NEETな日常

<Not in Education,Employment or Training>

偽装と効率

2007-10-25 14:21:40 | 時事寸評
偽装。ここ数年、良く目にするようになった言葉です。

耐震偽装、食肉偽装(牛肉、豚肉、鶏肉)、不二家、白い恋人、赤福、領収書の付け替え、日付の書き換え、偽装請負、偽装メール、消えた年金、自衛隊の米軍艦船へん給油量偽装、社保庁のずさんというよりもあまりにも悪意に満ちた年金処理、厚生労働省や旧ミドリ十字が引き起こした薬害問題などもこれに含まれるかもしれません。

これまで表沙汰にならなかった問題が、ここに来て一気に噴出してきたということでしょうか。
今、明らかになっているもの以外にも、まだまだ出てきそうです。

いままで表沙汰にならなかったと言うことは、いままではあまり誰も問題にしていなかった、と言うことでしょうか。

食品産業での偽装は、原材料生産地の偽装から、使用原料そのものの偽装、日付の偽装などがありますが、これらのほとんどが慣習的に行われてきたもので、社内ではあまり問題視されていなかったという共通傾向があるようです。つまり、ベテラン社員が、その長年の経験によって「これくらいの偽装ならば大丈夫」という気持ちで行ってきたものです。熟練の技術者だからこそ、おこしてしまった偽装ということができるでしょう。
職人技の継承などが叫ばれていますが、どうやらそんなに簡単なことではないようです。

高松塚古墳の国宝壁画がカビで破損され、ついには十何億円もの税金を使って解体しなければならなくなったのも、文化庁や関係機関の「ベテラン」たちが、その長年の経験で「これくらいなら大丈夫」という気持ちでとった行動が引き起こしたミスです。

耐震偽装なども、その最たるものでしょう。長年、建築士としての仕事の携わってきた「ベテラン」が、鉄筋をこれぐらい抜いても、コンクリートをこれぐらい薄めても「大丈夫」と判断して引いた図面です。
これに類似することは実際の建築現場ではもっと頻繁に行われていることでしょう。現場監督、親方、ベテラン労働者の一存で材料の質や量が左右されることは、良くある話です。

なぜ、こういうことになるのか。
なぜ、「ベテラン」は偽装を行うのか、あるいは行わざるを得ないのか。

その一因には「効率」ばかりを追求する、日本社会の体質と制度があるでしょう。
国会答弁や裁判での姉葉建築士の言葉を全て鵜呑みにすることは出来ませんが、しかし、それも一面の真実を表しているでしょう。
仕事を受けるためには、競争に勝つためには、自分が生きていくためには、

偽装

社会に余裕がないから、
職人にじっくりと仕事をする時間的、物質的、精神的支持を与えないから、
ベテランは
偽装にばかり
うまくなる。

人を育てることを忘れては、「ベテラン」の質も変わってしまいます。
一人の人材を育てるのには、多くの無駄が必要です。
その無駄を許さない、許せない、許す余裕のない社会は、やがて、枯れて、しんでいくでしょう。

平成の無責任男

2007-10-18 18:24:35 | 時事寸評
だいぶお久しぶりの更新です。

気がついたら国政選挙や都知事選もとっくの昔に終わり、総理大臣まで変わってしまいましたね。

安部元首相の去り際のまずさは現代日本を象徴しているような出来事でした。

一億総無責任化。

大企業や老舗の偽装や改竄が明るみに出て、政治資金などの不透明さ、事務処理のいい加減さが日の下にさらされ、あろうことか一国の大臣が任期中に自殺し、その後任も更迭される始末。
こんなお粗末な人たちでも国政に居座っていられるのが、現代日本です。
「一部の」失敗者に優しい再チャレンジの国。
なんと美しい「身内」のかばい合い。
「一部」や「身内」以外の、ニートや非正規雇用者などの社会的底辺でうろうろしている人たちには再チャレンジどころか、最初からチャンスすら与えない構造には全く目をつぶったまま、ご立派なことです。

