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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

アルパインクライマー・山岳カメラマン、平出和也さん 高峰の難ルートに挑み続ける

2020年12月03日 08時55分38秒 | 登山

太陽のかけら ピオレドール・クライマー谷口けいの青春の輝き

~~目次~~

クリスマスイブに
アドベンチャーレース
はじめてのヒマラヤ登頂
小・中学校時代
極限の壁から八〇〇〇メートル峰へ
アメリカ留学
女性初のピオレドール賞
自転車と文学と山と
さらなる難壁へ
新たなる旅
パンドラ

「登山界のアカデミー賞」と呼ばれ、世界で最も名誉があるとされるフランスの「ピオレドール(金のピッケル)」。8月、日本人最多となる3度目の受賞が発表された。

ヒマラヤの高峰で、岩と雪の難ルートを攻略する世界有数のアルパインクライマーだ。固定ロープを張らず、たった2人で壁を登攀(とうはん)する。もう一つの顔は山岳カメラマン。歓喜の登頂シーンだけでなく、ザイルパートナーの墜落の瞬間さえ映像に記録。ドローンを駆使して雄大な風景も紹介する。

 大学2年の秋、高校から続けていた競歩への情熱が冷め、山岳部に転部した。「人の背中を追いかけることに疑問を持った」。4年の春、母校の7千メートル峰(チベット)の遠征隊に参加して初登頂。「ヒマラヤは僕にとって輝ける場所」となった。

 手つかずの未踏峰や未踏ルートに魅せられた。2002年、パキスタン北部のカラコルム山脈を訪ねた。手には、過去の登山隊が登った山やルートを書き込んだ地図のコピー。「自分の目で地図の空白部を見たい」

漂泊の旅で目標は決まった。ゴールデンピーク(7027メートル)の新ルート。実力ある登山家らに声をかけたが、応じたのは当時無名に近い女性クライマーの谷口けいさんだった。04年、2人は同峰北西稜(りょう)の初登攀に成功。落石や雪崩の危険を察知し、的確なルートを読み解く、優れたパートナー。ここから快進撃を歩み始めた。

 当時、大学や社会人の組織でヒマラヤを目指す登山方式から、同じ志を持ち、少人数で難ルートに挑む若手登山家たちが台頭。そんな中、2人は驚異的な活躍を続けた。08年、7千メートル峰のカメットの南東壁を初登攀。2人は日本人初のピオレドールを受賞した。

 15年、谷口さんが北海道の大雪山系で遭難死した。最も信頼するパートナーを失ったが、新たなザイル仲間として中島健郎さん(36)を得て、「けいさんの死を納得するためにも登らなければならない」。13年、谷口さんとの最後の登山となったシスパーレ(7611メートル)。17年、4度目の挑戦で中島さんと新ルートから登攀し、2度目のピオレドールを受賞。頂の雪の中に谷口さんの笑顔の遺影を埋めた。

 次の目標は、世界第2位の高峰・K2(8611メートル)の西壁新ルート。世界でも最難関といえる酸素ボンベなしでの挑戦となる。18年夏、中島さんと2人で偵察し、圧倒的な山の迫力に気押された。「いろんな冒険家が言うじゃないですか。『成功の可能性が5割を超えたら冒険ではない』。小さな可能性だけど挑戦する魅力はあります」

(フロントランナー)平出和也さん 「課題見つけ、『答え合わせ』するのが楽しい」


――3度目のピオレドール受賞。快挙ですね。

 昨夏、カラコルム山脈の名峰、ラカポシの南壁を中島健郎さんと2人で初登攀(とうはん)しました。標高差約4千メートル。下部は雪崩の危険が高く、これまでは登る対象ではなかったルートです。受賞した他の3隊に比べ技術的な難度は劣りますが、未知への探究心が評価されてうれしいですね。

 ――未知のルートに挑み続ける理由は。

 登山の楽しみは、自ら課題を見つけて「答え合わせ」をすることだと思います。エベレストの一般ルートや7大陸最高峰制覇は、情報があふれていて答えがわかっています。答えのない新ルートは困難の連続ですが、技術を磨き、経験を積み、可能性を高めた上でチャレンジしています。

