鴨の長明 極楽庵村 part2
序
「おのずから、都に出でて、身の乞匈となれる事を恥づといへども、帰りてこゝに居る時は、他の俗塵に馳する事をあはれむ。」
「夫、三界は只心ひとつなり。」
「たゞしづかなるを望とし、憂へ無きをたのしみとす。」
「かむなは小さき貝を好む。これ身知れるによりてなり。みさごは荒磯に居る。すなはち、人をおそるゝがゆゑなり。われまたかくのごとし。身を知り、世を知れれば、願はず、走らず。」
方丈記より
後鳥羽天皇が、承久の乱で敗北し、隠岐に流された時の作 「無常講の式」
都での華やかな生活を思い浮かべ、自分の悲運を嘆き、心を静める安らぎは、只、世の無常を観じ、阿弥陀仏の名号を唱え、安楽国(極楽)へ行くことだった! 当時の浄土思想もそうですが、鴨長明の方丈記の影響も・・・
そのまた、200年後、浄土真宗 中興の祖 蓮如上人の、超有名な白骨の御文は、この無常講式の影響で作られたそうで。
「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそ儚きものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ萬歳の人身をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露より繁しと言えり。
されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装いを失いぬるときは、六親眷属あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれといふも、なかなか疎かなり。されば、人間の儚き事は、老少不定のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼み参らせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。」
・自分の宿業により、自分の世界が、刹那に、生と死の循環を行っている。(生死輪転)
・その内、死の回では、自分の宿業による、煩悩の支配により、全く自分の自由が利かず、煩悩として現れる、自分の宿業のままに、動かさられる。(煩悩の支配)
それを、悪人正気というのですよ。
別に、この世界で、悪いことをする人である、ということをいうのではありません。
この宿業により、動かされる、人というものが、そのまま、本来の人の持つ悪の発露であると、いうことです。
・そして、生の回には、自分が自由に振舞って行動しているかと、自分には、思われ、
・そして、他人に対しては、合図を行い、他人の行動を、誘発する、他人も含めた、自分の宿業の循環の一部分を、構成します。
・結局、自分の廻りの世界により、自分の宿業が生死輪転していると言えます。
五木寛之氏が疑問に思ったことを、表現すると、以上の様な回りくどい言い方になりますが、今の所、これ以上の、言い回しが、思いつかないのです。
そして、この宿業により生死輪転している、刹那の自分の世界から、本願力により、解脱するのです。(以下過去ログ)
親鸞 歎異抄 第13条 「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」
この宿業が、自分のこの世の現実に現れた姿が、「生死輪転」であり、その姿を、自分の心の目で、ハッキリと、捉えることが出来ると、以下のことが起きる。
第14条の、「弥陀の光明に照らされまゐらするゆゑに、一念発起するとき金剛の信心をたまはりぬれば、すでに定聚の位にをさめしめたまひて、命終すれば、もろもろの煩悩悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまふなり。」
この一念発起で、阿弥陀仏に会い、信心をたまわるのが、阿弥陀仏の本願による、他力の信心で、これを本来、念仏と言う。念仏とは本来、他力念仏(極楽世界一の造語)のことであるとする。
他力念仏とは、阿弥陀仏の本願による念仏。
この他力の念仏は、一度しかない!
そして、その他の信心は全部、自力の信心で、これによる念仏を、自力念仏(極楽世界一の造語)とする。
自力念仏とは、自分でする念仏。
自力念仏でも、利益は有り、阿弥陀仏の本願、第二十願、果遂の願により、極楽の辺地の、疑城胎宮に往生出来ることもある。
だからこそ、歎異抄 第10条では、
「念仏には、無義をもつて義とす。不可称不可説不可思義のゆゑにて」
ということになる。
念仏という、言葉の意味が、不明確であるために、ここに記す。
輪廻は、無限の時間において、地獄界・餓鬼界・畜生界・人間界・修羅界・天上界の、六道の世界で、行き死にする、マクロな繰り返しと定義するが、生死輪転とは、今、この瞬間に、心の目で、生き死にの輪転していることを、体感することだと言える。
阿弥陀仏の本願により、生き死にの、輪転している、人間界において、生き死にの、輪転している状況を、目の当たりに見て、そこから離れて(解脱して)、自分の頭の頂点を通り抜けた円光の中を、光と大音響と共に上昇して、たどりついた、静寂の中に、阿弥陀仏が現れる。
人身受けがたし、起こしがたき道心を起こし、離れ難き生死輪転の家を離れ、会いがたき本願に会いて、生まれ難き極楽世界に往生する。喜びの中の喜びである。
このことを、マクロ的には輪廻の世界を離れると表現できる。
無口な、横尾忠則氏の、お経の本の、静寂に辿り着いたかの装丁を、見ながら、そう思った。
彼の自叙伝によれば、彼もこの体験をしている!
円光の中の光明と、現れ出る化仏は、つぶさに説くことは出来ない。
まさに、心の眼でしか、見ることは出来ないもlのなので、その体験は、
詳しく言葉で著すには、超越しすぎているので、これを分かるには、やはり
その体験をしてもらう以外に方法はない。
「光明遍照十方世界念仏衆生。摂取不捨。其光明相好。及与化仏。
不可具説。但当億想。令心眼見。見此事者。即見十方一切諸仏。
以見諸仏故。名念仏三昧。」
ただし、ひとつ言えるのは、最終的に、仏を現前で見て、挨拶するのを、
「念仏」と、表現するのであろう。
それは決して、「南無阿弥陀仏」を、言葉や、脳裏で、唱えることではない
ということだ。言葉で唱えることでも、もちろん、御利益はあるにしても、
やはり、親鸞が言うように、極楽往生を保証して頂いた、感謝のお礼
として唱えるのが本筋であろう。
仏身に会うことは、仏心を頂戴することで、仏の大慈悲、
阿弥陀仏の大慈悲により、現在の命が終わった後の後生は、阿弥陀仏の
み前に生まれることが出来る。
「大慈悲是以無縁慈摂諸衆生。作此観者。捨身他世。生諸仏前。」
為諸衆生説是一切世間難信之法
これで、20歳代のころから、書きたかったことは、だいたい書き終えたので、
ここで、パート1は終了と致します。
極楽往生したい人は、阿弥陀仏に、会うことを、願え
そのためには、右に旋回している、眉間の白毫から入れ
右に旋回している状況を、極めて明らかに、見れば
いつのまにか、円光の中にいる、自分が現れる
その中で、響き渡る大音響と、光の洪水の中を、上昇すると
阿弥陀仏が、目の前に現れ、往生を保証してくれる
「あまねく一切の色身を観るの想い」 観無量寿経 第9観
訳
By 極楽世界一切諸佛念阿弥陀佛娑婆世界一切諸佛念阿弥陀佛
これが唯一の方法である。
極楽往生をしたと思われる、親鸞が言うことばと同じ
還 来 生 死 輪 転 家
決 以 疑 情 為 所 止
生死輪転 を体験すれば、疑いが晴れる