泥から咲いた蓮の花

現在、リハビリ中なブログです。長い目で見守ってくだせ~

クリスマスとやら…

2004-12-26 13:01:55 | どろな話
町中に電飾でかざりつけられた家があちこちにあらわれる。ぴかぴかしていいねぇ。寒い夜はそこはかとなくもの悲しい気分になるけれど、イルミネーションの輝きに、ぬくもりの心地よさを感じるから「ステキ」を思えるのだろうねぇ。でも吾輩は猫だからそんなの知らない。毎日がただの日。

人間は、このクリスマスとやらを使って、友達やら、家族やら、恋人やらとよりそって、日頃の寂しさを癒す機会にしているようだ。吾輩は猫だから、好きな時に好きなだけ、好きなものによりそう。思い通りにならないときはしかたがない。思い通りになったらそれはうれしい。毎日がただの日。

クリスマスなんてあるからいけないんだ!と叫んでいる人間をみかける。なにやら自分によりそう人がみつからないのが耐えられないらしい。あるいは寂しいのは何かのせいだと思っているらしい。吾輩からみれば八つ当たりの苦しさだ。いったい寂しさの何がいけないのやら。毎日がただの日。

ただの日は美しい。

今日はハリポタる

2004-12-17 22:14:57 | どろな話
「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」。シリーズ3作目。1も2も睡魔に勝てなくて、いずれも見終えるのに三日くらいかかった。が、今回はしっかり通しでみることができた。アズカバンというのは牢獄らしいのだが、その牢獄の監視人ディメンター。おそろし~あんなのが番人で守られている牢獄とはどんなところなの!? あの占いの先生、あれでいいの!?これが感想。話は…ええ楽しかったです(ハウルの3分の1くらいかな…)。子供たちも喜んでいました。年末の週末の一夜を彩る娯楽でした。主人公、だんだん演技が下手になっていくような気がするけど、まあいいか。

宝くじ

2004-12-17 16:13:39 | どろな話
年末ジャンボ買う。1等前後賞ふくめて3億円。有楽町の宝くじ売り場の一番窓口に5時間並んで買う人もいれば、通りすがりの思いつきで買ってみる人もいる。ちなみに私は5時間も並べないよ!販売期間が今日までなので、夢を見たい人は宝くじ売り場へどうぞ。

宝くじを買うのは何年ぶりだろうか。当たったら、あれしようこれしようと夢を思い描いているうちに、買ったことすら忘れている。あとで思い出して、当選番号を調べて「こんなもんか」。今回もいろいろと思い描いてみる。しかし…欲しいものってなんだろう。デジカメと二輪の免許(限定解除)くらいなもの。これは宝くじが当たらなくても実現できるしねぇ。おいしいものを食べたい!欲求も最近は静かだし、これがほしい!欲求も静か。今はさしてどこかに行きたいというわけでもない。ということは、したいことや欲しいものは順調に充足してきたってことか。何か実感がないけれど、これって幸せなことだな。

しかし、お金ではどうしようもないことがある。それは自分の心。もう少し正確に言えば、自分の心の扱い方。こればかりは、お金じゃ変えられない。そして他人にも変えることはできない。「私」のみが可能なのだ。「私」を嫌ったり蹴飛ばしたりしないで大切にね。

忘年会

2004-12-16 09:14:37 | どろな話
忘年会が開かれます。自分が所属するもろもろの集まりで忘年会があります。宴会は好きです。先日、参加したとある忘年会。参加する人の年齢は、20代から50代。一次会はいつもの通り飲んで食べて話して終わる。年輩の方々は何かと忙しかったり、体を気遣ったりで、そのまま帰られる人が多い。若手は「どこかでもう一杯」と二次会に突入するのが通例。

恒例にしたがい若手5、6人で歌でもうたいましょうとなったのだが、年輩のお一人が飲み足りないらしく、「もう一杯いかないかい」と声をかけてきた。若手にしてみれば、一次会でさんざん年寄りの説教じみた話につきあっているから、二次会は年代そろえて集まりたいのはよくわかる。