そして政治の無責任の集大成としての安部辞任。
辞めない、と言った舌の根も乾かないうちに辞める。

昭和の無責任男には、まだ愛嬌がありましたが、平成の無責任男達は、ただひたすらに醜い。

抵抗のあり方

2006-05-30 14:28:25 | 時事寸評
「君が代」替え歌流布 ネット上「慰安婦」主題? (産経新聞) - goo ニュース


梅雨入りを控え、毎日蒸し暑い日が続く今日この頃、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
卒業シーズンはとっくに過ぎてしまっているのですが、おもしろい記事を見つけたので、少し卒業式の話題を。
故小渕内閣で成立した「国旗国歌法」、これによって全国の小中高等学校の入学・卒業式では日の丸掲揚と君が代演奏が義務づけられました。これに反対する教員は「不適格」の烙印を押され、さまざまな処分を受けることとなっています。
そんななか。正面切って反対するのはちょっと腰が引けるけれども、心の中では反対したいという人たちが、新しい抵抗の方法を考え出したようです。
それが、「君が代」の替え歌。
日本語に聞こえる英語の歌詞、という遊び心たっぷりの歌になっています。
歌詞でみると英語だけど、歌で聞くと日本語に聞こえるというのは日本のヘビメタバンドなんかがたまに使ってました。
その伝統が「君が代」にもつかわれてるわけですね。

ところで、リンク先のニュースに、

歌詞の意味は難解だが、政府に賠償請求の裁判を起こした元慰安婦と出会った日本人少女が戦後補償裁判で歴史の真相が明らかにされていくのを心にとどめ、既に亡くなった元慰安婦の無念に思いをはせる-という設定だという。皇室に対する敬慕とはかけ離れた内容で、「国家は殺人を強いるものだと伝えるための歌」と解説したホームページもあった。

という記述があったのですが、「皇室に対する敬慕とはかけ離れた内容」とは、どういうことでしょうね。
「国歌」として制定された君が代は、皇室関係からは断絶されて、「君が代の「君」は、国民のこと」とかいう説明を、故小渕首相自身がしているのですが。
語るに落ちる、とはこのことですね。





「Kiss me, girl」歌詞

 Kiss me, girl, your old one.


 Till you’re near, it is years till you’re near.


 Sounds of the dead will she know?


 She wants all told, now retained,for, cold caves know the moon’s seeing the mad and dead.


水俣病公式確認50年

2006-04-30 02:55:10 | 時事寸評
公式確認50年 水俣病首相おわび 談話発表救済策は触れず (西日本新聞) - goo ニュース


1956年4月21日、原因不明の激しい脳症状を訴える5才の女児が新日本窒素肥料(株)(現チッソ(株))水俣工場附属病院で診療を受け、同月23日に入院しました。同年5月1日に、同工場附属病院長が水俣保健所に脳症状を呈する患者の発生を報告しました。それによって、この日が「水俣病公式発見の日」とされたそうです。
ところが、政府が水俣病を公害と認める見解を発表したのは、水俣病の公式発見から遅れること10年以上も後の1968年のことだったのです。

その間、1956年10月には、熊本大学医学部研究班が早くもチッソの工場廃水との関連性を疑い、翌1957年4月には水俣保健所の実験でによって、水俣湾産魚貝類の毒性が確認されたのにもかかわらず、その年の9月に厚生省は、「水俣湾の全魚貝類有毒化の根拠なし」、として魚貝類の販売禁止措置はできない、との回答を熊本県に与え、結果として水俣病の拡散を防止する責任を果たしませんでした。
1959(昭和34)年7月には熊本大学医学部研究班によって有機水銀説が報告されましたが、その年の11月には、厚生省で食品衛生調査会水俣食中毒部会が、「水俣湾産の魚貝類中の有機水銀が原因」と厚生大臣に答申、即日解散させられるという、あまりにもお粗末な醜態が演じられました。
1963年2月、熊本大学医学部研究班が、水俣病の原因はチッソ水俣工場アセトアルデヒド排水中のメチル水銀化合物を蓄積した水俣病の魚介類である、と正式発表しました。
そしてそのさらに五年後の1968年9月26日に、やっと政府は水俣病を公害病と認める見解を発表したのです。
しかも政府が水俣病を公害として認める数年前の1964年には、新潟県阿賀野川流域で、第二水俣病が起こっているのです。

