
(その1)が1960年頃から1963年頃まで、小学校に入る前の話。(その2)が1964年頃から1966年頃まで、小学1~3年生の話だったので、(その3)としては1967年頃から1969年頃まで、小学4~6年の話を書こうと思っています。
例によって、画像は本文の内容と関係ありません。
例によって、長くなります。

えーと、個人情報保護の観点からあえて月日をずらしてみますけど、カエサルは4月15日の生まれ、兄は6月15日の生まれなんですよ。
ということは、弟の方が兄よりも誕生日が早いわけです。・・・と、これは間違いありません。
ということは、弟の方が兄よりも早く生まれているわけです・・・と、当時のカエサルは考えたわけです。
ということは、先に生まれた方が弟になって、後で生まれた方が兄になるんじゃないか・・・と、当時のカエサルは考えたわけです。
兄などから、そうじゃないよ、生まれた年が違うんだよという説明をされたんだけど、その説明が理解できませんでした。幼稚園児の時間認識能力って、そんなもんなんでしょうか。それとも、カエサルだけ頭が悪かったんでしょうかね。あるいは、「先に生まれたものが弟になり、後で生まれた者が兄になる」という発見をしてしまったので、その自説に拘ってしまったということがあるのかもしれません。カエサルっていうのは、どうも、そういうところがありましたね。ありましたね・・・と、過去形で書きたいです(笑)

音楽教室は、近所にありました。生家からだと、お隣の庭をはさんで、その向こう側。新しい家からでも、歩いて数分というところです。最初は、叔母か誰かがついてきてくれたのです。カエサル、一人ではそういうところに行けない子供だったんですね。家に帰ってくると、「手は、卵を持つような形にするんだよ」とか、大いばりでしゃべりまくるんですけど、一人では行けないのです。
あ。何となくわかってきたような気がするな。あくまでも推測ですけど、カエサルは「一人では行けない」ということを口にするのは嫌な子供だったんですね。口では「一人で行けるよ」みたいなことを言っていて、でも、実際は、一人では行けないという、そういうお子様だったのではないかと思います。1回目は何のかんのという理屈をこねまわして誰かについてきてもらったんだと思いますけど、2回目も3回目もというわけにはいきません。しかたなく、一人で行くようになりました。
そんなある日、月謝を持っていくことになったわけです。母から「これを先生に渡すんだよ」とか言われて、お金の入った袋を渡されたんですけど、それを先生に渡せないんですよ。「先生、月謝です」などと言うことができないんですね。黙って袋を差し出すということもできませんでした。だからと言って、渡せと言われて持って来た袋をそのまま持って帰るというわけにもいきません。困りましたね。そこで思いついたのが、袋をそのまま置いて行ってしまうという作戦です。
作戦通りに袋を置いて帰ろうとすると、先生から「カエサルちゃん、何か忘れ物よ。」と言われて「・・・・・」、「これ、月謝なんじゃないの?」と言われて「・・・・・」、「それなら、ちゃんと言わないとだめじゃない」と言われて「・・・・・」、と、まあ、そんな感じで、それが最後の通塾ということになったんじゃないかな。
自分のことながら、子供って面白いですね。とにかく、内弁慶で、人見知りをする子でしたね。よく知らない人、特に女の人と口をきくということが苦手だったという気がします。それだ。行くことはできるんだけど、そこで先生と話をすることができなくて、それが嫌だったんだ。
・・・と、そういうことを考えていくと、思い当たることが続々と出てくるんですけど、なんか、恐いですね。同時に、今でもそんなに変わっていないな・・・という気もします。まあ、馬齢を重ねて、「月謝です」くらいのことは言えるようになりましたけどね。

