5 先生からの依頼
六人部屋の窓際で、背を起こしたベッドにその人は体を預け、穏やかなまなざしで外を見ていた。コンクリートばかりの風景の中で、病院を取り囲むように広がる公園が、安らぎを感じさせていた。しかし、木々の葉は黄色く変わり、瑞々しい緑色は望むべくもない。
早紀は彼女の傍らに近づいて声をかけた。
「検温です。ご気分はいかがですか?」
「ありがとう。おかげさまで、昨日の夜は痛みもそれほどではなかったわ」
「すっかり冬景色ですね」
「ためらいはないつもりなのに。これが最後の秋かと思うと、複雑な気持ちになるものね」
この病院はいわゆるターミナルケアのためのものではない。病巣の治療に成功し、再び普通の生活に復帰していく人も数多くいる。一方で、「そうではない」患者には、望まずとも残された時間の意味が突きつけられることになる。
(この人は強い人だ。その分、抱えている悲しみが深い気がする)
ここで働く看護師にとって、過酷なのは肉体のきつさだけではない。「計算された死」に向き合う患者のケアは、大きな精神的負担を強いるものだった。早紀は体温計を渡しながら、思わず彼女の横顔を覗き込んだ。
ナースステーションでは、彼女を「妙子先生」と称していた。そのたたずまいや伸ばした背筋から、誰ともなく言い出したのだが、実際に彼女が小学校で教鞭をとっていたと聞いた時は、みんながうなずいた。口数が少なく、接しにくいと訴える同僚もいたが、早紀はその孤高なたたずまいに敬意を抱いていた。
「今日はお描きにならないんですか?」
妙子先生は絵が好きらしく、しばしばスケッチブックを開いている姿を見かけた。しかし、彼女が何を描いているのかを見た者はいない。
「そうね、創作意欲が湧いたら、また描きたいとは思うけど」
小さな電子音が鳴った。早紀は体温計を受け取ると、値を確認して記録した。
「次の週末、相本さんはお休みなの?」
唐突に個人的な話題が飛び出して、早紀は意外に感じた。
「ええ、夜勤のシフトも入っていませんし」
「こんなことを言っては申し訳ないんだけど、もし、ご予定がなかったら、一つお願いできないかしら」
師長からの注意を受けるまでもなく、患者と個人的に深くかかわるのは、避けるべきこととなっていた。それを知りつつも、彼女の瞳に浮かんだ懇願の色を無視できず、早紀は控えめな受容を示した。
「職場を離れての対応はルール違反なんですが、独り言を漏れ聞いてしまうのは、よくあることですよね?」
「ありがとう。じゃあ、あなたへではなくて、窓の風景にでも話しかけるわね。私に代わって行ってもらいたいところがあるの。都内でそんなに遠くじゃないところ」
「難しいことはできませんよ、私では」
「いいえ、お願いしたいのは、実はお墓参りなの。今度の土曜日が祥月命日なのよ。具合が悪くなってから、ずっと行けなくて」
次の休みに差し当って予定はない。たまった洗濯物を洗って部屋を片付けても、半日もあれば十分だ。外出で気分を変えてみるのも悪くない気がした。
「申し訳ありませんが、ご依頼にお応えするのは難しいですね。でも、それとは別に、ちょっとしたウォーキングに出かける先について、アドバイスをいただけますか?」
言いながら、早紀は妙子にうなずいて見せた。彼女は安堵の表情の中に、かすかな微笑みをたたえて言った。
「ありがとう…じゃなくて、そう、じゃあ、とっておきの場所をお教えするわ。南向きの斜面で穏やかな陽だまりが続くところを」
彼女には一緒に暮らしている身寄りがいないらしいという話は聞いていた。ほっとした様子の「先生」に、早紀は思い切ってたずねた。
「ご主人の、ということですか?」