なぜ、水俣病が公害であると認められるまでにこんなにも長い時間がかかったのか。
原因はいくつか考えられるでしょう。しかしその最大のものは日本国政府による大企業重視と国民軽視の姿勢にあると言っても過言ではないと思います。
加害者であるチッソは、その技術力と生産力が世界でも有数の大企業であり、まさに日本の高度経済成長を支える存在でした。
対して被害者は水俣湾で漁業に従事する、戦後の経済成長にはほとんど貢献しない人々ばかりです。
ここで「国家指導者」達が「国家の利益」と「国民の健康的な生活」を天秤にかけて、前者を守ることを選択した結果が、現在まで続く水俣病患者への仕打ちであり、また大に水俣病の発生を防げなかった(防がなかった)原因でしょう。
「国家の利益」のために「国民の生活」を犠牲にするやり方は、50年前から現在まで、少しも変わっていません。
今年の三月に山口県岩国市で基地移転の是非を問う住民投票が行われ、その結果9割以上が反対票を投じました。その結果にもかかわらず、小泉首相は「どこでも住民投票をすれば反対でしょうね、基地は」などと他人事のようにしれっと述べた上で、日米間で米軍再編の最終報告を取りまとめる方針については「変わりありません」と語るなど、岩国移転計画を変更する考えはまったくないようです。
これは住民がいくら反対しようとも、「国家」のためには必要な犠牲なのだから我慢せいという、あまりにも傲慢な姿勢であり、長期間水俣病を認めなかった50年前の日本政府とまったく同じ体質です。
優勢民営化をうったえていた時には、あれだけ「民意」を強調していた小泉首相ですが、基地問題になると一転「民意」などまったく省みない。こんなにわかりやすいダブル・スタンダードを許している我々は、一体なんなんでしょうね。
つい先日も、「古い自民党をぶっこわした」とか自画自賛していましたが、実はやってることは50年前と変わっていないこの事実。
小泉政治から「改革」を抜いたら、何にも残らないどころか、マイナスになってしまうと思いますが、結局スローガンと思い込みだけの「改革」なんか、なかったようなものですからね。

水俣病の発見から五十年。しかし、その解決には程遠い。
変えなくちゃいけないのは、政治なんかじゃなくて、我々一人一人の、ものの考え方なのだと思います。



資料一:水俣病公式確認50年に当たっての首相の談話

 水俣病の公式確認から50年という節目の年を迎え、これまでにお亡くなりになった多くの方々に謹んで哀悼の念をささげるとともに、被害者の方々をはじめご遺族、ご家族など関係者の方々の長きにわたる苦しみに心よりお見舞いを申し上げます。
 日本の高度経済成長の中で生じた水俣病問題は、深刻な健康被害をもたらしたばかりでなく、地域住民の皆さまに大きな犠牲を強いてきました。一昨年10月の最高裁判決において国の責任が認められましたが、長期間にわたって適切な対応をなすことができず、水俣病の被害の拡大を防止できなかったことについて、政府としてその責任を痛感し、率直におわびを申し上げます。
 この50年の節目を機に、1995年の政治解決および今般の最高裁判決を踏まえ、このような悲劇を2度と繰り返さないために、水俣病の経験を内外に広く伝え続けるとともに、その教訓を生かし、環境を守り安心して暮らしていける社会を実現すべく、政府を挙げて取り組んでいく決意をここに表明いたします。


資料二:首相談話への反応

水俣病国家賠償訴訟原告団、中嶋武光副団長
「早期救済へ首相の決意を期待したが、大変失望している。政府はいまだに、被害者に目を向けていない」

水俣病互助会事務局、谷洋一さん
「通り一遍のあいさつ文に意味はない。認定問題や胎児性患者支援のシステムづくりなど未解決問題をどうするかが1番の課題なのに、深刻さが全く伝わってこない。企業に加担し続けた行政や政府が、今も被害者に向き合っていないことを明白にする談話だ」

水俣病被害者芦北の会、村上喜治会長
「行政や政府が至らないために今の混乱があるのだから、謝罪は当たり前。感慨はない。ただ、首相が言う被害者の中に未認定の私たちも含まれていると信じたい。これを機に、少しでも早い救済を願う」

水俣市の宮本勝彬市長
「首相談話が出たことは関係者のご努力の結果であり、ありがたい」、「被害者救済につながる具体的内容がほしかった。物足りない。今後の取り組みに期待したい」

熊本県の潮谷義子知事
「地元が要望していた首相の慰霊式出席はかなわなかったが、今回の談話で、政府として謝罪され、悲劇を2度と繰り返さないと誓った意義は大きい。地元にとって大きな励みになる。水俣病が1地域の問題ではなく、国全体の問題だという意識を共有できたと思う。公害の再発防止はもちろん、被害者の早期救済に、国としての主体的な取り組みを期待したい」


