NEST OF BLUESMANIA

ミュージシャンMACが書く音楽ブログ「NEST OF BLUESMANIA」です。

音盤日誌「一日一枚」#397 VAN HALEN「炎の導火線」(ワーナーミュージックジャパン 20P2-2617)

2022-12-16 05:00:00 | Weblog
2022年12月16日(金)



#397 VAN HALEN「炎の導火線」(ワーナーミュージックジャパン 20P2-2617)

米国のロック・バンド、ヴァン・ヘイレンのデビュー・アルバム。78年リリース。テッド・テンプルマンによるプロデュース。

エドワード(G)とアレックス(Ds)のヴァン・ヘイレン兄弟、マイケル・アンソニー(B)、そしてデイヴィッド(デイヴ)・リー・ロス(Vo)の4人編成のヴァン・ヘイレンは、元々はカレッジ内で作られたバンド。

当初は有名ハード・ロック・バンドのカバーとオリジナルを取りまぜてやっていた。まぁ、よくあるアマチュア・バンドのひとつに過ぎなかったわけだ。

しかし、エディことエドワードのギター・プレイは、他のバンドのそれを大きく凌駕する、テクニックとアイデアに満ち溢れていた。

カリフォルニアのクラブで演奏しているうちに、その評判が各所に伝わったのかチャンスをつかみ、大手のワーナーブラザーズと契約、このアルバムのリリースにこぎつけた。

セールスは好調、瞬く間に150万枚を売上げ(全米19位)、まったくの新人バンドとしては、破格のスタートとなった。

ファンの間ではやはり、エディの超絶技巧ギターが、話題の中心であった。「あの音はいったいどうやって弾いているんだ?」と、全米のギター・キッズどもを騒がせたのである。

エディのタッピング奏法(日本のギター雑誌ではライトハンド奏法とも言われたりした)は、それまでの速弾き奏法とは一線を画した、新鮮なものだった。

70年代は数々の新しいロックギター・ヒーロー、たとえばリッチー・ブラックモア、アルビン・リー、スティーブ・ハウ、ブライアン・メイ、ロリー・ギャラガー、スティーブ・ルカサーといったテクニシャンたちにスポットが当たってきたが、エディはその最後の最後に登場した、最強ヒーローだった。

その音は、ワンアンドオンリーの独創品であり、後続のハード・ロック系ギタリストたちはこぞって彼のテクニックを模倣するようになる。

ジミ・ヘンドリクス以来の逸材、ギターの革命児、そんな評価をデビュー以来ずっと受け続けてきたエディだったが、2020年10月、がんのため65歳の若さで亡くなった。

まだまだ現役ロッカーとして活躍出来たであろうに、残念でならない。

そんな彼を偲んで、「このエディがスゴい!ベストフォー」を組んでみたい。

第4位「ユー・リアリー・ガット・ミー」

デビュー・シングルでもあり、全米36位のクリーン・ヒットとなった。英国のバンド、キンクス64年のヒット・シングルのカバー。

3分足らずの短尺に、彼らのセールス・ポイントを全て凝縮した一曲。すなわち、エディのフィンガー・ハーモニクス、タッピング、アーミングを駆使したプレイ、デイヴの野獣じみたシャウト、リズム隊のダイナミックなビート。

あのキンクスがゴリゴリのハード・ロックへと変身を遂げるとは。当時、ラジオで聴いてビックリしたものだ(種明かしをすると、リック・デリンジャーが彼のバンド「デリンジャー」のライブで前年にやったバージョンが、どうやらネタ元みたいなんだけどね)。

この曲こそヴァン・ヘイレンのAであり、Zである。

第3位「アイス・クリーム・マン」

アコースティック・ブルースのスタイルで始まり、いきなりハード・ロックにお色直し、というユニークな構成。

間奏のギター・ソロは、エグいまでにエディ節全開である。笑ってしまうほど。

オリジナルは黒人ブルースマン、ジョン・ブリムの作品。いなたく、ほのぼのとしたあのブルースが、ここまで変わるとは。まさにアレンジの妙である。

第2位「アイム・ザ・ワン」

ヴァン・ヘイレンを語る上で忘れてならないのは、そのボーカリストの確かな実力だろう。オリジナルのデイヴ然り、後任のサミー・ヘイガー然り。

どれだけエディがスゴいギタリストであろうと、ボーカルがそれに太刀打ちするだけのものを持っていないと、バンドとして成立しない。バランスが取れない。

その意味で、陰の功労者としてのボーカリストのスゴさにも触れておかないと、ね。

普通、ボーカリストがバンドの立役者なんだけど、ヴァン・ヘイレンだけはギタリストが立役者というのが、なんともおかしい。

この曲でも、デイヴのスピーディ極まりない歌が、バックの超高速ビートに完全に拮抗していて、息も詰まるような展開だ。

エディも負けじとフル・スピードで弾きまくり。お腹いっぱいになる。

終盤、憂歌団の「おそうじオバチャン」みたいなおチャラケもあって、思わずニッコリ。

スピード感に溢れた、アルバム随一のパワー・チューンであります。

第1位「暗闇の爆撃(Eruption)」

短いインストゥルメンタルなれど、この曲ほどリスナーにショックを与えたナンバーはあるまい。

パガニーニの超絶技巧ヴァイオリン・ソロにも匹敵する破壊力を持つ、エディのタッピングをとくと味わってくれ。トリルのスゴさに、悶絶しそうである。

エディの死により、ヴァン・ヘイレンの42年にわたる歴史は唐突に終わりを告げてしまった。

だが、その輝けるサウンドは12枚のオリジナル・アルバムやライブ・アルバム等で、いつまでも聴くことが出来る。

偉大なる爆撃機、ヴァン・ヘイレンよ永遠に。

<独断評価>★★★★☆

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音盤日誌「一日一枚」#396 村田和人「また明日」(ALFA MOON MOON-28003)

2022-12-15 06:29:00 | Weblog
2022年12月15日(木)



#396 村田和人「また明日」(ALFA MOON MOON-28003)

シンガーソングライター、村田和人のデビュー・アルバム。82年リリース。村田本人と余越直によるプロデュース。

2016年、惜しくも62歳という若さでこの世を去った村田の、初々しい歌声が聴けるこのアルバム、おりからの80’sジャパニーズ・シティ・ポップの復興ブームもあって、再び注目が集まっていると聞く。

思えば筆者もこのアルバムのリリース時は、某出版社の入社2年目の若手社員だった。筆者が配属された男性週刊誌の編集部には、毎日のようにレコード会社のプロモーション担当者さんたちが、いま一番売りたいレコードのサンプル盤を持ってきてくれるのだった。

そんな中、アルファムーン・レコードの若手社員Kさんは、出来立ての村田和人のデビュー盤を差し出して、こう言った。

「彼は、山下達郎さんが一番可愛いがっている後輩なんです。アレンジや演奏も山下さんが自らやっているので、ぜひ聴いてみてください」

いただいたLPに針を落とすと、それまでに聴いたことのないような、フレッシュで伸びやかな歌声が流れ出した。

それが「電話しても」だった。作詞・作曲は村田、アレンジは山下。テレキャスターを山下が弾いて録音にも参加している。テンポのいい、ロックンソウル・ナンバー。

その時点では知らなかったのだが、実は筆者が村田の歌声を聴いたのは、それが初めてではなかった。

その2年ほど前、筆者が大学4年の時、就職活動で忙しい合間に、渋谷のヤマハでアマチュア・バンドのインストア・ライブを偶然観たのだが、それが村田が率いる「アーモンド・ロッカ」だった。

アマチュアとはいえ、メジャー・デビューしていないだけで、バンドの音のクォリティは、ほとんどプロと言ってよかった。

カントリー・ロックにハワイアン的なスパイスを加えたサウンド。カリフォルニアの空のように澄み切った声の、ヒゲ面のリードシンガーが、とても印象に残った。

そして、バンドの一番右手で生真面目な表情でテレキャスターを弾くメガネのギタリストがいて、それが現在筆者とも知己である中野新哉さんだった。

そんな不思議な縁があったことを「また明日」を聴いた当時は筆者はまるで知らなかったが、とても耳に馴染む村田和人の作り出すサウンドに、なんともいえぬ懐かしさを覚えたものだ。

歌詞も、恋愛に不器用な、(おそらく山下本人も投影されているであろう)シャイな青年の心情を見事に歌っていて、恋愛下手な当時の筆者もいたく共感したのを覚えている。

「WHISKY BOY」はそんな奥手な青年を代弁して、山下夫人となって間もない竹内まりやが作詞したナンバー。作曲は小野敏と村田、編曲は鈴木茂である。ちょっとオールド・タイミーなジャズっぽいアレンジ、コーラスがマッチしている。

それにしても、アレンジャーが複数、それも有名な山下と鈴木とは、新人としては豪華過ぎジャマイカ。

「想いは風に」は作詞・作曲が村田、編曲鈴木の、軽やかなテンポのポップ・ロック。

透明感あふれるサウンドにのせた、ポジティブな恋の讃歌。アーモンド・ロッカでもよく聴かれた、メロディアスなギター・ソロがいい。

「LADY SEPTEMBER」は個人的に好きなナンバーのひとつだ。パラシュート、AB’Sのキーボーディスト、安藤芳彦が作詞し、作曲は村田、編曲は山下。きめ細かなバッキング、コーラス、音響処理、どれをとっても正調ヤマタツ・サウンドだ。

切ない歌詞、そして情感たっぷりに歌う村田。ラブ・ソングとして、これ以上の完成度は望めないくらい。

「MARLAS」はA面ラスト、安藤作詞、村田作曲、鈴木編曲の、しっとりとしたラテン調のバラード。一日の最後を締めくくるにふさわしい、夢を見るように美しいナンバーだ。

B面トップは一転、ロックな村田が登場する。「GREYHOUND BOOGIE」だ。

作詞は新井正春、作曲は村田、編曲は山下。これはアーモンド・ロッカ時代から演奏していたナンバー。ついでに言うと「電話しても」も、同様である。

サザン・ロック風の、オールマンっぽいスライド・ギターを大きくフィーチャーしたサウンドがなんともカッコよい。

山下本人は滅多にこういうアレンジを自作にはしないけれど、実に達者にそれっぽくまとめている。脱帽である。

「波まかせ風まかせ」は村田自身によるデキシーランド・ジャズ風のアレンジがノスタルジックなナンバー。作詞は新井、作曲は村田。

オール・アメリカン・ミュージックのいいとこどり、みたいな心なごむ一曲である。なお、アルバムのラストには、歌詞抜き、コーラスのみのリプライズが加えられている。

「BE WITH YOU」も筆者のフェイバリット・ナンバーだ。安藤作詞、村田作曲、そしてなんとこの一曲だけだが、井上鑑が編曲!

