拙作集

自作の物語をアップしました。つたない話ですが、よろしくお付き合い下さい。ご感想などいただければ幸いです。

もう妖精は要らない(18) 最終話

2010年02月28日 21時31分26秒 | Weblog
18 エピローグ~それぞれの今

 島になっている一番端のデスクの前で、一人の女性が口をへの字にしていた。
「どうして月またぎの立替精算が今頃出てくるんです?それをダメだって言うのが、課長の役目でしょ?お目付け役の本人が、ルール破ってどうするんですか」
 大きめの机に座っている年配の男性の方が分が悪いようだ。
「いやあ、申し訳ない。接待の領収書を手帳に挟んでおいて、すっかり忘れちゃってね。ここはひとつ、アイちゃんの力でなんとかしてもらえない?」
「経理がうるさいのは、ご存知でしょ、まったく。いつも最後は私にツケを回すんだから」
「あはは、それだけ、頼りにしてるってことだよ」
 何かを思いついて、急に女性は表情を緩めた。
「でも最近、主任は元気になってきましたよね。たまには、課長もやってくれるんだなって。正直、見直しました」
「なんのこと?確かに神山とはこの間一度、話をしたけど」
「あれ?上司の優れたマネジメント力によるものじゃないんですか?なんだ、ほめて損しちゃった。で、主任、何か言ってました?」
「『僕も助けてもらってばかりじゃなくて、時には誰かを守れるようにがんばります』って。あんまりがんばり過ぎるなよ、何かあったら、アイちゃんを頼れって言っておいたけど。彼、大丈夫だと思うよ、たぶん」
「そうですね、よっぽど課長の方が心配だって、よくわかりました」
 その時、トイレから席に戻ろうとしていた祐史のくしゃみが、オフィスに響いた。


「お話をうかがうのは、今日で二回目ね。前回は、ジュエリーボックスに口の悪い妖精がいて、というお話を聞いたのよね」
 すべてが機能重視の病院内で、ここのインテリアだけは少し作りが違っていた。「神経内科」や、「心療科」ではなく、あえて「MC&H」という看板を掲げたのも心憎い演出に思えた。白衣を身に付けず、おしゃれな着こなしで微笑むその姿を前にすると、この人も医者の一人とはとても思えず、まるで雑誌のページから抜け出てきた美人エッセイストのようだと早紀は感じていた。
「ええ、そうなんです。服装の趣味も悪くて。最初に見た時は本当にびっくりしました」

 この人にはなんでも聞いてもらえる、そんな安心感があった。あの日、祐史の前で、今思い出しても恥ずかしくなるような「事情説明」をして以来、フレミーは姿を見せていない。早紀は自分とちゃんと向き合おうと決心し、師長とも相談して、院内で評判になっているここのドアをノックしたのだった。

「そんなものが見えたら、不安になって当然だけど、大丈夫、心配することはないわ。あなたはとても強い人なのね。そんなあなたゆえの、そうね、防御反応と言ったらいいか、そういった類のものじゃないかしら。じゃあ、今日は続きを聞かせて下さい」

 横の棚に視線を向けると、花束を生けたガラスの器の横に、小さな熊のぬいぐるみがとぼけた表情で座っていた。
(ちょうど、あの派手好きな妖精くらいの大きさだわ。栞理ちゃんが見たら、喜びそうな顔してる)
 早紀は、敏腕の女医と向き合うと、おもむろに話を始めた。


「検温です。痛みの方はどうですか?」
 看護師長が部屋に入っていくと、背を起こしたベッドにもたれていた女性患者は、開いていたスケッチブックを閉じて向き直った。
「ええ。ありがとう。この間やってもらったのがよく効いているみたい。何と言ったかしら、ええと…」
 何のことですかと、顔を覗き込むベテラン看護師を手で制すると、香坂妙子は少し考えるそぶりをした後、口を開いた。
「腹腔神経叢ブロック、だったわね?」
「正解、です。また痛みが出るようだったら、遠慮なくおっしゃって下さい」
 師長は体温計を渡しながら、孤高な元教諭にたずねた。
「今日は何を描いておられたんですか?」
 妙子は、その問いには答えず、かすかな微笑みを浮かべたまま、閉じたスケッチブックの表紙を指先で軽く叩いてみせた。師長もあえて詮索はせず、測定にかかる短い時間を微笑みと沈黙で埋めていた。ピピッという電子音を受け、患者は体温計を脇から抜いて手渡しながら言った。
「私は幸せ者ね。皆さんにこんなによくしてもらって。向こうであの子に会うのが楽しみだわ。素敵な土産話を持って行けそうよ」


 窓からは病院の周囲の様子がよく見えた。外を吹く風はまだ少し冷たかったが、中庭の芝生では栞理が咲きそろったパンジーの花の色を数えていた。春がすぐそこまで来ていることを、確かめるように。


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