参考:水俣病



一億総無計画時代

2006-03-05 01:45:57 | 時事寸評
『ゆとり』教育改革迷走(東京新聞3月4日の核心)

「文科省屈指の優秀な官僚」だった「岡本薫・政策研究大学院大教授」の分析です。

 「ロジカル(論理的)な議論ができないのはなぜかと考えてきて、これはマネジメントの問題だと。日本人の基本的な思考パターンに問題があると気づいた。教育に限った問題でなく、昔の帝国陸海軍にもあったし今の企業にもあります」

日本人(或いは日本社会)は論理的思考が苦手であると言うのは、戦後すぐから言われていたことですが、「文科省屈指の優秀な官僚」は、その理由を「マネジメントの問題」、つまり計画性のなさにあると気がついたわけですね。


 「言葉の定義を決めないで議論しているっていうのが根っこの問題。」

これは身近でもよく見られる問題です。同じ言葉を使って議論しているように見えても、実はまったく違うことを喋り散らしているだけだった、というのは会社でも学校でもよく見られますね。
会議の参加者が、議論の焦点に対してある程度の共通認識をもっていなければ議論は始まらないのですが、往々にしてこの議論の前提が無視されたまま会議を開いてしまい、不毛な結果に終わることが良くあります。


 「日本の子供はずっと学力水準が高いっていう国際比較テストの結果があった。ところが、詰め込んでいるから高かったのかとか、減らしても維持できるとかいう分析をしないでいたから、下がった瞬間になぜ下がったか分からなくなって大あわて。たまたまその前に(ゆとり路線への)政策転換があったから、元に戻そうって」
 「日露戦争でなぜ勝ったのかきちんと分析しないで、実は(局地戦での勝因は)物量の問題なのに精神力で勝ったなんて言うから、あんなこと(太平洋戦争の敗北)になったのと同じです」


「原因」と「結果」の関係を一つ一つ分析していくという、あたりまえの作業をちゃんと行ってこなかったことに、今の日本社会が抱えるさまざまな弊害の起こってきた大きな原因があるといえるでしょう。
最近の日本の政治かも、まったく深慮遠謀のない、超近視眼的な政策、いや、政策などとはとてもいえない幼稚な思い付きを次々に行っていますが、その付けを払わせられているのは、もちろん私やあなた方のような日本国民です。
適当な掛け声で行われた合理化や安易なリストラのおかげで、一見、日本経済は持ち直したように見えますが、50万とも80万とも言われるニートやその数倍、数十倍に及ぶ不安定雇用層を抱え込むことになってしまいました。
学校を卒業して、いざ就職という時期にバブル後の大不況、未曾有の就職氷河期にぶつかり、居場所を確保できないままニートになってしまった人を、いったい誰が責められると言うのか。
これをニート本人だけの責任にしてしまうのは大きな間違いです。経済活動を無計画に膨張させ、そのあげくにバブルをはじけさせた当時の国政担当者にこそ、その責任が問われねばなりません。

少子化の問題にしても、戦時中から戦後にかけて産めよ増やせよでコロコロ赤ん坊を産ませる政策を取って、その結果日本の人口は爆発的に増大し、国土面積にそぐわないほど増えてしまいました。
現在、少子化だなどといわれていますが、それは人口過剰の状態から、あるべき数へと戻っているだけで、決して悪いことではありません。
では、なぜ少子化が問題になるのかと言えば、簡単に言えば金の問題ですよね。
若年労働者が減れば税金などの収入が減り、高齢者が増えれば医療費や社会保険などの支出が増える。そこのやりくりがつかなくなるから問題になっているわけですが、だからと言っておおげさに少子化問題を騒ぎ立てて、数々の優遇処置を場当たり的に乱発して、なんとか子供を産ませようとするなど、国政担当者の無能と無計画性があらわれているとしか言いようがありません。
これは「文科省屈指の優秀な官僚」の言うとおり、「マネジメントの問題」なのです。
将来、懐具合が厳しくなりそうならば、今から必要でない分野の支出を抑えるように計画を立てて実行していかなければならないのです。
金がないのに、「思いやり予算」なんかだしたり、新しい基地を建設してやったりしている余裕はないはずです。
無駄を省くという観点から言えば、一番いらないのは米軍基地とそれに付随する各施設の維持費でしょう。あとミサイル計画とかもいらない。防衛の点で言えば、陸上自衛隊なんかまったくの無駄。日本みたいな島国で、いったん攻め込まれたらその時点で敗北決定してます。
石原都知事は自衛隊を戦闘服のまま地下鉄に乗せたり、公道で戦車を走らせたりして喜んでいましたが、実際に都心で自衛隊が活動しなければならない事態に至った時点で、都民の生命・財産の安全はなんの保障もなくなり、生活は完全に破壊されていることでしょう。