なんと、3人目のアレンジャー登場である。ゴージャス過ぎるだろ(笑)。

このアレンジも最高だ。ラテン・テイストあふれるフュージョン・サウンドに、男女コーラス。

ハッピー・エンドな歌詞内容も、この曲が好きな理由。人生片思い、失恋ばかりじゃ、悲し過ぎるからね。

「終らない夏」は安藤作詞、村田作曲、鈴木編曲の、「夏男」「海男」村田のテーマ・ソングとも言える一曲。

全編を通して聴かれる、鈴木茂の大きくうねるようなギター・プレイがまことに素晴らしい。特にツイン・リードでキメるあたり、鳥肌ものである。

村田和人の恋愛観というよりは、ライフスタイルそのものを歌い上げたナンバー。

本当にナイス・ガイだった、村田という男は。

このアルバムの発売後1年を経て、筆者は村田和人と直に出会い、話を交わすことになる。

アーモンド・ロッカ時代のことも、その時に聞いた話である。

が、そういった話題はまた、日を改めて語ることにしよう。

いまはこの、デビュー盤を何度も聴き返して、村田のことを偲びたい。

<独断評価>★★★★☆

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音盤日誌「一日一枚」#395 JOHNNY WINTER「JOHNNY WINTER 」(Columbia CK 9826)

2022-12-14 06:15:00 | Weblog
2022年12月14日(水)



#395 JOHNNY WINTER「JOHNNY WINTER 」(Columbia CK 9826)

ギタリスト、ジョニー・ウィンターのコロムビアでのデビュー・アルバム。69年リリース。彼自身によるプロデュース。

68年に初レコーディングした自主制作盤「ザ・プログレッシヴ・ブルーズ・エクスペリメント」が認められて、ウィンターはCBSと契約する。

その契約金が、当時の金額で数十万ドルと破格であったことから「100万ドルのギタリスト」という呼び名がついた。ま、売り上げの期待値込みのネーミングだな(笑)。

完全したデビュー盤は、さすがにそれだけのセールスは出せなかったが、全米24位とブルース系のロック・ミュージシャンとしては、なかなかの成果を上げることが出来た。

オープニングの「アイム・ユアーズ・アンド・アイム・ハーズ」はウィンターのオリジナルのブルース・ロック。

バックはベースのトミー・シャノン、ドラムのアンクル・ジョン・ターナーという前作以来のメンツだ。

この曲、一聴して既聴感を覚えたリスナーも、けっこういるだろう。

それもそのはず、アルバムを発表して数か月後、ブライアン・ジョーンズ追悼コンサートを英国ロンドンのハイド・パークで開いたローリング・ストーンズが、オープニングに選んだ曲がこれだった。

その時はリハーサル不足のせいかグダグダで、ちょっと残念な演奏だったが、ダブル・スライド・ギターという編成が妙にカッコよかったのを筆者も覚えている。

オリジナル・バージョンのこちらも、ウィンターの多重録音によるスライド・プレイが、なんともスリリングだ。

「ビー・ケアフル・ウィズ・ア・フール」はB・B・キング作のスロー・ブルース。前曲同様トリオ編成でロックっぽいアレンジ。

この曲では、ウィンターのウリである超・超・速弾きを前面に押し出している。

ウィンターのギター・プレイは、基本的に「間」「タメ」を置かず、矢継ぎばやにフレーズを繰り出すタイプ。

彼はこのハンパないスピード感で、当時の全米リスナーの度肝を抜いたのである。

50年以上経った現在聴くと「プロならフツーじゃね?」というレベルのスピードだけど、そこはまあ、時代というものっしょ。

「ダラス」はウィンターのオリジナル。リゾネーターを使った、スライド弾き語りのナンバー。

ジョン・F・ケネディ大統領暗殺の悲劇を題材にしたブルースだ。

純正デルタ・ブルースのスタイルで弾き、ガナるように歌うウィンター。実にシブいっす。

「ミーン・ミストリーター」はマディ・ウォーターズでおなじみのブルース・ナンバー。歌詞はマディ版からだいぶん改変を加えている。

マディ・ウォーターズはB Bと同じく、ウィンターが最も敬愛するブルースマンのひとりである。絶対外せない一曲だったといえる。

この曲には、ふたりのビッグなブルースマンがゲスト参加している。

ウッドベースのウィリー・ディクスン、そしてハープのビッグ・ウォルターである。

この重鎮たちが加わることで、サウンドは見事にオーセンティックなブルースにまとまる。ホンモノの出す音の威力、恐るべし。

ウィンターの歌もギターも、テクニック以上にブルースな雰囲気がある。「ブルースは黒人に限る」と主張する頑固なファンにも、「白人だけど、ちょっとやるじゃん」と思わせてしまう出来ばえだ。

「レランド・ミシシッピー・ブルース」は、ウィンターのオリジナル。当時のフリートウッド・マックあたりにも共通した感触を持つ、ワイルドなブルース・ロック・ナンバー。

うねるようなギター・プレイが迫力満点。さすがウィンターである。

「リトル・スクール・ガール」は戦前活躍したブルースマン、サニー・ボーイ・ウィリアムスン一世の作品。ジュニア・ウェルズのカバーでも知られている。

だが、ウィンターは時代の近いウェルズのタイプのアレンジはあえて選ばず、本来のツービートを活かしたオーソドックスなブルースに料理している。

サウンドのいいアクセントになっているのが、バックのホーン・セクション。そのうちアルト・サックスは、ウィンターの実弟エドガーである。

「いい友だちがいるならば 」は原題が「When You Got a Good Friend」。ご存知、ロバート・ジョンスン作のブルースである。

エリック・クラプトンがクリームで「クロスロード」を取り上げて以来、白人ロック・ミュージシャンがロバジョンの曲を演奏することが増えて来た。

ストーンズが「レット・イット・ブリード」で「むなしき愛」を取り上げたように、ウィンターもこの曲でジョンスンへの敬意を表明した。

再びリゾネーターを弾き、オリジナルに極めて近いデルタ・スタイルのサウンドを聴かせてくれる。

前曲もそうであるが、ウィンターは、時代の古い曲は現代風にアレンジするよりは、オリジナルのスタイルに近づけるほうが、その曲本来の良さを出せると考えているようだ。

故に自作曲のアレンジとカバーのアレンジは、おのずと違って来る。

ウィンターのブルースに関する、意外と保守的なポリシーが汲み取れるナンバーだ。

「アイル・ドラウン・イン・マイ・オウン・ティアーズ」は、このアルバムの中ではちょっと毛色の変わったバラード・ナンバー。

トランペッターにして作曲家のヘンリー・グローバーによるヒット曲で、レイ・チャールズをはじめ、アレサ・フランクリン、エタ・ジェイムズらによって歌われている。

このセンチメンタルで、なかなか難しいバラード曲を、ウィンターはわりとすんなり自分のものにしている。

いつものガナりスタイルだけではない、思い入れたっぷりな歌いぶりが味わえる一曲。バックのホーン、そして女声コーラスもご機嫌だ。

そしてこの曲でも、弟エドガーが得意のピアノで参加して、兄を盛り立てている。エドガー、グッジョブ!である。

ラストの「バック・ドア・フレンド」はテキサス・ブルースマンとしてはウィンターの大先輩にあたるライトニン・ホプキンスの作品。

オリジナルは弾き語りアレンジだが、ここでは自分のバンドをバックに、スライド・ギター、そして自身のハープも披露して、ダウンホームなバンド・サウンドを作り上げている。

ライトニン・ホプキンスの持つ、アーシーな匂いを損なわずに、ディープなブルースを紡ぐウィンター。

オリジネーターへの深い尊敬なくしては、こういう音は出せるものではないね。

センセーショナルな話題だけではない、ホンモノの音楽がそこにある。乞う一聴。

<独断評価>★★★★

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音盤日誌「一日一枚」#394 レベッカ「ワイルド&ハニー」(CBSソニー/Fitzbeat 33DH 234)

2022-12-13 05:00:00 | Weblog
2022年12月13日(火)



#394 レベッカ「ワイルド&ハニー」(CBSソニー/Fitzbeat 33DH 234)

ロック・バンド、レベッカのサード・アルバム。85年リリース。稲垣博司、後藤次利によるプロデュース。

レベッカはギタリストの木暮武彦が中心となって82年、埼玉にて結成。83年にFitzbeatレーベルのオーディションに合格、84年にシングル「ウェラム・ボートクラブ」でデビュー。

アルバムを2枚出した頃までは、ヒット曲もなくマイナーなバンドのひとつに過ぎなかったが、本アルバムからの先行シングル「ラブ イズ Cash」がヒット、勢いでアルバムもオリコン6位となり、一躍注目を浴びるようになる。

筆者も当時、テレビの歌番組で初めてレベッカのパフォーマンス(曲はもちろん「ラブ イズ Cash」)を見て、俄然彼らが気になる存在になった。

理由はシンプル。リード・ボーカルの女のコが、メチャクチャ可愛かった、それに尽きた(笑)。

サウンドとか、メロディとか、歌詞とかどうこう言う以前に、フロントのコが可愛いかどうか、それだけでした。

まことにミーハーですみません(笑)。

要するに、リードボーカルのNOKKOが出て歌うだけで「つかみはOK」だったのデス。

そして、この出世曲がブレイクしたのには、NOKKOのルックスやコケティッシュなファッション(特に髪飾りのリボンやウルトラミニなスカートだな)以外にも、明確な理由がひとつあった。

