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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上巻 新装版

2021年03月20日 09時08分41秒 | 読書・文学


「この出来事は、わずか一世代前には、想像さえも及ばないものだった。しかし、それは現実に起こったのだ」膨大な記録資料にもとづくナチス・ホロコースト研究の最重要文献

第1章 予備的考察
第2章 前史
第3章 絶滅の構造
第4章 ユダヤ人の定義
第5章 収用
第6章 強制収容
第7章 移動殺戮作戦
第8章 移送

教会の反ユダヤ政策
キリスト教徒とユダヤ人の結婚・性交の禁止;エリヴィラ教会会議 306年
ユダヤ人とキリスト教徒は食卓をともにすることを許さない。
ユダヤ人は公職に就くを禁ず;クレルモン教会会議 535年
キリスト教徒がユダヤ人医者を愛顧することは許されない;コンスタンチノーブル教会会議681年。

「国際的中世ユダヤ法」

ヒトラーがユダヤ人について語るとき、彼は耳慣れた言葉でドイツ人に語ることができた。
彼が犠牲者をあしざまにいったとき、彼は中世の概念を復活させた。
彼が荒々しくユダヤ人攻撃を叫んだとき、彼はあたかも眠りから、長く忘れ去られていた挑戦へとドイツ人を駆り立てた。
ナチスのプロパンダや通信のなかで出会うユダヤ人像は、数百年前のものから引きだされた。

ヒトラー自身好んで、ユダヤ人を敵であり脅威であり、危険で狡猾な敵手とみなした。
多くのナチスは、ユダヤ人が低級な人種であり、接触するとドイツ民族を命取りの病に感染させる一種の細菌である、という見解にとりつかれていた。

20世紀のナチスは、19世紀の反ユダヤ主義者や16世紀の聖職者のように、ユダヤ人を敵・犯罪者・寄生虫とみなしていた。
ユダヤ人の「ユダヤ家系をごまかすための」姓名変更の禁止

「非アーリア人の家系」
「ユダヤ人の鼻」「ユダヤ的影響力」
結果として、すべての4分の1ユダヤ人がドイツ人とみなされ、すべての2分の1ユダヤ人がユダヤ人とみなされた。

1876年以前には、出生は教会にだけ登録されていた。

~~非アーリア人の定義~~
第二級混血児;ユダヤ人の祖父母を一人持つ者
第一級混血児;1935年9月15日にユダヤ教に属しておらず、ユダヤ人と結婚しておらず、ユダヤ人の祖父母を2人もつもの
ユダヤ人;1935年9月15日にユダヤ教に属していたか、ユダヤ人と結婚していた場合はユダヤ人の祖父母を2人もつもの、それにユダヤ人の祖父母を3人ないし4人もつ者

つぎの数年間に絶滅装置はユダヤ人の「富」に向けられた。
ユダヤ人の家族は次々に貧窮のなかに突きおとされた。

~~「混血児」の婚姻規定~~
許可される婚姻
ドイツ人ーードイツ人
第二級混血児ーードイツ人
第一級混血児ーー第一級混血児
ユダヤ人ーーユダヤ人

禁止婚姻
ドイツ人ーーユダヤ人
第二級混血児ーーユダヤ人
第二級混血児ーー第二級混血児

総督ハンス・フランクは感傷性と残忍性をあわせもつ気難しい独裁者であった。
彼はポーランドにおける絶滅過程の主な計画立案者の一人であった。
ライバル同士として、親衛隊全国指導者ヒムラーとフランクは無慈悲という点においてのみ張り合っていた。その競合はユダヤ人のためにはならず、彼らが絶滅するのを促進した。

ゲットーのなかでも、ユダヤ人は移動の自由を許されず、19時から7時まで外出を許可されなかった。
国家警察(ゲシュタポ)は、その名称が暗示しているように、国家の敵対者を相手にした。
ユダヤ人はとくにきわだった敵対者であったので、ゲシュタポはゲットーのなかに事務局を設立した。刑事警察(クリポ)は普通犯罪の処理に権限を有した。

第4A移動出動部隊は、キエフに侵攻し、2日間で33,771人のユダヤ人を殺害した。
行動部隊は時折、殺害した人数の累計を報告した。
行動部隊Aは1941年10月で、総計12万5,000人の射殺を伝えた。
行動部隊Bは1941年11月14日に、4万5,000人の総計を記している。
行動部隊Cのなかでは、11月30日の数字は5万9,000人、
12月7日の第5出動部隊の数字は、3万6,000人であった。
1941年12月12日に行動部隊Dは5万5,000人の殺害を報告した。

