拙作集

自作の物語をアップしました。つたない話ですが、よろしくお付き合い下さい。ご感想などいただければ幸いです。

もう妖精は要らない(18) 最終話

2010年02月28日 21時31分26秒 | Weblog
18 エピローグ~それぞれの今

 島になっている一番端のデスクの前で、一人の女性が口をへの字にしていた。
「どうして月またぎの立替精算が今頃出てくるんです?それをダメだって言うのが、課長の役目でしょ?お目付け役の本人が、ルール破ってどうするんですか」
 大きめの机に座っている年配の男性の方が分が悪いようだ。
「いやあ、申し訳ない。接待の領収書を手帳に挟んでおいて、すっかり忘れちゃってね。ここはひとつ、アイちゃんの力でなんとかしてもらえない?」
「経理がうるさいのは、ご存知でしょ、まったく。いつも最後は私にツケを回すんだから」
「あはは、それだけ、頼りにしてるってことだよ」
 何かを思いついて、急に女性は表情を緩めた。
「でも最近、主任は元気になってきましたよね。たまには、課長もやってくれるんだなって。正直、見直しました」
「なんのこと?確かに神山とはこの間一度、話をしたけど」
「あれ?上司の優れたマネジメント力によるものじゃないんですか?なんだ、ほめて損しちゃった。で、主任、何か言ってました?」
「『僕も助けてもらってばかりじゃなくて、時には誰かを守れるようにがんばります』って。あんまりがんばり過ぎるなよ、何かあったら、アイちゃんを頼れって言っておいたけど。彼、大丈夫だと思うよ、たぶん」
「そうですね、よっぽど課長の方が心配だって、よくわかりました」
 その時、トイレから席に戻ろうとしていた祐史のくしゃみが、オフィスに響いた。


「お話をうかがうのは、今日で二回目ね。前回は、ジュエリーボックスに口の悪い妖精がいて、というお話を聞いたのよね」
 すべてが機能重視の病院内で、ここのインテリアだけは少し作りが違っていた。「神経内科」や、「心療科」ではなく、あえて「MC&H」という看板を掲げたのも心憎い演出に思えた。白衣を身に付けず、おしゃれな着こなしで微笑むその姿を前にすると、この人も医者の一人とはとても思えず、まるで雑誌のページから抜け出てきた美人エッセイストのようだと早紀は感じていた。
「ええ、そうなんです。服装の趣味も悪くて。最初に見た時は本当にびっくりしました」

 この人にはなんでも聞いてもらえる、そんな安心感があった。あの日、祐史の前で、今思い出しても恥ずかしくなるような「事情説明」をして以来、フレミーは姿を見せていない。早紀は自分とちゃんと向き合おうと決心し、師長とも相談して、院内で評判になっているここのドアをノックしたのだった。

「そんなものが見えたら、不安になって当然だけど、大丈夫、心配することはないわ。あなたはとても強い人なのね。そんなあなたゆえの、そうね、防御反応と言ったらいいか、そういった類のものじゃないかしら。じゃあ、今日は続きを聞かせて下さい」

 横の棚に視線を向けると、花束を生けたガラスの器の横に、小さな熊のぬいぐるみがとぼけた表情で座っていた。
(ちょうど、あの派手好きな妖精くらいの大きさだわ。栞理ちゃんが見たら、喜びそうな顔してる)
 早紀は、敏腕の女医と向き合うと、おもむろに話を始めた。


「検温です。痛みの方はどうですか?」
 看護師長が部屋に入っていくと、背を起こしたベッドにもたれていた女性患者は、開いていたスケッチブックを閉じて向き直った。
「ええ。ありがとう。この間やってもらったのがよく効いているみたい。何と言ったかしら、ええと…」
 何のことですかと、顔を覗き込むベテラン看護師を手で制すると、香坂妙子は少し考えるそぶりをした後、口を開いた。
「腹腔神経叢ブロック、だったわね?」
「正解、です。また痛みが出るようだったら、遠慮なくおっしゃって下さい」
 師長は体温計を渡しながら、孤高な元教諭にたずねた。
「今日は何を描いておられたんですか?」
 妙子は、その問いには答えず、かすかな微笑みを浮かべたまま、閉じたスケッチブックの表紙を指先で軽く叩いてみせた。師長もあえて詮索はせず、測定にかかる短い時間を微笑みと沈黙で埋めていた。ピピッという電子音を受け、患者は体温計を脇から抜いて手渡しながら言った。
「私は幸せ者ね。皆さんにこんなによくしてもらって。向こうであの子に会うのが楽しみだわ。素敵な土産話を持って行けそうよ」


 窓からは病院の周囲の様子がよく見えた。外を吹く風はまだ少し冷たかったが、中庭の芝生では栞理が咲きそろったパンジーの花の色を数えていた。春がすぐそこまで来ていることを、確かめるように。

もう妖精は要らない(17)

2010年02月28日 21時29分29秒 | Weblog
17 赤裸々な告白

 嵐のような三日間が過ぎた。早紀の思った通り、栞理は重症の肺炎を発症しており、劇症型心筋症の恐れもある、重篤な容態だった。必ず助けると言った救命医は、院内のチームを上手に動かして難しい処置を的確に行い、栞理を「早過ぎる悲劇」から救い出してくれた。

 入院は二ヶ月に及んだが、栞理は胸に手術痕を残しながらも、後遺症もなく回復することができた。退院の日、早紀は初めて有給休暇を使い、祐史と栞理に付き添うことにした。三月に入って日差しは暖かさを増し、日に日に春の訪れを感じる季節となっていた。

「これが退院後の注意です。お母さん、よく読んでお子さんを労わってあげて下さいね」
 看護師の勘違いを訂正せずに聞き流した。今日は前髪を下ろしている。少しは落ち着いて見えるのだろう。
「ほんと、栞理ちゃんはかわいいですね。入院中も、みんなにかわいがられて。こうして見ると、お母さんにそっくり」
 早紀は微笑みを返しただけで、黙ってその誤解を受け入れた。

 世話になった救命医は姿が見えなかった。きっと今頃、また新しい難題に立ち向かっているに違いない。
(先生、ありがとうございました。お身体を大切にして下さい)
 早紀は心で頭を下げると、栞理を抱いた祐史に続いて、一緒にタクシーに乗り込んだ。

「本当に助かった。あの時、早紀さんがいてくれなかったら、と思うと、今でも怖くなる。今日もわざわざ来てくれて。何とお礼を言ったらいいか…」
 早紀はわずかに口角をあげると、ゆっくりと首を横に振ってみせた。
(私にはお礼を言われる資格はない、なんて言ったら、また彼女に叱られるかしら)
 次から次へと胸に浮かぶものがあったが、今はただこの状況に身を委ねよう、と早紀はそう思っていた。

「救急車で運ばれた時に、最初に看てくれた救命の先生がいたよね、今日はおられなかったけど。あの人に言われたんだ」
 唐突に祐史が早紀に話しかけた。疲れてしまったのか、栞理は彼の腕の中でかすかな寝息をたてている。
「『あなたは本当に運のいい父親だ』って。なんて言ったっけ、エク…、ああ、それ、肺の役割をする機械。運び込まれるなり、早紀さんから突然そんな提案をされて、正直驚いたって言ってたよ」
「看護の専門誌に事例が載っていたのを、たまたま読んでましたから。もし、栞理ちゃんがって思ったので、覚えていただけですよ」
「幼児に使うには危険を伴うから、家族に説明するのが大ごとらしいね。早紀さんが言い出したんだから、きっとうまく僕に伝えてくれるだろうって、あの先生は思ったみたい。事実そうだったし。おかげで難しい治療に専念できて助かった、あの看護師の知り合いに感謝しないとなって。栞理も小さいのに、つらい治療に耐えてよくがんばった、ほめてやりなさいって言われたよ。あとね、こんなに腕のいい医者とチームワークに優れた病院はそうはないぞって。最後は笑ってたけどね」
「私のことは別として、本当にその通りだと思いますよ。優秀なドクターほど、大事なところでは体面にこだわらずに患者さんのことを第一に考えてくれます。柏原先生もそうですけど」
「僕にとっては、早紀さん、あなたがいてくれたのがすべてだった。看護師さんとして助けてくれたのはもちろんだけど、それだけじゃなくて、あの場に一緒にいてくれたからこそ、栞理も僕も今こうしていられるんだと思う」
 早紀はその言葉には答えず、窓を流れる景色に視線を投げた。縛っていない髪が肩の上で揺れていた。