「文科省屈指の優秀な官僚」は、「ロジカル(論理的)な議論ができないのはなぜかと考えてきて、これはマネジメントの問題だと。日本人の基本的な思考パターンに問題がある」と気がついたとのことですが、そんなことは「文科省屈指の優秀な官僚」でなくとも気がついていたことなのです。問題は、じゃあ、どうするか。
どうしたら日本人の思考にロジックを導きいれることができるか、とうことなのです。
その問題に答えないのであれば、何の役にも立ちはしないのです。
具体的方策を語らずに、「議論」を続けているだけならば、「文科省屈指の優秀な官僚」も「バカな学者」とまったく同じだと言わざるを得ません。

gooニュース

2006-02-26 14:16:24 | 時事寸評
日中の過去知り変化 反日デモに反発の高校生 (共同通信) - goo ニュース

記事の詳細はリンク先を読んでください。
それにしても、この記事では高校生達がどのように変化したか触れられていないんですよね。
報告の内容も一緒に報道して欲しかったです。

まあ、私のように鬼畜米英を蛇蠍の如く忌み嫌ってる人間としては、中国、韓国が日本帝国主義を批判的に捉えて、でも活動をするぐらい当然だと思いますがね。
逆に、日本でも反米基地闘争のデモ活動などをもっとマスコミが取り上げるべきなだと思いますがね。
未だに国土の一部を占領されていながら、文句の一つも言えない「愛国」なんて、世界の笑いものですよ。


「日本人民に責任はない」 by中華人民共和国外交部部長李肇星

2005-12-12 05:26:01 | 時事寸評
11日付の朝日新聞に『中国外相、首脳会談のない日中関係は「1人に責任」』という記事が掲載されました。
記事は、首脳会談が開けない日中関係に関しての中国の李肇星外相の発言を弾き、「責任は中国にはない。日本人民にもない」、「個別の指導者、1人が間違った行動を取り、A級戦犯を参拝し、アジア人民の民族感情を傷つけており、受け入れることはできない」と述べたとしています。

もしこれが本当ならば、日本の民主主義もなめられたものです。
たった一人の「個別の指導者」の思惑によって国政が左右され、その責任が「日本人民にもない」などということは、本当の民主主義国家にはありえないことです。
中国外相がこのような発言をする背景には、中国が一党独裁体制をとり、いわゆる民主主義国家ではないことがあるのでしょう。また、一方で、こんな事を言われてしまう日本の民主主義が未熟で未発達なせいでもあるかもしれません。
成熟した民主主義国家ならば、国の行動にはその国民一人一人が責任を持たねばならない。ある一個人が、国の政策を支持しようが支持しまいが、国の行動によって生じた結果の責任を負わされる、それが近代的国家と近代的国民の関係です。
その意味で、大日本帝国の犯した「戦争責任」は、ある特定の指導者やA級戦犯にだけあるのではなく、大日本帝国の構成者、上は天皇から下は天皇の赤子たる臣民に至るまで、主戦派か反戦派かの区別なく、日本国民全員にあるのだということを、はっきりと主張し、自覚する事が必要です。

こうした認識が、現代日本には決定的に欠如しているように思えます。
それは明治維新に始まる日本の「近代化」が、いつでも一部の支配層のイニシアチブによって行われ、近代国家の主要な構成員であるべきはずの大多数の「一般国民」とは関係のないところで議論され、行われてきたからではないかと考えます。
つい先日も、小泉の腰巾着たる武部幹事長(この人の名前がどうしても思い出せなかったのですが、「小泉・腰巾着」で検索を書けたら1ページめに標示されました。やはり同じように思っている人は少なくないんですねぇ。)が、日本は「天皇中心の国」などという発言をしていましたが、これなどもみずから日本の民主主義を否定する発言で、決して許されざる暴言なのですが、ほとんど問題をされることはありませんでした。
思えば2000年5月に当時の森総理大臣が「神の国」発言をした時には、おおいに騒がれたものでしたが、その時には、まだこうした発言を許さない雰囲気がありました。
この五年間で日本の民主主義は、さらに大きく後退してしまったのでしょうか。