カサエルくんが小学校の3年生か4年生くらいのときだったと思います。カサエルくんは、お腹の調子が悪かったんですよ。下痢ですね。でも、当時、学校で、大の方の便所に行くことはすごく恥ずかしいことだとされていて、我慢していたわけです。平気な顔をして遊んでいました。そのうち、ロッカーか何かの上に乗って、そこから落ちちゃいました。怪我をするような、あるいはどこかが痛くなるような、そんな落ち方ではありません。でも、そのときに、プリッと行っちゃったんですね。いや、「プリッ」とまで行かなかったですね。「プ」くらいです。
カサエルくんは、ひょっとしたら出ちゃったかなと思ったんだけど、いや、そんなことはないはずだと思いました。「根拠のない自信」というのは、こういうことを言うんですね。確信しました。漏れているはずはないのです。でも、なんか、周囲の友人たちの様子が変なのですよ。そのときは体操服を着ていたんだけど、今のようなジャージ素材のものではなくて、白いズボンです。もし漏れていたら黄色いシミがついちゃうはずなんだけど、そんなことがあるはずはありません。でも、なんか、周囲の友人たちの様子が変なんですよ。気心の知れた友人の仲には「お前、ウンコもらしてるんじゃないか」と言ってくる奴もいます。しかし、若きカエサルの確信は揺らぎません。「わはは、お昼の弁当のカレーがついちゃったのかもしれないな」などと意気軒昂です。
まあ、何とか一日を終えて、家に帰ってみて、さっそくズボンを脱いでチェックしてみました。たしかに黄色いシミがついています。カレーがついたというわけでもなさそうです。でも、小さいシミです。気がつかない人は気がつかなかったんじゃないかな。まあ、何もなかったことにしよう・・・と、カサエルくんは思いました。

放課後になって、みんなで遊ぼうということになって、何人もの友達と一緒に家に帰ってきました。すると、お母さんが鬼のような顔をして待っています。めったなことで怒ったりしないお母さんですから、カサエルくんは、どうしたんだろう?と思いました。そこで、おねしょをしちゃったということを思い出しました。
「わ、わ、わ。おかあちゃん、ちょっと待って。今、友達来てるから。みんな待ってるから。後で謝るから、今は勘弁して。」
「いいえ、許しません。みんなにもおねしょのことを話して、その後どうしたのかも話して、笑い者になってもらいましょう。あなたはそれだけのことをしたのだから。」
お母さんはそう言いました。でも、結局、そのまま遊びに行かせてくれました。やさしいお母さんですね。めでたし、めでたし。
・・・と、他人事として書いてみると、けっこう楽しいね。なんか、新美南吉か鈴木三重吉にでもなったかのような気がしますよ。
でも、そろそろカエサルに戻りたいと思います。

カエサルは、漫画が大好きだったんですよ。読むのも、描くのも好きで、将来は漫画家になろうと思ったりもしていました。ノートに鉛筆で描いた漫画を回覧したりして、けっこう評判がよかったりもしました。
でも、あるとき、ある友達から「お前の漫画、ひらがなばっかりだな。」と言われたんですよ。そう言われてみると、たしかにひらがなばかりなのです。漢字がないのです。その頃のカエサル、ひらがなは書けるようになっていたし、漢字も読めるようにはなっていたんだけど、感じを書くことはできなかったんですね。
小学校の低学年には「計算ドリル」「漢字ドリル」っていうのがあるじゃないですか。反復学習ということでしょうかね。ああいうのが大嫌いだったのですよ。計算ドリルは何でもなかったんだけど、漢字ドリルは面倒で面倒で大嫌いでした。やりませんでした。そうなると、書けませんね。大人になるにつれて自然に書けるようになるというようなものではなく、どこかで反復学習を積まねば書けるようにはならないわけです。このままでは漫画家にはなれないと思って、勉強することにしました。
国語の教科書の後ろのところに、「1年生で学ぶ漢字」「2年生で学ぶ漢字」みたいな一覧があるわけですけど、それを写してみることにしました。4年生になって1年生の漢字から勉強するというのは恥ずかしいので、ひっそりと、こっそりとやりました。
そうした努力の甲斐があって、漢字を書けるようになりました。立派なことではないかと思います。ちょっと自画自賛してもいいんじゃないかと思います。誰かにやらされたというのではなく、自分で考えて、自分でやってみたというあたりが偉いですね。だいたいカエサルっていうのは、何をやるにもこんな感じなんですよ。人から教わるということが嫌いで、すべて自己流なんですね。良い意味でも、悪い意味でも自己流です。
この場合、ただひたすら漢字を写しただけなので、書き順などというものは無視しました。書き順というものを覚えたのは、30歳を過ぎてからです。それまでの20年間は書き順というものを知らなかったので、悪筆でした。すごい字を書いていましたね。