それは、あからさまなまでの「マドンナ」へのトリビュートの姿勢であった。

底意地の悪い言い方をすると「パクり」と言われても仕方ないくらいの寄せ方だったのである。

言わなくとも皆さまにはお分かりかと思うが、元ネタは「マテリアル・ガール」。マドンナの84〜85年の大ヒット。全米2位である。

この最新ヒット曲の音楽的なスタイルをほぼ完璧に模倣、ただし歌詞はNOKKOのセンスにまかせており、マドンナの曲とは違って自由な恋愛への讃歌みたいになっている。

「あー、これ完全に狙っているだろ」と、当時の洋楽ファンなら誰しも感じたはずだ。

でも、それを不思議と「許せない」とは思えなかったのは、NOKKOが可愛いかったからだろうな。

「可愛い」はいつの世でも「正義」なんである。

ともあれ、このシングル、アルバムのヒットによって、レベッカは80年代のトップ・バンドのひとつとなるための礎を築いたと言える。

さて、アルバムの内容を久しぶりにチェックしていくと「ラブ イズ Cash」以外にも実はシングルにふさわしい、むしろこちらをシングルカットすべきだったのではないかという曲が存在する。

それは「ラブ パッション」である。

明るい曲調の「ラブ イズ Cash」に比べて影のあるマイナー調なれど、よく練られたメロディやリフ、メリハリの利いたアレンジ、そしてなんといってもダイナミックな歌声と、シングルにしないのがもったいないくらいの佳曲なのだ。

たぶん、シングル化すれば、後の「フレンズ」に匹敵するヒットになったという気がする。

実際、この曲は現在に至るまでファンの人気は高く、カラオケでもシングル曲同様によく歌われているそうだから、隠れヒットと言える。

「なぜ、ラブパで勝負しなかったのか」

これを考えることは、レベッカの「売れるロック・バンド戦略」を知ることになる。

もともとは、木暮武彦が「華のあるNOKKOと組めば、天下を取れる」とふんだからこそ、レベッカはスタートした。

ムサい男が4、5人寄り集まっただけじゃ、いかに音楽性が高かろうがダメ、華のないバンドが売れるわけがないとふんだのは、まことに正しい。

だが、その木暮にもどこか「バンドは売れて欲しいが、オレも目立ちたい」という自己顕示欲があった。

「カッコよくギターを弾くオレも見てくれ」という思いがあると、どうしても主役であるシンガーを「立てる」ということが出来なくなる。

アルバム2枚をリリースして、リーダー、作曲者、実質的なプロデューサー役の座を降りてしまったのも、自分の我をある程度おさえて、NOKKOを売るための戦略に徹することに疲れたからだと推測出来る。

代わりに彼の後任を引き受けたのは、キーボードの土橋安騎夫だ。

彼はレベッカのプロデビューに際して追加で加入したメンバー、いわば中途採用組。

オリジナル・メンバーほどの気負いもなく、あくまでもバンドの歯車、一部品として、やるべきことをやるだけ。

そういう「実務家」的な姿勢を、土橋はとることができた。

バンドが売れるためには、何をやるべきか。そして、それをどういう手順でやるべきか。

その辺を、新リーダーとなった土橋は実に的確に判断していく。

まずは、レベッカ=NOKKOのバンドであることを世間の人々に知ってもらうために、彼女のビジュアル的な魅力を最も効果的に訴求できる、「名刺代わりの一曲」を出すことにした。そういうことだと思う。

最新ヒット曲の「モロパク」というあざといやり方も、おそらく確信犯なのだ。

「マドンナじゃん、あれ。でもマドンナより可愛いよな」とミーちゃん、ハーちゃんたちにネタにされることも、当然折り込み済みだったと思う。

そうやって、男ならNOKKOガチ恋勢、女ならマドンナワナビーならぬNOKKOワナビーを、瞬く間に増やしていき、まずはミーハー層、先物買いが好きな層の取り込みに成功する。

名刺渡しに成功し、知名度を上げたそのあとは、もっと一般的な層にウケる曲を、地道に作っていけばいい。

NOKKOの実力ならば、いつでも勝負をかけられるから、知名度の低い現在、一番音楽性の高い曲を投入しようなどと焦る必要はないと考えた。

だがらこそ、「ラブ パッション」ではなく、「ラブ イズ Cash」だったのである。

「勝負」の時は意外と早く、約半年後にやって来る。

テレビドラマ「ハーフポテトな俺たち」のオープニング、エンディング主題歌として、「ガールズ ブラボー!」「フレンズ」が使われたことで、レベッカは一気にトップ・バンドへと躍進したのである。

この2曲の両面ヒット、そしてまもなくリリースされた5枚目のアルバム「REBECCA IV 〜Maybe Tomorrow〜」の大ヒットは、皆さん記憶に残っていることだろう。

今回、シングルのA面だったのは、メジャー調の「ガールズ ブラボー」ではなく、「フレンズ」だった。

レベッカ、そしてNOKKOの真骨頂は、明るいナンバーよりも哀感のあるマイナー調の曲をしっかりと歌い上げる歌唱力にあると考えたからこそ、こういうディレクションになったのだと思う。

ロック・バンドというサウンド・カテゴリには入るものの、ポピュラリティは常に意識して、どうすれば売れるかを考えていく。

レベッカはそういう、セールスのための戦略をきちんととることが出来た、数少ないロック・バンドだったと思う。

当時日本のロックはギター・サウンドが主流ではあったが、いわゆるテクノ・ポップ、英米でいうところのエレクトロ・ポップを基本にしたのが、レベッカ。

大物のクラフトワーク、YMOだけでなく、ヒューマン・リーグ、ウルトラ・ヴォックス、ユーリズミックスなど当時最新のバンドのサウンドも導入しながらも、決してマニアックな方向に流れず、一般リスナーにも受け入れやすいロックを生み出していったレベッカ。

男性ファンだけでなく、その自由で綺麗ごととは無縁の歌詞に共感する女性ファンも多かったことで、ファン層も極めて厚かった。

現在、さまざまなかたちに発展を遂げたガール・ポップの源流とも言えるそのサウンド、もう一度たどってみてはいかがだろうか。

洋楽ファンなら、いろいろとネタ元を探して楽しめる一枚だと思うよ。

<独断評価>★★★★

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音盤日誌「一日一枚」#393 CHUCK BERRY「The EP Collection」(See For Miles SEECD 320)

2022-12-12 05:24:00 | Weblog
2022年12月12日(月)



#393 CHUCK BERRY「The EP Collection」(See For Miles SEECD 320)

チャック・ベリーのシングル・ベスト・アルバム。97年リリース。

ベリーについては過去、ロンドンのセッション・アルバムを取り上げたが、彼が一番活躍していた頃の様子については触れずじまいだったので、今回は黄金期のヒット曲群にフォーカスを当ててみたい。

ベリーについて、くだくだしい紹介は不要だと思うが、若いリスナーも読んでおられるかもしれないので、一言でまとめさせていただこう。

ビートルズも、ストーンズも、ビーチ・ボーイズも、みんなチャック・ベリーというオジサンの生み出す音楽に夢中だった。

だから、白人ロックはチャック・ベリーなしには生まれなかったとゆーこと。

このベスト盤に収められた曲、ひとつひとつが彼らロック少年たちをインスパイアし、彼らの生んだ名曲のみなもとになったとのである。

チャック・ベリーがヒットチャートに初登場したのは1955年。彼が29歳となる年だった。かなり遅咲きな出発である。

曲は「メイベリーン」。彼はこのデビュー曲でいきなり全米5位を獲得した。とんでもない快挙である。

このヒットの背景には、こんなエピソードがある。

ジョニー・ジョーンズというピアニストのバンドに加わり、そのトリッキーな演奏ぶりで大ウケを取っていたベリーのステージを、かのマディ・ウォーターズが見ていて、ベリーを自分の所属するチェス・レコードに紹介したというのだ。

つまり、マディがいてこそベリーはレコードデビューを果たせたわけで、ひとの運命には出会いがいかに重要かがよく分かる。

同55年には「サーティ・デイズ」でR&Bチャート2位の小ヒット、そして翌年には「ロール・オーバー・ベートーベン」で全米29位、R&B2位のクリーン・ヒット。

この一曲で、米国だけでなく英国の若者たちをもとりこにし、後のビートルズによるカバーにもつながったわけだ。

同じく56年には、のちに「カム・トゥゲザー」の盗作問題でビートルズのジョン・レノンともめることになる「ユー・キャント・キャッチ・ミー」をリリースしている。

57年の大ヒットは全米3位の「スクール・デイ」。学生時代という意味ではなく、授業のある日という意味ね。

同年にはもう一曲、「ロックン・ロール・ミュージック」が全米8位のヒット。

ビートルズも、ビーチ・ボーイズもカバーしている、ロックのクラシック、スタンダードとも言える名曲だ。

58年には「スウィート・リトル・シクスティーン」が全米2位の大ヒット。

この曲はビーチ・ボーイズの「サーフィン・USA」の元ネタとなったことでも有名である。

そして同年、ベリーのギターを掻き鳴らしながら歌うという、ロックンローラーとしてのイメージを決定づけた名曲が生まれる。

「ジョニー・B・グッド」である。。

こちらは全米8位。その後、黒人白人を問わずさまざまなアーティストにカバーされるようになる。

代表例としては、ビートルズ、ビーチ・ボーイズ、エルヴィス・プレスリー、エアロスミス、ジミ・ヘンドリクス、ジョニー・ウィンターなどなど。

ジューダス・プリースト、セックス・ピストルズ、プリンス、グリーン・デイといった後代の、およそベリーのイメージと結びつかないバンドにまで取り上げられたのだから、「ロックの父」と呼ばれるのもむべなるかな。