 マンションに着くと、まず栞理をベッドに寝かせた。念のためと断って、早紀は聴診器を取り出すと小さな胸に当てた。あの日のことが悪夢であったように、穏やかな呼吸とリズミカルな心音を耳にして、早紀はようやく緊張を解いた。

「大丈夫ですね。胸の音もとても綺麗です」
 祐史は黙ってその様子を見つめていたが、やがて早紀と向かい合う位置に立ち、リボンのついた平たい箱を差し出した。
「クリスマスプレゼントのつもりだったんだけど、渡しそびれてしまって。時期外れになっちゃって申し訳ないけど、受け取ってもらえるかな?」
 もう自分には縁がないと思っていた贈り物を前にして、早紀の心はほころんだ。
「ありがとうございます。喜んでいただきます」
 笑顔で受け取り、開けてもいいですか?とたずねると、祐史も笑ってうなずいた。箱の中から出てきたのは、薄いクリーム色のセーターだった。上品な手触りで暖かみがあり、春の訪れを感じさせる色合い。早紀はそれを胸に抱き、祐史に頭を下げた。彼は少し照れながら選定理由を語った。
「気に入ってもらえたら、いいんだけど。実は僕の見立てじゃないんだ。栞理がね、早紀ちゃんには、こういうぱっと明るいのが似合うよって」

 思えば、あの時以来、地味で目立たないものばかり身に付けていた。明るい色合いや派手なデザインの服装など考えたこともなかった。
(私は自分で自分に鍵をかけていたのかもしれない)
 そう思って黙った早紀に、祐史は思いがけない言葉を投げかけた。

「早紀さん、失礼を承知で言います。僕と栞理と、もっと近くで一緒にいてもらえないだろうか?僕はもう、女の人を意識することはないって思ってた。でも、あなたと出会い、あなたを見ていて、この人と一緒に歩いていけたらって、素直にそう思えるようになったんだ。僕の願いとして、あなたにそばにいてほしい」

 一瞬、栞理を真ん中に、三人で手をつないで歩く様子が脳裏に浮かび、早紀は軽いめまいを感じた。この申し出を受け入れれば、自分には今ないぬくもりがもたらされる、そう思ったら、すぐにでも祐史の腕の中へ飛び込んでいきたい衝動に駆られた。

 ふと傍らに人の気配を感じて視線を振ると、もう一人の自分がすぐ横に立っていた。いきなり左手首を強くつかまれ、早紀は痛みに顔をしかめた。

(あなたには、そんな「楽園」で生きることは許されない)
 心にこだました、ぞっとするような自分の声に、思わず身体が硬直した。同時に、下半身に生暖かい異様な感じを覚えて、視線を落した早紀は驚愕して目を見開いた。いつの間にか足元に血だまりができ、それがゆっくりと広がっていく。身体の芯から起こった震えが全身を襲い、足ががくがくするのがわかった。早紀はこらえきれずに膝を折り、血の海へしゃがみ込んだ。

(もうごまかすことはできない。隠して済むことじゃない…)
 少しの間、深い息を吐きながら、早紀は自分に落ち着きが戻るのを待った。やがて彼女は、驚いて駆け寄った祐史の手を静かに払いのけ、ゆっくりと立ち上がった。血だまりは消え、身体の震えも止んでいる。もう大丈夫だと自分に言い聞かせて、早紀はすべてをさらす決意を固めた。
「もっと一緒に、だなんて、私には何よりも嬉しいプレゼントです。私は祐史さんが好きだし、栞理ちゃんのことも大好き。もっと近くにいられたら、どんなに幸せか…。でも、それを受け入れることは、私にはできそうにありません」

 抑揚を抑えて一気に言った後、早紀は深呼吸を一つして、自らの物語を語り始めた。
「看護学科を卒業した後、私は大学病院に勤め、そこである男性と付き合うようになりました。彼は同じ職場の医師で、福島の大きな病院の跡取りでした。私たちは結婚の約束を交わしていました。三年前のクリスマスの日、彼の運転する車が事故を起こしました。カーブでスピードオーバーしてスリップした自損事故…。幸い、彼の怪我は軽いものでした。でも、助手席にいた私は違っていた」
 早紀は前ボタンを外して灰色のニットワンピースを脱ぎ、次いで、ためらうことなく黒いタイツを下ろして左右の足を抜いた。我ながらその行為に驚きながらも、身体が勝手に動くのに身を任せた。かろうじて下着だけをまとった姿で、呆然と立ち尽くす祐史と向かい合うと、何事もなかったかのように話を続けた。
「骨盤骨折、腰椎の一部損傷、内臓にも深刻なダメージを受けました。重い障害が残ったり、最悪死んでもおかしくなかったと後で聞かされました。私が今、生きて普通に暮らしていけるのは、救命医療のおかげだし、奇跡だと思っています」

 祐史は気圧されたように黙って、半裸で語る早紀の告白を聞いていた。下着越しでも、大腿部から左わき腹にかけて、痛々しい傷跡と縫合痕が見てとれた。
「でも、すべてが事故の前と同じというわけにはいかなかった。傷は卵巣や子宮にも深く及んでいて…。私はもう妊娠や出産を望むことはできません。彼の両親の猛烈な反対もあり、結局、私たちは別れました」
 傷を残した左半身をかばうように、早紀は右手を自分の左腰に回した。

「こんな私は、祐史さんや栞理ちゃんと一緒に生きていくには…ふさわしくありません」
 言い終えると、張り詰めていた糸が切れた。早紀はその場にうずくまり、身体を震わせて泣いた。祐史は部屋を出て行くと毛布を手に戻り、傍らに跪いて嗚咽に震える彼女をそっと包んだ。

「僕が勝手なお願いをしたばっかりに、あなたを深く傷つけてしまった。でも、誤解しないでほしい。僕は、僕と栞理とあなたで、もう一度、家族を作っていきたいんだ」
 祐史の言葉は、泣き続ける早紀に降り注いだ。
「僕には、あなたの荷物を軽くすることはできない。だけど、お互いの抱えているものを一緒に持つことはできるんじゃないかな。僕たちを信じて、一緒に歩いてほしい。あなたがそんな気持ちになれる日まで、いつまでも待ってるから」
 彼の手の感触を、早紀は背中で感じていた。

もう妖精は要らない(16)

2010年02月27日 21時17分58秒 | Weblog
16 聖夜の騒動

 約束の二十五日がやってきた。その日も、病棟はいつもと同じ喧騒と対応に追われていた。シフトの引継ぎを終え、いつもより早く片付けをしたつもりだったが、それでも時間はぎりぎりになっていた。

「すみません、今日はこれで失礼します」
「謝ることはないわ。あなたの今日のお仕事は、もう終わってるのよ。今からでも、素敵なクリスマスを楽しみなさい」
 師長に背中を押されて、早紀はロッカーへと駆け込んだ。できるだけおしゃれをして、と思っていたのに、結局いつもと同じ黒いセーターとスカートで出勤していた。薄青色の白衣から着替えるしか、選択肢はない。
(早くしないと、時間に遅れる)
 脱いだ白衣を乱暴にたたんでトートバックに入れた。七つ道具はポケットに入ったままだったが、洗う前に家で出せばいいと割り切った。コートを羽織って飛び出した師走の街には、痛いほど冷たい風が吹いていた。