小学4年のとき、教室に「図書室から借りた本グラフ」みたいなのが貼り出されたんですね。1冊借りるごとに、1cm四方くらいの色紙を1枚ずつ貼っていくわけです。棒グラフが伸びていきます。なかなか楽しいわけです。気がつくと、クラスでも上位になっていました。そうなると、1位を狙いたくなるじゃないですか。がんばりました。借りた本はできるだけ早く読み終えて、すぐに返して、また次の本を借りるようにしたわけです。
たいていの本は1日で読み終えて、翌日に返していました。でも、面白そうだと思って借りてきたものの、読んでみたらつまらないという場合もあります。そうなると、読むのが遅くなって、返すまでに日数がかかります。なかなか1位の子には追いつけません。
そこで、思いついたのが、つまらなかった本については読み終えなくても返してしまうという作戦です。これだと、毎日1冊の本を借り続けることができます。面白い本なんだけど1日では読み切れなかったという場合は、ちょっと遅れちゃうんですけどね。まあ、グラフはグングンと伸びていくようになりました。もうすぐで1位の子に追いつくぞというところまで来ました。
ところが、そこから1位の子のグラフも伸び始めたのですね。追いつけません。彼は、借りた本を翌日返して、同じ本をまた借りるという作戦に出たのですよ。実際には、借りた本は家に置きっ放しなんだけど、手続き上は、本を返したことにし、また借りたことにするわけです。これでは、勝てません。
その後、どうなったのかは覚えていないんですよ。「先生、○君はずるいんじゃないですか」みたいなことを言ったような気もするし、言わなかったような気もします。
カエサルの読書には大きな周期みたいなものがあって、「読み期」と「読まない期」があるんですよ。小学4年は「読み期」のピークだったわけですけど、それが終わっちゃったのは小学5年のときだったと思います。この年(1968年)の10月に、川端康成さんがノーベル文学賞を受賞して、世間では大騒ぎだったわけです。カエサルも読んでみたいと思って、叔母から『伊豆の踊子』を借りてみたわけです。ところが、これが、読んでも、読んでも、面白くないわけです。何とか読み通してみようとがんばったのだけど、がんばっても、がんばっても、面白くないわけです。結局、読み切れないままに終わってしまいました。それだけではなく、他の本も読まなくなってしまいました。

この頃のことで覚えているのは、「花丸事件」ですね。学習ノートを検査する係になっていて、よくできた子には赤鉛筆で丸をつけてあげるんだけど、カエサルのつける丸はページいっぱいにグルグルと渦巻きのような丸を書いて、その周りに花びらのような装飾をつけるという「花丸」だったわけです。これに、クレームがつきました。
クラスの、帰りの反省会みたいなときに、議題として取り上げられました。「カエサルくんがノートに落書きをする」みたいなことを言われたわけです。これにはビックリしましたね。カエサルとしては、悪意がないどころか、積極的な善意、サービス精神として「花丸」をつけていたわけです。それを嫌がられるというのは、心外でした。アンビリバボーでした。
でも、このときに話し合いをして、「嫌だ」という人がいるということもわかったし、「悪気じゃなかった」ということもわかってもらえたと思います。ごめんなさいをして、許してもらえたんじゃないかな。
まあ、何と言えばいいでしょうか。この頃になると、「悪気はなくても悪いことは悪い」ということがわかるようになってきたということかな。カエサルも、少しずつ大人になっているわけです。

