泥から咲いた蓮の花

現在、リハビリ中なブログです。長い目で見守ってくだせ~

「思い」を従える

2007-06-27 12:04:39 | どろな話
先の日記で、ニコチン依存症者の私が、ニコチンを手放す作戦を実施することを書きました。

現在、タバコの量は五分の一になりました。決して禁煙という作業をしているわけではありません。ニコチンが切れれば、離脱症状で気分はへろへろになります。

私の視点は「タバコをやめる」にあるわけじゃなく、この「気分はへろへろ」という現実の自分に、どう付き合っていくか、さまざまな試みをしてみることにあります。ひとつ、その試みとして、

いい人をやめる

を実践しはじめました。具体的には

人の期待にそおうとすること。
人を助けようとすること。
人を笑わそうとすること。
人を心地よくさせようとすること。

こいつを後回しにして「私」を優先することにいたしました。「人の期待にそわない」ということじゃなく、「へろへろ」なのは、後回しにされた、あるいは否定された「私」の痛みですので、その「痛み」に対処することです。具体的には、

自分の気分や気持ちを理解すること。
「私」を主語にして考え、表現すること。


この数日間、朝から晩まで、他者との折り合いをつけるような日々を送っていました。そんな日程でしたので、

価値観の変化
 ↓
行動の変化
 ↓
人間関係の質の変化

このプロセスがよく理解できます。関係を変化させると価値観が変わるといった逆のプロセスは、私はないと思います。相手が変わったとしても、こちらの価値観が変わらない限り、創ろうとしてしまう関係は、常にその価値観に従うからです。

このへんのことは『7つの習慣』などでも、私的成功から公的成功という順序について述べられているのと同様です。

私が重要だと思っていることは抱える価値観の質はさることながら、「変えることができる」という確信です。例えば

愛されないことは恐ろしい
醜いと愛されない
太っていることは醜いことだ
私は太っている

この四つの価値観が合体すれば、恐怖にかられたダイエッターになるでしょう。ムチに打たれながら、その痛みに恐怖してピラミッドの石を運び続ける奴隷のようであります。

愛されないことは恐ろしい

という価値観を自分の中に発見し、つかみとる。愛されないことは悲しいことですが、世界中の全員から愛されないというわけではありません。優しい人の気持ちに出会うこともまた現実で、愛してくれる人もいるってのが現実です。

現実を考慮し、「私は愛される」と確信を変化させていけば、奴隷状態から自由になるためのヒントは理解できるでしょう。この信念の変更は、恐怖を克服するというプロセスが伴います。勇気という資質を発揮し、恐怖に支配されていた自分を解きはなって、逆に恐怖を従えていく作業となります。

私の中には恐怖というモンスターがいます。私は、このモンスターと格闘したり、討ち滅ぼしたりするイメージは持っていません。今まで、我が心中に野放しになっていて、飼い慣らす方法を知らなかった。ただそれだけのことです。このモンスターを理解し、その力を従えるには首にリードをつけなければなりません。ま、犬の散歩みたいなものです。そのリードこそ、

私は私でいい

という確信です。え? そう思えない? 今そう思えないことは、さしたる問題ではありません。「思い」「信じること」は反復練習によってできあがりました。自分の中にある、すべての信じ込みは、積み重ねでできあがっています。最初の一歩はどんなに小さくてもいい。「私は私でいい」と声にだしてみる。そう思えなくても、声に出してみる。その一歩を大切に積み重ねる。チリも積もれば山となります。「思う」があなたの支配者ではありません。「思う」を従えるのはあなたです。

とある休日の銀座

2007-06-24 23:02:35 | どろな話


わんこをわさわさ連れ歩くご夫婦(だと思う)。
休日の銀座歩行者天国で二度ほど見かけた。
ちなみに、犬は飼い主に似るといいますが、
逆はあるんですかね。なんかありそうな気がしました。
一緒にいた娘が「それは失礼だ」と妙に大人びたことを
のたまわっていましたな。