 ――谷口けいさんと中島健郎さんは、信頼できるザイルパートナーですね。

 ピオレドール初受賞となったカメットの登山中、トップで登っていた僕は山頂近くで滑落しました。何とか止まりましたが、改めてパートナーの命を危険にさらしたことを痛感しました。当時は「命をかければどんなルートも登れる」とイケイケな状態でした。慎重なタイプで僕にいろんな忠告をしてくれる谷口さんでなければ、カメットは成功しなかったと思います。

 谷口さんは遭難死しましたが、新たなパートナーとして中島さんと出会いました。彼はまるで10年前の自分を見ているようで、常にザイルのトップでルートを切り開くことに情熱を燃やします。でも、ヒマラヤ登山を重ねるうち、山との向き合い方などに成長を感じます。パートナーは力量だけで選ぶのでなく、命を託す絆が必要なのです。

 ――以前なら登攀不能と思われる垂直に近い難ルートばかりですね。

 登山用具の性能が向上したことが大きな理由です。雪と氷の壁を登る際、壁に打ち込むピッケルが刺さりやすい形状になり、登山靴に着けるアイゼンの前爪の形が鋭くなるなど攻撃力が増しました。炊事に使う小型コンロも短時間でお湯が沸く製品が登場。いずれも軽量化され、難ルート攻略の手助けとなっています。


 ■撮影も「冒険」

 ――登山中、食事や睡眠はどうしているのですか?

 7千メートル峰では、薄い酸素のため高度障害が出て平地に比べて活動能力が落ちます。このため、食料や燃料など1グラムでも軽量化を図ります。テントの中での食事は乾燥米やスープなどが中心。乾燥米は1袋を2人で分け合います。ただ、高山病対策で水分補給は欠かせません。行動中は、保温ボトルに入れたお湯を休憩時に飲んでいます。テントを張る広い場所がないので、時には雪の壁をピッケルで掘って整地。折り重なるように寝袋で睡眠を取ることもあります。

 ――どんなトレーニングをしていますか。

 僕たちのスタイルは、テントや食料を担いで山頂を目指す速攻登山。以前の組織登山のように、時間をかけて固定ロープを張り、食料や装備の荷上げでトレーニングを兼ねるわけにはいきません。危険を避けるため、万全のコンディションでベースキャンプ(BC)入りする必要があります。このため、可能な限り毎日約20キロのランニングをし、プールで1時間近く泳ぎます。世界レベルの大会に臨むアスリートと同じです。

 ――山岳カメラマンとしても活躍していますね。

 長く太く冒険を続ける上で、社会との接点が必要だと思います。記録映像が社会との接点なのです。映像から風の音や空気感も伝わります。僕にとってビデオカメラは「武器の一つ」なのです。最近のカメラは小型、軽量になりました。映像を見た若い登山家がアルパインクライミングに憧れを持ち、僕たちの活動を支援してくれる人も増えました。登ることも冒険、撮影も冒険なのです。


 ■未知の世界へ

 ――長野県の実家近くの山林にツリーデッキを作りました。

 実家のある富士見町は、八ケ岳や甲斐駒ケ岳などが間近に望める、僕の原点といえる場所。最近は、遠征前に自分をリセットするために帰省しています。父が所有する森の中に木製デッキを作ったのは、木に背を押し当てることで、心を落ち着かせるためです。遠征中、背中は雪崩や落石の死角になります。木に寄りかかると、背中が守られている気分になります。デッキの横にザイルでブランコを作ったので、子どもたちは喜んで遊んでいます。

 ――K2西壁の無酸素登攀。準備は順調ですか?

 BCと山頂の標高差がK2を上回るラカポシは、K2に向けた準備のため登りました。壁の大きさは実感できましたが、8611メートルの無酸素登攀は未知の世界。K2の前に世界第5位の高峰・マカルー(8463メートル)に登り、高度を体験するつもりです。コロナ禍が終息しないと、BC入りさえできないため、国内でトレーニングに励みます。