それと、この頃に新校舎ができました。鉄筋コンクリートで、トイレが水洗になりました。何年のときから入ったのかな。水洗トイレは、汲み取りトイレと同じような便器で、汲み取りトイレと同じように、中が深いんですよ。その深いところで水が流れていくわけです。ああいうの、ここでしか見たことがないんですけど、なんか、いいですよ。
5年のときの担任は、クサダ先生という男の先生でした。小学校入学以来、初めての男の先生です。いつもニコニコとしていて楽しい先生だったけど、怒るときは嫌な先生でしたね。忘れられないことがひとつあるんですよ。
近くの町で、何かの事故みたいなのがあって、子供が死んでしまったりしたのです。先生は、そういうことがあったという話をして、君たちも気をつけるようにといったような話をされました。深刻な、真面目な話です。カエサルとしても、その話に何かの不平不満があったというわけじゃありません。でも、教室がシンとなってしまって、その雰囲気が嫌だったんですよ。何か、おちゃらけたことを言って、教室のムードを和ませたいと思ってしまったわけです。つまらない、くだらないことを言いました。人が死んだということを茶化すかのような発言をしてしまいました。本当にバカなことをしてしまったと思います。
先生は、怒りました。当然です。でも、その怒り方がおかしかったんですよ。カエサルの隣の席の子を指名して「カエサルを殴れ」と言うのです。指名された子も、困ってしまいました。カエサルは、「いいよ、殴れよ」と言いました。形ばかり殴られました。それでおしまいになったと思います。今にして思うと、あの場面で突然の不埒な発言をされて、先生も動転してしまったのだと思います。「もっと強く殴れ」などとは言わなかったと思います。でも、なんか、嫌な思い出ですね。

その頃になると、教育ママみたいな人が現れて、子供に勉強させたりするようなこともあったんじゃないかな。家に帰ってから一生懸命に勉強するような子もいたと思うんだけど、遊んでばかりいるカエサルくんに勝てないわけです。これは、自慢なのかと言うと、自慢です。あくまでも、昔の田舎の小学校での話ということになるわけですけど、そういう時期があったわけです。いい時代でしたね。でも、それでますます勉強しなくなっちゃったということにもなります。
この頃、趣味というほどの趣味はなかったんじゃないかな。同級生たちに合わせてプラモデルをつくったりしたこともあったけど、それほどのめりこんだということはなかったと思います。読書はしていたけど、さっきも書いた通りで、だんだんしなくなっちゃいました。漫画は読んでいたし、描いていたと思うけど、それほど熱心でもなかったという気がします。少なくとも、大きくなったら漫画家になる・・・などということは言わなくなっていたんじゃないかと思います。何よりも、デブだったし、スポーツが苦手でしたからね。他の子が野球だ、サッカーだ、ドッジボールだ・・・などというときは、端っこの方に混ぜてもらうだけという感じでした。
スポーツは、見るのも好きじゃなかったですね。当時の人気スポーツと言えば野球で、そのほぼ100%が巨人ファンという状況だったけど、野球自体に興味がなかったものだから巨人ファンにはなりませんでした。「王、金田、広岡(おお、金だ、拾おうか)」というギャグがあったりしたのだけど、広岡という選手のことは知らず、級友たちの会話についていけませんでした。
相撲は、大嫌いでしたね。とにかく子供の頃からのデブで、みんなから「カエサルちゃんは大きくなったらお相撲さんだね」とか言われて、えへへ・・・なんて笑っていたんですけど、そう言われるのがすごく嫌だったのです。デブだった(過去形にする必要はないけど)ということに対するコンプレックスは相当にあったんじゃないでしょうか。かつ、そうしたコンプレックスを抑圧し続けてきて、それで、カエサルの性格がひねくれてしまったんじゃないかという気もします。ひねくれたことによって、こんな立派な人格を形成することができたわけですけどね。
話がズンと飛んじゃうんですけど、大人になってからの話、30代、40代くらいの話です。この頃、人から言われて嫌な言葉として、「カエサルさんはそれじゃ足りないでしょう」というのがあったんですよ。一緒に食事をするようなときですね。悪気じゃないのはわかるんですよ。むしろ善意で、自分の分をくれようとしたりもします。お腹が空いているようなときには、有り難かったりもします。でも、嫌な言葉ですね。
面と向かって「お前はデブだ」と言われるのは、まあ、平気なんですよ。言われ慣れているし、バリアが張ってあるというか、ブロックしちゃうというか、そういう直接攻撃で傷つくことはないのです。でも、「それじゃ足りないでしょう」みたいな言葉で搦め手から攻められると、弱いんですね。グサリとまでは言わないけど、チクリと刺さっちゃうのです。
あ。今は大丈夫ですよ。大人になりましたからね。防御態勢をきちんと整えています。どうぞ、お気軽に「それじゃ足りないでしょう」とお声がけください。