移動殺戮作戦の最初の6ヶ月のあいだに。50万人の人間が射殺された。

クリミアの首都シンフェロポリでは、クリスマス前に射殺が終了することを希望する決定を下した。その決定にしたがって、ユダヤ人がいない町で軍がクリスマスを祝えるように、行動部隊Dは、国防軍の人員と軍のトラックやガソリンを補給してもらって射殺をその期限までに完了した。
移動殺戮部隊のほとんどはドイツ軍の占領地域で行動していたが、行動部隊CとDは、ハンガリー軍とルーマニア軍の統制下にある領域でも動き回っていた。
ハンガリー軍との関係に言及したものはほとんどない。
一方、ルーマニア軍の態度はまったく違っていた。
進軍するルーマニア軍はユダヤ人街を襲い、ユダヤ人を殺害した。
彼らの行動は、根拠づけられた殺戮行動というよりもむしろ蛮行の形をとっていた。ルーマニア軍の残虐行為を見たドイツ人は、その光景に少し当惑し、時として、この同盟軍の隊列に規律を持ち込もうとした。

ソ連で最大のユダヤ人人口を持つ街オデッサは(15万3,200人、人口の36.4%)、長い包囲戦の後、1941年10月16日に第4ルーマニア軍によって陥落した。
10月22日、パルチザンがルーマニア司令部を爆破し、将校を含む46人が死亡。
その晩、ユダヤ人と共産主義者を公開で吊るす措置をとった。
オデッサは数多くの絞首刑と射殺の舞台となった。
10月23日朝、1万9,000人のユダヤ人が港湾地区の木の塀で囲まれた広場で射殺された。
死体はガソリンをかけて焼かれた。

ルーマニアの独裁者イオン・アントネクス元帥は指令を発して、爆破で殺された将校一人につき、200人の共産主義者を処刑し、下士官一人につき100人を処刑せよと命じた。
戦車よけの塹壕で射殺された。3キロの帯状になって4,50人ずつ行なわれたこの射殺は、ルーマニアの将校には遅々としすぎていた。そこで、残ったユダヤ人は4つのかなり大きな倉庫に詰め込まれ、壁の穴から撃ち込まれる弾丸を浴びた。ダルニクでの死者は推定2万5,000人から3万人。

彼らが射殺に熱心な志願兵であることを、行動部隊Dは発見した。
「私たちは、この人たちの血に飢えた行動に、本当にぎょっとした」

重要なには、ユダヤ人が自分たちの絶滅に果たした役割である。
なぜ彼らは生き延びるために逃げなかったのか?
たいていのユダヤ人は逃げずに留まったという現象である。すでにドイツ軍の侵攻の射程距離に入っている町や村に、引き留めておいたものは何であろうか。人は、災難が襲うとはっきり自覚してせきたてられるのでなければ、自分から家を離れて不確かな避難所へとは旅立たないものである。ユダヤ人社会の中では、その自覚が心理的障害によって鈍らされ、妨げられていた。

第一の障害は、悪しきことはロシアから来て、良いことはドイツから来るという信念であった。ユダヤ人は歴史的に、ロシアを去ってドイツに向かうという方向性を持っていた。ロシアではなくドイツが、ユダヤ人の伝統的な避難所であった。とりわけこの信念のために、1939年10月と11月のあいだに、何千人ものユダヤ人がロシア占領下のポーランドからドイツ占領下のポーランドに移っていた。
彼らは、ドイツ人が今度は迫害者かつ殺害者としてやってくるのだということは予想していなかったのである

ユダヤ人の警戒心を鈍らせた別の要因は、占領地の境界線の向こうで起こっている出来事を、ソ連の新聞やラジオがはっきり報道しなかったことである。ロシアのユダヤ人は、ナチ支配化のヨーロッパでユダヤ人を襲った運命を知らなかった。ソ連の情報メディアは、ドイツの懐柔策に沿って、ナチスの行なっている絶滅措置について沈黙を守っていた。

