半世紀、とまではいかないけれども、それに近いほど遠い過去のことながら、彼とのことは私の人生にとっては、貴重な記憶。
出会った時のことも印象に残るし、彼のイメージにも忘れがたいものがあるからだろうと思う。彼もエピソードのことなど少しは話してくれたけれども、私の抱いていた彼が経てきた旧制の高等学校のイメージだとか(東大時代のことは聞いたことがない)、そうした背景を重ねて見ていたところもあって、なにか精神的に培われてきた魅力、雰囲気を感じてしまうところもあったように思う。二重瞼のキリッとした形の良い眼。端正なふっくらとした顔立ち。眼鏡。二人の娘の父親でもある働き盛りの、中肉、175センチほどの姿良い中年紳士。検事。
私にとっては、とりわけその魅力的な容姿。理想のタイプ、ということだったでしょう。
夏のことというと、思い起こすのは、ボートに乗った時のこと。
会う時は、私のアパートで仕事帰りに、ということだったのが、玉川でボートに乗ろうと電話で彼が言ってきたのである。東横線の二子玉川園の駅で待ち合わせ。夏の夕暮れ時の頃だったと思う。彼は仕事帰りだから、カバンを持った姿。
今思えば、彼が仕事の行き帰りにいつも通っている線。電車から多摩川を見ながら、ボートのことを思いついたのかもしれない。白いワイシャツの袖をまくって、漕いでいた彼の姿が浮かんでくる。薄暗い時間の川の上。中年の彼と高校生の私が、そのような時間にボート上にいる。外目には、変わったとり合わせと、映ったことだろうと思う。でも、辺りに他のボートがいたという記憶もない。今になれば特別な、彼との思い出。
そうしたことは、彼にとっても記憶に残ることであったのかもしれない。
というのも、何十年もの後、彼がどうしているのかを知りたくなって、その記録を辿ってみたことがあったのである。それによって知ったのは、彼が東京で仕事をしていたのは、私と会った前後の数年間だけで、それ以前、そして後も、九州から東北に及ぶ県の検察庁の仕事に就いていたということ。私の思いもしなかったことに。私はそれまで、ずうっと東京での仕事、と思いつづけていたのである。
だから、そうしたことを知って、東京のような都会とちがって、当時の地方では、仕事の性格もあり行動も限られていたのだろうな、と想像もしたのである。若い男の子との性的関係、などということについては。どのようなことがあったものか、私の知る由もないことだけれども。
彼の記録を辿って知ったことには、戦後の世に知られた事件の担当検事として、彼の名のあったことなどもあった。私が知る、はるか以前の時代の彼のこと。法廷での検事としての彼がどんなふうであったものか。私は、想像ができない。明晰、頭脳優れた人であることは分かる。でも、私は自分の前にいた彼をしか、思い浮かべることができない。
私が母と住むことになって、それまでのようにアパートで二人だけで会うことができなくなるという事情も生じて、また私の受験のことなども考えてのことだろう。10月の頃会った時に、彼が、今日を最後にしようと言った。
駅の近くの和風の店に入って、カウンターそばの座敷席に向き合って座ると、彼は酒を注文した。外で一緒に店に入るのは、その時が初めて。別れのための盃を交わしたい、という彼の気持の表れ。そのことが良く分かったし、彼ともこれで最後と思うと、気持は沈んだ。言葉もでなかったように思う。そんな私に彼は、これからの人生への励ましの言葉を、向けてくれたりなどしていたと記憶する。
店を出た後、いつも彼を送った駅まで、最後となったその日は、彼は私の肩を抱いて歩いてくれた。沈む私の気持を慰めようとするかのようでもあったけれども、それだけではない、彼自身の思いもまたあったのではないだろうかと、今は思う。
前の記事で触れた、彼にもらった参考書のこと。それはチャールズ・ラムの「エリア随筆集」の対訳本のことで、早稲田志望だった私の、受験の英語に役立つようにと、持ってきてくれたもの。それは以前、彼が読書の一端に使っていたものだったようで、いくつかの場所には、うすく赤のアンダーラインが引かれていたりした。その抑制を感じさせるようなラインの感じに、私は、彼という人を思ったりなどしたのだけれども。