「いいえ、娘なの。主人も、娘が小さかった頃に逝ってしまって。私、自分の病気のことを聞いた時、正直、『死ぬのは怖い』って思った。でも、向こうに行けて、また、あの人や娘に会えるなら、それはそれで不幸なばかりじゃない気がしてきたわ」
告知することが普通になった今、彼女のような境地に辿り着ける人は、むしろ幸せなのかもしれない。そう思った時、急にその表情が曇るのが見えた。
「でも一つだけ、一つだけ気がかりなことがあるの。それは旅立っていく私が心配しても仕方のないことなんだけど」
それが何かを問う勇気までは持てず、早紀は黙って聞いていた。彼女は表情を戻すと、早紀に問いかけた。
「あなた、ご両親は?」
「父は健在ですが、母は私が中学生の時に亡くなりました。悪性の腫瘍とわかった時には、もう手遅れでした。私は母の死を間近で見て、この仕事に就くことを決めたんです」
それは、他人にはほとんど話したことのない事情だったが、妙子先生の真摯な横顔を見た時、自然に口をついて言葉が出ていた。
「そうだったの。あなたの覚悟は、十二分にお仕事ぶりに出ていると思います。私も普段なら、検温に来た看護師さん相手に、変な独り言は言わないもの」
頬が上気するのがわかって、早紀は思わずうつむいてごまかした。
「ああ、ごめんなさい、すっかり時間をとってしまって。あなたにお願いしたのには、もう一つ理由があってね」
彼女はかすかな微笑みを浮かべながら、思いもかけないことを言った。
「あなたを見てると、似てる気がするのよ」
「誰に、ですか?」
「亡くなった娘に。もちろん、顔や姿は同じじゃないわ。でも、一生懸命さとか、頑ななほど真面目なところとか、よく似てる」
(私と娘さんで、重なるところがある?)
きっとそれは輝きを持った人生であったに違いない。それに比べて、自分の抱える闇の深さがとても後ろめたいものに感じられて、早紀は心でため息をついていた。
六人部屋の窓際で、背を起こしたベッドにその人は体を預け、穏やかなまなざしで外を見ていた。コンクリートばかりの風景の中で、病院を取り囲むように広がる公園が、安らぎを感じさせていた。しかし、木々の葉は黄色く変わり、瑞々しい緑色は望むべくもない。
早紀は彼女の傍らに近づいて声をかけた。
「検温です。ご気分はいかがですか?」
「ありがとう。おかげさまで、昨日の夜は痛みもそれほどではなかったわ」
「すっかり冬景色ですね」
「ためらいはないつもりなのに。これが最後の秋かと思うと、複雑な気持ちになるものね」
この病院はいわゆるターミナルケアのためのものではない。病巣の治療に成功し、再び普通の生活に復帰していく人も数多くいる。一方で、「そうではない」患者には、望まずとも残された時間の意味が突きつけられることになる。
(この人は強い人だ。その分、抱えている悲しみが深い気がする)
ここで働く看護師にとって、過酷なのは肉体のきつさだけではない。「計算された死」に向き合う患者のケアは、大きな精神的負担を強いるものだった。早紀は体温計を渡しながら、思わず彼女の横顔を覗き込んだ。
ナースステーションでは、彼女を「妙子先生」と称していた。そのたたずまいや伸ばした背筋から、誰ともなく言い出したのだが、実際に彼女が小学校で教鞭をとっていたと聞いた時は、みんながうなずいた。口数が少なく、接しにくいと訴える同僚もいたが、早紀はその孤高なたたずまいに敬意を抱いていた。
「今日はお描きにならないんですか?」
妙子先生は絵が好きらしく、しばしばスケッチブックを開いている姿を見かけた。しかし、彼女が何を描いているのかを見た者はいない。
「そうね、創作意欲が湧いたら、また描きたいとは思うけど」
小さな電子音が鳴った。早紀は体温計を受け取ると、値を確認して記録した。
「次の週末、相本さんはお休みなの?」
唐突に個人的な話題が飛び出して、早紀は意外に感じた。