思いやり予算、額見直し先送り

2005-12-10 08:33:14 | 時事寸評
日本中のあらゆるところで経費削減が叫ばれている中、なぜ「思いやり予算」なんてふざけた名前の経費が削減されないのでしょうか。
日本人の健康に密接なかかわりをもつ医療費をはじめ健康保険料の自己負担増額は行われるのに、日本国民の土地を不当に占拠しているアメリカ軍及びその家族のために支払う金があるというのは納得いきません。
こんな売国的行為を許しておいていいのか。
アメリカの犬に成り下がった売国奴、小泉と不愉快な仲間達よ、呪われろ。

靖国参拝支持者における想像力の欠如について

2005-10-19 01:04:55 | 時事寸評
小泉首相の靖国参拝から一日がたって、各方面でいろいろな反応がでてきましたね。
中国、韓国は当然のごとく政府レベルでの抗議を申し入れ、月末に予定されていた町村外相の訪中が取りやめになりました。
また、直接の関係があるかどうかはわかりませんが、歌手の谷村新司さんと中国山東省青島大学との交流会が中止になったという報道もありました。

政府内部では与党公明党が靖国参拝に対し「甚だ遺憾」とのコメントを出し、事前に相談も連絡もなかったことに強い不快感を示しています。
自民党内部でも河野洋平衆議院議長が首相の靖国参拝反対を表明していますが、「靖国を参拝する若手議員の会」とか、「みんなで靖国に参拝する国会議員の会」などというふざけた(としか思えない)ネーミングの会派に参加している議員、そしていわゆる「小泉チルドレン」達など、自民党はおおむね今回の参拝を評価。特に「ポスト小泉」と目されている三人は積極的肯定を行っていますね。
また、ある新聞社の世論調査では首相の靖国参拝を指示する意見が、参拝反対を数ポイント上回ったということです。
国内のblogを見ていても、靖国参拝支持派が多いように思えます。

日本国内にいる人たちは好き勝手なことを言っていればいいでしょう。首相が靖国を参拝しようがしまいが、痛くもかゆくもありません。
しかし、中国で商売をしたり生活している日本人にとっては、首相の靖国参拝は日常生活に多大な悪影響を与えることがはっきりしています。
北京や上海で大規模な抗日デモがおこったのは、つい最近のことです。
それなのに、日本国内閣総理大臣である小泉純一郎は、「一個人の信条」などという至極曖昧なもので、在外法人の生命財産を危険にさらしているのです。
日本国民の生命財産を守ること。これは、小泉純一郎が政治家である限り、絶対に守らねばならない基本的責務でしょう。しかし、この男は日本国民の生命財産を守るどころか、自らの行為によってわざわざ危険にさらしている。これは、絶対に許されざる国民への背信行為だと言わざるを得ません。
グローバル化の時代にあって、日本人は日本国内にだけ引きこもっているわけではありません。巨大な市場として急成長をとげている中国、韓国で働き、生活している日本人の数は、もはや少数ではありません。そうした在外邦人の利益を考えることなく、無邪気に「愛国」だの「内政干渉」だのと騒いでいる輩は、いまだに島国根性にとらわれている愚か者です。こうした「旧世界の遺物」みたいな古くさい島国根性を持った日本人が、生物的年齢が若い世代に多いという事実は、嘆かわしいとしかいいようがありません。
日本人の国際感覚の貧困さはよくいわれることですが、これは、他者の境遇に対する想像力の欠如と密接に関わっています。
海外旅行に行ったことがあるとかないとか、そんなことはあまり重要ではありません。相手の身になって考えてみる。そういうことができない人が増えている。それは、「キレやすい若者」や、「引っ越しおばさん」や「悪臭おじさん」のようなご近所のトラブルに端的に現れていると言えるでしょう。この問題を掘り下げていけば、きっと一冊の本がかけるでしょうが、今は指摘するだけにとどめておきます。

