南條範夫は、プロフにしているくらい大好きな作家なのだが、どうも世間的にマイナーな気味がある。
乾いてつめたく、テンポの良い文章表現はともすれば印象が軽い。ライトノベル的なのだ。
文章そのものの厚み、味わい、叙情性は期待しないほうがいい。たとえて言うならシムノンのような、展開の速さと語りのうまさでもって勝負する人だ。この人にあってはネタは転がすものではなく、むしろ鮮度を保ったまま勢いよく料理してしまうものである。特に月影兵庫のような伝奇分野の作品にその傾向が強く、開けっ放しとも言うべき痛快残酷無惨譚が楽しめる。
さてこの「第三の浪士」はなかば伝奇、なかば本格歴史小説の変形作品である。
個人的には、このジャンルこそ南條文体の最高の生かしどころだと思っている。感傷や叙情性に溺れず、歴史のうねりにのまれるばかりの小さな物語を描いてみせるのだ。
本作は明治維新を敗者、桑名藩士たちと、その周囲にあつまる人々を主人公にすえて描く。
桑名藩は徳川の親藩で、藩主もバリバリのタカ派だったのだが、鳥羽伏見の戦いの後で本藩が降伏してしまった。藩主は江戸に居たのでこれを知らず、浪人君主となってしまう。ひどい裏切りもあったものだがこれに従う武士たちはさらに悲惨で、各地を転戦してはことごとく敗れる。ただ死ぬばかりではない、武士というものに幻滅を味合わされて死ぬのだ。惨めに負け、追い散らされ、死んでいくその旅路は殺伐として不毛だ。
幕府が倒れ、ひとつの世界観が死んでいく。それは小説世界の背景に突き立つ現実であるが、しかし彼ら、彼女らの物語は終わっていない。
それは幼い心の全てを傾けた恋であったり、卑しい振る舞いに対する軽蔑の念であったり、武士としての意地であったりする。
みな個人のレベルの話であり、国も、藩も、世界情勢も知ったことではない。維新後の展望などもちろんない。ただ場当たり的に戦い、泥はねあげて走り回り、あがき抜いて、死んでいくだけである。
しかしその勢い、ひたむきさ、前後をかえりみずただ信じることを行う情熱こそが、物語を力強く躍動させているのだ。
そう、南條範夫の名前を知る人なら、きっと知っていることだろう、あのフレーズ――
『武士道はシグルイなり』。
いっときいっときに全力を尽くす、手負いの獣の美しさを、あなたはきっと見るだろう。
乾いてつめたく、テンポの良い文章表現はともすれば印象が軽い。ライトノベル的なのだ。
文章そのものの厚み、味わい、叙情性は期待しないほうがいい。たとえて言うならシムノンのような、展開の速さと語りのうまさでもって勝負する人だ。この人にあってはネタは転がすものではなく、むしろ鮮度を保ったまま勢いよく料理してしまうものである。特に月影兵庫のような伝奇分野の作品にその傾向が強く、開けっ放しとも言うべき痛快残酷無惨譚が楽しめる。
さてこの「第三の浪士」はなかば伝奇、なかば本格歴史小説の変形作品である。
個人的には、このジャンルこそ南條文体の最高の生かしどころだと思っている。感傷や叙情性に溺れず、歴史のうねりにのまれるばかりの小さな物語を描いてみせるのだ。
本作は明治維新を敗者、桑名藩士たちと、その周囲にあつまる人々を主人公にすえて描く。
桑名藩は徳川の親藩で、藩主もバリバリのタカ派だったのだが、鳥羽伏見の戦いの後で本藩が降伏してしまった。藩主は江戸に居たのでこれを知らず、浪人君主となってしまう。ひどい裏切りもあったものだがこれに従う武士たちはさらに悲惨で、各地を転戦してはことごとく敗れる。ただ死ぬばかりではない、武士というものに幻滅を味合わされて死ぬのだ。惨めに負け、追い散らされ、死んでいくその旅路は殺伐として不毛だ。
幕府が倒れ、ひとつの世界観が死んでいく。それは小説世界の背景に突き立つ現実であるが、しかし彼ら、彼女らの物語は終わっていない。
それは幼い心の全てを傾けた恋であったり、卑しい振る舞いに対する軽蔑の念であったり、武士としての意地であったりする。
みな個人のレベルの話であり、国も、藩も、世界情勢も知ったことではない。維新後の展望などもちろんない。ただ場当たり的に戦い、泥はねあげて走り回り、あがき抜いて、死んでいくだけである。
しかしその勢い、ひたむきさ、前後をかえりみずただ信じることを行う情熱こそが、物語を力強く躍動させているのだ。
そう、南條範夫の名前を知る人なら、きっと知っていることだろう、あのフレーズ――
『武士道はシグルイなり』。
いっときいっときに全力を尽くす、手負いの獣の美しさを、あなたはきっと見るだろう。