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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

深田久弥●山の文学全集 雲の上の道 Ⅵ

2021年11月06日 06時05分25秒 | 深田久弥
ゴザインタン

暑熱のインドから来て、海抜1335mのマトマンズの涼しさが有難かった。
カトマンズ・・・トリブバン国際空港

すべての登山隊にネパール政府は必ずこのリエゾン・オフィサー(連絡官)を配属させる。キャラバン途中の民との通訳や、ポーターの保護など。

ヒマラヤ風景にチョルテンは付き物である。

人間にどれだけの根気があるか、その例を示せ、という課題が出たら、私はためらうことなくネパールの段々畑をあげるだろう。よくもあんな高いところまで開いたものだ。
写真でも見、話にも聞いていたが、これほど徹底したものとは知らなかった。
ネパールでは、たとえば秩父連山や鈴鹿山脈、そんな山でも放っておかないだろう。
たちまち頂まで段々畑にしてしまうだろう。

驚いたことに、チベットでは子供たちまでヘヴィースモーカーであることだ。
あどけない幼稚園の子供くらいなのも、その悦楽からはずれない。

俊峰;プルビ・チャチュ:6440m(東の大きな蝙蝠)
双耳峰:ドルジェ・ラクパ;6,948m

スタンダールの『シャルトルーズ』
これは私の愛読書で、大戦従軍中にもこの本だけは身辺からはなさなかった。
これが私の唯一の精神的オアシスであった。
どれほど私はこの本に慰められ勇気づけられたことであろう。

ランタン・ヒマールにこんなに多くの見事な山が群がっていようとは、予期しなかった。
数え切れぬほどの峰々が、それぞれの個性をきわ立てて、連なり、重なり、視界の果てまで延びていた。
三角の峰、屋根型の峰、可愛い峰、傲慢な峰、さまざまな形が前後して連なっていた。そしてその全部が未登頂。豪勢な山の宝庫である。
8000m級の最後の雄、ゴザインタン(シャシャパンマ)

形の変わった牛が群れていた。
これが牛とヤクの間の子の「ゾー」
ヤクは全身に長い毛を垂れ、笑わざる喜劇俳優といった顔つきをしている。

マロリーの命名がもう1つ残っている。
それはプモリである。
この三角形の美しい山は当時無名峰であった。
それを自分の愛娘を記念して、プモリと名づけた。
チベット語でプモは娘、リは山の意である。
マロリーの愛娘の名はクレアー。

「2人(マロリーとアーヴィン)はいつどこで死んだか、われわれは知らない。
しかしあの高所で、エヴェレストの腕に抱かれて、彼等は永遠に眠っている。
人間が死に憩う最も高い土地よりも1万フィートも高い所に、彼等2人は眠っているのである。エヴェレストは彼らの肉体に打ち勝った。しかし、彼等の精神は死なない。今後、ヒマラヤの峰に登る人は誰しもマロリーとアーヴィンに思いを致さずにはいられないだろう」
これ以上簡潔で、感動的な讃辞もないだろう。

木暮理太郎;「私は山が好きだから」

1931年、ガルワルの高峰の1つカメット;7757mの頂がイギリスの登山隊によって踏まれた。
このカメットの登頂は、今までの記録を破ったのみでなく、ヒマラヤに7600m以上の山が70座あるが、その一峰を最初に落としたという点でも、輝かしい勲功であった。
カメットのレコードを破ったのは、1936年、ナンダ・デヴィ;7816mの初登頂である。
古来、インドの山々の中でも最も聖なる峰として知られ、昔からヒンズー教徒の尊崇の的となっていた。

ナンダ・デヴィの頂上は、多くのヒマラヤの山の頂に見るような狭い不安定な場所でなく、長さ60m、幅6mもある、確乎とした雪の背であった。
「山は屈したのだ。
女神と呼ばれるナンダ・デヴィの誇り高い頭は、ついに屈したのだ」

ナンダ・デヴ;7816mの登頂最高記録はその後永く続き、1950年のアンナプルナ;8078m初登頂まで持ちこたえた。
第二次大戦終了後、ヒマラヤの黄金時代とも称すべき輝かしい時期が始まる。
今まで落ちなかった8000m級のジャイアントが次々と登頂されていった。
その皮切りがフランス隊のアンナプルナ登頂であった。
最初の8000m、アンナプルナの記録は、3年にして、1953年のエヴェレスト登頂をもって破られる。そして、これ以上登頂の高さを誇るレコードはなくなった。

一番大きなショックは、1961年5月の大阪市立大学隊のランタン・リルンにおける本物の遭難であった。
日本人で最初のヒマラヤの犠牲を、新聞が騒がないはずはない。
5月19日の朝刊はどの新聞もトップ10段抜きで、大きくその悲報を掲げた。

記録に現れている限り、ヒマラヤで最初にスキーが使用されたのは、カメット;7756mであった。ガルワール・ヒマラヤの名峰カメットは、早くから眼をつけられた山で、幾つもの登山隊が
登頂を試みたが、どうしても成功しない。
やっと11回目の登山隊、イギリスのスマイスの率いる隊が1931年にその頂上に立った。
カメットの頂上でホールズワースはもう1つ妙な記録を樹てた。
それは喫煙である。
辛い登攀で極度に疲れていたが、彼はパイプを銜えて火をつけた。
7756mで煙草の味がしたかどうか問うところではない。
喫煙の1つのレコードを作ったのである。

ヨーロッパのアルプスの北壁に対して、ヒマラヤでは切り立っている壁はたいてい南側である。



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