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音曲日誌「一日一曲」#451 ジョニー・シャインズ「Sweet Home Chicago」(Testament)

2024-06-30 08:00:00 | Weblog
2024年6月30日(日)

#451 ジョニー・シャインズ「Sweet Home Chicago」(Testament)





ジョニー・シャインズ、1966年リリースのアルバム「The Johnny Shines Band」からの一曲。ロバート・ジョンスンの作品。

米国のブルースマン、ジョニー・シャインズことジョン・ネッド・シャインズは1915年4月、テネシー州フレイザー生まれ。幼少期、母親からギターを習い、メンフィス周辺の酒場や路上でスライド・ギターを弾いていた。

1932年、17歳の頃アーカンソー州ヒューズに移住、3年間農場で働いた。35年頃、旅回りのブルースマン、ロバート・ジョンスン(1911年生まれ)と出会ったことで、再びミュージシャンの道に戻る。ジョンスンと共にシカゴ、テキサス、ニューヨーク、カナダ、ケンタッキー、インディアナなどを旅することとなる。

ジョンスンとは彼が亡くなる1年前の1937年に別れ、南部全域で演奏活動を行う。昼間は建設工事の仕事、夜は酒場での演奏という生活を続ける。

20代半ば、41年にシカゴに移住、その地でプロミュージシャン達との交流が始まる。46年にコロムビアレーベルで初のレコーディングを行ったが、レコード化はされなかった。

30代半ばの50年10月にはチェスレーベルでリトル・ウォルターらのバッキングを得て、シュー・シャイン・ジョニーの芸名でレコーディングしたが、これもリリースに至らなかった(のちに70年リリースのコンピレーション・アルバム「Drop Down Mama」にその2曲が収められて、ようやく日の目を見ることになる)。

1952年、JOBレーベルでの初アルバムがようやくリリースされる。内容はベストな演奏だったが、セールス的には全く振るわず、以後のリリースもなかった。音楽業界に不満を抱いたシャインズは、機材を売却して再び建設工事の仕事に戻ってしまう。実質的なプロ引退である。

60年代の半ば、50代に差しかかっていたシャインズは、シカゴのブルースクラブにいたところ、偶然発見されて業界に引き戻されることになる。

66年、ヴァンガードレーベルが企画したアルバム・シリーズ、「Chicago/The Blues/Today!」の第3巻にジョニー・シャインズ・ブルース・バンドの演奏が収められて、シャインズは再び注目されるようになる。メンバーはシャインズのほか、ハープのビッグ・ウォルター・ホートン、ベースのフロイド・ジョーンズ、ドラムスのフランク・カークランド。

その時期から、主にビッグ・ウォルターをフィーチャーしたメンツでレコーディングやライブを行うようになる。本日取り上げた一曲「Sweet Home Chicago」が収められたアルバム「The Johnny Shines Band」(マスターズ・オブ・モダン・ブルースというシリーズの1枚)もまたそんな一枚である。レーベルは63年創設の、新興のテスタメント。

レコーディング・メンバーは、ボーカル・ギターのシャインズ、ハープのビッグ・ウォルター、ピアノのオーティス・スパン、ベースのリー・ジャクスン、ドラムスのフレッド・ビロウ。チェス時代に知り合った旧友も含むラインナップである。

このメンツで主にシャインズ自身のオリジナルをやっているのだが、実際にはマディ・ウォーターズをはじめとするデルタ・ブルースマンの代表曲を歌詞だけ変えた、いわば本歌取りしたようなものがほとんどである。

「Sweet Home Chicago」はいうまでもなく、ロバート・ジョンスンの代表曲、というかブルース・スタンダード中のスタンダードである。歌詞も過去の数曲から影響を強く受けており、ジョンスンのオリジナルというよりは、ある意味トラディショナル・ナンバーに近いとも言える。

オリジナルは37年にジョンスンひとりの弾き語りでレコーディングされたが、58年にリトル時代のジュニア・パーカーがアップテンポのシャッフルにアレンジしてシングルリリース、大ヒットしたあたりから、そのスタイルが一般化する。

そして、67年にマジック・サムが再びカバーしたバージョンが、現在に至るスタンダードなスタイル(例えばブルース・ブラザーズ)になったと言えるだろう。

シャインズはマジック・サムに1年先立つかたちでこの曲をレコーディングしたことになる。テンポやアレンジは概ねジュニア・パーカー版に準じたものであるが、シャインズのギター・プレイは正統派のシカゴ・ブルースというよりは、どこかデルタ・ブルースの匂い、すなわちロバート・ジョンスンからの流れを強く感じさせるものがある。

シャインズとジョンスンとの交流は約30年前の過去のものであったが、20歳になったばかりの若いシャインズにの目には、ジョンスンの特異なギターの才能が、強烈なものに映ったに違いない。その古い記憶が、シャインズのギター・プレイに終生、影響を与え続けたのではないだろうか。

ここでもうひとつ、シャインズによる本曲のプレイを聴いていただこう。アコースティック・ギターによる演奏バージョンである。これはDVD「Legends of Delta Blues」に収められた映像であるが、歌にせよ、ギター・プレイにせよ、完全にロバート・ジョンスン・スタイルである。

シャインズにとって見れば、「Sweet Home Chicago」という曲は、まず自分が間近に目撃したロバート・ジョンスンの演奏がデフォルト・バージョンなのである。バンドでの演奏にも、その影響が濃く出るのは必然であった。

その後シャインズはウィリー・ディクスン率いるシカゴ・オールスターズのメンバーに抜擢される。つまり、シカゴ・ブルースの代表アーティストとして、認められたのである。

また、ロバート・ジョンスンの後継者ともいえるロバート・ジュニア・ロックウッドとも共演して、ツアーに出るようになる。

こうしてシャインズは70年代には音楽活動が軌道に乗り、コンスタントにアルバムをリリース出来るようになる。だがそうなってからも、シャインズはアコースティック・ギター、デルタ・ブルース・スタイルでのレコーディングを時折り行っている。自らの出発点を、忘れる事なく守り続けたのである。

シャインズは1991年、76歳でアルバム「Back to rhe Country」をリリースするまで、現役ミュージシャンであり続け、翌年4月に亡くなっている。

その堅実で確実なギター・テクニック、そして野太く力強いボーカル。華々しいスポットライトが当たることはほとんどなかったが、彼こそは、ブルースマン中のブルースマンであると、筆者は思う。

ひとつのこと、ひとつのスタイルを死ぬまでとことんやり切る、この一途な生き方がシャインズを「本物」にした。

伝説のブルースマン、ロバート・ジョンスンと共に各地を旅した男、ジョニー・シャインズもまた、ブルース100年の歴史を支えた、最重要人物のひとりである。ぜひ、奇跡的カムバックを遂げた頃の歌とギターを、じっくり聴いてほしい。






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