茶の湯の祖と言われ、名前だけは有名だが、その生涯はおぼろけである。
茶といえば、千利休と思われがちだが、侘び茶に辿り着く為のいわゆる草庵の茶の根本を作り出したのは村田珠光その人。知られている生涯、エピソードについて追っておきたい。
村田珠光は、応永30年(1423年)、奈良御門に住む村田杢市検校の子として生まれました。幼名茂吉。
11歳の頃、奈良の浄土宗称名寺に入り僧となるが、寺の仕事を怠り、茶を好み、流行の闘茶などにふけって、20歳で破門、諸国放浪の旅に出ます。
25歳で京に出て三条町に小庵「南星庵」を結び、やがて30歳で大徳寺の一休宗純の元で禅を学び、茶禅一味の境地に至りました。
33歳で、一休より珠光の号と圜悟禅師の墨蹟を授かりました。一休は珠光に対して、僧侶が座禅により正覚を目指すように、茶の湯に心をいれさせることで、仏法は茶の湯の中にありと教え、珠光は茶の湯を人間の生き方をふくむ「道」としてとらえるようになりました。茶道に仏法、禅の教えが含まれるのは、珠光に始まっているといえましょう。
その後、足利義政、津田宗柏(天王寺屋)、志野宗信、石黒道提、篠道耳、誉田屋宗宅、尊行院、一路庵禅海、西福院、竹倉屋紹滴、松本珠報、牡丹花肖柏、古市澄胤、粟田口善法、鳥居引拙、村田宗珠、珠徳といった数々の弟子をとり、60歳の頃、侘び茶を完成、わが国の茶祖と称されます。一生僧侶であったとも、還俗して商人として活躍したとも諸説あります。
称名寺HP
http://www.eonet.ne.jp/~syomyoji/sub1.html
珠光の生きた室町時代は、将軍家において唐物を賞玩する喫茶文化が流行。唐から伝わった天目や青磁茶碗が好まれ、道具の見事さを褒め、自慢し合っていました。
一方、珠光は粗末な道具を大切にし、茶をたてて心の静けさを求めました。つまり、茶の湯において道具という物質的な視点ではなく、茶を行なう者の精神性の方を重視し、茶の湯の人間平等、客振り・亭主振りの重要性、酒色の禁止などを説き、それまでの通俗的、遊興的な茶を一新しました。闘茶にふけっていた彼が、一休に出会ったことで、内面的な部分を追求した茶が生まれたということでしょう。
それと同時に、それまでの書院の広間にかわり、草庵の四畳半を真の座敷とすること、床の掛け物を唐物から名禅の墨蹟を第一とすること、茶杓を象牙や銀ではなく竹にするなど、具体的に目に見える部分でも唐様の茶を和風へと改めていきます。唐の道具を中心とした道具茶ではなく、日本ならでは茶への分岐点といえるでしょう。
珠光の名言として「藁屋に名馬をつなぎたるがよし」というのがあります。侘びた藁屋に名馬という名品を組み合わせることで、差の大きな対比のなかに美を見いだす珠光の精神性を示すものとして、聞かれます。
また、能楽者である金春禅鳳が記した“禅鳳雑談”の中に出てくる「月も雲間のなきは嫌にて候」という珠光の言葉の一節を知ると、満月の明るく輝く月より、雲間から見え隠れする月の美しさがよいという、完全性を拒否し、足りないことを楽しむ姿勢、精神性が珠光の作った草庵の茶にも表されたことがわかります。
彼の伝記のようなものは存在せず、全体像は未だ解明されていません。利休様の弟子、山名宗二記や南方録による記録を繋ぎ合わせることで、村田珠光の人となりがかすかに見えてきます。その一端を追っただけですが、流行ではなく、自分なりに考え到達したもののすばらしさ、ゆるぎなさを感じました。
茶といえば、千利休と思われがちだが、侘び茶に辿り着く為のいわゆる草庵の茶の根本を作り出したのは村田珠光その人。知られている生涯、エピソードについて追っておきたい。
村田珠光は、応永30年(1423年)、奈良御門に住む村田杢市検校の子として生まれました。幼名茂吉。
11歳の頃、奈良の浄土宗称名寺に入り僧となるが、寺の仕事を怠り、茶を好み、流行の闘茶などにふけって、20歳で破門、諸国放浪の旅に出ます。
25歳で京に出て三条町に小庵「南星庵」を結び、やがて30歳で大徳寺の一休宗純の元で禅を学び、茶禅一味の境地に至りました。
33歳で、一休より珠光の号と圜悟禅師の墨蹟を授かりました。一休は珠光に対して、僧侶が座禅により正覚を目指すように、茶の湯に心をいれさせることで、仏法は茶の湯の中にありと教え、珠光は茶の湯を人間の生き方をふくむ「道」としてとらえるようになりました。茶道に仏法、禅の教えが含まれるのは、珠光に始まっているといえましょう。
その後、足利義政、津田宗柏(天王寺屋)、志野宗信、石黒道提、篠道耳、誉田屋宗宅、尊行院、一路庵禅海、西福院、竹倉屋紹滴、松本珠報、牡丹花肖柏、古市澄胤、粟田口善法、鳥居引拙、村田宗珠、珠徳といった数々の弟子をとり、60歳の頃、侘び茶を完成、わが国の茶祖と称されます。一生僧侶であったとも、還俗して商人として活躍したとも諸説あります。
称名寺HP
http://www.eonet.ne.jp/~syomyoji/sub1.html
