拙作集

自作の物語をアップしました。つたない話ですが、よろしくお付き合い下さい。ご感想などいただければ幸いです。

もう妖精は要らない(9)

2010年02月24日 22時59分28秒 | Weblog
9 亡き妻への思い

「それにしても驚きました。香坂さんのお身内の方だったんですね」
「世間は狭いって言うけど、僕もびっくりしましたよ。あの後、娘が『また会えるからね』って言ってたんですが、まさか本当にそうなるとは」

 廊下の端に設けられたフリースペースからは、広いガラス窓を通して外の景色がよく見えた。早紀は小さな木製のテーブルを挟んで、男性と向かい合った。改めて見ると、穏やかな目が印象的だった。
「相本早紀と言います。ここで病棟勤務をしています」
「神山祐史です。義母がお世話になっているそうですね。ある看護師さんにとてもよくしてもらっているという話は聞いていたんです。それにしても、何かの縁があるのかな」
「ここは特定疾患の治療では有名ですからね。多くの患者さんが来られることは確かですけど。香坂さんは本当に意思の強い方ですね。私も教わることがたびたびあります」
「以前は学校の先生をしていましてね」
 早紀はいつしか微笑んでいた。こんな感触を抱きつつ、会話ができるのは何年振りのことだろう。

「もしかしたら、この間の冷たい雨の日に、妻のお墓に花を供えてくれたのは相本さんですか?」
「ええ、香坂さんに頼まれて」
「そうでしたか。あの日、私も娘を連れて妻に会いに行ったんです。そしたら、その前に来てくれた人がいたみたいだったんで驚いて。義母にたずねても笑ってはっきり教えてくれないし」
「ごめんなさい、出過ぎたことをしてしまって」
「とんでもない、逆ですよ。とても嬉しかった。妻も喜んでいたんじゃないかな。自分の母親がお世話になってる看護師さんが来てくれたなんて」

 早紀は黙って彼の話を聞いていた。たずねたいことはいくつかあったが、それは他人が踏み込むことでは無いように思えた。祐史は視線を窓の外へ向けると、独り言のように別な話を始めた。
「妻はいつも前を向いている人でした。一度決めたら、後には引かない。まあ、『先生』の娘だから、当然かもしれませんが。事情があって、出産に危険を伴うことは承知していたんですが、二人で話し合って子供を作ろうと決めました。そして、妻は娘を産んだ直後に亡くなりました。妊娠中に生死をさまよう事故に遭ったので、その影響もあったのかもしれませんが、今となってはよくわかりません。でも、娘を授けてくれたことに、心から感謝しています」
 それは胸を突く悲しい話だった。聞かなければよかった、という思いと、この人の生き様にもっと近づきたいという気持ちが、早紀の中で複雑に交錯していた。
「ほんの短い時間だけですが、妻は生まれてすぐの娘を抱く機会がありました。きっと幸せだったんじゃないかなって、勝手にそう思ってます。あっ、ごめんなさい。あなたには関係のない身の上話をしてしまって。こんなこと、普段、人には言わないんですが…」
 彼は照れたように頭をかいた。実直なこの人に守られ、奥さんはきっと幸せだったに違いないと、自然にそう思えた。

「一つ教えていただけますか?」
 早紀は控えめにたずねた。
「何でしょう?」
「お嬢さんのお名前は?」
 そう言えばまだお伝えしていませんでしたねと微笑みながら、彼は言った。
「『しおり』って言います。本にはさむ栞に、理論の理」
「いいお名前ですね。人の心に残る、お嬢さんにふさわしい感じがします」
「妻は名前を決める前に亡くなったので、聞いたら何と言うか、わかりませんが」

 その時、小さな足音がしたかと思うと、栞理が息を弾ませてフリースペースに駆け込んできた。
「たいへん!」
「どうした?」
「おばあちゃんが、きゅうに。はやく!」


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