「ええ、夜勤のシフトも入っていませんし」
「こんなことを言っては申し訳ないんだけど、もし、ご予定がなかったら、一つお願いできないかしら」
師長からの注意を受けるまでもなく、患者と個人的に深くかかわるのは、避けるべきこととなっていた。それを知りつつも、彼女の瞳に浮かんだ懇願の色を無視できず、早紀は控えめな受容を示した。
「職場を離れての対応はルール違反なんですが、独り言を漏れ聞いてしまうのは、よくあることですよね?」
「ありがとう。じゃあ、あなたへではなくて、窓の風景にでも話しかけるわね。私に代わって行ってもらいたいところがあるの。都内でそんなに遠くじゃないところ」
「難しいことはできませんよ、私では」
「いいえ、お願いしたいのは、実はお墓参りなの。今度の土曜日が祥月命日なのよ。具合が悪くなってから、ずっと行けなくて」
次の休みに差し当って予定はない。たまった洗濯物を洗って部屋を片付けても、半日もあれば十分だ。外出で気分を変えてみるのも悪くない気がした。
「申し訳ありませんが、ご依頼にお応えするのは難しいですね。でも、それとは別に、ちょっとしたウォーキングに出かける先について、アドバイスをいただけますか?」
言いながら、早紀は妙子にうなずいて見せた。彼女は安堵の表情の中に、かすかな微笑みをたたえて言った。
「ありがとう…じゃなくて、そう、じゃあ、とっておきの場所をお教えするわ。南向きの斜面で穏やかな陽だまりが続くところを」
彼女には一緒に暮らしている身寄りがいないらしいという話は聞いていた。ほっとした様子の「先生」に、早紀は思い切ってたずねた。
「ご主人の、ということですか?」
「いいえ、娘なの。主人も、娘が小さかった頃に逝ってしまって。私、自分の病気のことを聞いた時、正直、『死ぬのは怖い』って思った。でも、向こうに行けて、また、あの人や娘に会えるなら、それはそれで不幸なばかりじゃない気がしてきたわ」
告知することが普通になった今、彼女のような境地に辿り着ける人は、むしろ幸せなのかもしれない。そう思った時、急にその表情が曇るのが見えた。
「でも一つだけ、一つだけ気がかりなことがあるの。それは旅立っていく私が心配しても仕方のないことなんだけど」
それが何かを問う勇気までは持てず、早紀は黙って聞いていた。彼女は表情を戻すと、早紀に問いかけた。
「あなた、ご両親は?」
「父は健在ですが、母は私が中学生の時に亡くなりました。悪性の腫瘍とわかった時には、もう手遅れでした。私は母の死を間近で見て、この仕事に就くことを決めたんです」
それは、他人にはほとんど話したことのない事情だったが、妙子先生の真摯な横顔を見た時、自然に口をついて言葉が出ていた。
「そうだったの。あなたの覚悟は、十二分にお仕事ぶりに出ていると思います。私も普段なら、検温に来た看護師さん相手に、変な独り言は言わないもの」
頬が上気するのがわかって、早紀は思わずうつむいてごまかした。
「ああ、ごめんなさい、すっかり時間をとってしまって。あなたにお願いしたのには、もう一つ理由があってね」
彼女はかすかな微笑みを浮かべながら、思いもかけないことを言った。
「あなたを見てると、似てる気がするのよ」
「誰に、ですか?」
「亡くなった娘に。もちろん、顔や姿は同じじゃないわ。でも、一生懸命さとか、頑ななほど真面目なところとか、よく似てる」
(私と娘さんで、重なるところがある?)
きっとそれは輝きを持った人生であったに違いない。それに比べて、自分の抱える闇の深さがとても後ろめたいものに感じられて、早紀は心でため息をついていた。
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