なお、60年にはそのアンサー・ソングとも言える「バイ・バイ・ジョニー」もリリースしており、こちらはストーンズのカバーでも知られている。

59年以後は、ロックンロールのブーム自体が退潮気味ということもあって、チャート上位にはなかなか入らなくなる。

また、ベリー自身が援交的な犯罪のかどで服役するというトラブルが起きたのも痛かった。

そんな中で少し目立ったのは60年の「バック・イン・ザ・USA」「メンフィス・テネシー」の両面ヒットだろう。

前者はビートルズのパロディ・カバー「バック・イン・ザ・USSR」、後者はフェイセズのカバーで有名だ。

64年は、小ヒットの年。「ネイディーン」「ノー・パティキュラー・プレイス・トゥ・ゴー」「ユー・ネヴァー・キャン・テル」の3曲がトップ30以内に食い込んでいる(最高は「ノー・パティキュラー〜」の全米10位)。

そんな感じで、55年から58年までの約4年間くらいがチャック・ベリーの全盛期だったわけだが、もちろん大ヒット曲以外にもいかにも彼らしい小味な佳曲が、本盤にはたっぷりと詰まっている。

例えば、「チャイルドフッド・スウィートハート」は、いわゆるブルーム調のブルースだが、エルモアのようなヘビーなサウンドとは違って、ベリーなりに軽く明るい曲に仕上がっている。

「ザ・シングズ・ザット・アイ・ユーストゥ・ドゥ」はギター・スリムのナンバー。ルイジアナ・ブルースの大ヒットをカバーしているわけだが、ベリーの陽性の歌声、そして非ブルース的なメジャー調のギター・フレーズが意外とマッチしている。

「アイム・ゴット・ア・ブッキング」は「キー・トゥ・ザ・バイウェイ」の異名同曲。こちらも、ブルースというよりはカントリー・ロック風味だ。

ベリーはもともとはブルース畑の人ではあったが、それまでの型にハマったブルース、黒人限定の閉じられたサークルのブルースにあきたらず、人種や民族を超えたものに変えていく試みを続けた人なのだと思う。

黒人だが黒人ぽくない声、歌い方、そしてギター・スタイル。

これらによって、ブルースは次第に変質し、解体されていった。

そして、60年代には海を超えてヨーロッパの白人の若者たちに自分の志を継がせる。

一過性の流行りものだったはずのロックンロールは、より普遍的なロックとして甦ったのである。

チャック・ベリーの強烈なオリジナリティを堪能できる一枚。

50年代の半ばにこの音を聴いた人々の衝撃は、とんでもないものだったはず。

10代のジョン・レノンになったつもりで、いま一度、そのサウンドにハマってみて欲しい。

<独断評価>★★★★☆

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音盤日誌「一日一枚」#392 HOWLIN’ WOLF「Change My Way」(MCA/Chess CHD 93001)

2022-12-11 05:22:00 | Weblog
2022年12月11日(日)



#392 HOWLIN’ WOLF「Change My Way」(MCA/Chess CHD 93001)

ハウリン・ウルフのコンピレーション・アルバム。75年リリース。

ウルフの、58年から66年に至る、チェスでレコーディングされた15曲を集めた編集盤である。レナード・チェス、フィル・チェス、ウィリー・ディクスンによるプロデュース。

ウルフ・ファン、そしてヒューバート・サムリンのファンにとって、聴き逃すことの出来ない音源で満載の一枚だ。

ハウリン・ウルフの曲は、いくつかの類型に分けられると思う。

数としてけっこう多いのがワン・コードで延々とリフを繰り返すタイプ。

オープニングの「Mr. Airplane Man」(59年)はそのタイプの典型で、おなじみのハウリン・ボイスが聴ける。

歌うというよりも語り、吠え、唸るスタイル。

ウルフ、ここにあり。62年の「Do The Do」も、このジャンルだ。

続いて多いのはミディアム・シャッフルの16小節ブルース。

「Love Me Darlin’」はその代表例だが、ここでのサムリンのプレイが実にイカしている。

伝統的なブルース・ギターのフォーマットにこだわらない奔放な音の選び方は、キース・リチャーズをはじめ、当時の多くのギター・キッズを魅力したものだ。

「I Better Go Now」「New Crawlin’ King Snake」 「I’ve Been Abused」も同系統のナンバー。

これらの曲でもサムリンの、独特のタッチが印象的だ。

一般的にブルース・ギターは長いサステインを狙うのだが、サムリンは細めのゲージの弦を使って、一種シタールのような音の減衰を狙っている。

まさに、ワンアンドオンリーなスタイルだな。

一方、ゆったりとしたスロー・ブルースも、ウルフお得意のスタイルだ。

59年の「Change My Way」や58年の「Howlin’ Blues」は、彼のハープをフィーチャーしたナンバー。

心にしみるブロウを、とくと味わわれたし。

60年代に入ると、シャッフルに代わってエイト・ビートのナンバーが増えて来る。

例えば65年の「Don’t Laugh At Me」がそうだ。64年の「Killing Floor」以降は、エイトなノリが増えていく。

シャッフルがベースでも、アレンジを加えて、新感覚のビートを生み出す、そんな試みもある。

例えば62年の「I Aint Superstitious」(迷信嫌い)は、白人ロックバンドにも大きく影響を与えた一曲だ。

第一期ジェフ・ベック・グループでのカバー・バージョンがあまりにも有名だが、元ネタもぜひ聴いて欲しい。

シンプルなギターリフの繰り返しが耳にこびりついて離れない、麻薬的な一曲だ。

ラストの「Hidden Charms」(63年)は、一風変わったビートのナンバー。オリジナルはチャールズ・クラークとウィリー・ディクスン・バンドによって58年に録音されている。

原曲はシンプルなシャッフルだが、これをモダンにアレンジして、ギターとサックスのリフによりアクセントを付けている。

60年代はブルース界にも他ジャンル(ロック、ラテンなど)の影響が押し寄せて来て、ビートも次第に複雑化していくが、この曲もその過程を示した一例なのではないだろうか。

白人のロックにも多大な影響を与えたふたりの巨人、ウルフとサムリンのブルース新時代に向けた模索が、この一枚にある。

ロックファンにこそ、聴いて欲しい。

<独断評価>★★★★

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音盤日誌「一日一枚」#391 THREE DOG NIGHT「That Ain’t The Way To Have Fun」(Connoisseur VSOP CD 211)

2022-12-10 05:22:00 | Weblog
2022年12月10日(土)



#391 THREE DOG NIGHT「That Ain’t The Way To Have Fun / Greatest Hits」(Connoisseur VSOP CD 211)

米国のロック・バンド、スリー・ドッグ・ナイトのベスト・アルバム。

スリー・ドッグ・ナイト(以下3DNと略)は67年結成、68年シングル「ノーバディ」にてデビュー。

ダニー・ハットン、チャック・ネグロン、コリー・ウェルズという3人のシンガーを軸に、4人のミュージシャンが加わった7人編成。

3人のシンガーはそれぞれリードボーカルを取れるだけの実力を持ちながらも、コーラス、ハーモニーでも最強の力を発揮出来る、強者たちであった。

3DNには他のバンドとは大きく異なる特徴が、ひとつあった。

それは、基本的には自分たちが作曲するのではなく、過去の曲のカバー、あるいは新進のシンガーソングライターの曲のカバー、さらにはそういったライターたちへの依頼、といったかたちでレパートリーを形成していたということだ。

昨日取り上げなエルトン・ジョンも、そういった紹介で世間に名前が広まったアーティストのひとりで、「僕の歌は君の歌」が、本人のシングルリリース以前にカバーされている。

たまには、自分たちでオリジナル曲を作ることもあるが、それはあくまでも「余技」の域を出ず、基本は他のアーティストの曲を演ることがポリシーであった。

この方針を取ることによって、3DNは実にさまざまなアーティストの、バラエティに満ちた曲を次々と世に送り出すことが可能になったのである。

実際、ハリー・ニルソンのカバーであるシングル「ワン」を69年にヒット(全米5位)させてからの進撃ぶりはめざましかった。

ランディ・ニューマンの曲「ママ・トールド・ミー」(70年)、トミー・ケイらによる「ワン・マン・バンド」(同)、そして何といっても71年のホイト・アクストンの曲「喜びの世界」の大ヒットだろう。全米1位のゴールド・レコード。

この一曲で、3DNは全世界に名を轟かしたと言っていい。日本でも人気に火がついて来た。

そして、とどめは71年、ボール・ウィリアムスの曲「オールド・ファッション・ラブ・ソング」のヒットかな。

「喜びの世界」がちょっと子供向けの作風だったのに対して、繊細で高い音楽性を持っており、より広範囲のファンを獲得した一曲であった。

このヒットのおかげで、オリジナルのウィリアムス版もヒットするというオマケまで付いた。

74年のヒット「ショウ・マスト・ゴー・オン」もまた、原作者レオ・セイヤーにスポットが当たるきっかけとなった。

こういうふうに、3DN自らのヒット→オリジネーターのブレイクという「シナジー効果」が生まれており、ヒット連発、彼らの隆盛もこのままずっと続くと思われていた。

が、好事魔多し、75年にネグロンがコカイン不法所持のかどで逮捕されて以来、バンド内の人間関係が悪化し、76年にハットン脱退、そして解散という最悪の道を辿ってしまったのである。