喜捨

2007-06-23 12:23:45 | どろな話
私は薬物依存症者です。

アルコール、ニコチン、カフェイン。

これら精神に作用する物質を摂取することにのめり込んできました。中枢神経を抑制、あるいは興奮させ続けることによって、何かを回避してきました。その何かは、後ほど触れますが、それらを摂取することを続けることによって、やめられなくなったわけです。

薬物といえば、覚醒剤、麻薬、マリファナなど、法律に違反するようなものを想像するでしょう。でも、中枢神経に作用するという点では同じもの。法律の規制の種類が違うだけで、精神に作用するという点では同じ。

酒飲んじゃいけないのか!
みんな飲んでるじゃないか!

別にいけなくはありません。お酒が手放せなくなり、生きるに必要なことを奪っていくことがつらいのです。そんなことに気づいた数年前から、ちょっとずつ自分ののめり込みを眺め、有害なもの、無害なものを分類し、自分を傷つける有害なものを手放す作業をしてきました。

のめり込み度を強い順に並べると。

1 ニコチン
2 アルコール
3 カフェイン

2位以下はコントロール領域にあります。つまり、摂取しなくても離脱症状(禁断症状)は出ずに、なくても日常に差し支えありません。ウーロン茶で宴会に付き合ったりしますしね。

問題は1です。もう、四半世紀の付き合いです。たまに、禁煙にチャレンジしたこともありましたが、どういう離脱症状が出るか。よく「イライラする」とか聞きますが、私の場合は、

へろへろ

です。虚脱感、疲労感、空虚感に襲われ、十秒ごとに深いため息をついているような「疲れ」を通り越したへろへろ状態に陥るのですね。ということは、本来、疲れ切っているにもかかわらず、ニコチンによって元気を装っているということになります。薬物によって偽っている。

どっちが本来の自分なのか。当然、へろへろが本来の自分ですが「そうではいけない」「そんな自分は恐ろしい」という思い込みがあるのでしょう。それは、へろへろな自分を立て直すための、タバコ以外に他の方法を知り得なかった、使えなかったということを意味します。

このほど、機会を得まして、へろへろな自分を肯定し、ニコンチン大魔王との契約を

喜んで捨てよう

と決意いたしました。

禁煙?

禁煙なんて恐ろしい。何かを自分に禁じるなんて手厳しい真似はつらい。ニコチン大魔王の手に渡ってしまった心と身体を取り戻すのであります。自由のために。

節約したくばクレジットカードを使いなされ

2007-06-04 21:10:14 | どろな話
今年から可能な限りクレジットカードと電子マネーを使うようにしています。1円玉から1万円札まで、10種類の貨幣をいれておく財布を、携帯電話と銀行&カード会社に変えただけの話です。私の生活は何も変わっていません。

言えることは、自分の行動の結果に対してしっかり明細を示してくれるのは、まことに便利でありがたい。レシートや領収証をちまちま、一枚一枚、台帳に記して、仕訳する地道な作業も、まあ修行になるからいいけれど、そんなんカード会社にやってもらえばいいじゃないっすか。どうせ無料であります(鼻ほじほじ

今までも、ごくたまーにカードは使っておりましたが、全面的に何もかも!という勢いで、半年間、過ごしてみました。そして集計してみると、なんと生活コストが、

32.5%減

であります。そりゃそうだよな…普段、貨幣を携帯しなくなったんだもの。それまで何の気なしに、必要のないことに使っていたお金を一切使わなくなったもんなぁ。カードの使えない店には、その要がなければ近づかなくなったし。

ちなみに近くのコンビニ、ファミリーマートで自分は月にいったいどれくらい消費しているのか。ファミマカードを作り、クレジット化することによって明白となりました。こ、こんなに使っていたのかぁぁ! であります。節約のコツは、自分のしていることを常に理解し、自在に対処することだと思います。