 ■プロフィル

 ★1979年、長野県生まれ。高校時代は陸上部で競歩の選手として活躍。写真は高校時代、八ケ岳で。東海大2年の時、陸上部から山岳部に転部。

 ★2001年、東海大がチベットの未踏峰クーラ・カンリ東峰(7381メートル)に派遣した登山隊に現役で参加して登頂。ヒマラヤ登山のデビューを飾る。

 ★08年、北インドのカメット(7756メートル)南東壁の新ルートを谷口けいさんと登攀。翌年、ピオレドールを初受賞。

 ★13年、冒険家の三浦雄一郎さんのエベレスト登山隊にカメラマンとして参加し、同峰に2度目の登頂を果たす。

 ★17年、パキスタンのシスパーレ(7611メートル)北東壁の新ルートを中島健郎さんと登攀。翌年、2度目のピオレドール受賞。

 ★19年、パキスタンのラカポシ(7788メートル)南壁の新ルートを中島健郎さんと登る。今年、3度目のピオレドール受賞。

 ★石井スポーツ所属。横浜市在住。家族は妻(42)と長男(5)、長女(2)。


しばらく冬穂高の撮影のため稜線にいました。

そして今日の午後に下山してきたのですが、写真は今朝方の冬至の夜明け前のものです。

街の灯りがやけに近く美しくも見えて、
そうした師走の喧騒の中にある人々の営みとはまるで別世界であるかのように、
雪の穂高は静かに雪煙を上げていました。


冬至というと、昨年の谷口けいちゃんの遭難を思い出さずにはいられません。
あの時の衝撃、そして訪れた深い嘆きや悲しみは、一年という時間を経た今は、なんというか穏やかな懐かしさのような気持ちになっています。

それは例えば「この世は、目の前にあるものだけがすべてじゃない」というようなことでしょうか。


もう言葉を交わすことは出来ないし、いっしょに攀じることもないわけですが、
私たちが生きる今この世界には、もう彼女はいなくても、
誰に知られることもなく星月夜の下に穂高があるように、
彼女は確かに在りつづけている気がするのです。


なんなんだろう、どうにも身体に力の入らないこの感じは、
それでいて時折怒りとも悔しさともつかない感情に大きな声でわめき叫びたくもなってしまう、
どう悲しんでいいのかさえよくわからない……

きっとあの笑顔を知る者は、みんな今こんな気持ちでいるのかもしれません。

谷口けいちゃんが、逝ってしまった。

今年は、
10月に山荘のバイトであったヤツが北鎌尾根で転落死、
11月には今井健司くんがヒマラヤ・チャムラン北壁で行方不明と、
晩秋の頃からの思いもしなかった仲間や友人の死に対して、
それをどう自分の中で捉えればいいのか、思い、考え、煩悶し、
何というか、このひと月ほどぼくはずっと立ち止まってしまっていました。

小屋を閉めて山を下りて以降、
やりたかったことや、やらねばならないことが目の前に山積みであったのに、
時おり襲ってくる"虚無”ともいうような空しい想いに、どうにも身体に力が入らなかったのです。


そんな中、無性に誰かと言葉を交わしたくなり、その相手として浮かんだ中のひとりがけいちゃんでした。
今井くんの事故の当時はけいちゃんもネパールにいて、帰国後の彼女からの短いメールに「ぜんぜん納得できない」とありました。
だから、また近々話そうやと言っていたのに。


そりゃあ、ないやろう……     けいちゃん

山に関わる以上、人はいつ何どきどうなるかわからない、ということは常々思っているつもりです。

でも、あのいつも元気いっぱいで、まわりの人たちまで元気にしてくれて、生の躍動に溢れるオーラを出しまくっていた彼女は、そんな負のイメージからいちばん遠いところの存在でした。


もうこの世の彼女がいなくなってしまったということを、ぼくはどう受け止めればいいのかまだよくわかりません。
悲しみとも、悔しさとも、嘆きとも、怒りともつかない、やりきれないこの感情を、今はまだ言葉にもできません。
彼女の想い出を記すことも今はしたくない。
だって心はぎしぎしいっているのに、ぼくの目からはまだ一粒の涙も出てはこないのですから。

ただただ頭の中でぐるぐると「嘘やろ?」って、「なにしとるんよ」って……
昨日は冬至でした。

冬至というのは、その日を境に陽光の回復と生命の再生を願う日であるそうです。
しかし寒さはこれからが本番であり、春を迎えるにはまだまだ厳しい寒さをくぐり抜けねばなりません。


彼女を喪った悲しみも、ぼくには今が底であるとは思えない。

今はただ、これから訪れる寒さにじっと耐えるしかないのでしょう。


彼女の魂はなお、山へ向かい続けていると信じながら。

冬至

なんなんだろう、どうにも身体に力の入らないこの感じは、それでいて時折怒りとも悔しさともつかない感情に大きな声でわめき叫びたくもなってしまう、...

 

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