ハナミ先生には、小学3年のときかな。殴られたことがあるんですよ。運動会の練習で、学年3クラスで合同のフォークダンスをしていたんだと思います。
カエサルは、女の子と手をつなぐのが恥ずかしくて、嫌だったんですね。いや、違うかな。基本的にはそういうことだと思うんだけど、同じクラスの子に対しては、「お前の手、やわらかいな」とか、わけのわからないことを言いながら手を繋ぐことができたと思います。でも、他のクラスに、かわいい子がいたんですね。その子と手をつなぐことになる順番が、刻一刻と迫ってくるわけです。喜べばいいわけですけど、そのあたりが思春期直前の微妙な男子のこころですよ。ものすごく恥ずかしかったわけです。耐えられないくらい恥ずかしかったわけです。・・・と、そのときのことを覚えているわけじゃないんですよ。でも、そういうことにすると、話が面白いかな、と。それに、ツジツマも合うような気がしませんか。
それで、具体的にどうしたのかと言うと、よく覚えていないのです。たぶん、フォークダンスの輪から勝手に抜け出しちゃったんだと思います。女の子と手をつなぐのが恥ずかしくて嫌だったからだということがわからないように、粗暴なふるまいをしたかもしれません。輪に戻りなさいとか言われても、反抗的な態度をとったのではないかと思います。
そのときに、ハナミ先生に呼ばれました。両手でホオをはさまれるような感じで、バチンと叩かれました。ある意味では、両手でのビンタです。でも、ビンタというものにつきまとう暴力的な感じ、相手を突き放すような感じというのはなかったですね。
そういうことがあって、ハナミ先生のことを恐いと思うようにはなったのだけど、嫌だという気はしませんでした。そういうオーラのある先生だったんですね。6年になって、担任になってくれて、ちょっと緊張はしたのだけど、嬉しかったです。
今回も、ずいぶん長くなってしまいました。小学校の話の最後として、N君のことを書きたいと思います。
N君とは5年のときから一緒のクラスになったんだけど、クラスのツートップを組む秀才でした。家も近くだったので、よく行き来していました。そんなある日、N君の家で遊んでいるときに、近所のおばさんがN君に勉強を教わりに来たことがあったんですよ。びっくりしましたね。調理師か何かの試験を受けるということなんだけど、もちろん、N君が調理師のことを知っているというわけではありません。ただ、テキストを読んであげたり、どういう意味なのかを考えてあげることはできるわけです。
仮にそのオバサンが40歳だったとすると、1929年の生まれ、終戦時は16歳。国民学校の初等科を卒業した後は、ろくに読み書きもしないままだったということが考えられるわけで、そういう人が小学生から読み書きを教わるというのはおかしな話ではないわけです。
考えてみると、そういう時代だったんですよね。
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