クレジットカードは怖い

という人がいますね。ご安心を。カード破産する人は、カードを持たなくても破産します。返しきれない借金は、カードが作るのではなく、人の行動が作るのですもの。カードが独りでに浪費など、したりしません。もし、そうならば、私はとっくに借金を苦に自殺でもしているか、刑務所に入っていたでしょう。

今回のお金に関する私のメンテナンスは大成功といえるでしょう。自分の経済に関して、意図的になるためにカードは大きなきっかけを与えてくれたようです。ちなみに、私はカードのキャッシング枠は使いません。そもそも私がカードを使う目的からすれば、キャッシングした時点でもはや失敗なのであります。

そして、振替口座には、カードに設定された限度額以上の残高を常に維持しておくというルールを自分に課しています。限度額100万円ならば、100万円の残高を振替口座に常に維持しておく。そういう習慣を自分につけて意図的に生きることをオススメいたします。

そして、さらなる夢は…(つづく)

悩んだ時は掃除でもするべし

2007-06-03 18:18:05 | どろな話
私は散らかし魔です。散らかす場所があればあるだけ散らかしました。使える部屋があればあるだけ散らかしました。掃除したり、片付けたりする能力がないわけじゃありません。小僧時代は掃除が仕事。日々掃除。なのに自分の部屋、そして自分の仕事場はぐちゃぐちゃなのであります。子供の頃から、整理整頓とは無縁な生活を送っていました。

散らかった衣服、雑誌。まるでゴミ箱の中。足の踏み場がなく、いつも何かをまたいで歩く癖がすっかり身についています。掃除したくないわけじゃないんですよ。掃除したい。片付いた部屋で過ごしたい。そんな気持ちがありながら、しない。すればいいのにしない。自ら「したい」と希望を持っているにもかかわらず、その希望を自ら「しない」でぶっ壊しているわけです。

ひょっとすると、これはビョーキなのではないか? と以前から疑ってはきたのですが、私はこのほど立派なひとつの「病」だと断定することにし、

 したいけどできない病

と名づけました。ちなみにアメリカ精神医学の診断基準DSM-4にはこんな診断名はありません。まあ、うつの一症状として、ぐずぐず、先送りってのと同じですけどね。

このビョーキは、自分の希望を自分で砕いておきながら、落ち込んだり、イラついたりするヘンな一人相撲が特徴です。この病が進行し、ややもすると、人や世間のせいだと言い出して、八つ当たり行動に走ることがあります。また、善良な人はそれもよしとせず、えんえんと自分を責めて燃え尽きたり、苦しさのあまりに酒やギャンブルに溺れたりもするようであります。まあ、だいたい人間関係のこじれなんて、この病が原因なのであります(鼻ほじほじ

幸いにも(?)、この病が進行しきった私は、案の定、夫婦関係の危機を迎えました。家族崩壊の危機。悲しいことです。こういうショックな事態に至らないと、自分は病なんだと気づかないわけですから、どれほど病が進行し、麻痺していたか、今ならよくわかります。さらに麻痺が進行しますと、家族崩壊程度ではきっかけにすらならないケースも、残念ながらよく、ホントによく見かけます。

これをきっかけに、本格的に治療に専念しようと思い立ちました。病ですから、やっぱり治療しませんとね。病とは「これはまずい…」と分かっていながら解決しようとしないことです。虫歯になったら治療する。虫歯が病なのではなく、虫歯だと認知し、治療した方がよいと理解していながら、そうしないことこそ、最も怖い「病」です。

 こりゃもう自分ではどーにもならん…

その「病」に対して無力を確信し認めたときのことを今でも鮮明に覚えています。キルケゴールの言う本来的絶望とでもいうのでしょうか。抵抗をやめたまな板の上の鯉のようなもの。苦痛の極みにいながらなんですが、妙に清々しかった記憶があります。無力を認めることは怖いことのように気もしますが、可能なことをあきらめることは心苦しくても、不可能を認めて、そこにあがく土俵から降りる。そんな、ほっとする感覚です。

