死際迎えが来たのかどうかは不明。
方丈記最後の謎の言葉「不請阿弥陀仏」 藤原祖先が解説すると
文字通り阿弥陀仏の来迎を請けていない凡夫であるのが鴨長明だということ。
ゆえに彼の言うことは百人中百人の人間に分かりやすいだろう。
救われていない人間は信じることができないのが世の常、常識。
救われた者は信じることができる。それは救われた人間にしか分からないこと。
凡夫とは悟っていない救われていない人間のこと
悟っていない救われていないとは、阿弥陀仏の元に往生していないこと。
往生していないとは~このブログの過去ブログを読んでね。
きっと救われた人間のことが理解できるから。
いらないことをいっぱい書いてまぎらわせてあるので見つけるのがたいへんかもしれません。
方丈の宿り 人間らしく心自由に生きるには
それ三界はたゞ心一つなり。心もし安からずば、牛馬七珍もよしなく、宮殿樓閣も望みなし。今さびしきすまひ、一間の庵(いほり)、みづからこれを愛す。
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。
たましきの都のうちに、棟を並べ、甍(いらか)を争へる、高き、いやしき人の住ひは、世々を経て、尽きせぬ物なれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるひは去年(こぞ)焼けて、今年造れり。あるひは大家(おほいえ)ほろびて小家(こいえ)となる。住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中(うち)に、わづかにひとりふたりなり。朝(あした)に死に、夕べに生るるならひ、ただ、水の泡にぞ似たりける。不知(しらず)、生れ死ぬる人、何方(いずかた)より来たりて、何方へか去る。また不知、仮の宿り、誰(た)が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主(あるじ)と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるひは露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。あるひは花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども夕を待つ事なし。
人を頼めば身他の奴となり、人をはごくめば心恩愛につかはる。世にしたがへば身くるし、またしたがはねば狂へるに似たり。いづれの處をしめ、いかなるわざをしてか、暫しもこの身をやどし、玉ゆらも心をなぐさむべき。
3/5撮影