せっかく全世界的バンドになりながら、あっけない最期であった。

その後、81年に再結成を果たしたものの、ネグロンが解雇され、残りふたりのオリジナル・ボーカルで続けていくかたちになった。

そして、再開してからは過去のようなヒットは出せなくなった。

やはり、もはやバンドとしての「旬」を過ぎてしまったということかな。悲しい話だが。

2015年にキーボードのジミー・グリーンスプーン、そしてウェルズが相次いで亡くなった。

現在の3DNは、ハットンを中心に、ライブ活動を続けているという。

山あり谷ありの3DNだったが、それでも全盛期の記録であるこのCDを聴けば、いかにスゴい集団であったかが、よく分かるだろう。

3DNはロック、フォークなどさまざまな音楽的要素を包含したバンドではあるが、筆者が思うに、本質的には「ブルーアイドソウル」のバンドなのだ。

一曲目、コリー・ウェルズのソロによるオーティス・レディングのカバー「トライ・ア・リトル・テンダーネス」を聴けばいい。

イケメンの白人男性が歌っているとは到底思えない、真っ黒けなボーカル。

やっぱ、これがこのバンドの真骨頂でしょ。

そのソウルな世界から離れてしまうと、それはもう、3DNではないとさえ思う。

アメリカのどの小さな町にもひとつはありそうな、白人ソウルバンド。

幾千ものローカル・バンド。そのあまたある中で、最高のサウンドを提供してくれたのが、スリー・ドッグ・ナイト。

そう思うようにしている。

ヒット・メーカーとしての彼ら以上に、そんな「ジャスト・アナザー」なソウル・バンドを、筆者は今もこよなく愛しているのだ。

<独断評価>★★★★★

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音盤日誌「一日一枚」#390 ELTON JOHN「Greatest Hits」(Polydor 314 512532-2)

2022-12-09 06:09:00 | Weblog
2022年12月9日(金)



#390 ELTON JOHN「Greatest Hits」(Polydor 314 512532-2)

シンガーソングライター、エルトン・ジョンのベスト・アルバム。74年リリース。

エルトンは1969年、22歳の時にアルバム「エンプティ・スカイ」でデビュー。

翌70年、セカンド・アルバムよりシングル・カットされた「僕の歌は君の歌」が米国でヒット、日本でもその後チャートの常連となり、彼のスターへの道が始まった。

本アルバムはデビュー以来、74年までの約5年間のヒットを網羅したベスト盤だ。

【個人的ベストファイブ・5位】

「土曜の夜は僕の生きがい」

73年10月、エルトンは自身の最大のヒットとなるオリジナル・アルバム「黄昏のレンガ路」(全英・全米ともに1位)をリリースするが、これに先立つ6月に先行シングルとして発表された一曲。

エルトンとしては異例の、エレクトリック・ギター・サウンドを前面に押し出した、当時ロックの王者であったローリング・ストーンズの向こうを張るような、バリバリのロックンロール・ナンバーだ。

エルトンの「バラード・シンガー」という従来のイメージを塗り替えて「ロック・スター」へと脱皮させた、画期的なヒット・ナンバー。

シャウトし、ピアノを弾きまくるエルトンが文句なしにカッコいい。

【個人的ベストファイブ・4位】

「ダニエル」

日本でも人気が高まって来た73年にリリースされたアルバム「ピアニストを撃つな!」よりシングル・カットされたバラード・ナンバー。

その歌詞はいろいろと解釈されているが、作詞者のバーニー・トーピン自身のコメントによれば、ベトナム戦争で戦い、故郷の町に帰って来た米軍兵士の、周囲の反応と本人の思いの落差を描き、元兵士の心の痛みを思いやった歌だそうである。

ベトナム戦争終結期という時代を反映した内容に、じんわりと涙が湧いて来る一曲だ。

しんみり、でもほのぼのとした味わいがある。

当時はまだポピュラー・ソングでもあまり使われていなかったフェンダー・ローズ(エレピ)の柔らかなサウンドが、実に効果的に使われている。

これがアコースティック・ピアノだと、全く印象が違っていたはず。

ビリー・ジョエルの「素顔のままで」と並ぶ、エレクトリック・ピアノを使った二大名曲と言えそうだ。

【個人的ベストファイブ・3位】

「ホンキー・キャット」

72年、パリ録音のアルバム「ホンキー・シャトー」からシングル・カットされたナンバー。

74年の来日公演時には、エルトンはネコの着ぐるみ姿で、この曲をおどけて演奏していたという記憶がある。

昔、この曲を聴いた時は、正直言って特に魅力を感じなかった。

しかし、時を経て改めて聴いてみると、新たな発見があったりする。

この「ホンキー・キャット」は、エルトンの南部アメリカ、それもニューオリンズへの憧れを凝縮した一曲なのだ。

当時の筆者は、ガチガチのハード・ロック派だったので、アメリカン・ロックにほとんど興味がなかった。バンドとか、ドクター・ジョン、リトル・フィートと言ったアーティストに関心を持つのは、70年代後半に入ってからだった。

だから、「ホンキー・キャット」のニューオリンズR&B、ファンクなノリにも「ポカーン?」だったのだ。

今思えば、もったいなかった。その元ネタを辿って、アメリカン・ロックにもっと早く開眼していたであろうに。

ま、当時中坊の筆者、まだまだ音楽に関しての視野は狭かったってことやな。

というわけで、昔は魅力的に思えなかった音楽も、聴く耳が成長すれば、違って見えてくるというお話でした。

【個人的ベストファイブ・2位】

「クロコダイル・ロック」

73年のアルバム「ピアニストを撃つな!」から先行カットされ、72年10月にリリース、ヒットしたシングル。

このオールディーズ風の一曲で、エルトンはある先輩シンガーへのリスペクトをはっきりと打ち出している。

その名は、ニール・セダカ。60年代に大人気だった米国のシンガーソングライターのはしりのような人だ。

それまではわりとしっとりとした、少し陰鬱な曲風が多かったエルトンがいきなり陽キャに変身、セダカの明るく、軽く、ポップな作風をトリビュートしたものだから、実に新鮮だった。

エルトンがシンガーソングライターから、ロッカーへと芸風を広げた一曲と言える。

その後73年にリリースする「土曜の夜は僕の生きがい」も、この曲が前フリだったという気がする。

そして、曲のヒットから2年以上を経て、ついにエルトンはセダカとの共演を果たす。

75年のヒット曲「バッド・ブラッド」である。

この曲は、ニューオリンズ・サウンドの粋、セカンド・ラインをフィーチャーしており、その圧倒的なノリの良さに、当時セカンド・ラインのセの字も知らない筆者(高校3年)も、身体を動かして楽しんでいた。

こういうふうに見ていくと、エルトンは70年代、まだまだ音楽に無知であった筆者にとって、水先案内人の役割を果たしてくれていたんだなぁと感じる。

【個人的ベストファイブ・1位】

正直言って、このベストファイブを決めるのは難しかった。

とにかく、いい曲が多すぎるのだ。選外にしてしまった曲にも、名曲がいっぱいある。例えば「ベニーとジェッツ」「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」「ロケット・マン」「風の中の火のように」「僕の瞳に小さな太陽」「人生の壁」……、って要するに残りの曲全部じゃねえか!

ま、そう言ったバラード系のナンバー全体を代表する一曲として、これを挙げよう。

「僕の歌は君の歌」

エルトンにとって最初のスマッシュ・ヒットであり、71年の初来日公演でも歌われた代表的ナンバー。

初期エルトンの、まだちょっと陰キャな個性がむしろ好感が持てる、バラードの佳曲。カバーしたアーティストも数多い。

歌詞は単なる友情を描いているようでもあり、男女間の愛情を描いているようでもある。

でもエルトンと作詞のトーピンの関係を知れば、同性間の恋愛感情を描いているとも言える。

筆者としては、聴く者がそれぞれの感性で解釈すればいいのだと思っておりますが。

この曲でのエルトンの少し高めで哀感を帯びた歌声、これは本当に素晴らしい。

おそらく、他の歌い手ではこの独特の味は出せまい。

天賦の美質とは、こういうものだと思いますね、ハイ。

もともとはシングルのB面扱いだったそうだが、ラジオディスクジョッキーたちの好みはA面の「パイロットにつれていってて」よりも圧倒的にこの曲だったことで、こちらがヒットに至ったという。

彼らの鑑定眼の確かさに、感服である。

以上、ハズレ曲は一切なし。初期エルトン・ジョンの才能が満ち溢れた一枚であり、そして筆者にとっては青春の一枚でもある。オススメ。 

<独断評価>★★★★★

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音盤日誌「一日一枚」#389 KING CRIMSON「クリムゾン・キングの宮殿」(WHD Entertainment IECP-50001)

2022-12-08 06:11:00 | Weblog
2022年12月8日(木)



#389 KING CRIMSON「クリムゾン・キングの宮殿」(WHD Entertainment IECP-50001)

英国のロック・バンド、キング・クリムゾンのデビュー・アルバム。69年リリース。彼ら自身によるプロデュース。

キング・クリムゾンは68年結成。マイケルとピーターのジャイルズ兄弟、そしてロバート・フリップの3人に、イアン・マクドナルド、ピート・シンフィールド、グレッグ・レイクらが次々に加わるかたちで、出来上がったバンドだ。

パートはフリップがギター、レイクがボーカル、ベース、マクドナルドがキーボード、サックス、フルートほか、マイケル・ジャイルズがドラム、シンフィールドが作詞である。

バンド名は誰もが容易に推測出来るように、デビュー・アルバムのタイトル・チューンから取ったもの。

実は他のメンバーは乗り気でなかったが、作詞したシンフィールドの強い要望、というかゴリ押しでこれに決まったらしい。

その後、現在に至るまで一度も改名しなかったということは、この選択で正解だったということかな(笑)。

アルバムのセールスは全英で5位と、まずまずの成果を出した(全米は28位)。

無名のバンドのデビュー盤としては、なかなかの成功と言え、音楽業界内にも反響が大きかった。

オープニングの「21世紀のスキッツォイド・マン」からして、相当なセンセーションを巻き起こした。

邦訳タイトルは、当初は「21世紀の精神異常者」。

旧タイトル通り、かなりヤバい雰囲気がプンプンとするナンバー。

ディストーションを施した、レイクのガナるようなボーカル、フリップとマクドナルドが超高速のパッセージを弾き、吹きまくる間奏。

狂気と喧騒、ジャズとロックが溶け合ったディストピア・ミュージック。

キング・クリムゾンの動的側面を代表するような一曲だ。

後代に与えた影響も凄まじく、洋の東西を問わず、数十のアーティストによるカバー・バージョンがある。

その超絶技巧ゆえに、完全コピーへの意欲をかき立てるものがあるのだろう。

だが、二曲目からは一転、静謐で神秘的なムードになる。「風に語りて」である。

カオスな曲調から、整然とした世界へ。実に見事な切り替えだ。フルートの響きが効果的に使われている。

シンフィールドの象徴的な詩は、正直言って和訳を読んでも言わんとすることはよく分からないのだが、ファンにとっては、些末なことなのだろう。

「考えるより、感じろ」

そういうことだろうな。

続く「エピタフ(墓碑銘)」もまた、ゆっくりとしたバラッド。

幻想的な歌詞と、メロトロン、アコギを導入したメランコリックな演奏。

レイクの端正で悲しげなボーカルにより紡ぎ出される、独自のクリムゾン・ワールド。

聴くごとに、深みにハマりそうな魅力がそこにはある。

この曲もまた、いくつもの秀逸なカバー・バージョンを生み出したが、中でも「えっ!?」と言いたくなるのは、日本のアイドル・グループ、フォー・リーブスによるバージョンだろうな。ジャニーさんの先物買いのセンス、やっぱスゲーな。