それ以降、「私の心は問題だらけ。すべての病は自分にあてはまる」を基本に、可能な限り、専門家のもとをたずねました。それまでは、他者の問題を解決するためにいろんなことを学んできましたが、今度は違います。自分を対象にしたのでありました。

したいけどできない病にかかったときは、掃除や片付け、整理整頓のノウハウ本を買っても、たぶん解決しません。なぜなら、片付ける能力など、最初から誰でも持っていますし、そのスキルが書かれている本を読んでも、問題はスキルの質ではなく、スキルを実践しないことそのものなのです。

夢や希望をこわす自身の要因とは何か。部屋を片付けようとする手を押し止めるものは何なのか。まるで、何か別のものが自分を操っているが如くに自由にならない。この得体の知れない何かが、私の「したい」を傷つけているのであります。この問題を解決するために取り組んだことは、その見えない力を見つけ出すこと。その力が働き出す時のパターンを読み取ることでした。

しかし、部屋を掃除するだけなのに、ずいぶん大げさな話が展開されていますが、渦中にいますとこれほど苦しいことはない。今でこそ、軽々と話せるようになっただけであって、当時は汲々としておりました。そもそも、

 掃除なんざしなくたっていいんですよ!

片付けなくたって死にはしません。掃除しなくたって恋人に振られたりしませんからね。大丈夫。したいけどできない病は「しなくてはいけない」という強迫をエサに力を発揮しておりますので、逆説的ですが、掃除とか整理整頓なんぞ、そんなことしらねーとまずは放り投げることです。要は、掃除をすることが目的じゃないんです。自分の心身を、自分の支配下に取り戻すことこそ目的ですから。

だいたい「掃除しなきゃ」「片付けなきゃ」ってのは、誰かの命令が脳内にインプットされたもの。自分の希望ではない。だから「できない」という表現になるのです。もし、自分の希望だとしたら、「しない」になるはずですが、したいけどできない病は、自分の夢ではなく、昔に言いつけられた命令を、奴隷のように今も遂行しようとし、自分の命がストライキを起こしているようなものであります。

 私は大切な自分の居場所を整えよう

深呼吸してそう言ってみましょう。「そのために部屋の掃除をしなくてはいけない」なんて奴隷になってはもともこもない。大人の私たちにしなければいけないことなど、何もないのであります。ちなみに私は、座布団から始めました。座布団一枚の広さだけ「ここは私の居場所。大切にしよう。心地よく整えよう」と毎朝、何をすることよりも先に、掃除しました。座布団一枚分のスペースを掃除するのに要する時間は、たった10秒です。この10秒だけを守りました。簡単に思えますが、したいけどできない病がいつ支配してくるかわからない状況では、その10秒を守るのすら大変な話なのであります。

三ヶ月たったとき、座布団一枚の広さは、6畳の広さになりました。もちろん、狭まることもあります。昨年、痔の手術で入院し、退院後、しばらく布団の上の生活になりましたが、そんなときは枕元の本を置く小さなスペースでもいいから「ここは私の居場所。大切にしよう」と可能な限りだけ、整えておけば同じこと。

私の病は治ったわけではありません。今は自由に好きなだけ掃除していますし、大の苦手だった事務整理も楽しくこなしています。だからといって、治ったから大丈夫と過信すれば、きっと、したくてもできない病は「ふふふ、注意を怠っているな…」と狙ってきます。予防はただ一つ。

 今、ここにある私の居場所を大切にしよう。
 今、ここに生きる自分を大切に扱おう。


を手放さないことでしょう。大切に大切に。迷った時。悩んだ時。どうしていいかわからない時。そんなときこそ、今ここにある私を大切にするという原点からスタートできるようにしておこう。解決できるものは解決しちゃいますし、解決できないものは、どーせ解決できんのです。悩む時間を過ごすより、自分の居場所を心地よくしておきましょう。さて、掃除をば。