無事に長崎から帰ってきました。
6時に家に着きましたが、台風の影響で、風が強くなっています。
最終の8時で帰って来たかったのですが、込んでいて2時発に乗りましたが、台風の影響から守れれて感謝でした。
今回は、前に行った時は外だけで中に入らなかったが国宝・崇福寺(そうふくじ)に行ってきました。
受付で「幕末時代、宣教師達が住んでいたのはどこですかと聞くと、そんな話は聞いたことがないと言われました。
いちおうざっと中を見て、それらしい建物もないし、前に写真で見た家財もないので出てから間違えたのかと考えていました。
帰ろうと捨て、そのと塀に貼ってあった、お寺の歴史のところにやはり、最初の聖公会の宣教師リギンズとウィリアムズが住んでいた所と、改革派のフルベッキが住んでいた庵などの名前が載っていました。
もう一度戻って、受付の人にその名前を言うと、もうそれは無くなっていて、リギンズとウィリアムズが住んでいた所は、お墓になっていて、
フルベッキが住んでいた所は、長屋になっていると教えていただいたので、もう一度写真を取りに行きました。
下の家が、フルベッキの住んでいた所に建った家です。
回りはお墓です。
フルベッキは、明治政府の要人たちに国際法などを教え、岩倉具視に欧米を視察に行くように勧めた人です。
そのことによって、明治時代信教の黙認が許されるようになったのです。
すごい階段ばかりの寺ですが、こんな中で、宣教師たちは日本人のために祈り備えていたのです。
本当に感謝ですね。
資料で、明治時代の宣教師たちのプロフイールを自分のファイルに書き込んでいますが、日本の草創期に、多くの方々が献身的な働きをしてくださいました。
聞いたことのない名前の方が、たくさんいます。ホルブルック・メアリーのその一人ですが、彼女は女性宣教師で海岸女学校(後の青山女学院)の校長を務め、学習院の教師にもなりました。
後に、チャペルと言う方と結婚しますが、名前がいいですね。
結婚後も、女性教育を目的として母親学級を組織し、栄養や保育の向上のために尽くしました。
また、先ほど知りましたが、母の日の設定のも尽力したそうですが、実際は、彼女が亡くなってから一般化されたようです。
ネットで、検索したら、1931年(昭和6)に、大日本連合婦人会が結成され、香淳皇后(昭和天皇の皇后)の誕生日の3月6日を母の日にしたそうです。
1937年(昭和12)5月8日には森永が、第1回「森永母の日大会」を開きました。
森永の創業者は、熱心なクリスチャンです。
そして、終戦後にアメリカに習って5月の第二日曜日に行われるようになったそうです。
NY市では、肥満対策に炭酸飲料のラージサイズを禁止する方針が決定されました。
夏はやはり炭酸が飲みたくなりますよね。
私も、0カロリーの炭酸飲料をよく飲んでいます。
ところで、昨夜は突然吐き気がして、お腹もはって具合が悪くなってしまいました。
夏バテが出たのかもしれません。
休みなしで、来ているので、少し休もうと思いますが、締め切りがあるので、そうはいかないのです。
ところで、今調べている資料にはたくさんの宣教師たちが出てきます。
そのうち、長期で、日本に滞在された方々で、日本の地で天に召された方々もたくさんいらっしゃいます。経歴を読むたびに、本当にありがとうございましたと頭が下がります。
聖公会のウィリアムズ主教は、安政6(1859年)30歳で来日して、日本聖公会を建て上げました。
東京の大火で、二度も家や礼拝堂を焼かれたこともありました。
66歳の時に、京都に住んで、京都聖ヨハネ教会など3つの教会を管理していましたが、目が見えなくなり、自分の行こうとして いた場所を忘れしたり するなどの老衰症状が顕著にみられるようになってきました。
そのためウィリアムズはアメリカへ帰国しました。
1909年(明治42)80才の時には病状が悪化したため入院しましたが、日本語を話して看護婦を困らせたそうです。
ウィリアムズは自分について知られることを嫌い、日本から帰国する時、 自分に関する資料を全部燃やしてしまったそうです。
一粒の麦となって天に召されましたが、墓碑には「道を伝えて己を伝えず」という言葉が刻まれています。
中国伝道を行っていたハドソン・テーラーは、1860年ロンドンに帰ります。
もう少し医学の勉強をするためと、もっと中国の奥地に入るためにイギリスに力強い伝道団を作りたかったかです。
1865年9月、スコットランドキリスト教修養会が開かれました。
2000人もの人が集まる中で、聖書の学びがなされました。
その時、ハドソンは、少しだけでいいから話をさせてくれと頼みますが、議長は「慈善事業の宣伝のための集会ではない。聖書の学びのために集まっているのです。」と言って断りました。
ハドソンは、その場で中国伝道のために一言祈ると、ある牧師が「この人は、神の言葉を地の果てにまで、宣べ伝えよと言うキリストの命令に従っている人です。我々にできないことをしているのです。彼の言うことを聞き、できる限り協力すべきでではないか。」と言いました。
そこで、ハドソンは、船に乗っていた時、ひとりの中国人が船から落ちた話をしました。
どこに落ちたのか分かりません。
側にいた中国人の漁船に網をこちらにい引いてくれるように頼みましたが、魚取りが忙しいから駄目だと言いました。
お金を出すからと言うと、安いからと言って聞かないので、持っているものを全部あげるからと言うとやっと側に来て網を降ろしましたが、すでに死んでいて手遅れでした。
ハドソンは、「この漁師たちを責めることができない。自分たちも物質や自分の利害にとらわれて、多くの魂が滅んで行くのに任せている。」
と涙ながらに語ると、人々は感動し、議長は「聖書を学ぶことはあっても、隣人を愛することを忘れていました。」と謝りました。これがきっかけで、多くの協力者が与えられ、その年の終わりには、ハドソン一家は8名の宣教師とともに中国に再び渡ったのです。
ジョージ・ミュラーも中国宣教のために、100ポンド(200万円~250万円)の献金をしました。
アンナ・キダーと言う方を、今日初めて知りました。
キダーというと、フェリス女学校を作ったメアリー・キダーかと思っていましたが、調べたら違っていました。アメリカにいた時は、黒人の孤児院で、教育に従事していたので、アフリカ伝道を望みましたが、許されずに日本に来たのです。
喜田英和女学校(駿台英和女学校)の校長をしていましたが、関東大震災で倒壊して閉鎖されました。
病気で短期帰国しただけで、後は秘書にも行かず、質素に暮らして貯めたお金を、神田区役所に匿名で20年間寄付し続けました。
後には、ハンセン病の方を助ける働きもされたそうです。
素晴らしい神様の器がいらしたのですね。