それはともかく、A面はこの3曲のみ。B面はさらに少なく、2曲である。

昨日取り上げたビートルズの「アビイ・ロード」ではないが、組曲構成を取っている曲が大半だからね。

当時盛んになろうとしていたいわゆる「プログレッシブ・ロック」においては、平均3分のシングル曲という伝統を無視して、一曲がどんどん長尺になっていった。

片面まるごと一曲、さらには両面で一曲なんてのもあったほど。

昨今の「タイパ=タイム・パフォーマンス」にうるさい、長ったらしいイントロや楽器のソロなんていらないという若者たちから見れば、信じられない話かもしれないが、当時はポピュラー・ミュージックの世界でも、クラシック同様、一曲の長さをどっぷりと楽しもうという方向に確実に向かっていたのである。

閑話休題、「クリムゾン・キングの宮殿」B面の話に戻ろう。

B面は「ムーン・チャイルド」から始まる。

アルバム中最長、12分以上に及ぶ大曲。

パセティックなムードの、フォーク調のナンバー。

レイクの歌唱の後には、オフ・ピートなアンビエント・ミュージックっぽいインストゥルメンタルが延々と続く。

さらには、ほとんどミュージック・コンクレートとも言えそうな、メロディすらない、サウンド・エフェクトのみの部分へと続く。

完全に実験音楽だよな、これは。

だがこれもまた、キング・クリムゾン・ミュージックの一部だということだろう。

ノリとかウケとかいった、従来のロックに不可欠の部分をあえて無視した、「ズラし」の音楽。

このような音が、全英5位を獲得したのも、時代背景あってのことだろう。

長ーい「ムーン・チャイルド」が唐突に終わり、始まるのがラストの「クリムゾン・キングの宮殿」だ。

アコギのバックでレイクが歌い上げる、魔女の登場するもうひとつの世界。

ジャケットに使われたイラストの、鬼面人を驚かすようなビジュアルとの相乗効果で、キング・クリムゾンは聴く者どもを異世界へと引きずり込んでいく。

マクドナルドの流麗なフルートソロ、そして再び、レイクの詠唱、圧倒的なコーラス。

この辺りの展開は、本当にスリリングだ。

いったん、サウンドは静まるが、あやつり人形が登場してヒョコヒョコと踊り出す。

そして、再びカオスな様相が……。 

リスナーは、このサウンドを聴いただけで、そういった風景をまざまざと脳裏に浮かべるのである。

さまざまなイメージを喚起させる多彩な音づくりにより、キング・クリムゾンは一躍、新時代の寵児となった。

しかし、この一枚は、ほんの「始まり」に過ぎなかっことは、その後の彼らの変遷、膨大な実績を知ればよく分かる。

まさに、ここに現れた才能は、氷山の一角でしかなかった。

恐るべき才能集団のファースト・ステップ。心して聴いて欲しい。

<独断評価>★★★★★

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音盤日誌「一日一枚」#388 THE BEATLES「アビイ・ロード」(Odeon/東芝EMI CP32-5332)

2022-12-07 05:00:00 | Weblog
2022年12月7日(水)



#388 THE BEATLES「アビイ・ロード」(Odeon/東芝EMI CP32-5332)

ザ・ビートルズ、69年リリースのスタジオ・アルバム。ジョージ・マーティンによるプロデュース。

いうまでもなく、ビートルズの最高傑作と呼ばれる一枚である。

65年12月にアルバム「ラバー・ソウル」をリリースして以来、ビートルズはコンサート活動を一切行わず、作品づくりに注力するようになった。

その成果は以降のアルバム「リボルバー」(66年)「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」などでたどることが出来る。

その間、ビートルズのメンバーたちは、バンド内のみならず、他のさまざまなミュージシャンとの関係を深めていくことになり、それがビートルズの音楽性にも反映していく。

いい例が、エリック・クラプトンとジョージ・ハリスンとの関係であるし、テレビ番組「ロックンロール・サーカス」で共演したジョン・レノンとストーンズとの関係であったりする。

その他、ジミ・ヘンドリクスのような新進のロッカーの台頭にも目配りして、常に自分たちの音楽をアップデートする姿勢が彼らにはあった。

一方、メンバー自身のプライベートにも、いろいろと変動が訪れる。ハリスンがパティ・ボイドと結婚し、レノンが妻シンシアと別れてオノ・ヨーコと再婚し、ポール・マッカートニーが恋人ジェーン・アッシャーと別れてリンダ・イーストマンと結婚する、などなど。

そして、約十年良好な関係が築かれてきた、メンバー間のつながりにもヒビが入っていく。ことにバンドの要である、レノンとマッカートニーが不仲となり、バンド自体の存続が危うくなっていく。

そんな微妙な状態の69年2月、バンドは最後のクリエイティヴィティを絞り出すかのように、アルバムの録音に取り掛かる。

およそ半年のレコーディングを経て、この「アビイ・ロード」は9月末にリリースされる。

世間の反応、評価は、とてつもないものだった。

本国である英国では17週連続1位、米国でもビルボードで連続11週1位、キャッシュボックスで連続14週1位と、記録破りのスーパー・ヒットとなった。

これはもちろん、ビートルズの過去の実績に基づくリスナーの「期待」がもたらしたものでもあったが、だがそれだけでは全米で年間4位となるだけのセールスは達成出来なかっだはずだ。

やはり、アルバムそのものの素晴らしさ無くしては、全世界で3000万枚以上のベストセラーにはならなかったであろう。

実際、どの一曲を取っても、シングル・ヒットして当然のような名曲揃いであると同時に、サウンド・プロダクションの質は、その後50年以上ポピュラー音楽が進化を遂げてきたにもかかわらず、決して容易に凌駕出来ないような高みに達している。

これが「アビイ・ロード=最強アルバム」の理由である。

レノンとマッカートニーという最強のソングライティング・タッグは、既に実質的に解体されたようなものだったが、それでも各々が自らの個性をフルに発揮した曲づくりをしており(「カム・トゥゲザー」「オー・ダーリン」ほか)、そして何年にもわたって作曲の力を蓄えてきたハリスンが「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」で才能を開花させた。

こういった個性とバラエティが溢れる曲群だけでも、十分に名アルバムの評価を得られたであろうが、これにダメ押しをしたのが、「ザ・ロング・ワン」と呼ばれるB面3曲目からの、8曲にわたるメドレーである。

8曲中5曲はマッカートニー、3曲はレノンが作ったと思われるが、主たるテーマを提示して、全体に統一感のある構成にしているのは、やはりマッカートニーの手柄だろう。

中にはちょっと面白い曲もある。レノン作の「サン・キング」の演奏は、どう聴いてもフリートウッド・マックの「アルバトロス」を元ネタとしているとしか思えない。

レノンはA面の「アイ・ウォント・ユー」でもマック風のヘビーなブルース・ロックをやっているので、当時はそういう系統のバンドを意識的に聴いていたんだと分かる。

他にもサウンド的にザ・フーを意識したかのようなパワー・コードが「ポリシーン・パン」で聴かれる。

メドレー形式、趣向の異なる曲を組み合わせるという組曲形式も、考えてみれば、ザ・フーが「クイック・ワン」でやっていることに刺激されてのことかもしれない。

ビートルズは、決して人気という「王座」に安住していた愚王ではなかったのだ。

常に自分たちを追いかけて来る2位以下の連中の動向、新たな試みにもしっかりと目を配る、抜かりのないキングであった。

だからこそ、「アビイ・ロード」は半世紀後にも聴き継がれる、エバーグリーンな名盤になり得たのである。

すべてのミュージック・ラバーの手元にあって欲しい、そんな一枚である。

<独断評価>★★★★★

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音盤日誌「一日一枚」#387 SONNY STITT「Sonny Stitt Sits in with the Oscar Peterson」(Verve POCJ-2062)

2022-12-06 05:48:00 | Weblog
2022年12月6日(火)



#387 SONNY STITT AND OSCAR PETERSON「Sonny Stitt Sits in with the Oscar Peterson」(Verve POCJ-2062)

マルチ・サクソフォン・プレイヤー、ソニー・スティットの、オスカー・ピータースン・トリオとの共演盤。1959年リリース。パリにて録音。

スティットは1924年生まれ。ピータースンは25年生まれ。ほぼ同世代の彼らが共演したのは、この一枚きりなのだが、最高のレコーディング・セッションとして記録されることとなった。