そこで「おつきあいしますよ」と犠牲(?)になるのが私。若い人たちにとってはいい盾なのではないだろうか。実際に感謝されているしね。その人と二人でひとしきり飲んで歌い、店を出ると千鳥足で「ラーメン食べていこう!」と店に入る。飲んだ後にラーメンなんて、20年前の学生時代に戻ったようだ。ラーメンと餃子を前にいろいろと話をしているうちに、その人がいきなり沈黙。険しい顔してうつむきかげんで何か考えている…なんだろう…と思ったら、寝てるよ!お疲れなんだろうと思い、タクシーを呼んで帰路についた。

はるか年上の人とお酒の席で一緒になること。昔は気疲れもしたけれど、今はずいぶん楽になったなと改めて実感。年輩の人たちという存在が、自分に気を遣わせるのではないことに気づく。怖れているから疲れるのだと思う。失礼したらどうしようという先取りした不安とか、どう思われるだろうかという不全感とか。失礼になるかどうかなど、小手先のコミュニケーションでどうにでもなること。大切なのは、何歳かどうかではない、私が私であることが先なのだ。だから、自分と相手を大切にする感覚が生まれる。それが安心になる。失礼があったら謝ればいい。それだけさ。二日後、違う場で再びその人と会う。寝てしまったことをしきりに恥じていた。この人も頑張っているのだ。

節目

2004-12-10 14:32:13 | どろな話
藤野一友『抽象的な龍』(1964)。この絵を知ったのは、サンリオSF文庫のある一冊の表紙絵として使われたため。フィリップ・K・ディックの「VALIS」。1982年5月刊行。サンリオSF文庫はすでに廃刊になっているので古本屋にでもいかないと入手できないだろう。

この本が新聞の広告欄に出たとき、表紙絵に惹かれてすぐに買った。それまで海外のSF小説は呼んだことがなく、どんなものなのだろうと読み始めたのだが、正直な感想は「わけがわからない…」。わけのわからないものは、どうしても解明したくなるので、ディックの作品を買いあさり、同時に海外SFの乱読が始まった。

当時、私は大学入試に失敗し、予備校と図書館と自宅の三つを行ったりきたり。最初は受験勉強とやらに励んでいたけれど、それ以来、予備校に行くフリをして、図書館にこもり、開館時間めいっぱい読書をしていた。SFだけではなく、フロイト全集をはじめ心理学全般。明治期の文学。かつてこれほど読書しただろうかと思うほど、活字に埋没した。もちろん受験勉強は放り出していた。

その頃から、飲酒がひどくなる。小遣いはすべて酒。参考書代も全部酒。一番安いジンを毎日一本あける。立場は浪人。していることは飲酒と読書。それと、もうひとつ問題があった。高校の終わり頃から始まったトルエン吸引。俗にいうシンナーってやつ。これは友人から安く手に入った。そりゃそうだ。工業用途の揮発性有機物だもの。何もかも苦しかった。目標はあっても何も手に着かない。そこから酒とシンナーの酔いに逃げ、読書はそんな自己嫌悪をほんの少しだけ慰めてくれた。

思い出すととても苦い感触が蘇るが、私には必要なことだったと思う。あの絵に惹かれ、そしてディックに耽溺し、現実を放り出し、その苦しさから酔いに逃げ、ずたぼろになっていった。きっと、自分の心や身体に「生きたい」という力が覚悟を決めてくれたのだろう、ある決断をした。まったく違うことに生きてみようと。とことんまで落ちてみるのも、転機を自分に迎え入れる一つの方法かもしれない。

最近、手に入れた藤野一友の作品集の「抽象的な龍」を改めて見ながら思い出す。決断から23年。紆余曲折がありながらも、なんとか今を迎えた。私はこの「今」をとても気に入っている。自殺を考えている人へ思う。生きる道を捨てちゃうよりも、知らずに背負った荷物を捨てちゃった方がいい。なんとかなるもんだって。

クリスマス・プレゼント

2004-12-10 12:54:50 | どろな話
息子のゲームボーイアドバンスが壊れ始めた。もう3年くらい使っているのではないだろうか。電池のフタもはずれ、塗料もすり切れ、つかいこんでいる。先日、麦茶をこぼして、ボタン類の反応が鈍くなりはじめたという。そこで、彼は「クリスマスプレゼントにNinntendoDSが欲しい」という。

