拙作集

自作の物語をアップしました。つたない話ですが、よろしくお付き合い下さい。ご感想などいただければ幸いです。

もう妖精は要らない(14)

2010年02月26日 22時57分06秒 | Weblog
14 限られた邂逅

 今年も残りわずかとなっても、暖かい日が続いていた。祐史は大きな木の下のベンチに座り、目の前に広がる丘を眺めていた。陽だまりの中、整然と並ぶ墓石がなければ、ここが多くの人が眠る場所とはとても思えなかった。「しあわせのはっぱを摘んでくるね」と言い残し、小さな娘は姿を消した。今頃どこかで、彼女なりに、つかの間の冒険を楽しんでいることだろう。

 他には誰もいないと思っていたのに、急に目の前を横切る人影があった。松葉杖に身体を預け、両足を振り出すようにして進むと、祐史の前で立ち止まり、ベンチ右側の空いたスペースに身を寄せてきた。祐史は突然重くなった手をなんとか差し出して松葉杖を受け取り、彼女が腰掛けるのを手伝った。

「久しぶりね。ちょっと痩せたんじゃない?」
(そんなことはないよ。朝ご飯はちゃんと食べてるし。野菜ジュースだって飲んでる)
 声を出そうとしたが、金縛りのように身体の自由が利かなかった。ただ、言葉を心に思うことで会話は成立していた。優理の声はリアルに耳に響いてきた。
「大きくなったわね。私が胸の上で抱いた時には、本当に育つのかしらって思ったのに」
 優理は遠くに視線を投げた。栞理の姿は目の届くところにはない。
「あなたには申し訳ないと思ってる。こんなことになってしまって…」
(そんなことはいいよ。僕らは大丈夫だから。ねえ、優理、一つ教えてほしいんだけど)
「何?」
(ここにたった一人でいて、寂しくはないの?)
「いいえ。こうしてゆうちゃんも来てくれるし。あの子の成長を見ることもできる。私は安らぎの中に眠っているから、安心して。私がここにって望んだのは、母さんから聞いたでしょ?」
(ああ。『あの子は、万が一の時にはこういうところで眠りにつきたいと言ってた』って。君は本当は水没事故の時に亡くなっていて、赤ちゃんを産むためだけに帰ってきたって、お義母さんは今でもそう信じてるよ)
 優理はわずかに表情を緩めただけで、祐史の話に言葉は返さなかった。やがて彼女は静かに口を開いた。
「『しおり』って言うのね?」
(うん。優理の名前から一文字を入れて付けた)
 再び、彼女は沈黙した。その表情には、かすかな微笑みが浮かんでいた。
「この間、看護師さんが来てくれた。母さんのことを看てくれてる人」
 優理は身体を回すと、祐史と向き合って視線を合わせた。まっすぐな瞳は前とまったく変わっていない。
「素敵な人ね。あの人なら、母さんが『栞理の母親に』って思っても無理はないわ」
(どうしたの?いきなりそんなことを言って)
「ゆうちゃんには言ったよね?私のこと、引きずらないでって。私のために、人を愛することをためらわないで。栞理のためでも、母さんのためでもなく、あなた自身の気持ちを大切にしてほしい」
(お義母さんにも同じことを言われた。確かに相本さんは素晴らしい人だと思うよ。でも、彼女を僕の運命に巻き込んでしまっていいのか、僕にはわからない)
「巻き込むんじゃなくて、一緒に大事なものを作っていくのよ。時には守ってあげなきゃいけないだろうし。必要なことは、時と場面が決めてくれる。臆病にさえならなければいい、それだけ」
(わかった。優理が言うなら、そうするよ)
「じゃあ、もう行くね。母さんに、あんまり急いで来ないでって伝えておいて」
かすかな微笑を浮かべてゆっくりと立ち上がった優理に、祐史は以前と同じように松葉杖を手渡した。
「ありがとう。ゆうちゃんも身体を大事にして。栞理のこと、しっかり見てあげてね」
(優理…。また会うことはできない?話したいことが、たくさんあるんだ)
「ごめん。これだけでも特別なの。大丈夫、心で思えば、私はそばにいるから」
 ふっと意識が遠のき、目の前が真っ暗になった。長いような短いような、不思議な感覚で時間が過ぎた後、小さな手に膝を揺すられ、祐史は恐る恐る目を開いた。
「パパ、おきて!四枚のはっぱ、こんなに見つけたよ」