珠光の生きた室町時代は、将軍家において唐物を賞玩する喫茶文化が流行。唐から伝わった天目や青磁茶碗が好まれ、道具の見事さを褒め、自慢し合っていました。
一方、珠光は粗末な道具を大切にし、茶をたてて心の静けさを求めました。つまり、茶の湯において道具という物質的な視点ではなく、茶を行なう者の精神性の方を重視し、茶の湯の人間平等、客振り・亭主振りの重要性、酒色の禁止などを説き、それまでの通俗的、遊興的な茶を一新しました。闘茶にふけっていた彼が、一休に出会ったことで、内面的な部分を追求した茶が生まれたということでしょう。
それと同時に、それまでの書院の広間にかわり、草庵の四畳半を真の座敷とすること、床の掛け物を唐物から名禅の墨蹟を第一とすること、茶杓を象牙や銀ではなく竹にするなど、具体的に目に見える部分でも唐様の茶を和風へと改めていきます。唐の道具を中心とした道具茶ではなく、日本ならでは茶への分岐点といえるでしょう。
珠光の名言として「藁屋に名馬をつなぎたるがよし」というのがあります。侘びた藁屋に名馬という名品を組み合わせることで、差の大きな対比のなかに美を見いだす珠光の精神性を示すものとして、聞かれます。
また、能楽者である金春禅鳳が記した“禅鳳雑談”の中に出てくる「月も雲間のなきは嫌にて候」という珠光の言葉の一節を知ると、満月の明るく輝く月より、雲間から見え隠れする月の美しさがよいという、完全性を拒否し、足りないことを楽しむ姿勢、精神性が珠光の作った草庵の茶にも表されたことがわかります。
彼の伝記のようなものは存在せず、全体像は未だ解明されていません。利休様の弟子、山名宗二記や南方録による記録を繋ぎ合わせることで、村田珠光の人となりがかすかに見えてきます。その一端を追っただけですが、流行ではなく、自分なりに考え到達したもののすばらしさ、ゆるぎなさを感じました。
>「月も雲間のなきは嫌にて候」
おっしゃる通り、雲間のあるのが贅沢だし、ミステリアスで楽しいのかもしれませんね~。
>たまごさんに今回はお会い出来ず残念した。次回は是非!♪
また是非お会いしましょう!
しばらく落ち着くまで忙しいのでしょうが、またお茶のお稽古始めたら色々お話しましょう!
お茶は休んでもまたすぐ始められるのがいいところですよね~。
奈良は村田珠光の出身地ですから、色々縁のある場所があるんでしょうね。それも回ってみたいと思っているのです。いらしたらどんなところだったか教えて下さい。
>頭の中がTVの一休さんでいっぱいになっていました。
懐かしい。私もあの曲が今頭の中を流れています。
心の一紙ですね。
茶というと利休様にスポットライトが当たってしまいますが、最初は珠光その人で、もっと知りたいと思っています。
>連歌の美意識「冷え枯れる」美しさと、禅の思想に立つ「無一物」の精神
日本人の美意識ってすごいですね。
>武野紹鴎
こちらもこれから勉強したいと思います。
判りやすく流れを書いて頂き、ありがとうございました。
>講演会で珠光さんの時代に使われた侘び茶のお茶碗についての話を聴きました。
それは貴重な講演ですね。勉強熱心だなあ。
>「珠光茶碗」と呼ばれているそうです。
本当にシンプルで、すっきりとした感じですよね。
珠光に纏わる道具、珠光と名のつく道具は色々あって、それもまた書きたいと思います。
そうですか、kazimodoさんも気になる人でしたか。
今回はさわりだけですがまた勉強したいと思っています。
一休関連の本を読むとまた違う珠光を発見できそうですね。
人生そのものもを、こうして過ごしていきたいと思っています。
ある意味、これこそが、贅沢なのではと・・・
たまごさんに今回はお会い出来ず残念した。次回は是非!♪
読ませてもらったら、早くお茶の世界に
戻りたいなぁっておもいました。
ほっとできるお茶の世界にもどりたい。。
京田辺にある一休寺を訪ねたときには、頭の中がTVの一休さんでいっぱいになっていました。
珠光は、当時流行していた連歌の美意識「冷え枯れる」美しさと、禅の思想に立つ「無一物」の精神を茶道に実現させようとし、不完全なるものへと心惹かれていったのが良く分かりますね。
彼の茶の形式は、書院式の茶から草庵の侘び茶へと移ってゆく過渡の状態にあって、それを一歩進めて、より簡素な形にしたのが武野紹鴎でしたね。
明の茶碗で、大ぶりで平らで「刻み」とよばれる直接文様をつけてから釉薬をつけて焼き上げたお茶碗。
「珠光茶碗」と呼ばれているそうです。
青磁の茶碗も使われたそうです。
利休さん以降のことしか頭になかったので、とても新鮮に感じました。
村田珠光わたしもずっと頭の隅にひっかかり、長年気になっていた人物のひとりです。こうやって改めてよんで、いよいよその思いがつよまりました。
ありがとうございます。私も俳句や短歌に関する書物をよんでいて安東次男さんが一休宗純のことを書いていて一休関連から珠光にたどりつきました。
かなりいい意味で普通の人でない経緯に興味つつだったのを久しぶりに思い出しました。