遊月(ゆづき)の日々これ修行なり~

パワースポット研究家(おたる案内人)でセラピスト遊月のブログ
【パワースポットニッポン(VOICE)北海道担当】

生まれたことが嬉しくて(2002年1月24日記)

2021-02-10 11:20:45 | メルマガ『翼をたたんで今日はお昼寝』より
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『翼をたたんで今日はお昼寝♪』
 
かなり長いので、次回からは区切って発行しますね。
メルマガの全文5800文字くらいあって、ごめんなさい(苦笑)

※メルマガのタイトルはこちらから取りました。
遊月のマスコットキャラクターペンジェルのお言葉より

雪は傷ついた過去を優しく覆ってくれるから
もう振り向いて悲しくならなくても大丈夫。

それでもココロが押しつぶされそうになったなら
翼をたたんで今日はお昼寝。 

(2000.2.23)




子供の頃『本当の自分』は、この肉体のどこにいるのかわからず不思議に思っていました。
自分として考えている場所は頭、性格には脳であるのに、何かを感じるのは胸なのです。


考える場所と感じる場所が違っている。けれどどちらも間違いなくじぶんであるはず。
そんな自分を総合したものが私であると感じるこの意識だと思うのですが、だとしたらこの意識は、肉体の中のどこに存在しているのだろうと。


☆*…*★*…*☆*…*★*…*☆


あれはまだ小学校に上がる前のこと、人がいつか死ぬという事実をを知りました。
いつも遊んでくれていた裏に住んでいたおばあちゃんが、体調が悪くて寝込んで遊べなくなってしまい、ときどき様子をうかがいに行っていました。


ある日、いつものように玄関で呼びかけると、お嫁さんが出てきて、おばあちゃんは死んだから、二度と遊びに来るな、と言われたのです。


その時の私は幼くて『シンダ』の意味が理解できず、それは例えば入院するとか、親戚の家に行くとか、遠くに行ってなかなか会えないことなのだと子どもなりに解釈をしました。
なのでいつかまた帰ってくる可能性があるのだと、勝手に考えていたのです。


それから1カ月ほどして、そろそろ帰ってきたかもしれないと、再び裏の家に行ったところ、お嫁さんが怒りながら「この前死んだって教えたでしょ、二度と来ないで!」と怒鳴ったのです。


お嫁さんは母にも注意したらしく、その後、かんかんに怒った母親からも怒鳴られてしまいました。


ですが母親も、「裏のおばあちゃんは死んだのだから、二度と行くな」の一点張りで、何故言ってはダメなのかがどうしても私には納得いかなかったのです。


『シンダ』から遊べない、が理解できていなかったのです。


☆*…*★*…*☆*…*★*…*☆


幼い私には、誰かがこの世界からいなくなるなんて発想はどこにもありませんでした。
母になんとか、シンダとはどういうことなのかを尋ねると、
「死んだら息が止まって、身体は焼かれて骨になるんだ。だからこの世からいなくなる」と、こともなげに言われました。


それは誰にでも起きることで、いつか私も死ぬというのです。
それを聞いたときの衝撃と言ったら。


自分がいつか焼かれて骨になって終わる。もう誰にも会えず、息もすることもできず、消えてしまう。
あれほどの恐怖を覚えた経験はあまりないかもしれないと思うほど、幼い私はただただ恐怖に打ちのめされていました。


母の言葉を聞いていこう、死に関することが頭から離れず、死んだらどうなのかとそればかりを考えていました。


☆*…*★*…*☆*…*★*…*☆


あれこれ考えて、おそらく死んだときの感覚は、眠った時のようなものだろうと思いました。
眠っている時は、考えている自分も、感じている自分もいません。
だから、幼い私にとっての結論は『死イコール眠る』でした。