 約束の時間に少し遅れて、栞理親子が住むマンションに到着した。広くはないが、小綺麗に片付けられている。玄関には、栞理のものと思われる小さな靴が、きちんと揃えて脱いであった。
「ごめんなさい、遅くなってしまって。お言葉に甘えてお邪魔しました」
「すみません、クリスマスの日に呼んだりして」
「いえ、特に予定もないので。あまり手間をかけずにってお話だったので、途中でチキンを買ってきました」
 普段なら、真っ先に足元に飛びついてくる小さな女の子の姿が、今日は見えない。
「栞理ちゃんは?」
「それが興奮したのか、昼前くらいから調子が悪いみたいで。今、隣の部屋で休ませてるんだけど」
 早紀は胸がざわつくような不快な感触を覚えた。患者さんが急変する時、こんな感じが込み上げてくることがある。栞理のことが急に心配になった。
 同時に脳裏をよぎった、クリスマスの思い出したくない記憶を払いのけ、早紀はなすべきことを決めた。
「ちょっと様子を見てきますね」
 瞬時に、看護師としての自分にスイッチが入った。寝室と思われる部屋を開けると、小さめのベッドに栞理が目を閉じて横たわっていた。暗がりの中で、差し込む光の当たった頬が赤く見えた。
「栞理ちゃん、大丈夫?」
 語りかけながら、額に手を置く。それだけで体温の異常は実感できた。耳を澄ますと、ゼーゼーという呼吸音が聞こえてきた。
(明らかにおかしい。たぶん、新型…)
 早紀はトートバックに手を伸ばし、白衣を引っ張り出すと、ポケットを探った。ラテックスの手袋、ハイバリアのマスク、ペンライト、そして、使い慣れた聴診器。急いで、「装備」を身に付け、心配そうに見守る祐史に声をかけた。
「体温計をお願いします。たぶん、急いで病院に運ばないといけないと思います。神山さんもマスクをして、手を洗っておいて下さい」
 突然指示され、祐史は呆気にとられて早紀の顔を見つめた。
「様子が普通じゃありません。さあ、早く!神山さんまで倒れたら、誰が栞理ちゃんを守るんですか?」
 自分でも驚くほど、最後は声が大きくなっていた。その勢いに押され、促された祐史も行動を開始した。

 体温計は、予想を越えた数字を示していた。脈拍も平時とは比べものにならない。聴診器を通して聴こえる呼吸音は、この世のものとは思えない、恐ろしい響きを伴っていた。早紀は祐史を振り返って言った。
「早く病院に運ばないと。救急車を呼んで下さい」

 救急車のサイレンがすぐ近くで止み、二人の隊員が入ってきた。早紀は手短かに事情を説明した。
「患者は三歳女児、新型インフルによる発熱と呼吸不全です。小児の感染症に対応できる救急病院へ受入要請して下さい。バイタルは搬送中にお知らせします」
 救急隊員は、驚いた表情で早紀の早口を聞いた後、一人がかろうじてたずねた。
「あなたはお子さんのお母さん、ではないんですか?」
「私はこちらとは知り合いで、看護師をしています。容態は急激に悪化していて、予断を許さない状況です。迅速な対応をお願いします」
 救急車の中で、薄く目を開けた栞理の胸に、早紀は再び聴診器を当てた。恐ろしい呼吸音を背景に、聞き慣れぬ女性の声が、かすかに鼓膜を振るわせた。
(ありがとう、栞理を守ってくれて)
 早紀は周囲を見回したが、声の主はどこにも見当たらなかった。
(あなたの力でこの子を助けて。私ができなかったことを…。あなたなら、きっと大丈夫だから)
 早紀は驚きながらも、聴診器を耳から外し、託された思いの深さをしっかりと胸に刻んだ。

 栞理と祐史、そして早紀を乗せた救急車が急患搬入口に停止すると、紺色の医療衣を着た医師が近づいてきて、ストレッチャーに寄り添う早紀に声をかけた。
「さっき、搬送中に状況を知らせてきたのは?」
「私です。出過ぎたことをして申し訳ありません」
「患者の命を救う瀬戸際で、つまらんことを言うな。おかげで様子がよくわかった」
「先生、もう一つ、余計なことですが…」
「なんだ。単刀直入に言ってくれ」
「呼吸音が異常で、肺機能に重い障害が予想されます。しかも、短時間で急激に悪化しているようです」
「何が言いたい?」
「ここなら、ECMOをお持ちですよね?」
 患者と一緒に飛び込んできた看護師が、治療にまで注文を付ける。こんなケースは、極めて異例だったので、医師はマスクの上の目を丸くして早紀の顔を見た。

(あるいは、逆効果になるかも…)
 リスクをあえて犯す覚悟を固めて、早紀は救命医に食い下がった。
「一刻も早く肺機能をアシストする必要があると思います」
「君はどこの病院の看護師だ?」
 突然、医師は話を変えた。早紀はありのままに素性を明かした。
「癌研の消化器科で病棟勤務をしています」
「癌研?消化器ということは、もしかして柏原の?」
「はい、私は柏原先生の患者さんをケアしています」
「なるほど。それなら、要らぬお節介もするはずだ」
「柏原先生をご存知なんですか?」
「研修医のときに一緒だった、あの偏屈オタクと」
 一瞬だけ、彼の鋭いまなざしが緩んだように思えた。
「君の言いたいことはよくわかった。九州での症例を踏まえての意見だよな。だが、なめてもらっちゃ困る。うちだって、救命、小児科、呼吸器科、MEで連携して、感染症対応のシミュレーションをやってる。門外漢に言われるまでもなく、人工肺の使用は想定内だ。もちろん、まず病状を確かめてからだけどな」
 早紀は黙って深く頭を下げた。最善に向けて動けるなら、体裁など問題ではない。
「安心しろ、君の大事な天使は、必ず助ける」
 彼は早紀の肩をぽんと叩くと、内線端末を耳に当てて大声で指示を出しながら、処置室に向かった。部屋に入りざま、彼は一瞬だけ立ち止まると、早紀の方を振り向いて言った。
「この件は柏原への貸しだ。落着したら、奴のおごりで久しぶりに一緒に飲むことにする。その時は、君にも付き合ってもらうからな。覚えておけよ」

もう妖精は要らない(15)

2010年02月27日 21時17分01秒 | Weblog
15 涙の河を渡って

「なんて微妙に困ったって顔をしてんのよ。嬉しいなら嬉しいで、もっと喜べばいいでしょ!」
 不意に声が響き、早紀は思わずビクッとして、テーブルに置いたジュエリーボックスを覗き込んだ。ついさっき、胸元から外したブローチを入れた時にはいなかったのに、いつの間にか、そのブローチによりかかるような格好で、フレミーが頭の後ろに両手をあて、足を組んで天井を見ていた。今日はラメが散りばめられ、サイドが大きく開いたチャイナドレスを着ている。彼女は身体を起こすと、早紀の顔を見て言った。
「で、どうなの?どんなお誘いかは知らないけど、どうするの?」
「全部が全部、わかってるわけじゃないのね?」
「ふん、知ったところでどうなるもんでもないけど」
「クリスマスの日にね、おうちに呼ばれたのよ。この間の妙子先生の一件もあったし、栞理ちゃんがみんなでクリスマスがしたいって」
「いいんじゃないの。どうせ予定は空いてるだろうけど、あなただったら、他の人の夜勤を代わってあげましょうかとか、聞いて歩きそうだものね」
「私はどうしたらいいのかしら…」
「悩む必要はないでしょ。行きたかったら、行く。行きたくなかったら、断る。なんなら、とっておきの勝負下着を貸してあげるわよ」
「そんなもの要りません。栞理ちゃんの顔を見ながら、クリスマスを過ごせたらいいだろうなって思うけど」
「だったら、行けばいいじゃない」
「でも私にそんな資格はないわ」
「ばかじゃないの!」

 フレミーの声が、今までに聞いたことがないほど大きかったので、早紀は目を見開いて彼女を見た。
「あなたの話を聞いていると、本当にいらいらするわね。医者や看護師になるってわけでもあるまいし、資格って一体何?『人を好きになる 初級』とかあるわけ?そうやって自分の殻に閉じこもるのは勝手だけど、いつまでもいじいじ悩んだりしないでほしいわ」
 急に目頭が熱くなった。堪えきれずうつむくと、数滴のしずくが頬をつたって流れていくのが感じ取れた。
「やれやれ、都合が悪くなると、今度は泣いてごまかすの?本当に手間がかかる人よね、あなたは」
 フレミーは鼻を鳴らすと、ブローチからひらりと飛び降りて、足元の小さな水たまりを覗き込んだ。それは早紀の涙が宝石箱に落ちたものだった。

