拙作集

自作の物語をアップしました。つたない話ですが、よろしくお付き合い下さい。ご感想などいただければ幸いです。

もう妖精は要らない(16)

2010年02月27日 21時17分58秒 | Weblog
16 聖夜の騒動

 約束の二十五日がやってきた。その日も、病棟はいつもと同じ喧騒と対応に追われていた。シフトの引継ぎを終え、いつもより早く片付けをしたつもりだったが、それでも時間はぎりぎりになっていた。

「すみません、今日はこれで失礼します」
「謝ることはないわ。あなたの今日のお仕事は、もう終わってるのよ。今からでも、素敵なクリスマスを楽しみなさい」
 師長に背中を押されて、早紀はロッカーへと駆け込んだ。できるだけおしゃれをして、と思っていたのに、結局いつもと同じ黒いセーターとスカートで出勤していた。薄青色の白衣から着替えるしか、選択肢はない。
(早くしないと、時間に遅れる)
 脱いだ白衣を乱暴にたたんでトートバックに入れた。七つ道具はポケットに入ったままだったが、洗う前に家で出せばいいと割り切った。コートを羽織って飛び出した師走の街には、痛いほど冷たい風が吹いていた。

 約束の時間に少し遅れて、栞理親子が住むマンションに到着した。広くはないが、小綺麗に片付けられている。玄関には、栞理のものと思われる小さな靴が、きちんと揃えて脱いであった。
「ごめんなさい、遅くなってしまって。お言葉に甘えてお邪魔しました」
「すみません、クリスマスの日に呼んだりして」
「いえ、特に予定もないので。あまり手間をかけずにってお話だったので、途中でチキンを買ってきました」
 普段なら、真っ先に足元に飛びついてくる小さな女の子の姿が、今日は見えない。
「栞理ちゃんは?」
「それが興奮したのか、昼前くらいから調子が悪いみたいで。今、隣の部屋で休ませてるんだけど」
 早紀は胸がざわつくような不快な感触を覚えた。患者さんが急変する時、こんな感じが込み上げてくることがある。栞理のことが急に心配になった。
 同時に脳裏をよぎった、クリスマスの思い出したくない記憶を払いのけ、早紀はなすべきことを決めた。
「ちょっと様子を見てきますね」
 瞬時に、看護師としての自分にスイッチが入った。寝室と思われる部屋を開けると、小さめのベッドに栞理が目を閉じて横たわっていた。暗がりの中で、差し込む光の当たった頬が赤く見えた。
「栞理ちゃん、大丈夫?」
 語りかけながら、額に手を置く。それだけで体温の異常は実感できた。耳を澄ますと、ゼーゼーという呼吸音が聞こえてきた。
(明らかにおかしい。たぶん、新型…)
 早紀はトートバックに手を伸ばし、白衣を引っ張り出すと、ポケットを探った。ラテックスの手袋、ハイバリアのマスク、ペンライト、そして、使い慣れた聴診器。急いで、「装備」を身に付け、心配そうに見守る祐史に声をかけた。
「体温計をお願いします。たぶん、急いで病院に運ばないといけないと思います。神山さんもマスクをして、手を洗っておいて下さい」
 突然指示され、祐史は呆気にとられて早紀の顔を見つめた。
「様子が普通じゃありません。さあ、早く!神山さんまで倒れたら、誰が栞理ちゃんを守るんですか?」
 自分でも驚くほど、最後は声が大きくなっていた。その勢いに押され、促された祐史も行動を開始した。

 体温計は、予想を越えた数字を示していた。脈拍も平時とは比べものにならない。聴診器を通して聴こえる呼吸音は、この世のものとは思えない、恐ろしい響きを伴っていた。早紀は祐史を振り返って言った。
「早く病院に運ばないと。救急車を呼んで下さい」

 救急車のサイレンがすぐ近くで止み、二人の隊員が入ってきた。早紀は手短かに事情を説明した。
「患者は三歳女児、新型インフルによる発熱と呼吸不全です。小児の感染症に対応できる救急病院へ受入要請して下さい。バイタルは搬送中にお知らせします」
 救急隊員は、驚いた表情で早紀の早口を聞いた後、一人がかろうじてたずねた。
「あなたはお子さんのお母さん、ではないんですか?」
「私はこちらとは知り合いで、看護師をしています。容態は急激に悪化していて、予断を許さない状況です。迅速な対応をお願いします」
 救急車の中で、薄く目を開けた栞理の胸に、早紀は再び聴診器を当てた。恐ろしい呼吸音を背景に、聞き慣れぬ女性の声が、かすかに鼓膜を振るわせた。
(ありがとう、栞理を守ってくれて)
 早紀は周囲を見回したが、声の主はどこにも見当たらなかった。
(あなたの力でこの子を助けて。私ができなかったことを…。あなたなら、きっと大丈夫だから)
 早紀は驚きながらも、聴診器を耳から外し、託された思いの深さをしっかりと胸に刻んだ。