12/2に発売されて、地元の店では売り切れになることもなく、発売日から数日たっても陳列されていた。しかしだ。そろそろクリスマスが近づいてきたとなれば、売れていくだろうと予測。さっさとネットで手に入れてしまおうと思い、amazon にアクセス。在庫なし…しかも、土地転がしが起きてます…定価15000円が17500円で出ています。さっそく地元のおもちゃ屋さんに走って購入しちゃったよ。

昔、ホンダのNSXという車が発売されたとき、800万の価格が1600万で売買されていた。バブルの頃の話。どうしても欲しくて、1600万でも折り合いつけちゃう!って人は買うのだろう。供給量が少なくて、需要度が多ければ、価格は上がるってものだ。台風のあとのレタスみたいなもんか。ちなみに8歳の娘は「なごみの家 でらっくすお茶犬や」がほしいという。ふっ…これもネットでは在庫切れ。しかし、まだ小売店にはあるぞ! 世のサンタさんたち。早いところ、おめあてのプレゼントは入手しておきましょう。

2004-12-08 12:18:04 | どろな話
今日は12月8日。お釈迦さまが悟りをひらいたとされる日。悟りとはなんじゃろな。悟りを開く。悟りを得る。開いたことも得たこともないので説明できない。死も経験したことがないので説明できないのと同じ。しかしながら、お釈迦さまの言っていることを、日常で都合良く使わせてもらっている私としては、やっぱり気になる「悟」。

救われたいと願い、苦からの逃れたいと願い、それが実現することなのだろうかとも案ずる。この身をもってこの世に生まれ落ちた。生を受けた。これは死に向かって後戻りできない旅を始めたということ。私たちのこの肉体的生命が朽ち果てる確率は100%。他にこれほど確実な数字はない。失恋する確率は100%ではない。六本木に歩いて芸能人と会う確率も100%ではない。交通事故にあう確率も100%ではない。常に誰もが生の受け入れと死の受け入れを同時に行っているということだ。「私は受け入れていない」と思っても、叫んでも、その思いがある、その叫びがある時点で、すでに生きている。だからパラドックスだ。これは人の考えや言葉が作る論理ではない。

昨今、報道で集団自殺のことがよく報じられる。私の知る限り、今に始まったことではなく、昔からあった。バンザイクリフだってそうだ。ガイアナ寺院だってそうだ。なりゆきにまかせないで、自ら事故に臨んだ。平成7年、神戸の連続児童殺傷事件で8歳の娘・彩花ちゃんを亡くした山下京子さんの手記を思い出す(『彩花へ―生きる力をありがとう』)。「少年の狂気のハンマーは、彩花の頭蓋骨を打ち砕きました。しかし、そのハンマーも、彩花の命の内面を砕くことはできませんでした。少年の凶行は彩花の命の力が自ら選択した〝きっかけ〟にすぎず、彩花は粛々と自分自身の寿命の最終章に進んでいくのです」。私たちは自分の死を経験できない。生きる中で死を課題とするときは、いつも身近な人の旅立ちだ。

昭和45年5月28日。父は死んだ。私も山下京子さんの言うように思う。交通事故は「きっかけ」だ。父は自らに働く自然の力で生涯に幕を引いた。それは人の意志や論理や言葉ではない。「天にめされた」でも「お迎えが来た」でもいい。それはどうすることもできないことであった。私たちが、明日の天気をコントロールできないことと同じなのだ。かくいう私もかつて自殺を未遂している。死ぬのは怖かった。できなかった。でも、ほっとけば死んでいただろうという状態にはなった。助けてくれた人がいた。そして、今生きている。少なくとも心臓を動かし、呼吸し、拙い考えをこうやって書き連ねている。実は、自殺者も事故死者も方法や状態はともかく、今を生きた結果だったのではないか。