ドイツ人は、殺戮行動が規格統一されていたので、迅速に能率的に行動することができた。
「首筋の後ろを撃つ」やり方を好まない司令官もいた。
このやり方は、ロシアの内務人民委員部を想起させるからであった。
かなりの距離からの集中砲火の方法。
また効率と非人格性を結びつけた別のやり方もあった。
缶詰イワシ方式
最初の一群が穴の底に寝かされ、上から十字砲火を浴び殺される。次の一群は死体の上に、死人の足の側に頭を置くように寝かさられる。これが5,6層になると、穴は塞がれた。
また溝で携帯用軽機関銃で射殺されたあと、縁が爆破されて死体は土の塊で覆われた。

ユダヤ人が抵抗せずに射殺されるままになっていたことは、重要である
あらゆる報告書のなかで「事件」が起こったと言っているものはほとんどない。
殺戮部隊は、射殺のときに一人の隊員も失わなかった。

ユダヤ人はスムーズに殺されていったが、司令官は隊員に及ぼしうる影響を心配した。
「死刑執行部隊の心の負担があまりに大きいので」

まもなく、殺戮に対する「理解」不足よりも深刻な第2の問題を、司令官が発見して、仰天した。彼らは観察し、写真を撮り、手紙に書き、話題にした。このニュースは、急速に占領地区に広がり、次第にスピードを増してドイツにも伝わった。

移動殺戮部隊の隊員は全員、イデオロギー的訓練を受けていたが、ユダヤ人の射殺を自ら望んで申し出る者はいなかった。彼らの大多数が殺戮部隊に配属されたのは、単に前線で役に立たない者だったからである。彼らは壮年で、10代の若者ではなかった。家族を支える責任のある者が多かった。無責任な青年ではなかった。

ヒムラーはネーベに、できる限り早くこの人々の苦しみを終えさせるようにと命令した。
同時に、射殺よりももっと人道的な方法を考えるように依頼した。
ネーベは、精神病患者にダイナマイトを使う許可を求めた。
しかし、ヒムラーはこれを試してみるよう決定した。
患者に試みられたダイナマイトは、ひどい結果をもたらしたとのことである。

ヒムラーの要望に最終的に答えたのは、ガス・トラックであった。
「犯罪技術研究所」
彼は、このガス・トラックは精神異常者を殺害するためだけに用いられると思っていた。
国家保安本部の発明は、ポーランドとセルビアにおける人目につかない殺戮作戦に役立った。
1941年12月に始まり、2,3台のガス・トラックが各行動部隊に送られた。

目的地で、トラックは隔離された場所に駐車し、犠牲者を待った。
ユダヤ人は脱衣姿または下着姿で、しばしば男女一緒のまま、トラックの中に押し込まれた。
後ろのドアが閉められ、ガスが注入される。暗い車内に立って排気ガスを呼吸するにつれ、ブリキを張った壁をドンドンと叩き始める。数分後に彼らは窒息し、心臓の鼓動が速くなり、目まいと吐き気に襲われ、ついに脳が麻痺したのである。
それからトラックは死体を乗せて溝のところまで走った。
トラックから降ろした死体は、ゆがんだ顔をして排泄物にまみれていた。
行動部隊の隊員には、任務が追加された。
そのうちの1つはドイツ軍の収容所にいる捕虜の殺害であった。

~~捕虜の殺害~~
戦争中に、570万以上のソ連兵がドイツ軍に投降し、このうち40%以上が捕囚のうちに亡くなった。約335万人以上が1941年末までに捕虜となり、風雨にさらされたり飢餓のためにその冬亡くなった者は、膨大な数にのぼった。

ユダヤ人に対する経済的措置は、飢餓化、強制労働、財産の押収からなっていた。
難易度が「最も低い」措置は飢餓食であった。
ユダヤ人の財産の最初の収集者には、例外なく殺戮部隊が入っていた。

最も死亡率が高かったボグダノフカでは、12月21日に殺戮が始まった。
まず最初に、4,5千人の病人や病弱なユダヤ人をいくつかの馬小屋に入れ、その小屋を藁で覆い、ガソリンをかけ火をつけたのである。
馬小屋が燃えているあいだ、4万3,000人のユダヤ人が3,4百人のグループごとに森を行進させられ、氷のように冷たい天候の中で全裸にされて、絶壁の縁にひざまずかされ、射殺された。