その、彼に繋がる唯一のもの。一冊の本。今、殆ど眼に触れることはない。見れば、今でもなにか切ないような思い、甦る。
出会った時のことも印象に残るし、彼のイメージにも忘れがたいものがあるからだろうと思う。彼もエピソードのことなど少しは話してくれたけれども、私の抱いていた彼が経てきた旧制の高等学校のイメージだとか(東大時代のことは聞いたことがない)、そうした背景を重ねて見ていたところもあって、なにか精神的に培われてきた魅力、雰囲気を感じてしまうところもあったように思う。二重瞼のキリッとした形の良い眼。端正なふっくらとした顔立ち。眼鏡。二人の娘の父親でもある働き盛りの、中肉、175センチほどの姿良い中年紳士。検事。
私にとっては、とりわけその魅力的な容姿。理想のタイプ、ということだったでしょう。
夏のことというと、思い起こすのは、ボートに乗った時のこと。
会う時は、私のアパートで仕事帰りに、ということだったのが、玉川でボートに乗ろうと電話で彼が言ってきたのである。東横線の二子玉川園の駅で待ち合わせ。夏の夕暮れ時の頃だったと思う。彼は仕事帰りだから、カバンを持った姿。
今思えば、彼が仕事の行き帰りにいつも通っている線。電車から多摩川を見ながら、ボートのことを思いついたのかもしれない。白いワイシャツの袖をまくって、漕いでいた彼の姿が浮かんでくる。薄暗い時間の川の上。中年の彼と高校生の私が、そのような時間にボート上にいる。外目には、変わったとり合わせと、映ったことだろうと思う。でも、辺りに他のボートがいたという記憶もない。今になれば特別な、彼との思い出。
そうしたことは、彼にとっても記憶に残ることであったのかもしれない。
というのも、何十年もの後、彼がどうしているのかを知りたくなって、その記録を辿ってみたことがあったのである。それによって知ったのは、彼が東京で仕事をしていたのは、私と会った前後の数年間だけで、それ以前、そして後も、九州から東北に及ぶ県の検察庁の仕事に就いていたということ。私の思いもしなかったことに。私はそれまで、ずうっと東京での仕事、と思いつづけていたのである。
だから、そうしたことを知って、東京のような都会とちがって、当時の地方では、仕事の性格もあり行動も限られていたのだろうな、と想像もしたのである。若い男の子との性的関係、などということについては。どのようなことがあったものか、私の知る由もないことだけれども。
彼の記録を辿って知ったことには、戦後の世に知られた事件の担当検事として、彼の名のあったことなどもあった。私が知る、はるか以前の時代の彼のこと。法廷での検事としての彼がどんなふうであったものか。私は、想像ができない。明晰、頭脳優れた人であることは分かる。でも、私は自分の前にいた彼をしか、思い浮かべることができない。
私が母と住むことになって、それまでのようにアパートで二人だけで会うことができなくなるという事情も生じて、また私の受験のことなども考えてのことだろう。10月の頃会った時に、彼が、今日を最後にしようと言った。
駅の近くの和風の店に入って、カウンターそばの座敷席に向き合って座ると、彼は酒を注文した。外で一緒に店に入るのは、その時が初めて。別れのための盃を交わしたい、という彼の気持の表れ。そのことが良く分かったし、彼ともこれで最後と思うと、気持は沈んだ。言葉もでなかったように思う。そんな私に彼は、これからの人生への励ましの言葉を、向けてくれたりなどしていたと記憶する。
店を出た後、いつも彼を送った駅まで、最後となったその日は、彼は私の肩を抱いて歩いてくれた。沈む私の気持を慰めようとするかのようでもあったけれども、それだけではない、彼自身の思いもまたあったのではないだろうかと、今は思う。
前の記事で触れた、彼にもらった参考書のこと。それはチャールズ・ラムの「エリア随筆集」の対訳本のことで、早稲田志望だった私の、受験の英語に役立つようにと、持ってきてくれたもの。それは以前、彼が読書の一端に使っていたものだったようで、いくつかの場所には、うすく赤のアンダーラインが引かれていたりした。その抑制を感じさせるようなラインの感じに、私は、彼という人を思ったりなどしたのだけれども。
その、彼に繋がる唯一のもの。一冊の本。今、殆ど眼に触れることはない。見れば、今でもなにか切ないような思い、甦る。