死と眠りの違いは、朝目覚められるかどうかです。
そこから私は、眠ると明日の朝必ず目覚めるとは限らないかもしれないと怖くなりました。
なので眠ろうとすると怖くて怖くて、目が冴えて眠れなくなりました。


さすがに子どもですから、いつかどこかで眠りに落ちるわけですが、八時頃に布団に入っても眠れないままで、ずっと怖くて目が冴えていました。
起きていると叱られるのでひたすら寝た振りをします。


そのうちに兄や姉が布団に入って、彼らはあっという間に眠ってしまいます。
十時を過ぎること、父が眠り、十一時には母も眠り、家の電気はすべて消されます。


豆電球のあかりがぼんやりと灯り、タンスやその上に置かれている人形ケースがうっすら見えている空間の中で、静まり返った家のどこかから、誰かがたてるいびきの音が聞こえて来る。
今この家の中で起きている、つまり意識がある状態でいるのは自分だけだと思うと、死への恐怖とはまた別の、お化けでも出てきたらどうしようと言う恐怖と悲しさで押しつぶされそうになりました。


☆*…*★*…*☆*…*★*…*☆


眠るのが怖くて、何度も眠りに落ちてははっと目が覚めて、その度に、ああ、起きることができた、また生きていけるとほっとしたりして。
ぐっすり寝る無ことができない日々が続きました。


そんな日々が身体にいいわけないと子どもなりに思っていた私は、死に対する恐怖に何らかの形で決着をつけようと思いました。


死とは眠っているような状態である。
でも、眠るだけで必ず死ぬわけではない。
どうやら死ぬには病気や事故など、何か原因があるようだし、簡単に人は死ぬとは限らないようだ。


父も母も姉も兄も私より年上で、私より死に近い年齢であるはずなのに、皆当たり前のように眠り当たり前のように起きている。
そうしているのは、眠っただけでは死なないとわかっているからなのではないか。


そう考えて、眠ることは大丈夫と自分に言い聞かせました。
とりあえず眠りイコール死問題は自分の中でなんとか決着できました。


ですが最大の問題、では死んだあとはどうなるのか、が残っていました。


その時ふとひらめいたのです。


それは幼い私が考えたことではなく、どこかから答えが突然やってきたのです。


☆*…*★*…*☆*…*★*…*☆


眠ったらどこかにいってしまうこの考えたり感じたりするもの(意識)は、肉体とべったりくっついているだけで、もともとは別のものではないのか?


眠るのは肉体だけであって、意識は眠っている時、夢の国と呼ばれる世界にふわふわと行っているのかもしれない。
だから人は夢を見るのだ。


夢は自分が勝手に創作しているのではなく、空気のように目に見えない意識がふわふわの状態で、実際に夢の世界に行っているのかもしれない。


だから意識と肉体は離れることは可能なのだ。
だって布団で寝ている肉体とはまったく違う夢の世界に意識はいくことができるのだから。


意識と肉体ががんじがらめで離れられないものならば、夢の世界も布団の中での状態で繰り広げられるはずなのに、夢(を見ている状態の意識)はどんな場所にも行けている。


それは、肉体と意識が別のものだから起きることなのだ。


そう思いました。
自分で考えたというよりは、ひらめいたものなので、何かに教えてもらってそう考えたのだと思います。


☆*…*★*…*☆*…*★*…*☆


意識と肉体が別の者であれば、シンダ時に肉体に火をつけても、そもそも私があれこれ感じたり考えりしている意識は、空気と同じように形もないものだから、焼かれることはない。


だから肉体は骨になるかもしれないから焼かれて肉体がなくなったあとは、意識は留まる場所を無くするかもしれないけど、私という何か、つまり意識は、ずっとこの世界のどこかに残るのかもしれない。