結論としては、小泉首相の行動原理、ある意味ではそれが彼の魅力になっているのだと思いますが、それは「俺が、俺が」という自我意識の強さであり、その支持者は、そうした首相の自分勝手な行動に「強いリーダーシップ」の幻想を見たり、自分を重ね合わせて独善的な自我に満足しているのではないでしょうか。
靖国参拝にしても、小泉首相は国内に向けても、国外に向けても何ら論理的説明をしたことはなく、「行きたいから、行く」、「心の問題」などと繰り返すのみです。これは、小泉首相にしてみれば「俺はやりたいことをやってるだけで、他人からとやかく言われる筋合いはない」ということなのだと思います。
さきの郵政改革法案否決にともなう解散劇でも、そうした首相の「俺様のじゃまをするやつは排除する」という行動原則がよく現れていました。もし、現在の日本の国会で健全な政治が行われていれば、こうした行き過ぎた「排除の論理」はある程度のブレーキがかけられるはずですが、それがそうはならない。しかも国民の方でも首相の暴走に乗っかって、逆にアクセルを踏み込んでいる。こうした状況は、現代日本の政治的貧困を証明しているとも言えます。

私たち日本国民は、近いうちにこうした無軌道政治の付けを支払わされることになるでしょう。それは、明治維新、昭和の敗戦に続く、第三の開国になるかもしれません。もう、島国日本にひきこもって好き勝手なことを言っていられる時代ではないのです。
そうなった場合に一番最初に犠牲になるのは、たぶん在外邦人、それも中国や韓国で生活する日本人になることは間違いないでしょう。
彼らのおかれている、あるいはこれからおかれるであろう状況を考えると、国内で好き勝手なことをほざいている恥知らずどもを憎まずにはいられません。

小泉首相、また靖国参拝

2005-10-17 14:34:19 | 時事寸評
今日、午前中の小泉首相による靖国参拝は、ほとんどすべての新聞やテレビなどで速報として流されていました。
毎回ここまで大きく取り上げられれば、普通の人であればこの行為が「私的なものだ」なんて言っていられないと思うのですが、変人宰相の小泉君は、そんなことはまったくおかまいなしのようです。
前々から思っていて、このblogでも何度か言ったことがあると思いますが、小泉君には政治的判断なんてものはないんでしょうね。あるのは自分の信念だけ。
信念の人、小泉純一郎。
こう書くと、なんだか小泉君がえらい人のように思えますが、リアル・ポリティクスの世界では「信念」だけじゃ通用しません。
大体、「公人」である政治家に「私的」な信念なんて、あると思っている方がおかしいし、そんな言動を許している国民やマスコミの方がおかしいんです。

せっかく中国側が態度を軟化させてきたこの時期に、なんでわざわざ波風を建てるようなことをするのか。そんなに中国や韓国が嫌いなんですかねえ。石原都知事みたいなわかりやすい差別主義者ならともかく、小泉君は、よくわかりません。

財界も、いま中国にそっぽ向かれたら、だいぶ苦しいと思うのですが、変人宰相の靖国参拝を止めるだけの力はなかったんですかね。日本の財界もなめられたものです。

ところで、小泉首相の靖国参拝を受けて、外務省が中国の在留邦人に注意喚起したそうです。
いま、中国大陸にどれほどの日本人が滞在しているのかわかりませんが、首相の自分勝手な「信念」に基づく「私的」な行動によって、国民が危険に晒されるなんて、まったく理不尽この上ないと思います。
首相自身は、自らの行為によって、無辜の国民が被害に逢う可能性があるということをどう考えているのでしょうか。

しかし、今回は前回とは違い、小泉君は本殿には上がらず、賽銭箱にゼニを放り込んで帰ってきたということですが、これは一応小泉君なりに配慮した結果なんでしょうね。その配慮がまったくなんの意味もないことに気がついていないのが悲しいところですが。
小泉君としては、「ボクがこんなに譲歩してるのに、なんでみんなわかってくれないんだよぉ!」という感じでしょうか。
そんなだだっ子の論理、わかるわきゃありませんし、わかってやる筋合いもありません。
小泉君も、もういい加減いい大人なんですから、自分の考えをちゃんと自分の言葉で説明できるようにならないといけません。
でも、小泉君の成長を待っていてくれるほど、現実は甘くないと思いますが。