最大のユダヤ人追放計画である「マダカスタル計画」は、数百万人のユダヤ人を取り扱うことを想定していた。
この計画はフランスとの講和条約の結論次第であり、その条約はイギリスとの戦争状態が終わるかどうかにかかっていた。イギリスとの戦争が終わらないので、講和条約は存在せずマダカスタル計画の実施されなかった。

マダカスタル計画は、移住によって「ユダヤ人問題を解決する」最後の大きな試みであった。
1941年7月22日、ヒトラーは「ユダヤ人の運命は、マダカスタルであれシベリアであれ、自分にとってはどうでもよいことだ」と語った。

エルサレムにおける戦後のアイヒマン裁判

国防軍は、ベルリンからも労働世界でのさし迫った支障に言及した手紙を受け取った。
ベルリンの工業全体で18,700人のユダヤ人熟練労働者が組み入れられていた。
労働についているユダヤ人の移送の延期は、それほど長くは続かなかった。
結局、「ユダヤ人問題の最終決着」のなかで、経済的考慮は重要ではなかったのである。
1942年秋に、ヒトラー自身が、ユダヤ人を軍需産業から取り除くよう命令した。
この命令の結果、数万人のユダヤ人が1943年に殺戮センターに移送された。

ドイツが最初に接近した国は、スロヴァキア、クロアチア、ルーマニアである。
つぎは、ブルガリアとイタリアであった。
ハンガリー政府は幾度もドイツからアプローチされたが、イタリアと同じく自国のユダヤ人の放棄を拒否した。したがって、イタリア政府とハンガリー政府は、中立国のように扱う必要があった。

「ユダヤ人に対してなんとしても死刑を判決する」
ことを決心している判事もいた。
「私たちの判決の多くはナチ的であった」

~~補足と輸送~~
残るは、移送すべきユダヤ人を実際に捕まえて輸送することと、
彼らが残した所持品の押収という面倒な仕事であった。
ユダヤ人を捕まえることは困難な点が少なく、摩擦はほとんどなかった。
検挙はゲシュタポの管轄であった。
一般的には、ユダヤ人共同体の組織ーードイツ・ユダヤ人全国連合とユダヤ教徒団体ーーを利用して、リストの作成をはじめ要請することができた。

~~準備~~
計画者たちの最大の問題は、この計画の途方もない巨大さだった。
ゲットーで少なくとも50万人が死んだと考えても、移送地域のユダヤ人の数は、依然として220万人だった。この数字は、都市人口の構造全体が変化することを意味した。
ゲットーが消滅すれば、住居、食料供給、生産能力に重大な変化が起こることが予想された。
大部分、絶滅収容所に送られた。
クルムホフ
アウシュヴィッツ
トレブランカ
ソビブル
ベウジェッツ
ルブリン


東部鉄道は、ユダヤ人の絶滅において中心的な役割を果たした重要な鉄道システムである。
東部鉄道管理本部は、通常、列車1本に数千人を積み込ませて、絶滅収容所に送った。
正確な運賃を計算するため、犠牲者の数を数えるよう命令された

ゲットー内部では、警察官と助手たちは、別の問題に対処しなければならなかった。
汚物、下水、害虫の問題である。
清掃作業は順を追って遂行された。
まず、破壊隊がゲットーに入り、居住不可能な建物をすべて爆破した。
次に回収隊がやってきて、あらゆるがらくたを集めた。つぎに最もきつい仕事の便所掃除隊である。排泄物が1mの高さに積み上げられている便所もあった。
最後に、清掃隊が現れて、死んだ鼠や蝿、南京虫を取り除いてきれいにした。

50の車両に、8,205人の移送者が乗っていた。
出発前何日もほとんど食べていなかった。
定期的に停止しなければならない低馬力の機関車に牽引されて、列車はゆっくりとしか進まなかったので、中のユダヤ人たちの苦痛はいっそう激しかった。彼らは暑さのなかで衣服を脱ぎ、天井近くの開口部の有刺鉄線をひきちぎり、そこから這い出て飛び降りようとした。
乗っていた者のうり200人が死んでいた。

ズンド海峡::エーレスンド海峡
デンマークからスウェーデンに到着するためには幅10~20kmのこの海峡を渡らなければならなかった。

オランダでは、ユダヤ人はドイツ国内でユダヤ人を襲った残忍な根絶過程に匹敵するほど徹底的に滅ぼされた。




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