メンバーは、ふたりの他にベースのレイ・ブラウンと、ドラムのエド・シグペン。ともに、ピータースン・トリオの黄金期のメンバーである。

CD化時に追加された57年の演奏では、上記のふたりに代わってギターのハーブ・エリス、ドラムのスタン・リービーが入っている。

演奏曲目はいくつかのタイプに分かれる。

ひとつめはオープニングの「捧ぐるは愛のみ」に代表されるスタンダード・ナンバーだ。

覚えやすい美しいメロディ・ライン、明るいムードが溢れる曲としては、「四月の思い出」もそのタイプ。

つまり、リスナーのリクエストが多いタイプ。

ピータースン・トリオが最もお得意とするジャンルと言える。

ふたつめは、スティットともゆかりの深い、チャーリー・パーカーの作品。

「オー・プリヴァーヴ」「スクラップル・フロム・ジ・アップル」がそれにあたる。

なお、パーカーは本盤録音の四年前に亡くなっている。

スティットは、終生バードこと天才アルト奏者パーカーと比較され、おおむね二番煎じ的な扱いを受けており、かなり気の毒な印象がある。

もちろん、パーカーの影響をまったく受けていないジャズ・アルト奏者なんてひとりもいないと言えるのだが、それにしても世間は口さがない。

その評価に対して、スティットはむしろパーカーへのリスペクトを表に出すことで、つまりパーカーの曲を積極的に演奏することで、根拠のない低評価をものともしない強さを見せている。

「バードが天才なのも、自分が彼の影響下にあるのも間違いない。でもオレはオレだ。オレはオレのプレイをするだけだ」

とでも言いたげである。

スティットというひとはパーカーの影からけっして逃げず、死ぬまでパーカーの偉大さと向き合い続けたのだと思う。

実にカッコいいではないか。

みっつめは、他のベテラン・ジャズ・プレイヤーの作品。

例えば、オリジナルは1932年に録音された、ベニー・モートゥン(モーテンという発音が一般的だが)の「モートゥン・スイング」がそれだ。

ここでスティットは、テナーに持ち替えているのだが、前5曲とは雰囲気がかなり変わる。

それまでは「モダン・ジャズ」(パーカーのバップ・スタイル)だったのが、「モダン・スイング」(いってみればカウント・ベイシー風)になるのだ。

テナー・サックスのプレイにおいては、スティットはわりとオーセンティックな持ち味のひと、例えばレスター・ヤングあたりの伝統を引き継いでいるんだなと分かる。

それは次のスティット自作のブルース「ブルース・フォー・プレス、スウィーツ、ベン&オール・ジ・アザー・ファンキー・ワンズ」を聴けばよく分かる。

プレスことレスター・ヤングが、テナーにおけるスティットのヒーローなんだろう。

彼がモダン・ジャズとそれ以前のジャズ、両方をこよなく愛しているからこそ、オスカー・ピータースンのようなピアニストとも相性よくプレイ出来たのに違いない。

リズム・セクションのふたりも、この三ジャンルをすべてソツなくこなしており、聴きごたえ十分だ。

アルト、テナー、両方でスティットの実力を堪能できるうえ、黄金期のピータースン・トリオも聴ける。

隠れた名盤として、お勧めしたい。

<独断評価>★★★★☆

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音盤日誌「一日一枚」#386 THE BEACH BOYS「ペット・サウンズ」(ユニバーサルミュージック UICY-15519)

2022-12-05 06:06:00 | Weblog
2022年12月5日(月)



#386 THE BEACH BOYS「ペット・サウンズ」(ユニバーサルミュージック UICY-15519)

ザ・ビーチ・ボーイズ、66年リリースのオリジナル・アルバム。

1960年代半ば、英国におけるトップ・バンドがビートルズであったように、米国におけるそれは、ビーチ・ボーイズであった。

最初はシングル・ヒット、そして次第にアルバムにおいても大ヒット作を連発するようになり、コンサートやテレビ番組への出演で多忙を極めるようになる……と言った具合に大西洋を挟むふたつのグループは、似たような経過を辿っていった。

コンサートツアーやプロモーションに時間に取られるあまり、本来、一番時間をかけたいアルバムのレコーディングに、十分時間を取れないような状況が続いた。

そこで、ビートルズの方はコンサート・ツアーを65年の北米ツアー以降きっぱりとやめてしまい、レコーディングに専念する方向へと舵を切った。

その成果生まれたのが、65年末にリリースした名盤「ラバー・ソウル」である。

以後、彼らは基本的にライブ・パフォーマンスを行なわなくなる。

この動きに大きく刺激されたのが、ビーチ・ボーイズだ。「ラバー・ソウル」の高い音楽性に注目、自分たちもビートルズのようにもっとキメの細かい音作りをしたいと考えた。

とりわけ、グループの音楽的リーダーであったブライアン・ウィルスンは、そういう思いが強かった。そこで彼は、今後一切のライブ活動をやめて、音楽制作に専念することにした。

「ペット・サウンズ」は、このような背景のもとに生み出されたアルバムである。

雑誌「ローリング・ストーン」の「500のオールタイム・ベスト・アルバム」投票ではマーヴィン・ゲイの「What’s Going On」に次いで2位という高い評価を得ているが、それもプロデューサーであるウィルスンの、ほとんどパラノイアとも言える完璧主義によって一分の隙もなく構築された音世界ゆえのものであることは、間違いあるまい。

まず、ビーチ・ボーイズのメンバーには、演奏を一切させずに、ボーカルとコーラスに専念させ、演奏はすべて腕利きのスタジオ・ミュージシャン(通称レッキング・クルー)に任せた。

これは画期的というか、賛否が分かれるところかもしれないが、結果的にはアルバムの音楽的質を向上させることにつながったと言えるだろう。

また、ソングライティングに関しても、歌詞は今回、プロの作詞家トニー・アッシャーに大半を依頼して、ブライアン・ウィルスンがイメージした世界をきちんと構築してもらっている。

要するに、ブライアン・ウィルスンがビーチ・ボーイズとスタジオ・ミュージシャンを使って作った、彼のためのアルバム、そういうことになろう。

まぁ、このアルバムの解説としては、日本で初CD化された時に、ビーチ・ボーイズ・フリーク中のフリークである山下達郎氏がライナーノーツを書いているので、それをご覧いただくのがベストだろう。

ビーチ・ボーイズの特別なファンでもない、半可通の筆者が今さら何を書けるわけでもない。

とりあえず、筆者のフェイバリット・ソングを数曲挙げておく。

「素敵じゃないか」

アルバムのオープニング曲。これぞビーチ・ボーイズ・スタイルと呼べるコーラス・ワークが楽しめる、快活なナンバー。シングル・カットされ、全米8位となっている。

「スループ・ジョン・B」

A面ラストの曲。これもシングル・カットされ、全米3位に輝いている。もともとはバハマ諸島の民謡で、メンバーのアル・ジャーディンの提案により取り上げられたという、異色のトロピカル・ナンバー。

歌詞はブライアン・ウィルスンによるもの。陽気で大いに盛り上がる曲調が、ビーチ・ボーイズにぴったり。

「神のみぞ知る」

「素敵じゃないか」のB面。B面ながらも、全米39位にまでなった。トニー・アッシャー、ブライアン・ウィルスンの作品。その音作りは、「サージェント・ペパーズ」以降のビートルズにも大きく影響を与えたと言われており、ことにポール・マッカートニーは、その美しいメロディ・ラインを絶賛していたそうだ。

ビートルズに刺激を受けたビーチ・ボーイズの曲が、今度はビートルズに影響を与える。実に見事な相互作用ですな。

「キャロライン・ノー」 

アルバム最後のバラード曲。ブライアン・ウィルスンがリードボーカルを務めた、実質的ソロ曲。彼名義でシングル・カットされたが、ヒットはしていない。だが、彼自身は一番気に入っており、それゆえにラストに置いたものと思われる。

同時にレコーディングされたものの、アルバム入りを見送られ、後に手直しされて全米・全英でナンバーワン・ヒットになった「グッド・ヴァイブレーション」もまた、「ペット・サウンズ」の偉大なる副産物である。

この時期のブライアン・ウィルスンの仕事ぶりは、本当に神がかっていた。

完璧な曲作り、アレンジ、歌唱、演奏、録音、そしてミキシングの追求…。

後には、その完璧主義が完全に裏目に出て、彼は精神的にボロボロになって追い詰められていくのだが……。

それはまた、別の話。

ともあれ、「奇跡」のような一枚。56年経った現在も、そのレベルに匹敵する出来のポピュラー・レコードは、何枚も出ていない。

洋楽ファンなら、絶対はずせませんぜ。

<独断評価>★★★★★

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音盤日誌「一日一枚」#385 椎名林檎「無罪モラトリアム」(東芝EMI TOJT24065)

2022-12-04 06:01:00 | Weblog
2022年12月4日(日)



#385 椎名林檎「無罪モラトリアム」(東芝EMI TOJT24065)

シンガーソングライター、椎名林檎のデビュー・アルバム。99年リリース。北城浩志プロデュース。

一年半にわたるロング・セラーとなり、170万枚を売り上げた本作は「林檎シンドローム」とでも呼ぷべき社会現象さえ引き起こした、衝撃のデビュー盤である。

前年にシングル「幸福論」でデビュー、続く「歌舞伎町の女王」、そして「ここでキスして。」のスマッシュ・ヒットで、一躍注目を浴びた。

その歌声は、「澄んだ美声で綺麗に」歌うのがデフォルトの、従来の女性シンガーソングライターにはほとんどなかったタイプ。

沸き起こった感情をそのままぶつけるような、エモーショナルな声。どこか、ガールポップの大先輩・戸川純に通じるものがある。

時には乱調、破格な歌いぶり(例えば「同じ夜」)、べらんめえ口調の歌唱スタイルは、リスナーを驚かせたが、彼女の際立った特徴はむしろ、その生々しい「歌詞」にあると思う。

例えば「警告」というナンバーは、メジャーデビューして少し名前の売れて来た彼女と、当時リアルで付き合っていた恋人とのやり取りから生まれたという。言わば痴話喧嘩がまんま題材になっている。

そんな己のプライバシー丸出しの歌詞を書くなんて、相当な覚悟がないと出来るわけがない。

ラブソングを作っても、決して自分の清純なイメージを損なわないよう、当たり障りのない表現をし、出来るだけ生の自分を隠蔽するのが、これまでの女性シンガーの「掟」だったのに、平気でそれを破ってしまったのだから、世間に与えたインパクトはハンパなかった。