「あなたはね、本当はあの時に死んでたの」
 早紀はしゃくりあげながら、上から目線でものを言うフレミーの顔をそっと見つめた。
「そう思ったら、失うものなんか何もないんじゃないの?ほら、行きなさい。答えはもう出てるでしょ」
 彼女はいきなりチャイナドレスをまくって片足をあげ、思い切り涙の水たまりを踏みつけた。ほんのわずかな水音がして、フレミーの姿は忽然と消えていた。同時に、早紀の心で今までとは違う何かが弾ける音がした。

もう妖精は要らない(14)

2010年02月26日 22時57分06秒 | Weblog
14 限られた邂逅

 今年も残りわずかとなっても、暖かい日が続いていた。祐史は大きな木の下のベンチに座り、目の前に広がる丘を眺めていた。陽だまりの中、整然と並ぶ墓石がなければ、ここが多くの人が眠る場所とはとても思えなかった。「しあわせのはっぱを摘んでくるね」と言い残し、小さな娘は姿を消した。今頃どこかで、彼女なりに、つかの間の冒険を楽しんでいることだろう。

 他には誰もいないと思っていたのに、急に目の前を横切る人影があった。松葉杖に身体を預け、両足を振り出すようにして進むと、祐史の前で立ち止まり、ベンチ右側の空いたスペースに身を寄せてきた。祐史は突然重くなった手をなんとか差し出して松葉杖を受け取り、彼女が腰掛けるのを手伝った。

「久しぶりね。ちょっと痩せたんじゃない?」
(そんなことはないよ。朝ご飯はちゃんと食べてるし。野菜ジュースだって飲んでる)
 声を出そうとしたが、金縛りのように身体の自由が利かなかった。ただ、言葉を心に思うことで会話は成立していた。優理の声はリアルに耳に響いてきた。
「大きくなったわね。私が胸の上で抱いた時には、本当に育つのかしらって思ったのに」
 優理は遠くに視線を投げた。栞理の姿は目の届くところにはない。
「あなたには申し訳ないと思ってる。こんなことになってしまって…」
(そんなことはいいよ。僕らは大丈夫だから。ねえ、優理、一つ教えてほしいんだけど)
「何?」
(ここにたった一人でいて、寂しくはないの?)
「いいえ。こうしてゆうちゃんも来てくれるし。あの子の成長を見ることもできる。私は安らぎの中に眠っているから、安心して。私がここにって望んだのは、母さんから聞いたでしょ?」
(ああ。『あの子は、万が一の時にはこういうところで眠りにつきたいと言ってた』って。君は本当は水没事故の時に亡くなっていて、赤ちゃんを産むためだけに帰ってきたって、お義母さんは今でもそう信じてるよ)
 優理はわずかに表情を緩めただけで、祐史の話に言葉は返さなかった。やがて彼女は静かに口を開いた。
「『しおり』って言うのね?」
(うん。優理の名前から一文字を入れて付けた)
 再び、彼女は沈黙した。その表情には、かすかな微笑みが浮かんでいた。
「この間、看護師さんが来てくれた。母さんのことを看てくれてる人」
 優理は身体を回すと、祐史と向き合って視線を合わせた。まっすぐな瞳は前とまったく変わっていない。
「素敵な人ね。あの人なら、母さんが『栞理の母親に』って思っても無理はないわ」
(どうしたの?いきなりそんなことを言って)
「ゆうちゃんには言ったよね?私のこと、引きずらないでって。私のために、人を愛することをためらわないで。栞理のためでも、母さんのためでもなく、あなた自身の気持ちを大切にしてほしい」
(お義母さんにも同じことを言われた。確かに相本さんは素晴らしい人だと思うよ。でも、彼女を僕の運命に巻き込んでしまっていいのか、僕にはわからない)
「巻き込むんじゃなくて、一緒に大事なものを作っていくのよ。時には守ってあげなきゃいけないだろうし。必要なことは、時と場面が決めてくれる。臆病にさえならなければいい、それだけ」
(わかった。優理が言うなら、そうするよ)
「じゃあ、もう行くね。母さんに、あんまり急いで来ないでって伝えておいて」
かすかな微笑を浮かべてゆっくりと立ち上がった優理に、祐史は以前と同じように松葉杖を手渡した。
「ありがとう。ゆうちゃんも身体を大事にして。栞理のこと、しっかり見てあげてね」
(優理…。また会うことはできない?話したいことが、たくさんあるんだ)
「ごめん。これだけでも特別なの。大丈夫、心で思えば、私はそばにいるから」
 ふっと意識が遠のき、目の前が真っ暗になった。長いような短いような、不思議な感覚で時間が過ぎた後、小さな手に膝を揺すられ、祐史は恐る恐る目を開いた。
「パパ、おきて!四枚のはっぱ、こんなに見つけたよ」

もう妖精は要らない(13)

2010年02月26日 22時56分04秒 | Weblog
13 娘婿への遺言

「この間は、あなたにも悪いことをしたわね。すっかり騒がせてしまって」
 いつものようにベッドの背を起こして窓の外を眺めながら、妙子は傍らの丸椅子に腰掛けた祐史に語りかけた。この人の背筋は今日もぴんと伸びていると思いながら、祐史は笑顔を返した。栞理は、早紀を見つけて入っていったナースステーションで一躍アイドルになっていた。

「あまり気にしないで下さい。大事に至らなくてよかったです。薬が合わないこともあるんですね」
「私がわがままを言って出してもらったのよ。栞理にも気の毒なことをしてしまって」
「大丈夫ですよ。相本さんがいてくれて本当によかった。おかげで適切な処置が迅速にできたみたいです」
「医療や看護の技術にかけては、ここにいる人はみんな優秀だわ。でも彼女は特別。こういうのを運命って言うのかもしれないわね」

 少しの間、黙って窓の外を見ていた妙子は、やがて心を決めたように祐史の方を向いて言った。
「今日はあなたに渡したいものがあるの」
妙子は、ベッド脇に置かれた物入れの引出しを指差した。祐史は言われるままにそれを開け、小ぶりのスケッチブックを取り出して妙子に渡した。彼女はおもむろにある頁を開くと、祐史に示して見せた。
「あっ」
 そこに描かれた人物を見て、彼の口からは小さな驚きの声があがった。一人の女性がベッドの背に身体を預けている。自分を描いている者からは視線を外し、遠くを見ているその表情には、かすかな微笑みが浮かんでいるように見てとれた。
「優理…」
「ちょうど、栞理がおなかにいる頃ね。落ち込んで、私が泊まりに行ったことがあったでしょう。あの時に描いたの」
 しばらくの間、祐史は黙ってスケッチブックの人物を凝視していた。やがて彼は静かに言った。
「まるで、生きてここにいるみたいです。でも、どうして今、これを僕に?」
「亡くなった直後には、さすがに渡せなかった。あなたには、できるだけ優理を引きずらないでほしかったから。でも、もういいわよね。私が逝く前に、渡しておきたかったの」
 祐史は黙ってスケッチブックを見つめていた。必死に何かを堪えているようにも見えた。
「あなたに渡したいものは、これだけじゃないの」
 そういうと、妙子は手を伸ばしてスケッチブックを受け取り、別な頁を開いて再び彼の手に戻した。
「えっ!」
 今後は別な驚きを持って、祐史はスケッチブックを覗き込んだ。そこには、小さな女の子が屈託のない笑顔で立っていて、そのすぐ前に一人の女性がしゃがみこんで笑っている構図のスケッチが描かれていた。女の子は栞理、そして彼女と目線を合わせてたたずむ女性は、早紀のように見えた。
「これは…」
「そうよ、相本さん。早紀ちゃんを描いたの」
「お義母さんは一体何が言いたいんです?」
「私はね、早紀ちゃんのことが大好き。そのせいかしらね、あなたがあの子を見る目も特別みたいに思えてならないの」
「そんな乱暴な。第一、彼女に迷惑ですよ」
「あら、そうかしら。私はあなたに優理を忘れてほしくない。でも、それ以上に縛られてほしくないの」
「お義母さんらしい冗談として受け取っておきます。もしかして、栞理に母親をって、お望みなんですか?」
「あなたは本当によくやってくれていると思う。でも、これからさらに大きくなっていく栞理に、父親だけしかいないのは、やはり不憫だわ。うまく伝えるのが難しいけど」
「これはありがたくいただいて大切にします。今日はそれだけで勘弁して下さい」
「そんな、勘弁だなんて。どうしてほしい、とまでは言わないけど…。あなたもやがて優理から解き放たれる日が来る、その時には、どうか心が求めるものを諦めないでほしいの。それが私からのお願い」
 祐史は黙って深くうなずくと、スケッチブックをしっかりと胸に抱えた。

