世の中には良かれと思ってした行為が、やり方が違うとその思いが届かない事がよくある。
本当の話かどうか分からないが、「ある旅行者がある国でストリートの子ども達に何かがしたくて、粉ミルクを買って与えた。するとシスターからひどく怒られた。子ども達はそのミルクを売ったお金でドラックを買うのだと。思いがあるなら、寄り添い抱きしめてあげてくれと」
思いがあっても、要はその方法なのだ。
先日私はある方からアドバイスを頂いた。その方は私が良くなる為にあえて苦言をして下さった。その思いはありがたく、とても嬉しかった。言いにくそうに、「言っても良いかしら、悪く思わないで」と前置きをして。
だから、悪気でないことは十分理解できたし、本当に思って下さっているのだと感謝した。
しかし、私はひどくショックだった。これから始まる会議を前に、どう持ちこたえようかと気持ちをそらした。
その場は他の事でエネルギーを貰ったのでどうにか持ちこたえた。しかし、その夜私は一人涙した。
とにかく、悲しかった。
内容なのか、言われた事なのか、何がそんなに気持ちをさげるのか、自分で問うてみた。
内容は半分は経済的なこともあるから仕方ない、「誰だって好き好んでそうしている訳ではない」とうそぶく。
言われたことはむしろ「ありがたい」と思う。自分でも「まずい」と思っていながら、無精をしていたことへズバリと指摘されたのだから、「人はそう思っている」と気付かせてくれた。
しかし、言われた事自体が悪いわけではないのに、私はひどく自尊心を傷つけられ、落ち込んでいる。
どうあがいても、そこから立ち直れないでいる。
なぜなのか。
ふっと気が付いた。 私に言われた言葉は否定だったのだ。「あなたの○○はやめない」と。
相手の方に悪気はない。本当に心配してくれたのだろう。否定する気もなかっただろう。
でも私はその言葉で自分の人格を全否定されたように受け止めたのだ。 だから悲しくて涙がでたのだろう。
言葉は不思議なものである。
トーストマスターズで英語のスピーチをする時には必ずペアで論評(Evaluator)をする人がいる。Evaluatorのルールは「2つ3つの良いところを褒め、さらに良くなるように1つアドバイスをする」だ。
明らかにダメな点があっても、「あなたのここがダメだ」とは言ってはいけない。こうすべき(You should)とも言ってはならない。
「こんなに良かったけど、あとここをこうしたらもっと良くなると思うわ」「私だったらここをこうすると思うわ」的な言い方をすることが鉄則だ。
人はやはり自尊心を持っているから、ストレートにダメ出しを食らうと傷つくのだろう。
だから、褒めて、褒めて、そして最後に1つこうしたらもっと良くなるとアドバイスをするのだ。最後の1つだけではダメなのである。その前に良いところを上げないと。
Tアップが必要だということだ。
ふと、考えたら、私もいつも家族にはダメだしだけをしていなかっただろうか。気持ちは家族だから本当に良くしたいとの思いだけなのだが。直球を投げていなかっただろうか。褒めてアドバイスをしていただろうか。
例え家族でも個々の人格を持った人間である。家族だから許されるとの錯覚で悪い所ばかりを指摘していなかっただろうか。 ひどく反省した。
肝心のアドバイスも言葉によっては素直に心に入って行かないと、自分の実体験で良~く分かった。
悪くすれば相手を恨むことにもなってしまう。
「ここが良くない」と言われるより「こうしたら、もっと魅力的になるよ」と言われた方が誰だって嬉しいし、素直に心に届く。つまりは否定されるより、肯定されるほうが良いということだ。
「ここをこうしたら、あなたもっと素敵~ィ!」なんて言われたら、「え、そうぉ」なんて言って、嬉しがって即行動する!
こんなにも言葉に違いがあるのかと、言葉の力の差を改めて発見した。
言って下さった方には感謝の気持ちしかないけれど、 今、私は落ち込んだ心をアップさせるのにもがいている。(笑)
本当に言葉は大事ですね。
私はいつもイソップの「北風と太陽」を思いだします。
結局、コートを脱がすのは無理やりではなく、自分から脱ぐようにする方がベストだと。
親も初めから立派な親ではなく、親になって行くのですものね。お互い頑張りましょう。
いつも、そうだ、そうだ、と思って、拝読していますが、
この記事は、本当に、胸に響きました。
特に、家族に対しては、思いが強すぎるのか、つい、教条的になってしまいがち。
心では、良い部分を感じているくせに、何かあると、「今、言っておかなくては、、、」という気持ちになってしまいます。
他人にできることなら、なおさら、家族には、そういう気持ちで接したいな、と。
今日から、実践!心がけます♪
妙子さま、いつもありがとう。
尊敬、敬愛です。