女性の生理、性的欲望を、時にはあからさまな比喩を交えながら表現するオンナ。

「歌舞伎町の女王」のような昭和的な情念の世界を、あえて平成の時代に表現し、流行りの「シブヤ系」にたいして自ら「新宿系」と名乗り、悪目立ちするオンナ。

もちろん、それは現実の椎名林檎(本名・椎名裕美子)そのままの姿というよりは、彼女の心の中に住んでいるいくつもののキャラクターが、特徴的な行動をとって現れたのだという気がする。

つまり、どれも彼女がやってみたかった、コスチューム・プレイ。

淑女、貞女的な部分、阿婆擦れ、ビッチ的な部分、メンヘラな部分、幼女的な部分。 

いずれも彼女の、椎名林檎の「芯」にあるものなのだ。

こういった「赤裸々」な表現方法は、男性よりもむしろ女性リスナーの共感を強く呼ぶこととなった。

音楽のスタイルも、ひとつにとどまらない。

デビュー曲の「幸福論」も、その王道ポップス的なアレンジから一転、本アルバムではガチなメタル・サウンドになっている。

つまり、自分で一旦作ったものも、自分で壊して新たなものに変えてしまう、破壊と再生の繰り返し。

ピアノやオーケストラでのバラードも林檎、ジャズィ・アレンジも林檎、ヘビメタも林檎、パンクも林檎、ギター弾き語りもまた林檎なのである。

そのサウンドの多彩さは、アレンジ担当のベーシスト、亀田誠治によるところが大きい。

通称カメちゃんのサウンド・プロデュースにより、「無罪モラトリアム」はデビューとは思えないほどの充実した仕上がりとなった。

が、本当にスゴかったのはそれからで、デビュー以来24年、椎名林檎は固定したスタイル、安定した作風にとどまることなく、常に模索と脱皮を続けている。

「すべてのオンナは、本来メンヘラなのだ」と誰が言っていたが、自らの「女性性」を全開にして、根源的なメンタルの「振幅」を歌う椎名林檎ほど、リスナーを揺さぶるシンガーはいない。

こりゃあ、男どもはとても敵いそうにないな(笑)。

<独断評価>★★★★☆

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音盤日誌「一日一枚」#384 THE ROLLIG STONES「STICKY FINGERS」(ROLLIG STONES CK 40488)

2022-12-03 05:00:00 | Weblog
2022年12月3日(土)



#384 THE ROLLIG STONES「STICKY FINGERS」(ROLLIG STONES CK 40488)

ローリング・ストーンズのスタジオ・アルバム、71年リリース。

彼ら自身のレコード会社「ローリング・ストーンズ・レコード」を設立しての、初めてのアルバム。

このアルバム、セールスがとにかくスゴい。全英1位、そして全米1位を獲得している。

前作「レット・イット・ブリード」では全英1位だったが、英米ともにトップというのは、もちろん初めての快挙である。

「ビートルズ解散後の、ナンバーワン・バンドは、オレたちだ!」と言わんばかりの威容を見せつけたのである。

【個人的ベストファイブ・5位】

「ムーンライト・マイル」

ラストの一曲。前作からバンド加入したミック・テイラーが存在感を示したナンバー。

バンドのその後、「イッツ・オンリー・ロックンロール」に至るまでの進化過程を見るに、テイラーの高い音楽性は、ストーンズに少なからずいい刺激を与えたことが分かる。

彼はクレジットこそされないものの、曲作りにも大きく関わったようだ。

本曲では、リチャーズは参加しておらず、その音作りはあくまでもテイラーが主導していたのだ。

重厚で繊細なアコースティック・サウンド。隠れた名演奏と言えるだろう。

テイラーのギター・プレイの才能は「キャン・ユー・ヒア・ミー・ノッキング」でもいかんなく発揮されているので、こちらも傾聴されたし。

【個人的ベストファイブ・4位】

「ワイルド・ホース」

シングル・ヒットもした、アコースティック・ナンバー。

70年代初頭。この時代はフォーク・ロックに、大きく注目が寄せられていた。

たとえば同時期のCSN&Yやレッド・ツェッペリンが、アコギ・サウンドを基調にしたロックに意欲的に取り組んでいたものだが、ストーンズも負けじと、シンプルで力強いこの歌を生み出した。

そこはかとない哀愁味が、ウエットな日本人のセンスにも受けたのか、日本のフォーク・シンガーにも影響を与えたナンバーだ。

【個人的ベストファイブ・3位】

「ユー・ガッタ・ムーブ 」

こちらもアコースティック・ナンバーだが、サウンドはもろに、デルタ・ブルース。ミシシッピ・フレッド・マクダウェルの作品。

前作の「むなしき愛」でロバート・ジョンスンを取り上げたように、今回はミシシッピの老シンガーのシブい世界にスポットを当てている。ディープな南部サウンドへの憧れが、当時のストーンズの指向だった。

いささかマニアックだけど、ブルース命の筆者としては、外すわけにいかないな。

【個人的ベストファイブ・2位】

「アイ・ガット・ザ・ブルース」

他のレビュワーなら多分、この曲が上位に来ることはないだろうが、筆者としてはあえて推したい一曲。

ストーンズの基本はロックンロール、そして何よりもブルース。

このことを再確認させてくれるのが、「アイ・ガット・ザ・ブルース」というシンプル極まりないR&Bナンバーだ。

ギターの響き、オルガンのソロ。新しさは皆無だが、永遠に不滅な世界がそこにある。

本曲のミック・ジャガーの切々とした歌声は、われわれの魂を揺さぶってやむことがない。

【個人的ベストファイブ・1位】

「ブラウン・シュガー」

なんのかんの言っても、ベスト・ワンはこれになるだろうな。

オープニングの一曲にして、中期ストーンズを象徴すると言ってもいい、シングル・ヒット・ナンバー。

イントロ、キース・リチャーズのギター・トーンからして、文句なしにカッコいい。この一撃に、魂を持っていかれたギター・キッズが当時どれだけいたことか。

ボビー・キーズらのホーン・セクションも本作よりレギュラー化し、中期ストーンズのサウンドを強くバック・アップしていくことになる。

聴き手をあおるご機嫌な掛け声、そしてノリノリのビートに、思わず身体が動いてしまう一曲。やはり、ストーンズは踊れてこそ、ストーンズだよな。

<独断評価>★★★★★

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音盤日誌「一日一枚」#383 MUDDY WATERS「Trouble No More:Singles (1955-1959)」(MCA/Chess CHD-9291)

2022-12-02 05:00:00 | Weblog
2022年12月2日(金)



#383 MUDDY WATERS「Trouble No More:Singles (1955-1959)」(MCA/Chess CHD-9291)

マディ・ウォーターズの編集版アルバム。89年リリース。

マディが55年にレコーディングしたシングル「Trouble No More」をメインに組まれたコンピレーション・アルバムである。12曲を収録。

まずは「Trouble No More」についてだが、戦前のブルースマン、スリーピー・ジョン・エスティスが1935年に録音した「Someday Baby Blues」が元ネタ。

タイトルと歌詞を変えて吹き込んだマディ版がビルボードR&Bチャートで7位のヒットとなり、一躍メジャーな存在となった。

オールマン・ブラザーズ・バンドが、スタジオ盤とライブ盤両方でこの曲を取り上げているので、それで知ったという人も多いだろう。

マディ版は、通称「ヘッドハンターズ」と呼ばれた、ジミー・ロジャーズ、リトル・ウォルター、オーティス・スパン、ウィリー・ディクスン、フランシー・クレイというシカゴ・ブルースのトップ・プレイヤーたちとともに演奏されている。(ヘッドハンターズは、かっちりメンバーが決まったものでなく、集合体みたいなもののようだ。)

当然ながら、極上の出来映えだ。とりわけ、リトル・ウォルターのむせび泣くようなブロウが印象的だ。

上記メンバーのヘッドハンターズとでは「Sugar Sweet」も録音しており、これもチャートインしている。

この2曲以外で有名な曲を上げると、名ライブ盤「Fathers And Sons」のオープニングでも演奏されていた「All Aboard」がまず挙げられるかな。

そのバージョンではマイケル・ブルームフィールドがギター、ボール・バターフィールドがハーブを務めていたが、本盤ではもちろん、ロジャーズとウォルター、そしてジェイムズ・コットンが、正調シカゴ・ブルース・スタイルでキメてくれている。

「Got My Mojo Working」もマディの十八番的ナンバーでライブや再演やらでいくつものバージョンがあるが、ここに収められている56年録音版こそが、オリジナル・シングルだ。ハープはウォルター。

21世紀の現在も、いまだに多くのミュージシャンがカバーしているブルース・スタンダード。

ブルースを愛好する者ならば、そのオリジナル、ぜひ一度は聴いておいて欲しい。

他にわりと名前の通ったナンバーとしては「Rock Me」「Mean Mistreater」があるかな。

前者は聴けばすぐ分かるが、冒頭は後年「Mannish Boy」となったナンバーの原型だが、終始ワンコードではなく、通常のブルース進行へと続いていく。実質的にはBBもよく演っている「Rock Me Baby」と同じ曲である。

後者は、マディの愛弟子、ジョニー・ウィンターがカバーしたことでロックファンにもよく知られるようになった。なお、グランド・ファンク・レイルロードにも同じタイトルの曲があるが、こちらは同名異曲である。

「She’s Got It」は54年に録音された「Hoochie Coochie Man」の改作バージョン。58年、シングルとしてリリース。

「She’s Into Something」は59年のリリース。ルンバ調のエイト・ビートが、時代の変遷による音楽スタイルの変容を感じさせて興味深い。

同じくシングル編集版である55年のアルバム「The Best Of Muddy Waters」と合わせて聴けば、1950年代のマディ・ウォーターズの活躍ぶり、その音楽のスゴさが把握出来る一枚。

ブルースを極めたい者は、このアルバムを絶対避けては通れないぜ。

<独断評価>★★★★☆

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