでみましたが、ごく穏やかな内容。それでも、それを
面白からず思う者はいて、編集部に殴り込みをかけて来たそうで
困ったことだと思います。言葉は大切にしたいのです。その発信する
自由と共に。

言葉から話題が逸れましたが・・・・
先だって道を歩いておりましたら「ではお願いしますぅぅぅーーーーーー」
と語尾を最近長く伸ばす、あの喋り方が聞こえてきたので見ると、
スマホを手にして電話していたのは、白人です。
流暢な日本語でしたから、彼は何の迷いもなく彼の周辺で
日本人の同僚たちが「すぅぅぅーーーーーーーー」と語尾を
伸ばすのに倣っているにすぎません。

なぜ、こういう気色の悪い喋り方が行われるようになったのか、
原因を思いつかないのです。お願いしま「す」と、短く切っては
失礼だという如き感覚があるのでしょうか。あるいは、「す」で
歯切れよく終わると相手より先に電話を切ってしまいそうで、それを
避けるために伸ばしているのか?

あと以前から気になっているのが「~になります」という言い方。
「こちらが説明書になります」
「これが本日のメニューになります」
「消費税込みで300円になります」

なります? なんで? 「説明書です」「メニューです」ではなぜ、いけないのでしょう?

考えてもしょうがないのかもしれません。誰かが言い始め、誰かが
それに抵抗を感じぬまま、自然に増殖していった言葉なのでしょう。
よろず、日本語から切れの良さが失せつつあるようです。

セリフを書く人間としては、リアリティを重んじれば「すぅぅーーーーー」も
「なります」も時に書かねばならず、しかしなるべく書かないように心がけてはいます。日本は古来より詩歌に優れ、音感に敏感だったのですが、
いつの間にか言葉への感性が粗雑になっています。


桜寿司

2016年04月09日 | 日本語について

花も盛りを過ぎて、これからしばらくは花吹雪の季節でしょうか。

一昨日は、鯛の海鮮丼、今日は鯛の桜寿司、鯛茶漬け、鯛のかぶと焼き、
と鯛づくしです。

桜寿司の鯛の上には塩漬けの桜の花びらが載っていて
花を食べる嗜好のない私は、邪魔っけだと思い、
しかし口に含んでみると旬の鯛の味に桜の塩漬けの
風味が一点のアクセントになって、良い味わいなのでした。

口に桜の風味が残っているので、帰り道つい桜餅を
買ってしまった、ダイエット挫折者の私でした。

でも風邪でダウンしていた時期が功を奏して、体重は
落ちていていい感じに安定はしています。