*道三塚!
*住所=岐阜市道三町12
*道三塚!
道三塚全景 道三塚(祠)
道三塚(墓) 道三塚・説明板
*美濃国の英傑・斉藤道三は、父・長井左衛門将の跡を継いで、
守護代、斉藤の名字を名乗り、国盗りに向けて勢力を伸ばし来ました。
天文13年(1544)には、稲葉山城下まで攻め込んできた「織田信秀」の、
率いる尾張の国中の軍勢を撃退します。
天文17年(1548)に和睦。 その後に道三と正室・小見の方の、
娘である帰蝶(濃姫)が、信秀の子である「信長」に嫁ぎます。
小見の方は、可児郡明智の城主「明智光継」の娘と伝えられており、
「明智光秀」の伯母にあたります。
光秀が道三に鉄砲の指南を受けいたという伝承は、道三と光秀が、
姻戚関係にあったことと何か関連があるかもしれません。
天文19年(1550)頃、道三は美濃国の守護、「土岐頼芸・よりのり」を、
大桑(おおが)城から追放し、美濃国の戦国大名となりました。
天文23年(1え554)には、息子の義龍に家督をゆずり、
自身は鷺山(さぎやま)城に隠居したと、伝えられています。
しかし、道三が義龍の弟二人を尊重し、義龍をないがしろにしたため、
両者は次第に不仲になりました。
天文24年(1555)、義龍は弟二人を殺すと、道三は仰天し、
軍勢を集め町を焼き払い、山県(やまがた)郡の山中(大桑・おおが)城に、撤退します。
弘治2年(1556)、長良川の戦いにて「道三と義龍」が対決します。
4月18日に道三は鶴山に布陣、4月20日に「道三と義龍」は長良川で、
退陣すると、中の渡しで激戦が繰り広げられます。
また、土居口という場所で戦いが行われたと言う史料も確認されています。
合戦は、最終的に「義龍」に軍配が上がり、「道三」は戦死します。
道三の遺体は、崇福寺の西側(現メモリアルセンター付近)に、
埋葬されましたが、塚はたびたび長良川の洪水に見舞われたため、
天保8年(1837)に常在寺の住職によって現在の場所に移されました。
*岐阜市教育委員会・説明板より!
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