もう妖精は要らない(12)

2010年02月25日 23時37分26秒 | Weblog
12 父の心配、娘の事情

「もしもし」
 最初に電話に出たのは祖母だった。その声を聞くと、心がなごむ気がした。
「あ、私、早紀」
「久しぶりだねぇ、元気にしてるかい?病院は忙しい?」
「うん、でも大丈夫。ばあちゃんも元気そうだね」
「今年は天気がおかしくて。りんごの出来が今ひとつだって、峯男がこぼしてるわ」
 耳に押し当てた携帯を通して、父を下の名前で呼ぶ祖母の声が届いてきた。いくつになっても息子は息子、そう言っていた祖母の言葉を、早紀は懐かしく思い出していた。しばらくの沈黙の後、受話器はその息子に渡された。
「おう、どうした?忙しいか?」
 相変わらず愛想がない父の声を聞いて、早紀は不義理を謝った。
「ごめんね、収穫の手伝いにも行けなくて。私は元気だから、安心して」
「そうか。秋には俊幸が来て手伝ってくれたし、こっちは心配ねえ。ばあちゃんも元気だ」
「うん、そうだね、さっき話した」
 もう続ける話題がない。短い沈黙を重く感じだした時、無口な父親が口を開いた。
「この間、同級会があった」
「うん」
「仲ノ内の菅山って、わかるか?」
「菅山敬愛病院の?」
「ああ、あいつに会った。医大に残ってたけど、こっちに帰って来て、今は院長をしてる」
「そうなの。あそこはベッド数も多いし、大きな病院だものね」
「看護のスタッフが足りないって、こぼしてた」
「地方はどこもそうなのね。よく聞くよ、そんな話」
「お前のこと、呼び戻せって。あいつ、酔うとしつこくて参った…」
 無骨な父がなぜ苦手な世間話を仕掛けてきたのか、早紀にもようやくわかった。
(私を心配に思ってのことね…)
 ありがたいのは確かだが、すぐに、じゃあそうする、というわけにもいかない。父もそのことはよく承知しているはずだ。
「父さん、ありがとう。でも、今の職場を投げ出すわけにもいかないし。お正月はわからないけど、またきっと帰るから」
「この間、死んだ母さんと話した」
「え?」
「夢に出てきて。お前が身体を壊すって心配してた。だから、まあ、気を付けろ」
「私、本当に大丈夫だから。また母さんと会ったら、そう伝えておいて。父さんも身体には気を付けてね。近くにいられなくてごめん」
「気にするな。母さんには、お前のこと、心配ないって言っておく」
「うん。帰るときは連絡するね。じゃあ、また」
 携帯を切った後の沈黙は、いつもより重たく感じられてならなかった。

もう妖精は要らない(11)

2010年02月25日 23時36分22秒 | Weblog
11 妖精からの助言

 嵐のような一日が終わり、早紀はくたくたの身体を抱えて冷たい部屋に帰ると、明かりをつけた。首にかけていたペンダントを入れるために、宝石箱に手を伸ばす。彼女が現れることはわかっていた。

「どう、言った通りになったでしょ?」
 案の定、小憎らしい妖精は、腰に手を当てたポーズをとり、蓋を開けた早紀の方を見上げていた。巻かれた毛先がはねて、肩に踊っている。今日は黒い皮のジャケットとスカートに豹柄のタイツ。早紀には絶対に真似できないファッションだ。

「で、どうなのよ?やさしいパパさんに抱き締められた感想は?」
「変な言い方は止めて。倒れるところを助けてくれただけなんだから」
「久しぶりだものね、男に抱かれるなんて」
 フレミーは意地悪な笑いを投げると、さらに嫌味を吐いた。
「もう二度と男はごめんだって言うのかと思ってたけど。まんざらでもなさそうね」
 むきになって反論することに疲れを感じて、早紀は素直な思いを口にした。
「神山さんは悪い人とは思えないわ。それに、あの人も消せない過去を抱えてる」
「ふーん、随分と今日は穏やかだこと。思惑通りってことかしら?」
「どういう意味なの?」
「子連れの彼が相手なら、ボロボロなあなたでも、案外ウケるかもしれないものね」
「私のことはともかく、あの人のことを悪く言うのは止めて」
「そんなに静かに言われると、かえって怖いわね。まあ、当人同士がいいなら、別にかまわないんだけど」
 フレミーの揶揄を無視して、早紀は独り言のように言った。
「妙子先生は私に何を望んでいるんだろう。あの人には看護師としてではなく、一人の人間として向き合いたい。私に何ができるのか、よくわからないけど」
「答えは簡単じゃないの。あなたが一番よくわかっているはずでしょ?孫を思うおばあちゃんの心中が。それに、他人のお姑さんの心配より、あなたにはすることがあるんじゃないの?」
「え?」
「きっと寂しがっているでしょうね、りんご作りしか頭にない、あの頑固親父でも。ずっと連絡もしてないみたいだし」
 はっと思った。このところ、長野の実家には電話一つ入れていない。
「もう収穫も片付けも落ち着いた頃なんじゃないの。あらら、なんで私がこんなお節介を言わないといけないのよ、まったく。まあ、自分の親にもせいぜい孝行することね、白衣の天使さん」
 フレミーは右手を高くあげると、頭上で指を鳴らしてみせた。その音とともにオルゴールは止まり、彼女の姿はかき消すように見えなくなった。

もう妖精は要らない(10)

2010年02月24日 23時00分41秒 | Weblog
10 束の間だけの抱擁

 ただならぬ様子に驚いて、早紀は祐史とともに病室へと急いだ。妙子は目を閉じ、肩で息をしていた。
「香坂さん!」
 呼びかけにも、反応は戻らなかった。早紀はナースステーションをコールするとともに、ドクターにも連絡した。主治医の柏原が駆けつけるまでの間、早紀は聴診器を妙子の胸に当てて容態を確認した。
(心音は弱いけど、しっかりしてる。呼吸音がやけに浅いような…)

「どうした?急変か?」
 柏原は、同じように聴診器を当て、瞳孔を確認すると、早紀に言った。
「様子がおかしいな。まず疑われるのは脳の関係だけど、血圧はどうだった?」
「上が百十、下が八十五でした」
医師に問われ、測ったばかりの数値を伝えた。それは平時と変わらないレベルだ。早紀は膝を折ってかがむと、同じ高さの目線から栞理に話しかけた。
「栞理ちゃん、教えて。おばあちゃんとお話ししてて、急にこんな風になっちゃったの?」
 小さな女の子はこくんとうなずいた。早紀は続けてたずねた。
「お手てが震えたり、お話が変だったりしなかった?」
 少女は今度は大きくかぶりを振った。早紀は立ち上がり、長身の柏原を見上げて言った。
「昼食の後も、吐き気や異常はありませんでした。脳梗塞や脳出血の可能性は低いと思います」
 こうした場面で、ナースが見解を述べることを嫌う医師も多い。しかし、今はそんなことを気にしてはいられなかった。早紀は思い切って踏み込んだコメントを伝えた。
「先生、ナバフォリンの副反応ではないでしょうか?」
「新しい痛み止め、だったよな…。香坂さんには?」
「初めての処方でした」
「すぐに酸素を。呼吸が浅かったらポンピングも。データを確認して来る。確か、製薬会社の資料に呼吸不全時の対処策があったはずだ。念のため、MRIの手配をしておいて」
「はい」
 短い答えを返すと、背後から心配そうに見つめる親子連れに深くうなずいて見せた後、早紀はすぐに行動を開始した。