 栞理と祐史、そして早紀を乗せた救急車が急患搬入口に停止すると、紺色の医療衣を着た医師が近づいてきて、ストレッチャーに寄り添う早紀に声をかけた。
「さっき、搬送中に状況を知らせてきたのは?」
「私です。出過ぎたことをして申し訳ありません」
「患者の命を救う瀬戸際で、つまらんことを言うな。おかげで様子がよくわかった」
「先生、もう一つ、余計なことですが…」
「なんだ。単刀直入に言ってくれ」
「呼吸音が異常で、肺機能に重い障害が予想されます。しかも、短時間で急激に悪化しているようです」
「何が言いたい?」
「ここなら、ECMOをお持ちですよね?」
 患者と一緒に飛び込んできた看護師が、治療にまで注文を付ける。こんなケースは、極めて異例だったので、医師はマスクの上の目を丸くして早紀の顔を見た。

(あるいは、逆効果になるかも…)
 リスクをあえて犯す覚悟を固めて、早紀は救命医に食い下がった。
「一刻も早く肺機能をアシストする必要があると思います」
「君はどこの病院の看護師だ?」
 突然、医師は話を変えた。早紀はありのままに素性を明かした。
「癌研の消化器科で病棟勤務をしています」
「癌研?消化器ということは、もしかして柏原の?」
「はい、私は柏原先生の患者さんをケアしています」
「なるほど。それなら、要らぬお節介もするはずだ」
「柏原先生をご存知なんですか?」
「研修医のときに一緒だった、あの偏屈オタクと」
 一瞬だけ、彼の鋭いまなざしが緩んだように思えた。
「君の言いたいことはよくわかった。九州での症例を踏まえての意見だよな。だが、なめてもらっちゃ困る。うちだって、救命、小児科、呼吸器科、MEで連携して、感染症対応のシミュレーションをやってる。門外漢に言われるまでもなく、人工肺の使用は想定内だ。もちろん、まず病状を確かめてからだけどな」
 早紀は黙って深く頭を下げた。最善に向けて動けるなら、体裁など問題ではない。
「安心しろ、君の大事な天使は、必ず助ける」
 彼は早紀の肩をぽんと叩くと、内線端末を耳に当てて大声で指示を出しながら、処置室に向かった。部屋に入りざま、彼は一瞬だけ立ち止まると、早紀の方を振り向いて言った。
「この件は柏原への貸しだ。落着したら、奴のおごりで久しぶりに一緒に飲むことにする。その時は、君にも付き合ってもらうからな。覚えておけよ」

もう妖精は要らない(15)

2010年02月27日 21時17分01秒 | Weblog
15 涙の河を渡って

「なんて微妙に困ったって顔をしてんのよ。嬉しいなら嬉しいで、もっと喜べばいいでしょ!」
 不意に声が響き、早紀は思わずビクッとして、テーブルに置いたジュエリーボックスを覗き込んだ。ついさっき、胸元から外したブローチを入れた時にはいなかったのに、いつの間にか、そのブローチによりかかるような格好で、フレミーが頭の後ろに両手をあて、足を組んで天井を見ていた。今日はラメが散りばめられ、サイドが大きく開いたチャイナドレスを着ている。彼女は身体を起こすと、早紀の顔を見て言った。
「で、どうなの?どんなお誘いかは知らないけど、どうするの?」
「全部が全部、わかってるわけじゃないのね?」
「ふん、知ったところでどうなるもんでもないけど」
「クリスマスの日にね、おうちに呼ばれたのよ。この間の妙子先生の一件もあったし、栞理ちゃんがみんなでクリスマスがしたいって」
「いいんじゃないの。どうせ予定は空いてるだろうけど、あなただったら、他の人の夜勤を代わってあげましょうかとか、聞いて歩きそうだものね」
「私はどうしたらいいのかしら…」
「悩む必要はないでしょ。行きたかったら、行く。行きたくなかったら、断る。なんなら、とっておきの勝負下着を貸してあげるわよ」
「そんなもの要りません。栞理ちゃんの顔を見ながら、クリスマスを過ごせたらいいだろうなって思うけど」
「だったら、行けばいいじゃない」
「でも私にそんな資格はないわ」
「ばかじゃないの!」

 フレミーの声が、今までに聞いたことがないほど大きかったので、早紀は目を見開いて彼女を見た。
「あなたの話を聞いていると、本当にいらいらするわね。医者や看護師になるってわけでもあるまいし、資格って一体何?『人を好きになる 初級』とかあるわけ?そうやって自分の殻に閉じこもるのは勝手だけど、いつまでもいじいじ悩んだりしないでほしいわ」
 急に目頭が熱くなった。堪えきれずうつむくと、数滴のしずくが頬をつたって流れていくのが感じ取れた。
「やれやれ、都合が悪くなると、今度は泣いてごまかすの?本当に手間がかかる人よね、あなたは」
 フレミーは鼻を鳴らすと、ブローチからひらりと飛び降りて、足元の小さな水たまりを覗き込んだ。それは早紀の涙が宝石箱に落ちたものだった。

「あなたはね、本当はあの時に死んでたの」
 早紀はしゃくりあげながら、上から目線でものを言うフレミーの顔をそっと見つめた。
「そう思ったら、失うものなんか何もないんじゃないの?ほら、行きなさい。答えはもう出てるでしょ」
 彼女はいきなりチャイナドレスをまくって片足をあげ、思い切り涙の水たまりを踏みつけた。ほんのわずかな水音がして、フレミーの姿は忽然と消えていた。同時に、早紀の心で今までとは違う何かが弾ける音がした。