泥から咲いた蓮の花

現在、リハビリ中なブログです。長い目で見守ってくだせ~

「息子のまなざし」

2005-02-02 16:41:21 | どろな話
監督:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ。2002年ベルギー・フランス合作。映画をどうとらえるだろうか。娯楽?ひまつぶし? 観る人なりでいいのだろうけども、娯楽ではないし、ひまつぶしだったら観なくてもよい。人は最大の喪失にどう向き合っていくのどうか。この作品はそれを考えさせてくれる。受け入れるのか、あがくのか。怒り続けるのか、憎み続けるのか。許すとはなんだろう。許されるとはなんだろう。贖うとは。

「あり!こんなところで終わっちゃうの?」というラストだった。瀬戸内寂聴さんのコメント「感動でしばらく椅子から立てなかった。明かりがつき、頬一杯に流れている涙を拭くのも忘れていた」を最初に読んでいたが、作品中で感動的な場面はなかった。

見終わり、しばらく考え込む。冷蔵庫からコーラを取り出し、コップに注いだ時に涙がどっとあふれてきた。私たちはどれほど、いろんなものをなくし、それに嘆いているか。そして、それに平気なフリをしているか。「もっと強くならなければ」と責めているか。心の底で「わかってほしい」「許してほしい」と願っているか。人は毎日、この葛藤に生きていると思う。主人公オリヴィエも、少年フランシスも私だった。

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3 コメント

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骨太 (伴太)
2005-05-20 13:24:10
この映画について、評しているだけでも嬉しくなって書きこみしてます。

この監督さん達の作品好きです。前作「ロゼッタ」も、えっ??って所で終了。そこがまたいい。

背後からカメラで追う。遠慮がちな演出、だからこそ、主人公達の深い闇がかいま見える。



映画担当したきっかけで、監督達来日で案内状まで頂いていたのに、取材には行けなかった。



最近観たなかでは、坂本龍一の音楽が無機質な印象をあおる日本映画「トニー滝谷」も同じ空気―孤独―を漂わせていました。

ただし、欧米作品はは骨太い。人と人が向きあった時の対峙力というか、毅然とした自己主張(言葉無くとも、佇まいだけでさえ)恐ろしいほど、屈強な主張があります。

「私はこう決断した、だからこう行動する」。骨格や体格も関係あるのかなと思えるほど。



「トニー滝谷」は曖昧さがあって、湿っぽさのない乾いた孤独なんだけれど、毅然としたものではなくて、浮遊している。決めつけないというのか、両方、受け入れていたりする。



私は今、生きるために映画を見続けています。お給料をもらって働いています。飽きることがないのが、映画の魔力です。
人生のテーマは (伴太)
2005-05-20 14:23:15
「しなやかに逞しく」、骨太な部分と柳のしなやかさを持っていたい、と願う私なのです。
しなやかに逞しく (どろ)
2005-05-21 12:08:58
何を目標にするにしても、前提として自在であることに目を向けてみる。何かになろうと希求するということは、そうなっていない自分は困難を抱えたということ。そこも理解しておく。「なぜ私は○○でありたいと願うか」



「息子のまなざし」であつかう状況は、実は私たちの日常で起きていることだ。現実に対峙し、得ることを喜び、失うことに悲しみ、承認されることを希う。



フランシスに息子を殺されたオリヴィエが、フランシスに観たものは何だっただろう。私はこう考える。オリヴィエがフランシスを生かそうとしたことは、自らが生き行くという内在する勇気だ。それが「自由」なのではないだろうか。

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