「本当に助かりました。相本さんがそばにいてくれて」
「とんでもありません、これが仕事ですから」
「こんなことは、言うべきではないのかもしれませんが…」
 若い父親は、遠慮がちに言葉を続けた。
「主治医の先生が、相本さんの言ったことをすっと聞いてくれてよかったですね。信頼が厚いのがよくわかりました」
「買いかぶり過ぎですよ。私はずっと近くで香坂さんをケアしていましたし。それに痛みがあるとうかがって、先生にお薬をお願いしたのは私ですから」
「たぶん栞理につらい姿を見せまいとしたんでしょうね、気丈な人ですし」

 その時、子供の声が響いた。
「おばあちゃんが目をあけたよ!」

 栞理が駆け寄ってきたのを機に、二人は待合スペースの長いすから立ち上がった。
(痛っ!)
 突然、左半身に激痛が走り、早紀は前のめりによろめいた。倒れる、と思ったその時、すばやく右脇を支える力を感じ、彼女は祐史の腕の中に抱きとめられた。

「あっ、すみません。とっさのことでつい…」
 祐史は、抱えた早紀の身体を慌てて離した。助けた彼の方がかえって恐縮していた。そのすぐ横で、栞理がきょとんとした表情で二人を眺めていた。

(どうしてあんなに早く私の異変に気付いて、手を伸ばしてくれたのかしら)
 疑問を抱えながらも、早紀は彼に礼を言い、同時に身体の芯に火がともるような感覚を抱いていた。

もう妖精は要らない(9)

2010年02月24日 22時59分28秒 | Weblog
9 亡き妻への思い

「それにしても驚きました。香坂さんのお身内の方だったんですね」
「世間は狭いって言うけど、僕もびっくりしましたよ。あの後、娘が『また会えるからね』って言ってたんですが、まさか本当にそうなるとは」

 廊下の端に設けられたフリースペースからは、広いガラス窓を通して外の景色がよく見えた。早紀は小さな木製のテーブルを挟んで、男性と向かい合った。改めて見ると、穏やかな目が印象的だった。
「相本早紀と言います。ここで病棟勤務をしています」
「神山祐史です。義母がお世話になっているそうですね。ある看護師さんにとてもよくしてもらっているという話は聞いていたんです。それにしても、何かの縁があるのかな」
「ここは特定疾患の治療では有名ですからね。多くの患者さんが来られることは確かですけど。香坂さんは本当に意思の強い方ですね。私も教わることがたびたびあります」
「以前は学校の先生をしていましてね」
 早紀はいつしか微笑んでいた。こんな感触を抱きつつ、会話ができるのは何年振りのことだろう。

「もしかしたら、この間の冷たい雨の日に、妻のお墓に花を供えてくれたのは相本さんですか?」
「ええ、香坂さんに頼まれて」
「そうでしたか。あの日、私も娘を連れて妻に会いに行ったんです。そしたら、その前に来てくれた人がいたみたいだったんで驚いて。義母にたずねても笑ってはっきり教えてくれないし」
「ごめんなさい、出過ぎたことをしてしまって」
「とんでもない、逆ですよ。とても嬉しかった。妻も喜んでいたんじゃないかな。自分の母親がお世話になってる看護師さんが来てくれたなんて」

 早紀は黙って彼の話を聞いていた。たずねたいことはいくつかあったが、それは他人が踏み込むことでは無いように思えた。祐史は視線を窓の外へ向けると、独り言のように別な話を始めた。
「妻はいつも前を向いている人でした。一度決めたら、後には引かない。まあ、『先生』の娘だから、当然かもしれませんが。事情があって、出産に危険を伴うことは承知していたんですが、二人で話し合って子供を作ろうと決めました。そして、妻は娘を産んだ直後に亡くなりました。妊娠中に生死をさまよう事故に遭ったので、その影響もあったのかもしれませんが、今となってはよくわかりません。でも、娘を授けてくれたことに、心から感謝しています」
 それは胸を突く悲しい話だった。聞かなければよかった、という思いと、この人の生き様にもっと近づきたいという気持ちが、早紀の中で複雑に交錯していた。
「ほんの短い時間だけですが、妻は生まれてすぐの娘を抱く機会がありました。きっと幸せだったんじゃないかなって、勝手にそう思ってます。あっ、ごめんなさい。あなたには関係のない身の上話をしてしまって。こんなこと、普段、人には言わないんですが…」
 彼は照れたように頭をかいた。実直なこの人に守られ、奥さんはきっと幸せだったに違いないと、自然にそう思えた。

「一つ教えていただけますか?」
 早紀は控えめにたずねた。
「何でしょう?」
「お嬢さんのお名前は?」
 そう言えばまだお伝えしていませんでしたねと微笑みながら、彼は言った。
「『しおり』って言います。本にはさむ栞に、理論の理」
「いいお名前ですね。人の心に残る、お嬢さんにふさわしい感じがします」
「妻は名前を決める前に亡くなったので、聞いたら何と言うか、わかりませんが」

 その時、小さな足音がしたかと思うと、栞理が息を弾ませてフリースペースに駆け込んできた。
「たいへん!」
「どうした?」
「おばあちゃんが、きゅうに。はやく!」

もう妖精は要らない(8)

2010年02月23日 21時19分07秒 | Weblog
8 突然の再会

 フレミーの予言通り、週明けの病棟は緊急事態の連続に追われていた。しかし、それはいつものことでもあったし、心配していた妙子の病状に変化はなかった。水曜の昼過ぎ、ようやく一連の騒動に収拾のめどが立った頃、新たなナースコールがステーションに響いた。ちょうど近くにいた早紀は、患者番号を確認しながら、インターコムに向かった。それは妙子からの呼び出しだった。
「香坂さん、どうしました?」
「申し訳ないんだけど、ちょっと来てもらえるかしら。緊急じゃないんで、すぐでなくていいから」
 わがままを言う患者も多い中、「先生」からこの種の依頼があるのは珍しいことだった。私が行きますと声を上げて、早紀は足早に妙子の病室へと向かった。

 いつものように静かなまなざしで外を眺めるその横顔から、大きな変化は読み取れなかった。早紀は少し安心して、孤高な患者に声をかけた。
「どうされました?ご気分がすぐれませんか?」
「あっ、ごめんなさい。緊急じゃないのに、コールしたりして。ついでの時でよかったんだけど」
 妙子先生にしては、声が弱々しく感じられた。
「遠慮せずにおっしゃって下さい」
「実はね、午後になってから、痛みがひどいの。特に背中のあたり。とてもつらくて」
 普段は我慢強い彼女から、これは初めてに等しい申し出だった。
「わかりました。柏原先生に相談してお薬を出してもらいましょう。大丈夫ですよ、すぐ楽になりますから」
「ありがとう。それでね…」
 どうやら、痛み以外に事情がありそうだ。早紀は柔らかく微笑みながら、続きを待った。
「午後、人が来るのよ。とっても大事な人。だから、あまり強いお薬は避けたいの。ぼうっとしている姿は見せたくないから」

 かといって、今のままでは痛みでつらい顔を見せることになる、という心配をしたのだろう。早紀にはそ の微妙な心中がよくわかる気がした。
「承知しました。眠くならずに、痛みを抑えるお薬もありますから。私から先生に事情をお伝えします。大事な方とは笑顔でお会いしたいですものね」
「わがままを言ってごめんなさい。今日、あなたがいてくれて本当に助かったわ」
 妙子の心のざわつきが引いていくことを感じ取りながら、早紀の脳裏にある疑問が湧き上がってきた。それを見透かすように、自分の希望を伝えきった患者は、いたずらっぽく笑って言った。
「あなたは本当に嘘がつけない人ね」
「え?どういうことですか?」
「無理を聞いてくれた恩人に対して失礼だけど、顔に出てるわよ、『大事な人って誰だろう?』って」
 図星だったので、早紀はバツが悪そうに苦笑した。妙子は、やっぱりねという表情を浮かべて言った。
「それは、今は内緒にしておきましょう。来たら、あなたにも紹介するわね」
妙子の表情が明るいものに変わったので、早紀もほっとしていた。主治医の先生に相談してきます、と言い残し、華奢な身体を翻すと早紀は病室を後にした。
 即効性があって意識混濁を招かない痛み止めの処方を妙子にした後、いくつかの雑事が、早紀をとらえては通り過ぎて行った。ルーチンの検温の時間となり、早紀が病室を回り始めた時、明るい笑い声が聞こえてきた。それは妙子の病室から響いてくるようだ。早紀は好奇心を抱きながら、努めて平静を装って病室へ入って行った。