もう妖精は要らない(13)

2010年02月26日 22時56分04秒 | Weblog
13 娘婿への遺言

「この間は、あなたにも悪いことをしたわね。すっかり騒がせてしまって」
 いつものようにベッドの背を起こして窓の外を眺めながら、妙子は傍らの丸椅子に腰掛けた祐史に語りかけた。この人の背筋は今日もぴんと伸びていると思いながら、祐史は笑顔を返した。栞理は、早紀を見つけて入っていったナースステーションで一躍アイドルになっていた。

「あまり気にしないで下さい。大事に至らなくてよかったです。薬が合わないこともあるんですね」
「私がわがままを言って出してもらったのよ。栞理にも気の毒なことをしてしまって」
「大丈夫ですよ。相本さんがいてくれて本当によかった。おかげで適切な処置が迅速にできたみたいです」
「医療や看護の技術にかけては、ここにいる人はみんな優秀だわ。でも彼女は特別。こういうのを運命って言うのかもしれないわね」

 少しの間、黙って窓の外を見ていた妙子は、やがて心を決めたように祐史の方を向いて言った。
「今日はあなたに渡したいものがあるの」
妙子は、ベッド脇に置かれた物入れの引出しを指差した。祐史は言われるままにそれを開け、小ぶりのスケッチブックを取り出して妙子に渡した。彼女はおもむろにある頁を開くと、祐史に示して見せた。
「あっ」
 そこに描かれた人物を見て、彼の口からは小さな驚きの声があがった。一人の女性がベッドの背に身体を預けている。自分を描いている者からは視線を外し、遠くを見ているその表情には、かすかな微笑みが浮かんでいるように見てとれた。
「優理…」
「ちょうど、栞理がおなかにいる頃ね。落ち込んで、私が泊まりに行ったことがあったでしょう。あの時に描いたの」
 しばらくの間、祐史は黙ってスケッチブックの人物を凝視していた。やがて彼は静かに言った。
「まるで、生きてここにいるみたいです。でも、どうして今、これを僕に?」
「亡くなった直後には、さすがに渡せなかった。あなたには、できるだけ優理を引きずらないでほしかったから。でも、もういいわよね。私が逝く前に、渡しておきたかったの」
 祐史は黙ってスケッチブックを見つめていた。必死に何かを堪えているようにも見えた。
「あなたに渡したいものは、これだけじゃないの」
 そういうと、妙子は手を伸ばしてスケッチブックを受け取り、別な頁を開いて再び彼の手に戻した。
「えっ!」
 今後は別な驚きを持って、祐史はスケッチブックを覗き込んだ。そこには、小さな女の子が屈託のない笑顔で立っていて、そのすぐ前に一人の女性がしゃがみこんで笑っている構図のスケッチが描かれていた。女の子は栞理、そして彼女と目線を合わせてたたずむ女性は、早紀のように見えた。
「これは…」
「そうよ、相本さん。早紀ちゃんを描いたの」
「お義母さんは一体何が言いたいんです?」
「私はね、早紀ちゃんのことが大好き。そのせいかしらね、あなたがあの子を見る目も特別みたいに思えてならないの」
「そんな乱暴な。第一、彼女に迷惑ですよ」
「あら、そうかしら。私はあなたに優理を忘れてほしくない。でも、それ以上に縛られてほしくないの」
「お義母さんらしい冗談として受け取っておきます。もしかして、栞理に母親をって、お望みなんですか?」
「あなたは本当によくやってくれていると思う。でも、これからさらに大きくなっていく栞理に、父親だけしかいないのは、やはり不憫だわ。うまく伝えるのが難しいけど」
「これはありがたくいただいて大切にします。今日はそれだけで勘弁して下さい」
「そんな、勘弁だなんて。どうしてほしい、とまでは言わないけど…。あなたもやがて優理から解き放たれる日が来る、その時には、どうか心が求めるものを諦めないでほしいの。それが私からのお願い」
 祐史は黙って深くうなずくと、スケッチブックをしっかりと胸に抱えた。