と考えました。
つまりシンダらなくなるのは肉体だけで、意識は透明のまま残るのではないか?
というのが幼い私の考えだったのです。


なにせ子どもですから、知識などないし、今のようなネットもないので、知りたいことを検索するシステムもありません。
ただふとひらめいた、それだけでした。


ですが真実はわからないまでも、それがしっくり来たので、いつか大人になって真実が分かるまで、その考えを採用して生きていくことにしました。


実はその時私は、死んだあと意識はふわふわしている状態でずっとどこに存在しているのだろうと考え、ある考えがひらめいていました。


それは、またいつか、身体を見つけて赤ちゃんとして生まれ変わってくるのではないだろうか?というものです。


その時、生まれ変わりの概念など知らなかったのに、透明な意識はまた肉体を見つけて生まれてくるのではないかと思ったのです。
そう思うと同時に、和恵として生まれる前に肉体を持った人生があったのかもしれない、と唐突に思いました。


前世という概念がなかったので、前の人生があったとしてもその記憶がないことや、何の証拠もないことから、そのことについてはそれ以上あまり考えませんでした。


とりあえず今、この肉体がなくなる日が来ても、和恵というこの意識は、消えて無くなることはない。
もしかしたらまたいつか、別の肉体を持って生まれて来る日があるのかもしれない。
そんな感じて落ち着いていたのを今でも覚えています。


☆*…*★*…*☆*…*★*…*☆


こんな風に私は幼いころから、疑問に思ったことにひとつひとつ自分で納得いく答えを見つけていきました。


ある時は周囲の大人から、ある時は本やテレビから、ある時は、どこからともなく心の中に突然やってくる不思議な感覚が、答えを与えてくれました。


特に、どこからともなく心に飛び込んでくる答えの正体が何なのかはよくわかりませんでしたが、インディアンがグレートスピリッツと呼び、人々が神と呼んだ、人間を超越した超意識のようなものが存在していて、その存在が教えてくれているとどこかで信じているのです。


そんな私は、人生で三回子供を生む機会を与えられ、命の深さを知りました。
ひとつの細胞から命が育まれていく過程を、身を持って経験できたのです。


生まれたばかりの子供たちを見て、肉体を持って生まれてくることは、この世界に生きるチャンスを特別に与えられたのだと実感しました。


それは、魂の表現をさせてもらえることだと思っています。


全てが自由だった空気のような魂を、肉体に閉じこめることでカタチを持つことができ、そのおかげで私たちにすばらしい体験を得ることができる。


子供を生む作業を通して私はそれを学ばせてもらったのです。


肉体を持ち、大地を直接踏みしめる足、豊な自然や仲間たちの皮膚に直接触れられる指、体温と言うものを身体に与えてくれている温かい血液、地球のあらゆる自然のすべてを見て聞いて匂いをかぎ感じる五感。
自分の意識と世界を分ける境界線(肉体)を与えられたことで、私たちは世界を直接体験できるようになったのです。 


かつて私は、生きていくことに意欲的ではありませんでした。
生まれた時から望まない子であるような言葉を投げかけられ世界で最も愛してくれるはずの存在から、おまえのような人間は嫌いだと、自分が産んでいなければ関わりたくもないという言葉を与え続けられて育ちました。
そのため直接的な自殺に及ぶ気はないけれど、積極的に生きようとしていなかった時代もありました。 


ですが、それでもここまで生きてきた日々の中で、たくさんの出会いと出来事が、私を少しずつ変えて来てくれました。
生きることで得られるしあわせがこの世界にはたくさんあるのだと知ることができたのです。
そしてそういうものを何度もこの身体で経験して、心で感じることができたのです。


そうして少しずつ生きている今を大切だと感じられるようになって来て、今は、この星に肉体を与えられたこと、この瞬間にこの星に生きて立っていることが、とてもあわせに感じているのです。


だから、この星に命を与えてくれたすべての存在に心から感謝を込めて、すべての仲間たちにこの言葉を捧げます。
今あなたがそこに生きていることが、かつてあなたがこの世に生を受けたことは、誰でもなくあなたにとって祝福そのものであることを。



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