「失礼します。検温です…あっ!」
 澄まし顔にまとった平静さは、どこかに消えてしまった。驚きとともに、小さな女の子が早紀の足元に抱きついてきた。
「おねえちゃん!ほら、また会えた」
 妙子の元に見舞いに来ていたのは、一緒に観覧車に乗った小さな天使と、その父親だった。紹介しようとしていた妙子は、事情がわからず、大きく目を見開いたまま、笑顔で会釈する早紀と見舞い客とを交互に眺めていた。

もう妖精は要らない(7)

2010年02月23日 21時17分41秒 | Weblog
7 ありがたくない予言

 ドアを開けると、部屋には冷気が満ちていた。エアコンが暖かい空気を吐き出すまでの時間がもどかしい。早紀は外したピアスを入れようと、洋ダンスの上のジュエリーボックスに手を伸ばした。

「うっ!」
 その瞬間、左腰から背中にかけて、感電でもしたかのような激しい痛みが走った。早紀は小さな悲鳴を上げて宝石箱を取り落とし、左腰に手をあてたまま、その場にしゃがみこんだ。木製の箱は運良くクッションの上に落ちたが、はずみで蓋が開き、中の小物が付近に飛び散った。同時に、箱に付いたオルゴールが鳴り出した。

「何、すんのよ!まったく、びっくりするでしょ!」
 尖った声に顔を上げると、フレミーがクッションの横に尻餅をついて座り込んでいた。化粧の途中だったらしく、派手な口紅が唇から大きくはみ出している。
「何、その顔?ご自慢のルージュが台無しじゃない」
 早紀は自分の痛みも忘れて笑った。
「うるさいわね、自分で落っことしておいてよく言うわよ。まったく、もっと大事に扱ってほしいもんだわ」
 フレミーは小さな手鏡を覗き込んで、はみ出た口紅を拭った。
「ごめんなさい。落とすつもりはなかったのよ。手を伸ばしたら、急に痛みが走って」
「例の古傷がうずいたってわけ?この寒空の下、頼まれて墓参りなんて物好きなことをするからよ」
「そうね、でも悪いことばかりじゃなかったわ」
「どうせあなたの『よかった』はたいしたことじゃないんでしょ?雲の切れ間から日が差していたとか?」
「それでも、そう思えること自体がいいんじゃないの」

 今日は不思議とフレミーの悪態を受け流すことができた。見知らぬ亡くなった人と向き合い、穏やかな時間を過ごしたせいだろうか?妙子先生には、こちらの方がお礼を言わないといけないのかもしれない。
「珍しく能天気なあなたを見てると、ちょっとムカつくわね。まあ、いいわ。いいことを教えてあげる」
 フレミーはすっと立ち上がると、けばけばしいワンピースのすそを直した。安いキャバクラのホステスは、きっとこんな服装をしているのかもしれないと思った。
「週明けにはもっといいことがあるわ、胸弾むような。でも、それだけじゃ済まない。とてもじゃないけど、そんなのんきな顔はしてられないわよ」
「どういうこと?」
「急変だの、悪化だの、いつも以上に大変なことが続くかも。あなたの大切な患者さんのお体にも、よくよく気を使ってあげることね」
「それは妙子先生のことを言ってるの?」
 顔色を変えてたずねる早紀をあざ笑うかのように、フレミーはその場で小さくジャンプすると消え失せた。気がつくとオルゴールの音は止まっていた。

(そんなに急を要する容態ではないはずだけど)
 せっかく上向いた気持ちに暗雲が立ち込めるのを苦々しく感じながら、早紀は冷たい部屋に一人、立ち尽くしていた。

もう妖精は要らない(6)

2010年02月22日 22時08分01秒 | Weblog
6 冷たい雨の日の外出

 その日はあいにくの天気となった。寒波に乗って来た前線が、朝から冷たい雨を降らせていた。冷える日には痛みも出る。それでも、底冷えのする部屋に一人でいるよりはと心を決め、ブーツと厚手のコートで武装すると、早紀は目的の場所へと足を運ぶことにした。

 中央線から、バスに乗り継いだ。バスは車体を震わせながら、丘陵地帯の登り坂を進んでいった。霊園の名前が付いたバス停にたった一人降り立った時、雨はまだ降り続いていた。早紀は傘を広げると、墓前に供える花束を抱えて、ゆるい坂道を歩き始めた。
 細い道を進み、霊園の入り口に辿り着いた。門をくぐり、急な石の階段を登ると、突然、眼下に視界が開けた。小さな丘に沿って、整然と墓石が並んでいる。妙子が言うように、晴れていれば穏やかな陽だまりが広がっていただろう。しかし、煙る雨の中、誰もいない霊園は重く冷たい沈黙に支配されていた。

 妙子に教わった通りに行くと、そこに目的の場所があった。周囲と同じく、低く平たい形をした石材には、一輪の花が彫り込まれていた。
(カサブランカ?)
 大輪のユリがまさに花びらを広げようとしている。それは、妙子が若くして逝った娘のために描いたものかもしれないと早紀は思った。表には花の絵があるだけで、何の文字も刻まれていない。裏に回ると一人だけ名前が彫られていたが、苗字は妙子とは違っていた。亡くなって三年、享年は早紀より四つ上だった。

(こんな若さで亡くなるなんて…)
 同時に、娘に先立たれる母親の心中が思い起こされて、早紀は一層身体が冷える思いがした。コートの襟を立て、ベルトを締め直した後、彼女は持参した花を供え、両手を合わせて祈った。
(私からお母様にして差し上げられることは、決して多くはありません。でも、少しでもお力になれたらと思っています)

 しばらくの後、早紀は頭を上げると、来た方向へと戻っていった。急な階段を降り、霊園の出口まで来ると、雨は小止みになっていた。傘をたたむ早紀の耳に、かん高い声が届いてきた。どうやら、新たな来訪者は子供連れらしい。受付の建物でトイレでも借りているのか、声は聞こえるが姿は見えなかった。さっきまで空だった駐車場には、わナンバーの小さな車が止まっていた。

 ここで知り合いに会うなど考えられないのだが、見知らぬ人の墓参りに来たのを見られることに抵抗を感じて、早紀は足早に霊園を後にした。次のバスまではかなり時間が空いている。ふと見上げると、雨は上がり、流れる雲の切れ間から一筋の光が差し込んでいた。

(冷たい雨もいつかは降り止む。私にも光差す時が来ると信じたい)
 身体は冷え切っていたが、ほんの少しだけ心に火照るものが感じられた。左足をわずかに引きずりながら、早紀は長い下り坂をゆっくりと降りて行った。

もう妖精は要らない(5)

2010年02月22日 22時07分06秒 | Weblog
5 先生からの依頼

 六人部屋の窓際で、背を起こしたベッドにその人は体を預け、穏やかなまなざしで外を見ていた。コンクリートばかりの風景の中で、病院を取り囲むように広がる公園が、安らぎを感じさせていた。しかし、木々の葉は黄色く変わり、瑞々しい緑色は望むべくもない。

 早紀は彼女の傍らに近づいて声をかけた。
「検温です。ご気分はいかがですか?」
「ありがとう。おかげさまで、昨日の夜は痛みもそれほどではなかったわ」
「すっかり冬景色ですね」
「ためらいはないつもりなのに。これが最後の秋かと思うと、複雑な気持ちになるものね」