死にたいと思うほどの苦しさ、生きなきゃいけないと思うほどのつらさ。この二つは同じだ。どうせ同じなら、なりゆきにまかせようと思う。しのごの思い通りにしようとしたところで、結果はみえている。思い通りにならない不都合だらけなのだ。ならば、不都合を楽しもう。生きることも死ぬことも、もう生まれた時点で私の中にある。人を愛し、喜び、悲しみ、怒り…それと同じだ。生かされている。そして、死なせてくれる。ほっとけば、全部してくれるよ。悟るか悟らないかは、ひとまずおいといて、なりゆきにまかせよう。まかせるので、お釈迦さま、ひとつよろしく頼みますよ~

星野道夫

2004-12-07 11:44:43 | どろな話
カムチャッカ半島で熊に襲われてなくなった写真家の星野道夫。以前、エッセイや写真集を読み、いたく感動した。没後も各地で写真展が催されている。星野道夫が撮るアラスカの自然は、他のネイチャーものとは何か一線を画していると思う。「撮る」というよりも「居る」という感じ。その自然の中に彼が居る。その世界に同調していることを作品が伝える。

「Coyote」という雑誌で星野道夫が特集されていた。そこに93年に書いた雑誌のコラムの一文が掲載されていた。その中で星野はこう語る。

僕が若い人たちに伝えたいこと、なるべく早いうちに、人間の一生(又は自分の一生)がいかに短いか感じとってほしいということだ。日々を生きる中、また将来を考える時、生と死の接点という感覚を持ち続けてほしいということだ。それは悲しいことでも何でもない。自分の持ち時間が限られているということを本当に理解した時、それは生きる大きなエネルギーに転化する可能性を秘めている。たった一度のかけがえのない一生をどのように生きてゆくのか、真剣に考えざる得なくなるからである

星野道夫は、アラスカの厳しい自然と生命の営みに、地球の大きな時間の流れと、人の一生という短い時間を重ねてみていた。きっと自分の中に宇宙をみていた。禅の大家・澤木興道老師が言う「自分と宇宙をぶっとおしで見ることじゃ」と同じか。心地よい眠気の中で読み始め、この一節にさしかかったときに眠気が飛んだ。隣で「おジャ魔女どれみナイショ」を観ながら寝付いた娘を見る。家族のことを考える。自分を考える。自分が通り抜けてきた出来事を考える。そうだ…もう俺には時間がない…それは悲しいことではない。

今日も富士山

2004-12-06 09:52:56 | どろな話
冬は富士山が綺麗に見える日が多い。しかし、暖かい。もちろん楽なのはいいけれど、冬のきりりとした寒さが好きな私としては、何か気が抜ける。

月曜日はいつも休日気分。自分の好きなことをしよう!と思う反面、「あれもしなきゃ」「これもしなきゃ」が背後に襲ってくる。これを切り離して、なりゆきにまかせよう。とはいいながら電気代の請求の電話。この電気代というのは、離れの家のもので普段は使用していないので、止められてもいいのだが、やはり気分が悪い。口座引き落としにしないのは理由がある。

振り込み用紙が送られてきて、毎月、郵便局に払いにいく。簡単な作業なのだが、これを怠ったり忘れたりするのは、必ず何か日常で課題が発生している時。そのいいサインになる。やればできるのにしないという先延ばしは、心のどこかに葛藤が発生している証拠なのだ。でも今日は気分は休日を決め込む。

今日の富士山

2004-12-05 10:23:41 | どろな話
昨晩の風雨ははげしかった。目の前の川が増水し、堰堤補修工事のために作った堤防が見事に流され、作業現場は川に戻っていた。これで、やかましい工事の音もしばらく聞こえないだろう。すっかり晴れて、12月なのに、朝から暖かい。

ちなみに、この画像は携帯で撮影してもの。パソコンはたくさん所有しているが、デジカメユーザーはしたことがない。もう少し精緻な画像が欲しいとなると、やはりデジカメですかねぇ。フィルムカメラで撮影して、プリントをスキャンするという手もあるが、その時間と手間をかけている間に、こうやって記事投稿する意気がそがれてしまうような気もしないではない。

やはりデジカメ買うかなぁ。そうか。自分へのクリスマスプレゼントにしよう。そんな季節だ。