 この病院はいわゆるターミナルケアのためのものではない。病巣の治療に成功し、再び普通の生活に復帰していく人も数多くいる。一方で、「そうではない」患者には、望まずとも残された時間の意味が突きつけられることになる。
(この人は強い人だ。その分、抱えている悲しみが深い気がする)
 ここで働く看護師にとって、過酷なのは肉体のきつさだけではない。「計算された死」に向き合う患者のケアは、大きな精神的負担を強いるものだった。早紀は体温計を渡しながら、思わず彼女の横顔を覗き込んだ。

 ナースステーションでは、彼女を「妙子先生」と称していた。そのたたずまいや伸ばした背筋から、誰ともなく言い出したのだが、実際に彼女が小学校で教鞭をとっていたと聞いた時は、みんながうなずいた。口数が少なく、接しにくいと訴える同僚もいたが、早紀はその孤高なたたずまいに敬意を抱いていた。

「今日はお描きにならないんですか?」
 妙子先生は絵が好きらしく、しばしばスケッチブックを開いている姿を見かけた。しかし、彼女が何を描いているのかを見た者はいない。
「そうね、創作意欲が湧いたら、また描きたいとは思うけど」
小さな電子音が鳴った。早紀は体温計を受け取ると、値を確認して記録した。

「次の週末、相本さんはお休みなの?」
 唐突に個人的な話題が飛び出して、早紀は意外に感じた。
「ええ、夜勤のシフトも入っていませんし」
「こんなことを言っては申し訳ないんだけど、もし、ご予定がなかったら、一つお願いできないかしら」

 師長からの注意を受けるまでもなく、患者と個人的に深くかかわるのは、避けるべきこととなっていた。それを知りつつも、彼女の瞳に浮かんだ懇願の色を無視できず、早紀は控えめな受容を示した。
「職場を離れての対応はルール違反なんですが、独り言を漏れ聞いてしまうのは、よくあることですよね?」
「ありがとう。じゃあ、あなたへではなくて、窓の風景にでも話しかけるわね。私に代わって行ってもらいたいところがあるの。都内でそんなに遠くじゃないところ」
「難しいことはできませんよ、私では」
「いいえ、お願いしたいのは、実はお墓参りなの。今度の土曜日が祥月命日なのよ。具合が悪くなってから、ずっと行けなくて」

 次の休みに差し当って予定はない。たまった洗濯物を洗って部屋を片付けても、半日もあれば十分だ。外出で気分を変えてみるのも悪くない気がした。
「申し訳ありませんが、ご依頼にお応えするのは難しいですね。でも、それとは別に、ちょっとしたウォーキングに出かける先について、アドバイスをいただけますか?」
 言いながら、早紀は妙子にうなずいて見せた。彼女は安堵の表情の中に、かすかな微笑みをたたえて言った。
「ありがとう…じゃなくて、そう、じゃあ、とっておきの場所をお教えするわ。南向きの斜面で穏やかな陽だまりが続くところを」

 彼女には一緒に暮らしている身寄りがいないらしいという話は聞いていた。ほっとした様子の「先生」に、早紀は思い切ってたずねた。

「ご主人の、ということですか?」
「いいえ、娘なの。主人も、娘が小さかった頃に逝ってしまって。私、自分の病気のことを聞いた時、正直、『死ぬのは怖い』って思った。でも、向こうに行けて、また、あの人や娘に会えるなら、それはそれで不幸なばかりじゃない気がしてきたわ」

 告知することが普通になった今、彼女のような境地に辿り着ける人は、むしろ幸せなのかもしれない。そう思った時、急にその表情が曇るのが見えた。
「でも一つだけ、一つだけ気がかりなことがあるの。それは旅立っていく私が心配しても仕方のないことなんだけど」

 それが何かを問う勇気までは持てず、早紀は黙って聞いていた。彼女は表情を戻すと、早紀に問いかけた。
「あなた、ご両親は?」
「父は健在ですが、母は私が中学生の時に亡くなりました。悪性の腫瘍とわかった時には、もう手遅れでした。私は母の死を間近で見て、この仕事に就くことを決めたんです」
 それは、他人にはほとんど話したことのない事情だったが、妙子先生の真摯な横顔を見た時、自然に口をついて言葉が出ていた。
「そうだったの。あなたの覚悟は、十二分にお仕事ぶりに出ていると思います。私も普段なら、検温に来た看護師さん相手に、変な独り言は言わないもの」
 頬が上気するのがわかって、早紀は思わずうつむいてごまかした。

「ああ、ごめんなさい、すっかり時間をとってしまって。あなたにお願いしたのには、もう一つ理由があってね」
 彼女はかすかな微笑みを浮かべながら、思いもかけないことを言った。
「あなたを見てると、似てる気がするのよ」
「誰に、ですか?」
「亡くなった娘に。もちろん、顔や姿は同じじゃないわ。でも、一生懸命さとか、頑ななほど真面目なところとか、よく似てる」

(私と娘さんで、重なるところがある?)

 きっとそれは輝きを持った人生であったに違いない。それに比べて、自分の抱える闇の深さがとても後ろめたいものに感じられて、早紀は心でため息をついていた。

もう妖精は要らない(4)

2010年02月21日 23時14分20秒 | Weblog
4 大丈夫ではない同僚

 師走を目前にして慌しさを増しながら、それでもオフィスはいつもと同じ朝を迎えていた。一人の女性が書類を手に、島の端に置かれた大きめの机の前へとやって来た。デスクの主である中年男性は、液晶画面から目を離さずに、ここに置いてくれという意思を手の仕草で示した。女性はかすかなため息をつくと、書類を机に置いて言った。
「課長、こんなことを申し上げるのは、私も嫌なんですが」
「あ、何?」
話しかけられて、男性は渋々画面から顔を上げ、ご機嫌斜めの相手と目を合わせて言った。
「まったくねえ、なんの因果でこんな苦しい時に、大きい取引先が契約切れして引いて行くんだか。アイちゃん、なんかいい案があったら教えてよ」
「それを考える分だけ、たくさんお給料をもらってるんじゃないですか、課長は。私が申し上げたいのはそんなことじゃなくて…」
「え?まだなんか頭痛のタネがあるの?」
「課長、気付いてませんか?主任のこと。やっぱりヘンですよ、このところ」
「ああ、彼ね。まあね、プライベートでも色々大変だしね。でも、お子さんも成長して落ち着いてきてるんじゃないの?」
「ホントにそう思います?むしろ、大変なのはこれからじゃないかしら。ちょろちょろしだす頃って、目が離せないし、それに赤ちゃんは『泣いて寝て』だけですけど、大きくなってくると、だんだん自分の意思を持ってくるじゃないですか?」
「おっ、さすが『母』は目の付け所が違うね」
「冗談じゃなく、どうみても、ちょっとおかしいです」
「だから、どんなところが?」
「例えばですけど、旅費の精算がありますよね。間違いがひどいんですよ、経路とか値段とか。主任、確かにちょっとおっとりしたところはありますけど、そういうのは、基本きっちりした人だし。前だったら、JRの季節料金までちゃんと考えて申請してましたからね。それに、『あれ?』って思うようなことが、たびたびあるんですよ」
「ふーん、でも人間なんだから、彼だってミスくらいするよ。考え過ぎじゃないの?」
「いいえ、絶対ヘンですって。この間も、『アイコさん、これ送っておいて下さい』って、得意先宛ての見積書をもらったんですけど…」
「それがどうかしたの?」
「総額が入ってなかったんですよ、つまり空欄。私が気付いて、慌てて直してもらいました」
「そりゃ、ちょっとまずいね」
ようやく課長も事態を認識し始めたようだった。
「で、どうしたらいいかな?」
「まったく!それを考えるのが課長の仕事じゃないですか?主任、疲れてるんじゃないですか?仕事も生活も。やっぱり、お子さんのことは大きいと思いますよ」
「わかった。とりあえず、話をしてみるよ。アイちゃんも様子見てて何かあったら、また教えて」
「お願いしますね。こんなときに動いてもらえなかったら、本部長に『告発』しちゃいますからね」
 会話の切れ目を察したかのように、話題の主が重い足取りで現れ、自分のデスクに腰を降ろした。